17.罠と罪
様子がおかしい。鈴子の目から見ても、それは確かだった。
隆司の傍にいるようになってまだ長くはないが、それでも今までの彼からは疲れなどという言葉は浮かんでこなかった。なのに今日は明らかに力がない。
「隆司さん、大丈夫ですか?」
「ん?なにが?」
とぼけているつもりだろうか。
「疲れているんじゃないですか?それともどこか具合が悪いとか」
「心配してくれてるの?うれしいなぁ」
ソファにぐったりと座ったまま、力のない笑顔を向けてくる。隆司だって人間だ。いつも調子がいいわけではない。それでも今日会ったときはそんなに違和感もなかったのだが、仕事が終わっていくにつれ、段々と元気がなくなってきたように感じる。
マネージャーの柴田も気付いたようで、あと一つ雑誌の取材が残っていたのだが、予定を変更してもらえるよう交渉しに出版社へ出掛けていったところだ。紫音は明日の仕事に変更が出るかもしれないので、他のスタイリストと衣装の準備等の打ち合わせをし直しに別室へ出ている。
「柴田さんが戻ってきたらすぐに家に帰りましょう」
「そうだね・・・」
ゆっくりと目を閉じる。そのまま倒れてしまいそうだ。鈴子は本気で心配になってきた。
なんて危うい存在だろう。紫音が傷付けられながらも離れられないのが少しわかる気がする。この人はいったい誰になら本当の顔を見せるのだろう。
「ねぇ、鈴子。お願いがあるんだけど」
「なんですか?」
鈴子は隆司の傍に寄った。
「帰りたいんだ。一緒に来てくれない?」
「えっ、でもまだ柴田さんが」
「べつに他の人間でも家まで送ってくれる。事務所の人を呼ぶからさ」
鈴子は躊躇した。隆司の様子を見る限りでは、今すぐにでも家に帰らせてやりたい。だが鈴子はここを離れるなと紫音に言われていた。どうしても信用しきれない紫音は、自分が戻るまでどこへも行かないよう鈴子に強く言い聞かせていたのだ。
「私も行くんですか?」
「ダメ?」
「必要ないかと・・・・」
隆司はそっと鈴子の手を握ってきた。隆司の手はひんやりとしている。その冷たさにさえ、鈴子の心は揺れてしまう。
「オレが寝るまででいいからさ。傍にいてほしいんだ」
迷子の子供のような心細い目で見てくる。鈴子が常に抱いていた危機感が少しずつ折れていく。
「柴田さんに連絡しないと」
「それならオレがしとくよ。事務所に電話するついでに紫音にも伝えてもらうよう言っておくし」
「・・・・わかりました」
鈴子はついに言うことをきいてしまった。隆司が電話をしている間に隆司と自分の荷物をまとめておく。せめて紫音にだけでも自分で連絡をとろうかと悩んだが、打ち合わせ中に悪いと思いやめてしまった。
この時ためらわずに電話をかけていたら、きっと結果は違っていただろう。すべては隆司の思うままに動いていく。
下の駐車場に着くと、隆司は迷わず一台の車に鈴子を乗せた。運転席には知らない男の人が座っていた。事務所の人間全てを把握しているわけではない鈴子はたいして気にしなかった。お互い軽く会釈を交わしただけで会話もない。
「よろしくね」
隆司の言葉に短く答えて、男は車を出した。鈴子は隆司の家を知らない。実家を出て一人暮らしをしているようだが、これだけの人物だ。いいところに住んでいるだろう。
移動中、隆司は鈴子の肩にもたれながら軽く眠っていた。こうして見るとまるで子供だ。人を傷付けることの罪深さを知らない、幼い子供。かわいらしいという言葉だけでは済まされない、大人になれない隆司。
(鈴子、ごめんね。でもさ、悪いのは君なんだ・・・)
打ち合わせを終えて戻ってきた紫音は、空の楽屋を見て愕然とした。二人の姿も荷物もない。足先から血の気が引いていくのを感じた。
隆司の様子がおかしいことはわかっていた。あれが演技でなければいいと思っていた。だが、こうして二人がいないところからすると、隆司が鈴子を連れ出すために計画したことだったというのがわかる。
もっときつく言っておくべきだった。隆司はそんなに簡単に変わらないのだということをしっかり擦り込んでおくべきだった。
ほどなくして柴田も戻ってきた。同じく二人がいないことに驚く。
「隆司が長屋を連れていった・・・」
「いったいどこへ?」
「それがわかれば苦労はしないですよ」
「司さん、長屋さんにいったい何を・・・」
それもわからない。危ない目に合っていることだけは確かだと紫音は思っていた。だが柴田は素直に受け入れられないようである。おそらく隆司が鈴子にだけは心を開きかけているとでも思っていたのだろう。まだまだ甘い。
「とにかく探しましょう。連絡がとれない以上探すしかないですから」
「そうですね。じゃあ僕は他の仕事場から自宅まで車で回ってみます」
「お願いします。俺は局内を回ってみますから」
二人は楽屋を後にした。
結局守ってやれない。自分のせいで巻き込まれ、連れ回されて捨てられる。隆司が憎いのは鈴子ではないのに。もしかしたら鈴子には本当に心を許しかけていたのかもしれない。でも紫音と鈴子に繋がりがあるから、自分だけのものにできないジレンマで爆発してしまったのかもしれない。
どうしてこんなにもうまくいかないのだろうか。紫音は長い廊下を走りながら、隆司の心の闇の中を走っているような気分になっていた。