夏芽デビュー(2)
隆司が夏芽の前に立った。夏芽の座るイスは高さがあるのだが、隆司は身長が高いので少し見下ろす形になる。当然上目遣いになる夏芽。この構図だけでも絵になってしまう。
「久しぶり、っていうべきかな、赤坂夏芽さん」
「覚えていたんですか」
「眼鏡がないだけでこんなに変わるなんて思ってもいなかったけどね。すごいな、君。やっぱりもっと早くに潰しておくべきだったかな」
にこにこと話し掛けていながら、目が笑っていないことにぞっとする。この人は敵だ。夏芽の警戒心が上がる。
「まさか君に紫音を取られるなんてな。でも、残念だけど紫音は君のものにはならないよ」
「そんなのわかってます。けど、紫音さんはあなたのものでもありませんから」
「ふぅん。言うねぇ、なかなか」
隆司は苛ついてきた。オーディションで見たときの夏芽はおどおどして幼い少女のようだったのに、今自分を見上げている彼女はどうだろうか。長いまつげに縁取られた大きな瞳には、間違いなく戦う意志が宿っている。
(気の強い女だな。勝てるわけないのに・・・)
隆司はまだ気付いていないが、仕事を通して誰かと張り合おうとしたのはこれが初めてだった。隆司は初めてライバルと思う存在と出会ったのだ。
「私、あなたに負けないようにがんばるつもりですから」
「一応オレ、事務所の先輩なんだけど。わかってる?」
「わかってますよ。司さんがそんなスケールの小さい人だなんて思いませんでした」
隆司はスイッチが入りかけていた。夏芽のあごに手を当てると、ぐいっとさらに上を向かせる。
「君、本気でオレとやるつもり?」
「私は負けません」
おそらくいつもの隆司なら、ここまで言われて平静ではいられない。だが、このときは気持ちを切り替えた。勝ち気で、それでいて純粋な夏芽の目がそうさせたのかもしれない。
隆司は夏芽と芸能界で勝負することを心に決めた。
「鈴子」
「はいっ」
突然呼ばれて、慌てて駆け寄る。
「この色じゃなくて、もっと紅いやつに換えてきてくれる?」
隆司からピンクの口紅を受け取ると、鈴子はとりあえず監督のところへ話を通しにいった。解せない様子ではあったが、なんとか了承が出る。鈴子は真っ赤な口紅を渡した。
「夏芽。君にはこっちの方が似合うよ」
「・・・・」
隆司がにやりと笑うなか、本番が始まった。
さっきの紫音のときとは雰囲気がまるで違う。見つめ合うというより、にらみ合っているような二人は天使と悪魔の関係だ。
天使のようにふわふわしたかわいらしい夏芽の顔を、悪魔のような冷たい目の隆司が持ち上げる。挑戦的な夏芽の眼差しを、隆司は平静を装って受け止める。
その唇に口紅が塗られたとたん、二人の空気が変わった。
「これは・・・・いけるかもしれん」
監督は、当初のイメージからかけ離れてしまった演出だが、手応えを感じたようだ。目を輝かせて二人の姿を見ている。
そのまま隆司と夏芽で写真撮りも行った。
天使の唇。そんな売り文句よりも強烈な絵ができあがった。
「ねぇ、あのCM観た?」
「観たよぉ。天使だって恋をする、ってやつでしょ」
「あの子誰だろうね。すっごく可愛いよね」
「あれってさ、やっぱ司だよね」
「私もそう思った。でもさ、もしそうだったらすごくない?」
夏芽主演のCMは、放送されるやいなや一躍有名になってしまった。あちらこちらで噂になっている。
テレビの映像では隆司の顔はまったく出ておらず、ほんの少し後ろ姿をうかがい知ることができるくらいなのだが、同時に貼りだされたポスターには、横顔にほぼ近いくらいの角度で隆司もばっちり映っている。顔がはっきり見えなくても、ファンなら間違いなくわかるだろう。
天使の唇と題打って、かわいい路線で世に送り出すはずだった夏芽は、悪魔と天使という許されない恋を描いた強烈な絵でデビューすることになってしまった。
CGで天使の羽をつけられた夏芽は、同じく悪魔の翼をつけた隆司によって真っ赤な口紅を塗られる。禁断の恋。わかっていても染められる自分。天使だって恋をする。そのキャッチフレーズは乙女心をばっちりつかんでいた。
「なんか、こうして見ると恥ずかしいですね」
駅構内に堂々と貼られた巨大ポスターを前に、夏芽は頬を赤らめた。今日の夏芽は眼鏡におさげだ。
「そう?すごくかっこいいと思うよ」
「かっこいい?かわいいじゃなくて?」
「このポスターの出来がかっこいいってこと。化粧品に興味がない人でも思わず見ちゃうよ、これは」
隣には優磨がいた。夏芽が神崎社長にお礼を言いたいと言うので、優磨が連れていくところなのだ。
「夏芽ちゃんて、いろんな顔をするんだね」
眼鏡の奥であどけない表情の夏芽は目をぱちくりさせる。
「女優の道に進むのもアリじゃないかな。確かにぼやっとしてるところはあるし、心配になるけど、根は真面目だし、やれば何でもできそうな気がするんだよね」
「女優?」
優磨は指でポスターの隆司を指し示した。
「それに、戦うんでしょ?彼と」
「そう、だけど・・・。できるかなぁ、私に」
同じ人物とは思えない。隆司に負けないくらいの輝きを放つ自分の姿を、まるで他人のように眺めている。
本当に大丈夫かと心配になってきた。優磨はもう一度ポスターを見つめる。夏芽のかわいさは申し分ない。それに加えて隆司の存在感だ。顔も出していないのに、こんなにも人を惹き付けるのはなんなのだろう。
同じ舞台の上で戦うには、あまりにも強すぎる相手だ。でも、夏芽ならひょっとして・・・とも思ってしまう。
「ねぇ、なんでそんなことまでするの?」
「え?」
「今更な質問だけどさ。戦って、もし勝ったとしてどうするの?そもそも勝ち負けの決め方もわからないけどさ」
「そっか・・・」
がっくり。優磨は拍子抜けしてしまった。勢いだけよくても中身が空っぽだ。
(まぁ、これが夏芽ちゃんだよね)
「私、何も考えてなかった。ただ紫音さんの力になれると思ったから突っ走っちゃっただけなんだ。どうしよう、竜崎君」
「どうしようって言われても・・・。ここまでやっといてそれはナシでしょ」
「そうだよね。もうやっちゃったんだもんね。面と向かって負けません、なんて言っちゃったし、今さらやめられないよね」
隆司を相手に宣戦布告までしていたなんて知らなかった。放っておいたら何をするかわからない。天然というのは、ときに恐ろしい。
「夏芽ちゃんはそれでよかったの?」
「どういうこと?」
「戦う相手は司じゃなくて、本当は・・・・」
やってきた電車の音で優磨の声は消されてしまった。
「ごめん。今なんて」
「ううん。いいんだ。気にしないで」
優磨は夏芽を促して電車に乗り込んだ。
流れていく夏芽のポスター。当初の予定を大きく裏切って、口紅はピンクのものより真紅のものが爆発的に売れるのだった。