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角亀藩三百年史・壱

 瀬戸内海に浮かぶ島は多く、その中のひとつに大亀おをかめ島という島があったという。

 寿命千年を超えた亀が死んで出来たという伝承のある、大きな島だとされる。

 東の淡路、西の大亀。淡路ほど大きくはないが、瀬戸内海の西側で最も大きなこの島は、江戸の頃には角亀かっき藩と呼ばれる小藩として扱われたとか。

 角亀城と呼ばれる小城を擁し、領民はおよそ八千と言われる。

 その実在は疑われており、そもそも現在大亀島と目される島は存在しない。その名を伝える史料もほぼなく、『鬼の棲む島』として一部の書付にわずかに名前が残るばかりだ。瀬戸内海を縄張りとした海賊たちも、この島に住む人々を恐れたようで、貴重な史料として残る手紙のひとつに『大亀島からの客を一人乗せることになったが生きた心地がしなかった』と綴られているものがあるほどだ。

 享保の前後。ある朝忽然と角亀藩はその姿を消したとされる。地震で沈んだという説(ただしこれは後年否定された)、お伽話の類がまことしやかに伝えられただけで実際は存在しなかったという説、奇妙なものでは島の元であった大亀が目覚めて海へ出てしまったという説、豊臣の残党を匿った罪で島民皆殺しにされたという説まである。

 果たして角亀藩が実在したのかどうか、実在したならば領民と領主一族はどこへ行ってしまったのか、存在自体が単なる伝承なのか。

 調べようという学者も少ない、知る人ぞ知る瀬戸内の謎のひとつである。


***


 享保二年皐月。

 深夜の角亀藩内で、奇妙な地鳴りが響いた。特別の前触れもなく、地面の揺れもない。ただ地鳴りだけがするのだ。

 生憎新月の折、星明かりだけでは周囲の状況を知るすべもなく。領民たちは何かの祟りかと、朝になるまで神仏に祈ったという。


「何じゃあこれは」


 最初に異変に気付いたのは漁師だった。

 地鳴りが治まり、漁に出る前に海の様子を見ようと暗いうちから表に出た彼らの目に映ったのは、波打つ島の海ではなく。

 黒々とした見慣れぬ草原だったのである。


「う、う……海が、うなってしもうた」


 漁師のひとり、喜蔵が腰を抜かして呆然と呟く。

 同じく隣で唖然としていた一人息子の丁次が、首を傾げる。


「海の底が抜けたんじゃろうか」

「わ、分からん。丁次、おめえ今すぐお城に走るんじゃ」

「お城に?」

「ああ、学のねえわしらにゃあ分からんけども、お城の殿様や若様、お社の禰宜ねぎ様なら何かご存知かもしれねえ」

「お、おぅ。おンも気ぃつけえよ」

「分かっとる、どちらにしても漁にゃあ出られん。網元さンの家に行っとくけん、お城の方にはそう伝ええよ」

「分かったぁ」


 もたもたと走り出す丁次と、それを見送ってからのろのろと網元の家に歩き出す喜蔵。

 喜蔵の耳に、よその漁師たちの悲鳴が聞こえ始めたのは程なくのことだった。


***


 角亀城から遣わされた若い武士である田桜均吾が、南側にある港に最初に向かった理由は特になかった。強いて言うならば、最初に城に駆け込んできた漁師である丁次が島の南側に住んでいたからというだけである。

 丁次を連れて網元の家に向かうと、沈鬱な表情で漁師たちが座っていた。

 網元の粂ェくめえもんが、やはり呆然とした様子の均吾に気づいた。


「……海が無くなっておるな」

「田桜様、禰宜様は」

「今朝からわだつみさまのお声が届かなくなった、と仰っておられた。それどころかやおよろずの皆さまのお声も聞こえんようになった、と」

「ど、どういうことでごぜえますか!?」

「わしらにも分からん。だが、尋常ならざることが起きとるのは確かじゃ。夜明けののち、殿が城から周囲を見られたのだがな」

「はい」

「海が無うなっただけではない、四国の高峰も見えんそうじゃ。禰宜様が恐ろしいことを言うとったわ」

「な、なんでごぜえましょう」


 均吾は頭を振りながら答える。彼自身、目の前にある現実を理解出来ているわけではないのだ。


「海が無くなったのではなく、この島の大亀が目を覚まして動いたのではないだろうか、とな」

「な、なんという」


 確かにこの島は大きな亀の死体だという言い伝えはあった。しかしあまりにも荒唐無稽ではないか。しかし、この言い表せないような異常の前には、その荒唐無稽も信じられるような。

