罠と罪(2)
車が止まったのは、静かな住宅地にそびえ立つ大きなマンションの前だった。
「隆司さん、着いたみたいですよ」
「んっ・・・」
隆司は鈴子に起こされ、運転手の男に挨拶すると車を降りた。荷物を持って鈴子も続く。
「大きなマンションですね」
「そう?部屋はそんなに広くないよ」
軽く寝たせいか少し気分が良さそうだ。足取りがしっかりしているので鈴子はほっとした。ちょっと休めば元気になるかもしれない。
慣れた様子で中へ入っていく隆司に、特におかしなところなど感じなかった。ただ気になるのは、さっきからずっと鈴子の手を放さないということだ。ちゃんと後ろをついていっているのに、まるで逃げないようにでもするかのようにしっかりと手を掴んでいる。
部屋の前まで来たとき、急に隆司が鈴子の方を向いた。
「どうかしましたか・・・」
最後の方は声がかすれてしまった。隆司のあまりにも冷たい視線に喉が詰まってしまったのだ。冷酷な表情はこれから起こることを伝えているようだった。
この先は危険だ。本能が教えていたが、逃げ出す前に鈴子は部屋の中へ連れ込まれてしまった。
部屋にはすでに明かりがついていた。靴を脱ぐのもままならない勢いで、ぐいぐい引っ張られていく。扉を開けてリビングに入ると、そこには三人の男がいた。
「司、早かったね」
見たことのある顔だ。声をかけてきた人物以外も、みんなテレビなどで見たことがある気がする。
「隆司さん・・・ここって・・・・」
「オレの家、なわけないっしょ」
隆司は口元だけでにやりと笑った。ぞっとして顔が青ざめる。
「この子誰?素人さんだよね」
「もしかして今日ってこの子だけ?」
遠慮なく間近でじろじろ見られる。みんないい男だ。だが今の鈴子にはそんなことは一切関係ない。
「今日は飲みながら落としたりしなくてもいいんだぜ」
「それって・・・」
「好きにしていいよ」
平然と言い放つ隆司に、鈴子は愕然とした。思わず隆司に救いの目を向けてしまう。
「ここはオレの友達の家。オレって結構顔が広いからさ、たまにこういう場に気になるっていう子を連れてきて恋の手助けなんかをしてあげるわけ。もちろん思いがけずくっついちゃったりする奴なんかもいるけど」
爽やかに解説してくれるが、今聞きたいのはそんなことではない。鈴子は今自分がどういう状況にいるのか教えてほしいだけだ。
「私は・・・・」
「そんな顔するなよ。自分からついてきたくせに」
「ちがっ」
隆司は鈴子の目の前に携帯を突き出した。
「一度だけチャンスをあげるよ。助け、求めてもいいよ」
ディスプレイには紫音の番号が出ていた。電話をかければすぐにでも飛んでくるだろう。でもその後はどうなるのだろう。隆司と紫音の間にはきっと深い溝が生まれるだろうし、二人の仲にあった危うい糸は完全に断ち切られてしまうだろう。
紫音が隆司のことを大切に思っているのは知っている。自分の不注意のせいで招いた事故に、紫音を巻き込みたくはない。
「どうしたの?電話しないの?」
鈴子は手を伸ばさなかった。
「ふぅん・・・。君は本当におもしろいよ」
隆司は鈴子の手を取ってベッドルームへ移動した。男たちもついてくる。
鈴子をベッドの上に座らせると、隆司は耳元で囁いた。
「抵抗してもいいけど、その分紫音が痛い思いをすることになるからね」
「あなたって人は・・・」
「紫音が大事なら言うことをきくんだね」
ふいに隆司がキスをしてきた。思い切り突き飛ばしてやりたかったが、ぐっと我慢した。隆司の中でゲームはもう始まっているはずだ。抵抗することは許されない。
「本当に抵抗しないんだ」
「・・・・」
「その我慢もいつまで続くかな」
隆司は鈴子の唇を指でなぞると、そこから離れた。
「本当にいいの?」
「本人がいいって言ってるんだから、いいんだよ」
三人は鈴子を取り囲むように傍に寄ってきた。鈴子は覚悟を決めた。手が震える。叫びそうになる口をぐっと結んで、強い眼差しで目の前の一人を見つめる。
「恐いならやめてって言えばいいのに」
「でも、なんかそそるよね、この子」
「司もよく見つけてくるよな。こんな挑戦的な子、なかなかいないぜ」
鈴子は押し倒されてしまった。一人が首筋にキスをしてくる。思わず体がびくっとなって、涙が出そうになった。
「なんか初々しい反応でかわいいなぁ」
