18.夏芽の覚悟
「ねぇ、いいかげんちゃんとした方がよくない?」
明日は聖ヶ丘高校の卒業式だ。いろいろあったが、黒木や佐川ともお別れである。冴子は明日からは堂々と青野と会えるだろう。
「なんのことだ?」
「鈴ちゃんのことだよ」
そして今日は隆司の学校の卒業式である。今頃取材陣に囲まれていることだろう。テレビには映るが、プライベートなことなので紫音の仕事はない。だからこうして愛海と屋上にいるのだ。
「そうだな・・・。でもあいつが好きで隆司の傍で働いてるわけだし・・・」
「違うよ。そういう話じゃなくて」
本当にわかっていなそうな紫音に、愛海はため息をつく。
「紫音はこのままでいいの?好きなんでしょ、鈴ちゃんのこと」
「えっ?」
「まさか違うなんて言わないよね。私ずうっと前から知ってたよ」
わかりやすいわけではない。でも愛海にはわかる。紫音は優しくて心配性だが、鈴子に対する優しさと心配の仕方は他の誰とも違う。
「紫音は自分の気持ちを殺しすぎだよ。青野先生のこと追いかけてたときも、中学のときの彼氏とずるずる続いてたときだって、鈴ちゃんが幸せならそれでいいみたいな顔してたけど、本当は気にしてたんでしょ」
「あいつは自由でいるのが一番いいんだ」
「そうかもしれないけどさ・・・。でもこのままじゃ隆司さんのものになっちゃうよ。私は隆司さんのことよく知らないけど、本気で鈴ちゃんのこと好きになってくれる人なのかな?きっと鈴ちゃんは必要とされたら離れられない。そのうえで捨てられても、傷を隠して泣かないのが鈴ちゃんなんだよ」
わかっている。たぶん鈴子のことは愛海よりもわかっている。それほどに傍で見てきた。だがこれが好きという感情なのかどうか、紫音にはいまいちわからない。常に隆司を一番とすることを求められてきた日々は、紫音から人を好きになるという感情を奪ってしまった。
「わからないんだ・・・。俺にはみんながそれぞれ大切で、長屋だけが特別なわけじゃないんだ」
「紫音て、本当に恋愛に関しては全然ダメだよね。そんなんじゃ一生独身決定だよ」
「なんだよ。お前だって海人とのことにあんなに臆病になってたじゃないか。人のこと偉そうに言えるのかよ」
そこを突かれると痛い。でも今の愛海は紫音よりは少なからず上にいる。
「私はいろいろ障害が多かったってだけで、海人への気持ちはもう決まってたもん。自分の気持ちすらわからない紫音よりはましだもん」
「そうかもしれないな・・・・・」
紫音は反論をやめて静かに認めてしまった。
あの日。鈴子と隆司が寄り添うように眠っていた日。二人の間に何があったのか、紫音はどちらからも聞くことはなかった。あの日から隆司の様子に変化が生じ、二人の仲がまた近付いたような気がした。
置き去りにされていく。隆司に?それとも鈴子に?
隆司が紫音の元から巣立っていこうとしているのが淋しいのか。それとも大切な友人の鈴子が自分から離れていこうとしているのが淋しいのか。もしどちらでもないとしたら・・・。
「なぁ、人を好きになるっていうのは、どういう感じなんだ?」
「そんな難しい質問、さらっとしないでくれる?」
「お前が気付けって言うから聞いてるんだろうが。俺は今まで隆司のことばかりを考えて生きてきたんだ。それを今になって他の誰かを見ろって言われても」
「そこがダメって言ってるんだよ。紫音はもうとっくに鈴ちゃんのこと見つめてるんだから」
愛海の言葉にも、紫音はまだ頭を悩ませている。本当にわからないのか、わからないようにあえてしているのか、自分でもわからなくなってきた。ただひとつ、はっきりしていることは、愛海の言葉を完全に否定できないということだ。
もし仮に鈴子のことが好きだとして、自分のものにしようとすれば隆司はどうなるだろう。紫音以外にやっと心を開ける人間を見つけたのだとしたら、その人物と引き離された隆司はいったいどうなってしまうのだろう。
鈴子への気持ちを確かめるということは、隆司の将来を切り捨ててゆくということだ。鈴子か隆司、どちらかを選べばもう後戻りはできない。それでも自分の気持ちを見つめろと言うのか。
「私は自由になるべきだと思います」
突然声がして顔を上げると、二人の前には夏芽が立っていた。