 愕然とする粂ェ門に対し、しかし均吾は首を振ってみせた。


「落ち着け。もしもそうなら、今も島が歩いておらねばおかしい。島は動いておらん、殿もそれが事実だとは思っておられぬ」

「はぁ。では一体なにが」

「わしらも分からんのだ。常ならざることが起きておる、それだけのことしかな」


 一同が溜息をつく。

 と、そこに駆け込んでくる者があった。


「あ、ああ網元! バケモンが! バケモンがいる!」

「何だと?」

「た、田桜様?」

「うむ、殿から命ぜられてな。して、どうした?」


 どうやら表の様子を見に出ていた漁師のひとりであるらしい。均吾が落ち着かせると、彼は何度か深呼吸をしてから、もう一度慌てた声を上げた。あまり深呼吸の意味はなかった。


「網元! バケモンがいた!」

「バケモン?」

「おう! 化け犬と、化けししだ!」

「見に行ったほうが、早そうだな」


 化け猫やら化け狸なら分かるが、化け猪と言われても。

 ひとまずここにいる者たちは粂ェ門の元である程度の落ち着きを取り戻しているようだ。均吾は頭を掻きながら、次なる問題を解決するために表へと足を運ぶのだった。


***


「……なんじゃ、あれァ」


 漁師の言ったことが誇張でもなんでもなかったことに、均吾は驚愕した。

 海であったはずの場所は、海の水の代わりに草原が広がっている。最初に見た時には何とも言えないもの寂しさを感じたものだが、草原の向こうにいる存在を見てしまってはそれどころではない。

 猪の頭に、人の体。距離を考えるとずいぶんと大柄な体格をしている。

 その足元には、半分ほどの身長の『化け犬』がいた。こちらは犬の頭に、人の体だ。均吾はひとまず自分の頬をつねって、夢ではないことを確認した。


「化け猪が、化け犬を連れとるんか」


 化け猪は何やら手を振って化け犬に指示を出しているようだった。その顔がこちらを向く。

 心が冷えるのを感じた。目が合ったのだ。連中は明らかにこちらを目標にしている。

 均吾は唇を噛みつつ、心を落ち着かせて出来るだけ静かに告げた。


「奴ら、来るぞ。粂ェ門」

「へ、へぇ」

「女子供を城へ向かわせい。男どもは長物を持って集まるように」

「長物でございますか」

「槍があればありがたいところだが、無ければ棒で良い。誰か足の速い者を城にやって、種子島辺りを持って来させねばな」

「海賊ばらが来た時に備えて、槍ならいくつか隠してはございますが……何とかなりましょうか」

「化け猪はどうにもなるまいな。じゃが、あの化け犬ども程度なら何とかできようが」

「田桜様は」

「誰かが化け猪をどうにかするしかないじゃろ」


 均吾は上着を脱ぎ捨てると、腰に提げていた刀を抜いた。

 武士の習いとして、剣術の鍛錬は欠かしていない均吾だが、お世辞にも腕が立つとは言えない。

 だが、ここにいるのはあのようなものと戦う術など持たない角亀藩の領民なのだ。ここで自分が退くわけにはいかなかった。


「奴らが向かってくるぞ、急げ!」

「へ、へぃっ!」


 鋭く均吾が命じると、粂ェ門をはじめとした漁師たちは慌てて自分の家へと走るのだった。


***


 化け猪たちもこちらを警戒していたのだろう。じりじりとこちらとの距離を詰めてくる。均吾が一人になって少し向かってくる速度は上がったが、それでも漁師たちが集まるのを待つことが出来た。


