21.濃霧の脱出劇
翌早朝、前線のあるグリュンフェルドの平原に、濃い霧が立ち込めていた。
これでは、予定していた聖女の捜索などできはしない。
戦闘行為も不可能なのが幸いだが、ヴァルトライヒ公爵は朝から不機嫌にパンを噛みちぎっていた。
「こんな季節に霧とは、珍しいこともある」
この辺りでは、朝もやもあまり起こらない。
だというのに、濃霧などどこから湧いたと言うのか。
これではヴィルヘルミナという餌があっても、従騎士が助けに動く事もできまい。
あの餌は不発に終わったようだ。
ならばこのまま、餓死させてしまえばいい。
コンラッドの受けた苦しみの分だけ、苦しみ抜いて死ねばいい。
ヴァルトライヒ公爵は、聖女を逃した場合の戦闘再開に向け、再び戦術を練り始めていた。
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ヴィルヘルミナは、外の異変で目が覚めた。
辺りには濃霧が立ち込め、視界は三メートルもない。
牢屋の外に見張りが立っているはずだが、その気配が鈍い音と共に、突然途切れていた。
ヴィルヘルミナが怪訝な目で牢屋の入り口を睨む――その扉が、ゆっくりと開かれて行く。
青年と小柄な少女が一人、言葉もなく静かにヴィルヘルミナに近づいてきた。
青年――ヴァルデマールの顔が見え、ヴィルヘルミナは驚いて目を見開いた。
ヴィルヘルミナが小声で告げる。
「なにを馬鹿なことをしているのですか。
アイリスを連れ、早く立ち去りなさい!」
ヴァルデマールがニヤリと不敵に笑う。
「俺が食らいついたら諦めない事、ご存じでしょう?
あなたは必ず連れて帰ります」
小柄な少女――アイリスが、ヴィルヘルミナの拘束に手を触れて告げる。
「アールヴ、ドヴェルグ、これはなんとかなる?
……わかった、祈ってみるね」
アイリスが何かと会話をしたように頷き、祈りを捧げ始めた。
ピシリ、という音が走り、拘束が砕けていた。
ヴィルヘルミナは残った力を振り絞って拘束を破壊し、手足の自由を取り戻した。
「これは何が? このように簡単に壊れるものではなかったはずです」
ヴァルデマールが周囲の気配を探りながら告げる。
「説明は後です。今は本陣を脱出しましょう」
ヴィルヘルミナは頷き、力の入らない身体に鞭を打って立ち上がった。
三人は、濃霧の中を迷わず真っ直ぐ、足音を殺しながら、何かに導かれるように歩いて行った。
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山の中も、濃霧に包まれていた。
視界がほとんどない森の中、迷わずに進むのは至難の業だ。
だがヴァルデマールもアイリスも、道が見えるかのように迷わず進んでいく。
ついには山を越え、炭焼き小屋まで辿り着いていた。
ヴァルデマールが小さく息をついた。
「もう少し耐えてください。濃霧が残っている間に、馬車まで移動します。
――アイリス、持ちこたえられるか?」
アイリスが元気な顔で頷いた。
「うん! まだ体力は残ってるよ!」
ヴァルデマールと目で合図したヴィルヘルミナは、幌馬車を待たせている場所まで移動を開始した。
歩きながら、ヴィルヘルミナがヴァルデマールに告げる。
「この濃霧、何をしたのですか。
この地方で濃霧など、まず考えられません」
「聖女の力ってやつらしいです。
祈るだけで、天候を変える力があるんだとか。
今はこの程度の変化しか、させられないみたいですがね」
――この程度だと? とんでもない話だ。
濃霧を自在に出現させられるなら、それだけで戦術の幅が広がる。
戦況を大きく変える可能性を持っている。
ヴィルヘルミナが、じっとアイリスを見つめた。
「あなたが、この濃霧を作り出したというのですか」
アイリスは、はにかむように微笑んだ。
「あはは、らしいですよ。
だけど、奇跡の代償に生命力を失います。
私の体力が残っている間に、馬車に急いでください」
ヴィルヘルミナは頷き、先を行くヴァルデマールの背中を追った。
やはりヴァルデマールは、この濃霧でも迷うことなく、道を歩いているようだ。
「あなたには、何が見えているというのですか」
「妖精ですよ。それも聖女の力です。
アイリスがヴィルヘルミナ様を信頼すれば、あなたにも見えます」
どうやらヴァルデマールとアイリスには、妖精が見えているらしい。
妖精が道案内をするから、迷うことが無いのだろう。
――信頼されれば、か。命を狙った私が信頼されるなど、あるのでしょうかね。
ヴィルヘルミナは小さく息をついたあと、なんとか見えているヴァルデマールを見失わないように足を速めた。
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私たちは幌馬車に乗りこんだ。御者の人も慌てて支度をして御者台に乗りこんできて、馬車が動き出す。
濃霧の中、ゆっくりと進む幌馬車の荷台で、私はヴァルに告げる。
「もう濃霧を消してもいいかな?」
「ああ、もうここからなら大丈夫だろう」
私は大きく息を吐いて、胸の中で続けていた祈りを止めた。
「……祈るのを止めても、すぐに霧が晴れる訳じゃないんだね」
アールヴがふわりと顔の前に現れ、快活に告げる。
『そりゃーそうなのです!