完全に遊ばれている鈴子の姿を、隆司はドアにもたれて冷めた目で見ていた。女の体なんてまるで興味がない。必要がなければ触りたいとも思わない。なにがあんなに楽しいのか、隆司には理解できない。
なのに隆司は心がもやもやしはじめていた。もてあそばれて、傷付いて、捨てられればいいと思っていたのに、物事がそのとおりに動いていくことに苛々している。嫌なことを我慢して受け入れている鈴子の顔から目がはなせない。
「ねぇ、せっかく言うことをきいてくれるならさ、自分で脱いで見せてよ」
「なんだよそれ。変態だな、お前」
「いいじゃん。なんかもえそうだろ」
鈴子は一度隆司の方を見た。目が合った。息を呑んだのは隆司の方だった。鈴子は強い決意の顔をしていた。
ぎゅっと目をつむると、微かに震える手で服に手をかける。鈴子は何も言わず、要求どおり服を脱ぎはじめた。
「マジかよ・・・」
本当は泣きそうだった。助けを求めたかった。でも、自分のことをあんなに心配してくれていた紫音のことを思うと、言うことをきくしかなかった。
鈴子はブラウスのボタンを外していく。恥ずかしさで頬が紅潮する。半分泣き顔だった。
一つ、また一つとボタンを外していく手が、突然強い力で止められた。驚いて目を見開くと、勢いで涙がこぼれた。
「やめろ」
鈴子を止めたのは隆司だった。鈴子を含めた全員が、わけもわからず黙って隆司を見つめる。隆司は恐い顔をしていた。
「やっぱり今日は中止だ」
「なんだよ、急に」
「気が変わったんだ。悪いな」
そのまま鈴子を連れて、隆司は出ていってしまった。後には三人が腑に落ちない顔で茫然とするばかりだ。
「たっ、隆司さんっ?」
手に跡が残りそうなくらい強い力で引っ張られ、鈴子ははだけた服のまま表まで連れ出された。そのまま歩かされ、近くの公園まで来てやっと隆司は足を止めた。
「隆司さん?」
「なんで抵抗しないんだよ」
隆司は鈴子をにらんだ。低い声が隆司の苛つきを表していた。
「泣いて助けを呼べよ。嫌なら叫んで抵抗しろよっ」
鈴子は何も言えなかった。ただ見つめながら、これが本当の隆司なのだと思った。自分が戦おうとしていたのは、この彼だ。
「そんなに紫音が大事かよ。自分のことより紫音の方が大事なのかよ」
鈴子は胸ぐらをつかまれた。服が乱れているせいで鎖骨があらわになる。
「みんな紫音、紫音て・・・・。なんでいつもあいつばかりなんだ」
「隆司さん」
「あいつがいなければ、オレはもっと大切にされたはずなんだ。もっと愛されて、いろんなものを手に入れられたはずなんだ」
「隆司さんっ」
「なんでオレじゃダメなんだ。オレはあいつに負けないくらい精一杯生きてるのに、なんで誰も見てくれないんだよっ」
隆司は叫びに近い声をあげながら涙を流していた。鈴子はたまらず、そんな隆司を抱きしめた。
「私が見てます」
「・・・なんだよ。紫音が大事なくせに・・・」
「えぇ。紫音は私の大事な人です。でも隆司さんだって・・・」
そこで鈴子は言葉を切った。紫音のために隆司と戦うつもりだったのに、自分のしていることは矛盾している。かつての自分が今の様子を見たら、なにをしているんだと鼻で笑うだろう。
「大事・・・なのかな。あなたのこと、放っておけなくなってしまったんです。これって大事に思ってるってことじゃないんですかね」
「そんなの・・・オレが知るわけないだろ」
隆司は鈴子にしがみつくようにして泣いた。鈴子は全てを受け入れるように優しく包み込む。
自分は紫音と一緒だ。こんなにひどいことをされているのに、突き放すことができない。助けてやりたいと思っている自分が滑稽にさえ感じる。いったいなにができるというのだろう。
(私たちって、笑っちゃうくらいバカだよね・・・紫音)
鈴子の足元に闇が広がる。そのまま引きずり込まれるのか、それとも隆司を引っ張りだしてやることができるのか、鈴子はまだ自分がどうなるのかさえわからなかった。
公園から隆司の家までそう遠くないと言うので、二人はタクシーをひろって隆司の家まで移動した。二人の間に会話はない。鈴子は流れる景色を見ながら、荷物を置いてきてしまったなとぼんやり思っていた。
隆司の後について入った部屋は、一人で暮らすには有り余るほどの広さだった。でもただ広いばかりで生活感もなければ、こだわりも感じられない。