「城には誰を向かわせたのだ?」

「孫を向かわせました。足もはようございますゆえ」


 粂ェ門の言葉に、均吾は軽く頷くに留めた。

 命のやり取りから身内を遠ざけたいとする気持ちも分かるからだ。

 と、近くに見知った顔があることに気づいた均吾は、彼に声をかけた。


「丁次」

「へ、へい!」

「そなたにこれを預けておく」


 腰に提げていたもう片方――脇差を鞘ごと抜いて、丁次に預ける。


「た、田桜様。俺、刀なんて――」

「使える刃物は一本でも多い方が良い。わしは二刀流なんぞ出来んからな。なに、とにかく突き刺せば良いのだ」

「わ、分かりましたぁ」


 丁次に脇差を預けたのに特に理由はなかった。強いて言うならば、この中で唯一顔と名前が一致したからというだけ。

 化け猪が手に持った武器をこちらに掲げて何やら怒声を上げた。化け犬たちがばたばたとこちらに走り出す。そちらの方が速いらしく四足で駆けてくる様子は、その間だけ普通の犬にも見えた。


「良いか! 一人で何とかしようと思うな! 化け犬どもを出来るだけ取り囲んで休まず叩けっ!」


 槍の数は五本。多いとみるか少ないとみるか。さほどの手入れもされておらず、どれほど使えるものか。

 ともあれ、日々の漁で鍛えた漁師たちの体力が頼りだ。


「ガァゥッ!」

「ひぇっ⁉ このお、バケモノがぁっ!」

「ギャン!」


 先行して突っ込んでくる化け犬に、槍を持った漁師たちが突きかかった。

 当たったのは一匹だけ。残りの四匹が槍をすり抜けて漁師に飛び掛かる。だがその後ろから次々に差し込まれた棒が、化け犬の体を次々に打ち据えていく。


「ぎっ! たすけっ……」


 それでも一人が喉、一人が腕に食いつかれた。ボリボリブチブチと、おぞましい音が聞こえる。


「くっ!」

「えい蔵! ちくしょう!」


 腕の方に食いついた化け犬の目を、刀で切り払う。堪らず口を離して化け犬が目を覆う。そこを取り囲んだ漁師たちが、遠慮なく上下左右から棒を叩きつけていく。えい蔵と呼ばれた男は噛まれた腕を押さえて悶絶している。溢れ出している血が多い。助かるかどうか。

 均吾はそちらを他の漁師に任せると、近くに落ちていた槍を拾って走り出す。今度は喉に食いつかれた漁師ごと化け犬を突き通した。


「グブッ!」

「田桜様!?」

「見てみい」


 非難の声が上がるが、均吾の言葉に漁師たちが口を噤む。化け犬が口を離した傷口は最早手の施しようがないほどズタズタにされていた。


「苦しまぬようにしてやるのが、慈悲っちゅうもんじゃろ。その犬は任せた」

「ちくしょう! ちくしょう!」

「おい、槍を貸しちくれ!」


 二十人ほどの漁師に対して、化け犬の数は十頭ほどだった。噛みつかれたのは槍を持っていた二人だけで、他は噛まれる前に殴りつけたり棒に食いつかせるなどして何とか捌いている。