ですが本来の天候に戻っていけば、だんだんと霧は消えてしまうのです!
その間に、とっとと逃げましょうなのです!』
ヴァルがヴィルヘルミナさんに告げる。
「このあと、どうするおつもりですか」
ヴィルヘルミナさんが、眉をひそめて考えてるみたいだった。
「……第一軍は、もうあまり長く耐えることが出来ないでしょう。
私は王都に戻り、援軍を出すよう奏上します。
それで年内は持ちこたえられるはずです」
ヴァルが頷いた。
「では、途中で別れましょう。
俺たちは一端家に帰って、聖女の力を探ります。
来年までにアイリスがもっと力を使いこなせるようになれば、聖王軍にも対抗できるはずです」
ヴィルヘルミナが頷いた。
「では、この馬車はあなたたちが使いなさい。
私は途中の町で馬を手に入れ、それで移動します」
話が終わったらしいヴィルヘルミナさんは、鞄から保存食を取り出して食べ始めた。
私とヴァルは朝食を済ませているので、黙って幌馬車に揺られていた。
外を眺めてみると、だんだんと霧が薄くなってるみたいだった。
この分だと、一時間もしないで霧は消えるだろう。
私は奇跡で疲労感を覚え、身体を馬車の中で横たえた。
「はぁ。疲れた」
小さな奇跡でもこんなに疲れるんじゃ、大きな奇跡を使ったら……そりゃあ寿命くらい、縮むよね。
私は鞄を枕にしながら、馬車の振動に身を任せ、ゆっくりと目を閉じた。
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ヴィルヘルミナさんとは途中の宿場町で別れ、私とヴァルを乗せた幌馬車はフロストヴィルの町に戻ってきた。
私とヴァルの生還を知ったディートリヒさんとベルタさんは、とても喜んで私たちに抱き着いていた。
ディーとリットさんがヴァルに抱き着いて告げる。
「生きた心地がしなかったぞ。
よく無事に戻って来てくれた」
ベルタさんが私に抱き着いて告げる。
「あなたが無事で、本当に良かったわ」
私とヴァルは、照れながら抱きしめられていた。
ヴァルがおずおずとディートリヒさんに告げる。
「父上、私が不在の間、変わったことはありませんでしたか」
「ああ、そのことだがね。
お前たちに会いたいという旅商人が来ていたよ」
ヴァルが真剣な目でディートリヒさんを見つめた。
「旅商人……まさか、タレイアですか?」
ディートリヒさんが肩をすくめた。
「名乗ってはもらえなかったが、『何でも屋』を自称する老婆だった。
可能性は高いと思う。
町に滞在しているらしいから、すぐに呼び寄せよう」
ヴァルが頷き、私を見た。
「これで何か、わかるといいんだがな」
私も頷いて、覚悟を決めた。
千年前に聖女が着ていたという聖女の法衣、そんなものをどこで手に入れたのか。
その情報次第で、私たちはまた、旅に出なきゃいけないかもしれない。
私たちは旅の疲れを癒やすため、ベルタさんの勧めでリビングに向かって移動していった。




