交差する想い(2)
春休みに入ってすぐ、紫音は夏芽を事務所に連れていった。
まず夏芽の家に挨拶に行き、事前に説明していたことを再度ご両親と確認した。その後夏芽の部屋で髪をセットし、メイクも施した。眼鏡がなければ完璧である。
事務所に入ると、夏芽の姿を見てみんなが寄ってきた。
「なぁに?紫音君に妹なんていたの?」
「いないだろ。いとこかなにかじゃない?」
「かわいいねぇ。お嬢ちゃんいくつ?」
(絶対高校生って思われてない・・・)
「すいません、みなさん。ちょっと所長のところに行きたいんで」
おもちゃにされかかっている夏芽の手を引いて、紫音はその場をすり抜けた。
「あれ?紫音さん。誰です、その子」
「柴田さん。ちょっと一緒に来てもらえませんか」
偶然居合わせたマネージャーの柴田も連れて、紫音は所長のところに向かった。
「失礼します」
「あぁ、紫音君か。どうした。親戚の子でも見学に連れてきたのか?」
「違いますよ。今日はこれから芸能界で羽ばたくであろう新人アイドルを連れてきたんです」
「アイドル?おいおい、冗談言っちゃいけないよ。まさかそのちっこいお嬢ちゃんがそうだって言うんじゃないだろうな」
「そのまさかですよ。俺は彼女をこの事務所からデビューさせたいと思ってるんです」
「何言ってるんですか、紫音さん」
初耳の柴田は当然のごとく驚きの声をあげる。
「所長もきっと彼女に惚れ込みますよ」
紫音は夏芽の眼鏡を外してみせた。その姿を目の当たりにし、所長も柴田も声を失って口をあんぐりと開けている。柴田にいたっては知った人物の顔が表れたので余計にびっくりだ。
「ね?どうです、彼女」
「いや・・・これはたまげた。うまくデビューさせられれば、芸能界が激震するくらいの大事になるぞ、こりゃ」
「でもひとつ問題があるんです。彼女、目がひどく悪くてほとんど見えてないみたいなんです」
「なんとかならないのか?」
「今は手術で少し改善できるそうなんですが・・・」
所長は完全に夏芽に魅せられていた。躊躇うことなく言い放つ。
「金は事務所が全部出してやる。どうだいお嬢ちゃん、手術して眼鏡がいらなくなったらうちと契約しないか」
「あの、でも、手術代まで出してもらうなんて・・・」
「君に手術を受ける意志があるなら、金はいくらでも出してやろう。気にすることはない。君はもっとビッグなマネーを動かすことになるんだからな」
所長の頭の中はすでに夏芽のことでいっぱいだ。紫音の思惑どおりである。
ここの所長は個人の持つ本質的な魅力にとにかく敏感だ。その人物の背景や、生きてきた世界などはほとんど関係ないと言っていい。芸能界に入るにあたって問題があったとしても、あらゆる力を使ってなんとかしてしまう強さもある。
精神的に崩壊し、家族ですら手の付けられない状態だった隆司をこの世界に引っ張り上げたのも所長だ。あの頃の隆司のどこを見ていけると思ったのか、本当に不思議である。だが、司の人気を考えると、所長の目は確かだと言わざるをえない。
「所長。それでお願いがあるんですが」
夢を馳せる所長に向けて、真剣な声で紫音は切り出した。
「俺を彼女の専属スタイリストにしてほしいんです」
「・・・・は?」
「・・・・えっ?」
所長と柴田は同時に驚きの声を発する。すぐには意味がつかめない。
「紫音さん・・・何言ってるんですか・・・」
柴田の顔は引きつっている。仕方のないことだろう。事の重大さがわかればわかるほど顔から血の気が失せていく。
「もう司の専属はやめようと思うんです。今までだって、専属とか言いながら他のスタイリストさんにやってもらうことも多かったし。もう俺の力がなくても司は大丈夫だと思うんです」
「大丈夫じゃないですよっ。司さんには紫音さんが必要なんですっ」
「精神的な支えならスタイリストとしてじゃなくてもできるでしょ」
「それ、本気で言ってるんですか?司さんが素直に受け入れられるわけないでしょ」
