25.夏芽デビュー
ついに夏芽が羽ばたく日がやってきた。
「それにしても、初仕事でこんな大きな仕事って・・・。夏芽には神様も味方してるんじゃないだろうか」
初日ということで現場まで足を運んでいた所長はそんなことをつぶやく。
それもそのはず。まだ名も知られていない夏芽が初めて世間に顔を出すことになる大舞台が、大手化粧品メーカーのCMなのだ。
「お前んとこって、やっぱりすごいな」
同じく現場に同行していた翔子に紫音は感心の言葉を投げ掛ける。実はこの仕事は神崎社長を通してもちあがったものなのだ。
「お父様の知り合いがたまたまいたから、ちょうどよかったです。それに、あちらの方も夏芽さんを実際見てかなり気に入ったようですし、きっとうまくいきますよ」
自分とは別世界のような顔をしているが、紫音は翔子に向けられている業界人の視線が少し気になっていた。神崎グループの令嬢であり、その辺のアイドルより美人な翔子は、あわよくば引っ張り込みたい逸材だろう。本人にその気がないのは明白だが、こんな場所でおかしなことになったら優磨に何を言われるかわからない。紫音はいらぬ心配をしなければならなかった。
「それにしても夏芽さん、本当に天使みたいですね」
「あぁ。本当、恐いくらいすごい奴だよ、あいつは」
今回撮るのは口紅のCMで、数色あるうちのかわいらしいピンクの口紅を使用する。天使の唇が売り文句だ。ベタな内容だが、夏芽がモデルだと洒落にならない。
真っ白なドレスに身を包み、この日のために染めたふわふわの茶色い髪が揺れる姿は、現実感を消し去りそうな儚さを持っている。
リハーサルが始まった。背景はCGでつくるので、緑のボードの前で夏芽は台のようなイスにぺたんと座る。その唇へ人の手で口紅が塗られるのだが、そこで監督が考え出した。
「ちょっと、紫音君」
「は、はい」
急に呼ばれて慌てて駆け寄る。なにかスタイリング等でまずいところでもあっただろうか。
「あの口紅塗る役、君やってみてくれないか?」
「え?」
この撮影のために呼ばれている男性モデルを差し置いて紫音にやれと言うのだ。確かに夏芽以外に顔は映らない。映るのは手だけだ。だがそれも考えて選んだモデルなのに、監督はこだわりを通したいらしい。
「でもそれは・・・」
「君は彼女のことをよく知ってるし、メークもほどこしてるんだろ?いつもしてるようにやってくれたらいいから、ちょっとやってみてくれ」
紫音は言われたとおり夏芽の前に立った。モデルの男性には悪いが、いい悪いで仕事は成り立たない。きっと本人もわかっているはずだ。
びっくりしたのは夏芽だ。撮影の内容は知っているが、相手が紫音になるなんて聞かされていない。今までも緊張でどうにかなりそうだったのに、余計に心臓がバクバクいいだす。
「あ、あの、なんで紫音さんが・・・」
「監督の希望なんだ。我慢して」
「がっ、我慢だなんてっ」
(どうしよう。紫音さんが私の唇に口紅を・・・。あれ?メークのときしてもらってるじゃない。いつもってどんなだっけ。こんなにドキドキしてないはずなのに)
夏芽は混乱してきた。
「夏芽?大丈夫?」
「はっ、はい」
夏芽の顔は恋する少女へと変わっていた。それを見た監督は確信する。天使のようなかわいらしい姿は申し分ない。だがその中に人間らしさがあった方がこのCMはぐっと乙女心を引き付けるようになるのだ。
監督の合図で紫音の手によって口紅が引かれる。頬を赤らめてぽうっとする夏芽に対し、プロ意識のせいで紫音は口紅のラインが気になる。顔が出なくて正解だ。二人の表情はまったく噛み合っていなかった。
「夏芽さん、かわいいわ・・・」
「神崎嬢も誰か見てもらいたい人がいるのかな?」
「所長さん」
はいプレゼント、と今回使用している口紅を手に乗せてくれる。
「ありがとうございます。でも、私は天使っていうがらじゃないですから」
「かわいらしいのが天使ってわけでもないだろう。周りの目と神崎嬢を一番に想っている奴の目とじゃ、見えてるものが違う」
翔子は手の中の口紅を眺めた。
天使のようなかわいらしさなら、翔子よりむしろ優磨の方がはまるような気がする。自分はいったいどんな風に映っているのだろうか。優磨の隣に立っていて、おかしくないだろうか。
「まぁ、あの様子じゃ夏芽の恋は空回りって感じだな」
「天使も片想いってするんですね」
翔子の言葉に所長は軽く笑った。
「なかなかいいじゃないか。じゃあもう一回撮って、その感じのまま写真撮りまでいこうか」
気分がのってきた監督は勢い込んで言う。だが、そこに驚くべき人物が割って入ってきた。
「ふぅん・・・、すごいですね。さすが期待の新人だ」
「司っ」
「ちょっと時間が空いたんで見学に」
場の空気ががらりと変わる。隆司がここに来ることは誰も知らないことだった。
紫音は隆司の後から入ってきた鈴子に目をやる。鈴子は気まずそうに表情をくもらせる。もしかしたら夏芽の撮影のことをしゃべったのは鈴子かもしれない。
「監督。もしよかったらオレに彼女の相手をやらせてくれませんか?」
突然隆司は無茶なことを言い出した。誰もがいろんな意味で驚き、場が固まる。
「いや・・・これは司がやるような仕事じゃ・・・」
「無償でかまいませんし、納得いかなかったら外してくれていいですから。夏芽は一応事務所の後輩になりますし、オレも力を貸せたらいいなって思いまして」
紫音はもう一度鈴子を見た。鈴子は困った顔で小さく首を振る。何も聞かされていないのだろう。タダでいいから夏芽と仕事をさせろというのは隆司の独断とみて間違いなさそうだ。
「だが・・・・」
監督はまだしぶっている。おのずと視線は所長に向けられた。
「かまいませんよ。本人がいいと言っているんですから。この出演ならべつにイメージが壊れるようなこともありませんし」
「そういうことなら・・・」
なんだか大変なことになってきた。なにも初仕事で対決する必要なんてないのに、これでは夏芽がかわいそうだ。
「隆司、何考えてる」
「べつに何も考えてないよ。紫音がオレから離れてまでつきたかった新人なんだろ?オレもちょっとは協力しなきゃと思ってね」
にこにこと言う隆司に、紫音は返す言葉もない。こんなところで言い争いをしても何もいいことがない。夏芽の立場が悪くなるのは避けたい。
「隆司、俺はべつに夏芽と仕事がしたくてお前から離れたわけじゃない。それはわかってくれ」 「ふぅん・・・。どっちでもいいよ。とにかく今はオレが彼女と仕事をしたいんだ」
紫音には隆司を止めるすべがない。
「ごめん、紫音」
隆司が監督のところへ行ってから鈴子が寄ってきた。
「お前が言ったのか?」
「言ったのは私じゃないけど、止められなかったから」
鈴子が必死で訴えかければ隆司は止まったかもしれない。だがそれで鈴子に何かあったのではたまらない。
「鈴子が責任を感じることじゃない。無茶して怪我でもされたら、俺も黙ってられないから」
「わかってるよ・・・」
二人は並んで夏芽を見守る。こうなったら夏芽に戦ってもらうしかない。