「夏芽ちゃん。いつからいたの?」
「実はそこの陰でずっと聞いていました。出ていくタイミングを逃してしまいまして」
申し訳なさそうに頭を下げてくる。
「あのっ、それで、私は紫音さんを応援したいと思います」
「応援て、長屋とのこと?」
「はいっ。私、紫音さんのことずっと好きでした。あっ、好きっていうのは、その、憧れてたっていう感じの好きで、要するにファンだったっていうか・・・」
「うん、わかってるよ」
話が逸れそうだったので愛海は途中で修正した。
「それでも見ているだけだった頃は、本当に好きなんだと思うこともありました。でも一緒にいさせてもらえるようになって、私の好きって違うなって思ったんです。本当に好きになるっていうのは、長屋先輩のようなことをいうんですね、きっと」
「夏芽ちゃん?」
ぼうっとしているように見えて、夏芽は本質を見抜いていた。愛海たちが思っているよりもずっと賢い女の子だ。
「紫音さんは長屋先輩のことが好きなんですね。そして長屋先輩も紫音さんのことが・・・。でもお互い知らないふりをしている。大切だからこそ隠してしまうのでしょう?」
夏芽はおもむろに眼鏡を外し、三つ編みをほどいた。お人形さんのような愛らしい夏芽が姿を表す。
「紫音さん。私を使ってください」
「はっ?」
「自分で言うなんておこがましいですけど、私ならあちらの世界にも入れてもらえるんでしょう?」
あちらの世界というのは芸能界のことだろう。鈴子が何度も言っていたことだ。自覚はなくとも確信はある。
「私、お二人を自由にするお手伝いがしたいんです。私にもできることがきっとあるはず。私がんばりますから、どうかあちらの世界に連れていってください」
愛海と紫音は唖然として夏芽を見ていた。あの天然で幼い夏芽の口から出た言葉とは思えない。おそらく入った後のことなど何も考えていないだろう。だが紫音と鈴子のために自分の身を捧げる覚悟だけはやたらと強いようだった。
「夏芽ちゃん、芸能界ってそんなに楽なところじゃないよ」
「わかってるつもりです」
「どうしてそこまでするの?」
「私は・・・・。私はお二人に幸せになってもらいたいんです。紫音さんも長屋先輩も、もっと笑ってほしいのに、疲れたような顔をしている。私はそれが悲しいんです」
純粋に語る夏芽は美しかったが、純粋さだけでは生きていけないあちらの世界でどうなるのか、逆に心配にもなった。確かに夏芽は可愛いが、それだけで永く愛してもらえるような甘い世界ではない。すぐにでも夏芽の覚悟が試されるようになるだろう。
「紫音、どうすんの?」
紫音は答えずに黙って夏芽を見ている。突然究極の選択を迫られた彼は、自分の求めているものを必死に探していた。
ほしいのは自由か、それとも壊れる前の兄か。守りたいのは心の許せる仲間か、それとも気の強い彼女か。全てを手に入れることは難しい。ならば何を選ぶのか。
「紫音さん。私と一緒にほしいものを奪いにいきましょう」
夏芽が手を差し出す。紫音は躊躇った《ためらった》。その手を取った瞬間から、隆司と戦うことになるのだ。今まで身を捧げる思いで守ってきた人物と戦わなければならないなんて。大切な仲間を利用し、愛する兄弟を倒して姫を手に入れる。もう自分はナイトなどではない。
どうしても煮え切らない紫音はうつむいてしまった。夏芽はそんな紫音の顔を両手で挟んでぐいっと持ち上げた。眼鏡を外した夏芽は容姿もそうだが、性格まで変わってしまったかのようにとても強気である。見えないことが彼女を大胆にしているだけかもしれないが、愛海も紫音もその雰囲気に呑まれそうになる。
「しっかりしてください。紫音さんがそんなだから司さんだっていつまでも一人で歩くことを覚えないんですよ」
「夏芽・・・」
「私の勇気、無駄にしないでください。がんばりますから、私にできることをさせてください」
紫音はついに夏芽の手を取った。
「俺は夏芽を利用することになるんだぞ」
「わかってます。そんなことで私は傷付きません」
夏芽の気持ちはどうやっても揺るがないようだ。小さな体で大きな覚悟を語る彼女に、紫音は精一杯で応える決意をする。
もう見ないふりはしない。逃げるのはやめだ。