「事務所の人が探してきてくれたんだ。いつも寝に帰ってくるだけなのにな」
自嘲気味に言う隆司からは、本当に疲れが感じられた。精神的に不安定になっているせいか、その存在さえ不安定に思えてくる。鈴子は急に心配になって、思わず手を伸ばした。
「隆司さん」
鈴子の手はしっかりと隆司の腕をつかんでいた。
「なに?」
「えっ、いえ・・・」
手を伸ばしても触れられないんじゃないか。そんなことを思ったなどとは言えない。バカらしい。自分も隆司の闇にあてられかけているだけだ。
隆司は紫音に電話をかけて、鈴子と共に自宅にいることを告げた。
「柴田さんと一緒に飛んでくるだろうからさ、それまでゆっくりしてなよ」
「隆司さんは?」
「オレは疲れたし、もう寝る」
別室へ行こうとする隆司を、鈴子は再びつかんで止めた。
「だから、なに?」
「それなら私も」
「はぁ?」
「寝るまで傍にいてって言ったの、隆司さんですよ」
何言ってんだ。二人は同時に心の中で思った。真剣な態度が逆におかしくなってくる。でも鈴子は引き下がらなかった。
「君は本当におもしろい子だね」
隆司は快くというわけではないが、嫌がるわけでもなく部屋へ入れてくれた。
隆司は上着だけ脱いで、そのままベッドに横になる。鈴子は床に座って壁にもたれた。
「なにもそんなとこに座らなくても」
「あんまり近いと恥ずかしくなりますから」
説明になっていないが納得してもらうことにする。
「隆司さん、明日は仕事大丈夫ですか?」
「べつに。いつもと変わらないよ」
「私は明日学校で・・・」
「鈴子」
隆司は鈴子の声をさえぎった。
「もう仕事場には来なくていい」
二人は冷静だった。
「それは、クビってことですか?」
「遊びはやめるって言ってるんだよ。オレが本気で君を雇いたいと思うわけないだろ。わかってるくせに」
「私は・・・もういらないですか」
隆司は起き上がって鈴子を見下ろした。逆に鈴子は座ったまま隆司を見上げる。
「私、まだまだ仕事らしい仕事なんて全然できてませんけど、これからもっと努力します。だからもう少し置いておいてくれませんか?」
「気は確かか?仲間のことを気にしてるなら、心配しなくても何もしないよ」
「そういうことじゃないんです」
「ならなに?もしかして紫音のため?」
「わかりません。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも、もう少しあなたを見ていたいんです。あなたの演じる司ではなく、隆司さん自身を傍で見ていたいんです」
鈴子は立ち上がって、今度は隆司を見下ろした。
「私、紫音のことが心配でした。傷付けられている紫音を黙って見ていられなくて、なんとかしてあげたいってずっと思ってました。だから隆司さんと直接会ったときは、本気で戦う気でいたんです。紫音にとっては大切なお兄さんでも、私には関係ない。そう思っていたのに・・・」
(なのにどうして・・・。どうしてそんな顔をするんですか)
隆司が常に冷酷でいてくれたら、鈴子だって鬼にでも悪魔にでもなれただろう。なのに隆司はほんのささいな瞬間に、消えてしまいそうな悲しい顔をする。傍にいて、鈴子はそれに気付いてしまった。
「自意識過剰かもしれませんが、あなたの心が私を呼んでいる、そんな気がするんです」
「オレは嫌だな・・・。自分のことは、見られたくない・・・」
隆司の言葉に鈴子は落ち込みそうになったが、その直後に見せた隆司の柔らかい表情に一気に目の前が明るくなった。
「でも、鈴子はおもしろいから、もう少し置いといてもいいかな」
少しして、柴田と紫音が慌てた様子で入ってきた。柴田は合鍵を持っているのでなんの問題もなく辿り着く。
二人は部屋の中が静かなのでまた不安になってきた。明かりはついているが荷物も見当たらない。隆司の電話は嘘だったのだろうか。
よく確認もせずに飛び出してきてしまったことを紫音が後悔しかけているところに、柴田の声がかかった。小声で呼んで手招きしている。
「紫音さん、あれ・・・」
別室の入口から中を見て、驚くと共にほっとして息をついた。
そこにはベッドの上で手を握り合いながら眠りにつく、隆司と鈴子の姿があった。幸せそうにすら見える二人の寝顔に、紫音は複雑な思いを抱いていた。