角亀藩三百年史・弐
療養中のクラースの元に、ふらりと辰佐が顔を見せたのは、療養を始めて十日が過ぎた頃のことだった。
「これはシンザ殿。いったいどんなご用で?」
「我々が角亀藩の者となった理由を、知りたいとのことでしたので」
辰佐に表情はない。造り物のような美貌に感情が見えないと、何ともうすら寒い恐ろしさを感じる。
「教えていただけるのですか!? それはありがとうございます」
「礼は私ではなく、キド殿に言うと良いでしょう。藩の皆さまへの治癒魔法の指導について、何かお礼をしたいと伺ったところ、あなたがこのことを聞きたいから教えてあげて欲しいと言われましたので」
「キドが? あれ、でも藩からは既にお礼をもらったはずじゃ」
「我々兄弟からの礼ですよ。ドラゴンたるこの身には、皆様を護る手段は数多くありますが、病や怪我から救う手段はありません。あなた方が思う以上に、我々はキド殿に感謝しているのです」
辰佐は静かにそう告げると、静かにクラースを見据えた。
「これは我々にとっての罪と恥の話。話すのは一度だけですから、そのつもりで」
「わ、分かりました」
その視線の強さに、クラースはただ頷くことしか出来なかった。
***
角亀藩の異界における三百年の中で、藩の存亡に関わるほどの大事件はいくつか発生している。
その中で最も危機的だったものが、黒龍の襲来である。
角亀藩九代藩主である鬼宮伊呂波は、三百年の歴史で唯一の女性藩主だ。彼女は藩主になって以降、自分に勝った男を夫にすると公言し、初めて一本を取った幼馴染の銅槻吾郎を夫に迎えた。夫妻の間には、二人の息子が生まれた。
兄が義丸、弟が仁丸。
二人はすくすくと成長し、兄の義丸が藩主に、弟の仁丸が夫の生家である銅槻家の当主になった。
十代目鬼宮義丸、二十歳の年。その三年目の治世。
角亀藩の北にある山脈から、三頭の巨大な羽蜥蜴が飛来したと角亀藩史には書かれている。
***
ブラックドラゴンは、ダララッツ高地における最強の生命体の一角であると同時に、亜種も含めると百を超える龍種の中でも五指に入る強大なドラゴンだ。
個体数は多く、ダララッツ高地の山脈を中心にして家族単位の生活を営む。
旺盛な繁殖欲求を持っているだけでなく、ドラゴンという生物は自分より個体としての能力が低い生物に子を産ませれば全て同種のドラゴンとして生まれてくるため、数が増えやすいのだ。
後に辰太、辰佐と名乗ることになる二匹は、両親がブラックドラゴンである純血種と呼ばれる種類だ。
どんな生物にも子を産ませられる雄と違い、雌のドラゴンは番となる個体に妥協がない。
辰太たちの父であるブラックドラゴンもまた、両親がブラックドラゴンという個体だった。
「そなた達も、番に弱い者を選んではならぬ。良いな」
生まれたばかりの弟――すなわち後の辰吾郎――を首筋で遊ばせながら、日々彼らの母は息子たちにそんな言葉をかけている。
幼龍は弱く、そして卵は無防備だ。雄のドラゴンは孕ませた獣を自分の巣に連れ帰って世話をする。子が卵から孵ったあとの雌獣は幼龍の最初の餌になる場合がほとんどだが、ドラゴン同士が番になった場合は協力して子育てを行う。
「どれ、餌を探しにいくとするか」
父の言葉に従い、その身を空に躍らせる。
それは彼らにとっての日課であり、今日もまた弟と母、そして自分たちのために獲物を見つけるのだ。
絶対強者である彼らにとって、ドラゴン以外の全ての生物は食糧であり、あるいは自分たちの血をつなぐための器でしかない。
