人ならざる者の暗躍
そこには、一面の青があった。
上も、下も、見渡す限りにおいて青が満ちた空間。
現実離れした景色の中にあって、神経質な声が響く。
「おお、消えぬ! 死のさだめが消えぬ!」
女だ。人のかたちをしているが、声以外の何もかもが薄く霞んで見えない。
せわしなく空間の中を動き回り、誰に言うともなく騒ぎ立てる。
「どうなっておる、どうなっておるのだ!」
「うるさいな。こんなところで騒がないでおくれよ」
唐突に挟み込まれる声。そして、ぼんやりとした影がもうひとつ増えた。
「おう、■■■■の。貴様、いったいどうなっておる! 我の死のさだめが消えておらぬではないか!」
「む? そんなことを言われても困るぞ□□□の。我は貴様の願ったとおり、彼の土地を死地に送り込んだからな。これで何度目だと思っている」
「五度目じゃ、五度目。分かっておる。今回だけだ、続いておるのは。前の四度はすぐに消えた。今度だけ消えぬ。貴様、何か分からぬか」
「我が紡いだ民ではない故、我もその民の姿は追えぬ。多少なりとも我が民の血と交われば薄くとも見えると思うが」
ふたつの影は親しい顔見知りであるらしく、随分と気安い。
しかし、話している内容は何とも酷薄なものだ。
「神殺しのさだめもこれで五度目か。貴様、手を加えなさすぎではないか?」
「ふん。貴様はふたたび魔王とやらを生み出すか。積み上げたものを自ら壊す所業、我には理解できぬ」
「あるがままにすれば、貴様のところのように神殺しが生まれてこよう。それに、民が必死に組み上げてきたものを魔王が冷徹に壊してゆく様を見るのは、それはそれで良いものぞ」
「だからこそ、そちらに放逐しているのだ。そちらとて、都合の悪いものをこちらに寄越してくるだろうに」
「どのようにしたとて、問題は起きるということかな。世知辛いものよ」
やれやれと首を振る二番目の影に、最初からいた影が食ってかかる。
「そのようなことは良い! とにかく、神殺しのさだめが今どうなっておるか探ってくれ」
「仕方ない。そろそろ魔王も誕生する頃合だ、様子を見てみるのも良いか」
いざとなれば魔王に蹂躙させれば良いかとぼやきながら、二番目の影が目の辺りに手を当てる。
しばらくそのままの姿勢でいたが、ふと首を傾げる。
「む?」
「どうした?」
「生まれてくるはずの魔王の姿が見えん。一体どこに行った?」
「神殺しのさだめはどうした!? 貴様の趣味の悪い魔王のことなど今はどうでも良かろう!」
「貴様の世界の生き物は、我には見えないと言っているだろうが。魔王が生まれておれば、そちらに誘導すれば話が早い」
「そ、それはそうかもしれぬが」
二番目の影の言葉に、最初からいた影が口をつむぐ。
と、二番目の影が困惑した声を上げる。
「見つけた。……何だこれは、薄くてよく見えん。まさか、貴様のところの民と血を交えたか」
「何を!?」
「なるほど、貴様の民はどうやらまだ生きているようだな。まさか、我が生み出した魔王がそこに身を寄せているとは」
「何故今の今まで気づかなかった!?」
「こちらは魔王の軍勢を整えるための準備に集中していたものでな。それに、貴様の民と交わって気配が薄くなっている。貴様の起こした問題とも言える、文句を言われる筋合いはないぞ」
少しばかり険悪な空気が、二人の間に漂う。
と、二番目の影が顔から手を離した。
「まあ、言っていても仕方ない。我の代理を送ろう。魔王を拾ったついでに、貴様の民を滅ぼさせれば良い」
「待て! その魔王が神殺しのさだめであったならどうする!?」
「我の民の血が交じっているから、どうとでもなると思うが……。どうしても残したくないというなら、貴様の力を少しばかり我に寄越せ。新たな魔王を創るために使わせてもらう」