柴田は必死だった。何人ものマネージャーが脱落していく中で、唯一隆司と長く付き合っている彼だ。柴田は隆司のいろいろな顔を知っている。今回紫音が離れれば隆司がどんな顔をするか、柴田には想像できる。
「紫音さんは司さんを暗闇に突き落とすつもりなんですか」
「そうなっても仕方ないと思ってます」
「どうかしてますよ。なんで急にそんなこと・・・」
「急じゃないです。前からずっと考えていたんです」
柴田は絶句してしまった。兄弟というのは妙なところが似るものだ。紫音も言い切った以上絶対にやるだろうと思われた。
放心状態の柴田に対し、所長はゆっくりと考えるように息をついた。彼は事務所の未来も考えて決断しなければならないのだ。
「紫音君、本当は何を考えてるんだ?司がダメになれば事務所は大打撃だ。最悪つぶれる可能性だってある。それを知ったうえでやりたいことがあるというのか?」
わかっていたつもりだったが、のしかかる責任の重さに紫音は言い淀んでしまう。たった一人の女のために、事務所の未来を揺るがせていいのか。自分一人が我慢すれば済むことなのではないだろうか。
迷いそうになっている紫音の袖を夏芽がきゅっとつかんだ。言葉はなくとも伝わる。
(迷っちゃダメです。私がいます)
紫音は心を決めた。
「俺は自由になりたいんです。このままずっと隆司とこんな関係は続けられない。鎖で繋がれたような危うい関係じゃなく、もっと自由にあいつの傍にいられるようになりたいんです」
「確かに、それができるのは理想だが・・・」
「それに、俺にはほしいものができたんです。今までは隆司のために諦めてきたものがたくさんありました。でも、もう諦めずに手に入れたいんです」
所長は目を閉じてしばらく考えた。そして目を開いて見たのは、すがるような柴田の視線でも、決意を固めた紫音の表情でもなく、あどけない中に意志を宿した夏芽の顔だった。所長は小さくうなずく。
「いいだろう。紫音君の決めたことなら仕方ない」
「所長っ!」
「ただ、条件がある。司から離れるということを、自分の口からお兄さんに言いなさい。彼女がデビューするまでにそれができないなら、今の話はなかったことにして彼女には別のスタイリストをつける。いいね」
「・・・わかりました」
所長は紫音の覚悟を問うているのだ。自分の手で終わらせ、それでもこれでよかったと思えなければ、紫音は必ず隆司に引きずり込まれる。自由になりたいというなら、片寄った優しさはきれいさっぱり捨てなければならない。
「ありがとうございました」
紫音は頭を下げ、夏芽を連れて出ていった。
部屋に残った柴田はまだ信じられない気持ちだった。なぜ今でなければならないのか。鈴子が現れ、隆司の様子が変わり、確かに今までとは何かが変わりはじめている。だがその変化は悪いものなのだろうか。良い方向へ進んでいると思っていた柴田には紫音の決断が時期尚早としか思えない。
「柴田。お前はどうする」
「どうするって・・・どういう意味ですか」
「この際だ、やめたいなら司のマネージャー外してやるぞ」
「なっ・・・・」
考えてもいないことだった。
「お前もだいぶ苦労してるだろ。もし司が落ちぶれちまったら、いつまでもあいつの傍にいる必要もない」
柴田の脳裏を隆司の様々な表情が駆け巡る。ひどい扱いを受けたこともあった。辛い時期もあった。でも、一緒にここまで歩んできた。自分に見せる悲しい顔も、子供のような無邪気な笑顔も、柴田は全部胸に抱いて今までやってきた。今さら離れられない。
「僕は・・・、僕は最後まで司さんのマネージャーです」
「そうか」
所長は柴田に近付くと、ぽんっと肩を叩いた。
「お前には紫音君の代わりはできない。だが、お前にはお前にしかできないことがある。気持ちに迷いがないなら、司がもう一度立ち上がるときに手を貸してやってくれ」
まだ何も始まっていないのに、まるで終わったかのような言い方をする。柴田はたまらなく悲しかった。
「当たり前じゃないですか。司さんはきっと大丈夫ですよ」
自分に言い聞かせるように力強く言って、柴田は部屋から出ていった。