「そろそろお前たちも番を見つける時期かな?」
「まだいい」
「でかいものを腹いっぱい食いたい」
***
いつもの餌場には、珍しく餌になりそうな獣がいなかった。
どうやらほかのドラゴンが、この場所で狩りを行ったようだ。
「もうすぐ、口減らしの時期だな」
「弱ければ死ぬんだね」
「そうだ。たくさん食って大きくなれよ。弱ければ死ぬか、この地を追われることになるからな」
とはいえ、このままでは餌を得ることは出来ない。
他の餌場に行くこともできるが、同じように他のドラゴンが現れているかもしれない。別の餌場を探すと決めたらしい父は、視線を南に向けた。
「たまには別の場所に行ってみるぞ」
***
北の物見台で見張りを務めていた銅槻吾郎は、北の山脈から飛んでくる影を随分大きな鳥だと見た。
大欠原からの蜥蜴頭の襲撃に備えて建てられたこの物見台は、これまでに何度も襲撃を事前に発見している。
「こっちに向かってくるのう」
「吾郎様、何か見つけましたか」
「おう、山の方から何か飛んできよる。『ろっく』とかいう鳥の化生かもしれん。おきえ、主だった者に大弓を持ってこさせい」
「はい!」
同じく見張り役を務めるきえが、物見台から下に声をかける。
藩主である義丸に嫁ぐことが決まった彼女は、前の藩主である伊呂波の再来と言われるほどの女傑だ。
蜥蜴頭に万が一にも怪我をさせられることのないようにと、周りの老人たちから見張り役に推挙された彼女は、最初こそ恥ずかしげにしていたものの今では誰よりしっかりと見張り役の任を果たしていた。
「おお、鳥の化生じゃと」
「射落としたら久しぶりに肉が食えるのう」
どやどやと騒がしく、弓の腕自慢たちが別の物見台に上がってくる。
影が近づいてくるにつれて、それが鳥とは違う姿であるのが見えてきた。
「随分と大きいな」
「黒いの」
「のう、毛が見えんぞ」
「鳥じゃなくて、蜥蜴みたいじゃな」
「羽蜥蜴か、こりゃ傑作じゃ」
三頭の羽蜥蜴が、物見台の前で羽ばたく。
「構えい!」
吾郎の号令に応じて、武士たちが弓を構えた。
「放てぇ!」
射られる無数の矢。中央の、ひときわ大きな羽蜥蜴が声を上げた。
「やかましいわ!」
そしてその口蓋が赤く輝く。
吾郎の視界が真っ赤に染まり――
***
角亀城の天守から、北側が燃え盛るのが見えた。
鋭くそちらを睨む義丸の背後に、切迫した声が刺さる。
「兄者!」
「仁丸。羽の生えた蜥蜴じゃ。もしかすると、出口入道殿が書き残していった『どらごん』とやらかもしれぬ」
「それより、あそこには父者がおったはずじゃ! きえ殿も!」
「分かっとる。じゃが、今はあの羽蜥蜴をどうにかすることだけを考えい」
「……そうじゃな」
弟は言い返そうとはしなかった。義丸と同じく血を吐くような声で、感情を鎮めている。
「どうする」
「飛ばれては斬れん。ここに近づかせて、飛び降りて乗るか」
「分かった。近づかせるのはわしがやる」
「頼む」
「兄者は死ぬでねえぞ。誰ぞある! 羽蜥蜴をここに引き込むぞ、命知らずはこの銅槻仁丸の伴をせえ!」
派手に足音を立てて去っていく仁丸。
普段は温厚な弟の、あのような姿は初めて見る。あの覇気を常に出していれば、母はあるいは仁丸を後継にしていたかもしれない。
燃え盛る物見台。義丸は唇を強く噛んで、しかし怒りを押し殺して声を上げた。
「誰ぞある! 刀を持て、條右衛門の大太刀を!」
***
頭上を強い風が追い抜いて行く。
