16.鳥かごの中へ
「なんでお前はそうなんだ」
前にも同じセリフを聞いた気がする。今度は静かに、責めるというよりなだめるような感じで紫音は言った。鈴子は黙ったままだ。
「なんで何も言い返してこないんだよ」
紫音はいつものように反論してほしかった。自分は悪くないと言わんばかりの態度で挑んできてほしかった。だが、鈴子は冷たい目をしたまま何も言わない。
「お前が自分から飛び込んだのか?それとも隆司に何か言われたかされたかしたのか?」
間違いなく後者だということは紫音にはわかっていた。それを敢えて聞いたのは鈴子の気持ちを知りたかったからだ。だが鈴子は心を閉ざしてしまっていた。なんともいえない悲しい目で紫音を見るだけだ。
「わかったよ。もう聞かない」
紫音は鈴子の頭を撫でた。初めてしたかもしれなかった。
「でも、お前はもっと自分を大切にしなきゃいけないよ」
「わかってる・・・」
事情を聞かされた愛海たちはとても心配していたが、契約した以上仕事はきっちりしなくてはいけない。休みの日曜日、二人は朝から隆司の待つ仕事場に向かっていた。
「あいつはいったい何をさせるつもりなんだろうな。まぁ、バイトの感覚で気楽にな」
背中を押されて楽屋に入ると、いきなり隆司が飛びついてきた。
「おはよぉ、鈴子」
「おっ、おはようございます・・・」
こっちこっちと、隆司は鈴子を強引に引っ張り、自分の隣に座らせると今日の台本を見せはじめた。鈴子は完全に戸惑っていたが、とりあえず隆司の話を聞いて相づちを打っている。
「なんだ、あれ」
マネージャーの柴田が紫音の傍へやってくる。
「正直、何を考えてるのかわからないんです。第二マネージャーなんて事務所への言い訳みたいなもんで、ただ傍に置いときたいだけっていうか」
「長屋は簡単には落ちないからな。新しい女の落とし方なのかも・・・」
鈴子が傷付かないかだけが心配だ。思いがけず芸能界に片足を突っ込んでしまったが、あくまでも一般人だ。ここでの恋愛は危険も多い。
「司さん、そろそろ準備をお願いします」
紫音の準備が整ったので柴田が声をかけにいく。隆司は残念そうに、しぶしぶ鈴子の隣から離れた。
やっと解放された鈴子は肩の力を抜いた。相手の真意が読めないせいで気を抜けない。
鏡の前に座った隆司は後ろに立つ紫音の顔を鏡越しにうかがっている。
「どうした?」
「それはこっちのセリフ。心配なの?顔に出てるよ」
「そんなことはない・・・」
「大丈夫だよ、何もしないから。今のところはね」
今のところはということは後々は何かするということだ。そんな言葉で安心できるはずがない。
「なんで長屋なんだ?」
紫音には疑問だった。なぜ夏芽ではなく鈴子なのか。ドラマでの一件は鈴子の挑発のせいもあるのでわからなくもないが、その後も隆司が鈴子に執着する理由がわからない。
「なんでかな。なんとなく、おもしろそうだなって思ったんだ」
「あいつはおもちゃじゃない」
「そうだね。おもちゃは泣いたり苦しんだりしないもんね」
隆司はぞっとするほど冷たい目で紫音を見ていた。お前が悪いんだ。紫音には隆司がそう言っているように感じた。お前が他の人間ばかり見ているから誰かが傷付くことになるんだと。
「そんな恐い顔しないでよ。まだ泣かしてもいないんだしさ」
さらりと言って、爽やかに笑いかけてくる。紫音のハサミを持つ手が微かに震えた。
その頃鈴子は、二人が恐ろしい会話をしていることなど知らずに、柴田と仕事の話をしていた。柴田は司のスケジュールを見せて今日の仕事の流れを伝える。
「あの、これ一日分ですよね」
「ええ」
「一週間の間違いじゃ・・・ないですよね」
びっしりと予定の書き込まれた紙を前に、鈴子は何度も瞬きをする。いったいどこで休憩するのだろう。お昼の時間も書いていない。
「なんせ人気俳優なもので」
「そりゃそうですけど」
これだけの仕事量を毎日こなして平気な顔をしている隆司が、次元の違う生き物に見えてきた。鈴子にちょっかいを出したり、紫音を束縛したりしている場合ではないだろうに。天才なのか、それとも理解の範疇を超えて狂っているのか、もはやわからない。
「これで学校も行ってるんですよね」
「まだ高校生ですからね。授業はだいぶ免除されてますが、その代わりレポート出したり小テストしたり、結構勉強してるんですよ」
隆司の見方が変わりそうになっている自分に言い聞かせる。これくらいのことで流されてはいけない。どれだけすごい人でも、紫音を傷付けていいわけではない。
柴田はスケジュール表の中に、鈴子のできそうな仕事を書き込んでいく。車の運転もできないし、紫音のようにスタイリングの技術もない鈴子には、荷物を運んだり隆司の身の回りのちょっとしたお世話くらいしかできそうなことはなかった。自分の必要性を感じられない鈴子に、初めはそんなもんですよと、柴田は優しく言ってくれた。