 槍で仕留めた分だけ、漁師が有利になっていくだろう。

 均吾は彼らの間を通り抜けると、怒りの咆哮を上げて駆けてくる化け猪に向けて刀を構えた。


「来いやぁっ!」

「ブギャアアアアアアア!」


***


 化け猪が持っていた得物は、化け犬のものとは違ってちゃんとした刃物の形をしていた。しかし、見て分かるほどになまくらで、そしてひどく分厚かった。

 大振りに振るわれるその剣には技術などなくて、力任せなのはすぐに知れた。

 均吾が見誤っていたのは、その力が彼らの予想を超えて強かったということだ。


「ひゅー……ひゅぅ……ごぶっ」


 ただ振り回されるだけの剣を見切るのはそれほど難しくない。

 踏み込んで斬りつけた一撃は、中々の冴えで化け猪の左腕を肘から斬り刎ねてみせた。

 だが、痛みに怒り狂った化け猪の剣はそのまま勢いを増して、離れようとした均吾に叩きつけられる。

 鈍い刃が均吾の左腕を半ば断ち割り、そのままの勢いで脇腹深くまで食い込んで。

 そのまま跳ね飛ばされた均吾は、自分の主要な骨と臓物が治しようもないほどに傷ついたことをすぐに理解した。

 咳き込むと同時に吐き出した血の量に、馬鹿げた力量差を理解する。


「田桜様!」

「……わしの命と、腕一本じゃ、割に合わんぞ。バケモンが」


 あっけなく勝敗を覆された。が、このまま殺されるのをおめおめと待つつもりもない。

 ふらふらと立ち上がるが、あまりの痛みに姿勢を整えることも出来ない。

 後ろから駆けてきたのは丁次か。後ろから支えてくる彼に、均吾はにいと笑ってみせた。


「丁次ぃ」

「逃げましょう、逃げましょう田桜様!」

貴様きさンに、大将首を取らせて進ぜる」

「……は?」


 最早走ることもできず、均吾は化け猪に向かってよたよたと歩き出す。


「わしゃあ、もう保たん」

「田桜様!」

「じゃが、こいつを生かしておくつもりもない」


 化け猪も片腕を失っている。痛みと怒りでこちらに向かってくるが、その足取りはまだまだ元気なものだ。


「首を取るのは貴様ンに任せる」


 均吾は無防備に、化け猪の一撃をぐちゃぐちゃの左腕で受けた。


「たぁけが」


 左腕が千切れ飛ぶのを、笑みを浮かべて見送りながら、均吾は化け猪のそのでっぷりとした下腹に刀を突き立てた。

 刃物が通るならば、これほど大きな的もない。

 ありったけの力を込めて、刀を滑らせる。


「んンっ!」

「ブギイイイイイイイイイイイイイイッ!」


 片手を添えられないだけで、何とやりにくいことか。

 化け猪の絶叫。力任せに均吾を突き飛ばして、続いて腹から漏れだしたわたを見て恐慌を起こし、それを腹に戻すべく屈み込む。


「田桜様!」

「今じゃあ、丁次。首を狙え。後ろからしがみついてなぁ、横から首を刺すんじゃあ」


 大声で伝えようとしたが、声はどこまで届いたか。

 不安がる均吾の横で、丁次が言われた通りに化け猪に躍りかかった。

 振り落とそうと暴れる化け猪に必死にしがみつきながら、丁次は脇差の先を化け猪の首に突き刺した。


「ギャアアアッ!」


 化け猪は丁次を全力で振り回すが、丁次は離れない。暴れた所為でむしろ脇差が首を貫通したのが見えた。丁次は背中を掴んでいた左手を離し、抜かれないように刃を握りしめる。

 そのまま暫く。委細構わず暴れまわっていた化け猪が、突然その動きを止めた。


「ガッ、ガカッ」


 白目を剥いて、そのまま背後に倒れ込む。潰される格好になった丁次はその重さを押しのけることもできず、何とか這い出す。


「はぁ、はぁ。痛っ!」


 大きく息を吐き出す。終わったのかという疑問と、緊張感が途切れてしまった虚脱感。そこに鋭い痛みを感じて左手を見ると、左の掌がざっくりと斬れて、血が溢れ出している。


「し、しゃあねえな。刃の方、持ってまったし」


 きっともう、左手は使い物にならない。そんなふうに思っていると、痛みが段々と和らいできた。


「な、何だぁ?」


 全身に力がみなぎる。何でも出来そうな気分になる。

 左手の血が、止まった。ごしごしと擦ると、傷痕さえも残っていない。


「なんなんじゃこりゃあ。……そうだ、田桜様!」


 奇妙なことに傷が癒えたのは間違いない。となれば、均吾もと考えた丁次が視線をそちらに向ける。

 が、均吾は身じろぎひとつしない。


「田桜、さま?」


 唇から血を流し、均吾は事切れていた。

 しかしその口許は柔らかく緩んでいて、心から満足しているように見えた。


***


 享保二年皐月。

 角亀藩は現住種族と最初の邂逅を果たした。

 化け犬の死骸と化け猪の首は、城に詰めていた者たちの度肝を抜いた。

 この日以後、角亀藩は東西南北から攻め来る異族との果てない戦いに明け暮れることとなる。

 異変の原因を調べることは後回しとされ、異族の侵入を防ぐ柵の設置などが急がれることとなった。

 この日より始まった、角亀藩の膨大な戦闘記録の初項には、こうある。


『化猪討伐第一功、田桜均吾。第二功、銅槻丁次』

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