また一人、その口に咥えられている。
「仁丸様ぁ! お先に参りますっ!」
叫び声を上げた男が、そのまま口の中に引きずり込まれる。
咀嚼する動きと同時に、口の端から鮮血が滴った。
「こいつらは小さくて食った気がせん。外れだったな」
「くそっ、羽蜥蜴がっ!」
大きな羽蜥蜴が、城に向かって走る武士たちを一人ずつ狩っていく。
どうやら小さな羽蜥蜴は子供であるようで、大きい方が狩りを教えているらしかった。小さいものがこちらに手を出してこないのは、ひとまず幸運だった。
最初は二十人はいたのに、仁丸と一緒に駆けているのは、もう五人ほどだ。小さいものまで参加していたら、今頃は全員胃袋の中だったはずだ。
ともあれ、犠牲の甲斐あって、城はもう目と鼻の先だ。
空中で体勢を整えた羽蜥蜴の姿を振り返った視界に納め、仁丸は鋭く告げた。
「散れっ!」
仁丸様は、とは誰も言わなかった。ここに居る者は誰もが既に命を捨てている。仁丸も例外ではないことを誰もが弁えていた。
五人が方向を変えて駆け抜け、仁丸は足を止めて振り返った。
「来いや羽蜥蜴っ!」
口を開いて飛んでくる大蜥蜴。その飛び方も、その飛ぶ速さも、既に覚えていた。
咥えられる直前に身をかわし、馬鹿でかい眼球に刀を突き立てる。
口に入ることはなかったが、代わりに巨体に跳ね飛ばされて体が吹き飛ぶ。仁丸は浮遊感の中で、自分の刀が目を抉った感触を掌でしっかりと感じていた。
「あとは任せたぞ、兄者!」
***
空中で激痛に身をよじり、羽蜥蜴が悶絶する。
眼球に深々と突き刺さった刀に、義丸は会心の笑みを浮かべた。
「流石は仁丸じゃ!」
天守から羽蜥蜴を見下ろしながら、義丸はゆったりと刀の鞘を払った。
頭部をぶんぶんと振っているが、羽蜥蜴は城の壁沿いにとどまっている。好機だった。
溢れる血と涙によって刀が抜け落ち、ようやく頭を振る動きが止まる。
義丸は太刀を振りかぶって天守から身を躍らせた。狙うは羽蜥蜴の頭部だ。
声などは上げない。が、羽蜥蜴がこちらに目を向けた。
がぱりと開かれる口。しかし義丸は止まれない。
「ベッ!」
羽蜥蜴が何かを吐き飛ばしてきた。避けられず、そのまま突っ込む。強烈な臭気と痛み。
義丸は委細構わず、刀を振り下ろした。
羽蜥蜴は頭を咄嗟に逸らしたが、避けきれずに左の翼の根本に刀がぶつかる。
手ごたえを感じて、半ば無意識に両腕を振り抜く。
「落ちろや蜥蜴ぇぇっ!」
「ぎゃあっ!」
翼を半ばまで断ち斬られ、羽蜥蜴が落下する。
先に落下した義丸は、後からくるその巨体に押しつぶされないよう、刀を放り出して勢い任せに地面を転がるのだった。
***
立ち上がる。
全身がじくじくと痛み、ぶくぶくと音を立てている。よくないものを浴びたらしい。本当は洗い流すべきなのだろうが、義丸は優先すべきことを間違えなかった。
左の翼をなかば千切られた羽蜥蜴が地面でもがいている。
近くに突き刺さっている太刀を引き抜き、かつぐ。
よろよろと近づくと、空にいる子供の羽蜥蜴がこちらに向かおうとする動きを見せる。
「父さん!」
「動くな餓鬼ィ! 貴様ンらもこうなりてえかっ!」
「ヒッ!」
義丸が一喝すると、それだけで二頭は動けなくなる。義丸に睨まれて怯えたようだった。
「誰ぞある! 槍を持て!」
「応!」
ぞろぞろと。襲撃に巻き込まれなかった者たちが駆けてくる。仁丸が囮になった時に邸宅の中に隠れさせたのだ。