「お役に立てればいいんですけど」
「そんなに深く考えなくても大丈夫ですよ。長屋さんがいるだけで司さんは機嫌がいいみたいですし、それだけでも十分です」
スタイリングを終えた隆司が二人の方へやってきた。
「ねぇねぇ、どう?鈴子はこういうの嫌い?」
ドラマ撮影での爽やかな雰囲気とは違い、スーツを着くずして髪にメッシュを入れた隆司はワイルドな印象だった。ずいぶんと年上に見える。
悔しいがかっこいい。元がいいうえに紫音の手が加わっているのだ。当然といえば当然だが、素直に受け入れられないのが鈴子である。
「よく似合ってると思います」
「好きか嫌いかって聞いてるんだよ」
「・・・わかりません」
「なに、それぇ」
隆司はがっくりとうなだれてしまった。プライドを傷付けてしまったのかと思い、鈴子は慌てて言い直す。
「いや、あの、好きです。かっこいいと思います」
隆司は顔を上げるとにっこり笑った。思わずどきりとしてしまう。
「よかった。ありがとね、紫音。じゃあ行ってくる」
柴田を連れて楽屋を出ていく隆司。後には紫音と鈴子が残された。
「いつもあんな感じなの?」
「機嫌のいいときはあんな感じだ」
じゃあ悪いときは、とは聞かなかった。鈴子にはなんとなくわかる。
「えっと、私の仕事は・・・」
柴田の書いてくれた紙を見る。この時間で、次の仕事の衣装を準備するようだ。
「あぁ、それなら今頃下の受付に届いてるはずだから、一緒に行くよ。まだ局内に詳しくないだろ」
「ありがと。助かる」
二人も間もなくして楽屋から出ていった。
それからというもの、鈴子は一生懸命働いた。学校優先なので毎日とはいかないが、それでも柴田や事務所とはまめに連絡をとり、仕事もどんどん覚えていった。
鈴子にはひとつの思いがあった。不本意な形で仕事をすることになった身だが、だからといって手を抜くことは許されないし許せない。超人気俳優の傍で働く人間が恥ずかしい仕事ぶりをしてはいけないと、自分に言い聞かせていた。
もう一ヶ月近く経つが、隆司は相変わらず機嫌がいいままだし、紫音が傷付けられている様子もない。うっとうしいくらいまとわりついてくる隆司にも少しずつ慣れてきた。
このままの状態が続けばどんなにいいだろう。だが、そんなわけがないことを紫音は知っている。隆司は鈴子の警戒心が完全に解けるのをじっと待っているに違いない。
精神が不安定で気分はころころ変わるが、一度決めたことはたとえ長期戦になろうとも必ずやり切るしつこさを隆司は持っている。鈴子のことも紫音のことも、もしかしたら夏芽のことだって諦めていないかもしれない。 今の鈴子は必要以上に隆司に近付きすぎている。いつか何かが起こったとき、紫音には守れるか自信がなかった。俺が必ず守ってやる。そう面と向かって言い切れない弱さにはがゆい気持ちになる。
「紫音さん?」
声をかけられてはっとする。目の前には夏芽がいた。
「大丈夫ですか?最近ぼうっとしていることが多いような気がします。疲れているんじゃないですか?」
「そう・・・なのかもしれないな」
心配そうに見つめてくる夏芽はやはりあどけない。鈴子の指摘でスカートの丈は若干短くなったが、相変わらずのおさげに眼鏡だ。
「私でお役に立てることがあれば言ってください」
「いや・・・・」
断ろうとして考える。夏芽なりに心配してくれているのだ。
「じゃあ肩でも叩いてもらおうかな」
「はい。喜んで。私、おばあちゃんの肩叩きはよくしてるんで、自信あります」
何の自信だと心の中で突っ込んで、小さな手の感触を肩に感じて目を閉じる。その様を見て愛海は苦笑いだ。
「紫音、なんかじじ臭いよ」
「うるさい。俺はお前らみたいに若くないんだよ」
「何言ってんのよ。同い年のくせに」
「なんかご主人様とメイドの構図ですよね」
優磨の発言にみんな妙に納得してしまう。
(夏芽ちゃんてメイド喫茶で働いたらすごい人気出るかも)
想像するだけで恐ろしい。未知の可能性にあふれた存在だ。
「夏芽ちゃん、今度メイド服着て肩叩きしなよ。意外と紫音好きかもよ」
「バカ言うな。夏芽も真に受けるな」
紫音の言葉など完全に無視して、愛海たちはメイドの話で盛り上がりはじめた。ため息混じりの紫音の顔には、それでも笑みが浮かぶ。
みんな大切な仲間だ。みんなを守りたい。でも、隆司も大切な実の兄だ。隆司だって守ってやりたい。
自分が本当に大切にしたいのは誰なのか。その人を守るために誰かを傷付けなければいけないとしたら、誰を選ぶのか。今の紫音にはまだ見えなかった。