「良かろう。不安の種を残すくらいなら、我が力を多少譲るくらいは問題ない」
物分かりの良い言葉に、二つ目の影は特に驚くでもなく手を差し伸べた。
絶対の存在である神にとって、自らに死をもたらす存在がどれ程恐ろしいものか。自分が同じ立場であればやはり、恥も外聞もなく同じことをするはず。
「確かに。では、少々待ちたまえ」
二つ目の影は、自分の世界にいくつか置いている『代理』へと思念を飛ばした。
神は自ら世界に降臨することなどない。名と形を固定されることは、自らの存在を矮小化させることに他ならないからだ。
人ごときものは、自分たちの生み出した偶像に救いと願いを求めていれば良い。
そしてこの場合の『代理』とは、魔王による蹂躙が何らかの理由で叶わなかった時に、代わりに神の意志を実行する破壊者である。
「今回の魔王は失敗作だ。速やかに排除せよ」
準備に時間と手間をかけたという割には、見切りをつけるのもまた早い。
人も、世界も、何もかも。手塩にかけた魔王という存在もまた、神にとっては悠久の退屈を紛らわせるための、ただの玩具に過ぎないのだ。
***
ダララッツ高地中央部。
異族や化生も決して立ち寄らない、絶対者の縄張り。
そんな場所に侵入者があったのが、少しばかり前。
その侵入者は、息も絶え絶えに縄張りの主を見上げていた。
「満足かね?」
「え、ええ。貴方は至上の生物。生まれてくるのがブラックドラゴンでないとしても、それはむしろ誇らしいこと」
「ふむ」
銀色にも金色にも輝いて見える鱗。
長大な翼に、頭部に王冠のように生えそろう角。
神の御使いとも呼ばれる、偉大なる竜。エンシェントドラゴンである。
「そなたの子は、人ごときの下にひれ伏したと聞いたが」
「そ、その通りです」
「父親もブラックドラゴンだと言ったな? 純血の?」
「はい。人によって狩られ、食われたと」
「そのような人の群れがあるとは信じがたいが、嘘でもないか」
じろりと、情交を終えた後の相手を見下ろす。
黒い鱗に色の交じりはない。眼下のブラックドラゴンもまた、他のドラゴンや生物の血が入っていない、純血のブラックドラゴンだということ。
それが同じ純血のブラックドラゴンを番に選ぶことなく、明らかな上位者の下に現れた。
と、エンシェントドラゴンが視線を天に向けた。角がぴかぴかと光を放ち、まるで先程までの会話から興味を移している。
「あの、何か」
「黙れ」
「ひぐっ!?」
ぐしゃりとブラックドラゴンの頭部を片足で押さえつける。その際にも視線は天に固定されたまま。
ブラックドラゴンは押さえつけられても不満を漏らしたりはしない。上位者の行為を粛々と受け入れ、ただ足が離れるのを待つだけだ。
「……今回の魔王は失敗、創り直しか」
ぽつりと、エンシェントドラゴンが口を開いた。
ブラックドラゴンを押さえつけていた足を離し、戯れに聞く。
「確か、お前の子らが人にひれ伏したのは南方だと言っていたな」
「そ、そうです。もう口を開いてもよろしいでしょうか……?」
「ああ。では、その子らも殺すことになりそうだな」
「は?」
「託宣が下った」
エンシェントドラゴンは翼をばさりとはためかせた。
ふわりと体を空に躍らせ、南方を見やる。
「当代の魔王と、その地に住まうものを悉く滅ぼせと。どうする? 見にくるか」
「ぜ、是非!」
ゆっくりと消耗した体ではばたくブラックドラゴン。
健気なことだ。エンシェントドラゴンは世にたった一体しか存在しない。何故なら、彼らは数少ない神の代理であり、その数を増やすことを神は望まれていないからだ。
エンシェントドラゴンによっては情交もただの戯れに過ぎない。子が生まれてくることがあるのかないのか、生まれてきたとしたら、それは一体何なのかさえ。
彼にとって興味もないし、意味もないことなのだ。