もがく羽蜥蜴の足に、尻尾に、槍が突き立てられる。杭のように地面に縫いつけられ、羽蜥蜴は身動きひとつ出来なくなった。
「ようも、ようもやりおったな」
「くそ、小さな猿ふぜいが」
痛みと屈辱に燃える瞳が、義丸を睨みつける。
義丸はそれを無視して、まずは千切れかけの左翼に太刀を叩きつけた。
翼の一部が削ぎ取られ、鮮血が舞う。義丸は浴びた血を舐めて、削ぎ取った翼をそのまま齧る。
「ぎ! ぎぎぎ……!」
「さあ、今度は貴様ンらが食われる番じゃぞ羽蜥蜴」
「何をっ」
義丸は言葉通りに肉を飲み込んだ。大して美味いものではない。
空でこちらを怯えたように見てくる二頭を一度だけ見てから、親蜥蜴の傷口に刃を突き立てる。
体のあちこちからもうもうと煙が上がっており、ひどい痛みが襲っているが、義丸は構わず吼えた。
「まずは胃の腑から皆を出してやらんとなあ。さあ皆の衆、腑分けといくぞ!」
「ぎっ、ぎゃああああああ!」
***
「済まぬ、義丸。おきえは」
「母者。ということは、親父殿も」
「ああ。全部焼けてしもうた。誰が誰だか分からぬとさ」
「……ほうか」
義丸はげぶりと血を吐いた。
手にした大太刀が重い。だが。
「れべるが上がっとる。こりゃあ死に損ねたようじゃわ」
「今日はどいつもこいつも死に過ぎだ。あんたくらい生き延びてくれんと、割に合わん」
「そうじゃな」
義丸は大きく息を吐いた。
全身に浴びた毒液が、間違いなく全身を蝕んでいるのが分かる。
死ぬことはなくとも、出来るはずのことが出来なくなったという実感があった。
「藩主の座を降りたい。仁丸に」
「いや、しかし仁丸は」
「あいつがあの程度で死ぬはずがねえわ。腑分けした生き胆があったろ、あれを炙ってあいつに食わしてやってくれ」
「待て! お前が生きとるならお前が食え! そして体を治して――」
「全身がただれとる。もう子供は作れんじゃろ。それに」
天を仰ぐ。愛したひとの魂は、迷わずに極楽へ行っただろうか。
「わしの嫁はきえだけじゃ」
***
「……義丸様が父親を生きたまま斬り分けていく様を見た我々は、逃げることもできずに地面に降り、ひれ伏して命乞いをしたのです。助けてくれ、食らわないでくれと」
ここまで話し終えて、辰佐は大きく息をついた。
「どうにか許された我々が最初にしたのは、父の頭骨を抱えて巣に帰ることでした。母は皆様に食われた父を罵り、辰吾郎を残して飛び去りました。猿ごときに敗れる者の子供など要らぬと」
「それは」
「兄はそれをどう思ったか。しかし私の心にあったのは、これで誰を気にすることもなく殿や若に仕えることができるという喜びだけでした」
クラースは困惑しつつもメモを止めることができなかった。
辰佐の声音が嬉しそうなのも、彼には理解ができない。
「若は、父のブレスに焼かれる前の義丸様によく似ておられる。伊呂波様もそう思われたようで、若を随分と可愛がりになられました。そして若は、誰よりも強く育たれた」
「あなたは。あなたがたは、それで良いのですか」
「ええ。我々は、あの日から。義丸様と仁丸様に、そしてそのご後裔の皆様に心酔しているのです」
そう言って、辰佐は今日初めて満面の笑みを見せたのだった。
***
鬼宮義丸は黒龍の襲来の後、五十まで生きたという。
領民たちは義丸を誉れとしたが、彼はそれ以後二度と、人々の前に姿を見せることはなかった。亡くなった妻の菩提を弔ったとされる。
藩主の跡を継いだ仁丸は、生まれた息子に義童と名付けた。
 




