その壁を越えて(2)
愛海が休んでいることはどこからともなく耳に入っていた。全く気にならないといったら嘘になるが、心はさして痛まない。
(あんな子が海人くんにふさわしいわけがないじゃない。前から目障りだったしいい気味よ)
自慢のストレートヘアをかき上げて席を立つ。なんだか廊下が騒がしい。自分も目を向けてみると、海人が廊下にいた。ここは三年の教室が並ぶ階だ。一年の海人が姿を現すこと自体が珍しい。
しかも、なんということか。海人が教室に入ってくるではないか。
「すいません。佐川先輩はいますか?」
(えっ、ええぇ?わ、私に用がっ?)
今までではあり得なかった出来事に、戸惑って無言で手を挙げる。
「あぁ、よかった。ちょっといいですか?」
「もっ、もちろん」
海人はあくまでもにこやかだ。佐川は完全に舞い上がってしまっていた。愛海にした仕打ちなど、まるっきり忘れてしまっている。
佐川は廊下の端の方まで連れ出された。海人と二人きりになる機会などそうそうあるものではない。
「すいません急に。佐川先輩、宮村愛海を知ってますよね」
「!」
佐川はいきなり現実に引き戻された気分だった。海人は自分たちのしたことを知って怒ってやってきたに違いない。自分の立場を利用して海人に助けを求めるなんて。佐川は心の中で悪態をついた。
「実は愛海から話をされて、ふられちゃったんです、俺」
「えぇ?海人くんが・・・?」
おそるおそる受け答えするせいで白々しくなる。思い通りになったことを喜んでいいのか、まだ判断ができない。
「それで気付いたんですよね。愛海より素敵な人は他にもいるのに、なんで愛海しか見てなかったんだろうって」
(そうよ。あんな子どこにでもいる子だわ)
「目が覚めて決めたんです。本当は前からちょっと気になってて・・・・その・・・、佐川先輩、よかったら俺とつき合いませんか?」
(え・・・・?)
佐川は自分の身に起こったことが理解できない。起こるはずのない奇跡が今起こっているのだ。夢か幻かと思う方がよっぽど現実味がある。
「ごめんなさい。もう一度言ってくれる?」
「俺、佐川先輩が好きなんです。愛海と別れてすぐだから、軽い男だと思われるかもしれないけど、よかったら仲良くしてもらえませんか?」
「そっ、そんな、軽いだなんて。私でいいの?」
「はい。佐川先輩さえよければ」
佐川はまさかあの出来事がこんな風に転がるなんて思ってもいなかった。望んではいたが、こうもあっさりと手に入るなんて、今年最後の神様からのプレゼントとしか思えない。
(もうクリスマスプレゼントなんていらないわ)
一人のファンから恋する乙女へと変貌した佐川は、もう海人しか見えなくなっていた。
一方、優磨は思いの外苦戦していた。ターゲットは黒木という三年の女子で、三人の中でも発言力のある人物だ。
優磨は持ち前の愛くるしさを存分に発揮して迫っているのだが、もともとが海人のファンということと、ファンの中でも影響力のある立場であるという自覚を持っていることが、黒木をなかなか折れさせない。心の内は優磨にメロメロになりかけていても、周りにはそうと思わせない、プライドの高い女だ。
「優磨くんの魅力に落ちないなんて、なかなかやるわね」
「あれはあれで優磨のファンに狙われるんじゃないか?」
「そうかも。でも、それじゃあ本来の目的は達成されないっていうか・・・」
屋上から、下校する黒木にアプローチする優磨の様子を見ていた鈴子は、険しい顔をしていた。なんだかおもしろくない。好きでもない女に何度もアタックさせて、優磨にも申し訳なくなってくる。本人は半分楽しんでやっているが、これでふられでもしたら汚名を着せることになってしまう。
「海人くんじゃなきゃ嫌だなんて、このぜいたく者」
「じゃあお前はホーリーナイトより冴えない教師が好きなんだから、変人だな」
「私のことはどうだっていいでしょ。今はあの女よ。まるで鉄の女ね」
(このまま任せておいても優磨なら大丈夫だろうが・・・・)
紫音は面倒だと思いながらも、やれることはやってやると公言した責任をとることに決めた。
「俺が優磨に加勢してやる」
「ちょっと待ってよ。もう一人いるのよ、愛海をやった奴は」
「あのな、三人を三人とも落としてどうするんだ?」
鈴子は言われてはっとした。三人ともがホーリーナイトとつき合ったら、よかったねぇで終わってしまうではないか。三人のうちの一人だけがいい思いをするか、または一人だけがとり残されるか。そのどちらかでなければ不和を招く作戦とはいえない。
紫音は影響力の高い黒木を、海人以外のホーリーナイトが迫ることで、完全に孤立させようと考えているのだ。
「あんた結構策士ね」
「お前が抜けてるだけだ」
「なによ」
鈴子の携帯が鳴った。ぶすっとしたまま画面を見る。
「愛海からのメールだ。明日は学校来るって」
「じゃあ朝早くに屋上に来るように伝えておけ。準備しておく」
「それって・・・」
「特別サービスだからな」
「うわぁ、私も来ていい?」
「なんでお前も来るんだよ」
「だって見てみたいんだもん。紫音の腕は本物なのか確かめたいし」
「・・・勝手にしろ」
(さて、明日からは私も大変になるわね)
次の日の朝、屋上にはみんなが勢揃いしていた。
「なんで関係ない奴が来てるんだ」
「まぁまぁ、いいじゃない」
屋上には海人と優磨だけでなく、翔子まで来ていた。
「今からショーをするわけじゃないんだぞ」
「みんな紫音の仕事ぶりに興味があるのよ」
「私は恥ずかしいよ・・・」
コートのフードで頭を隠して登校した愛海は、今もフードをかぶったままだ。いつも髪型なんてそこまで気にしたことがなかったが、不本意な状態になるとこんなにも気になるとは思っていなかった。
「さっさと済ませるぞ」
紫音はお構い無しにフードを外す。下から別人のような愛海の姿が表れた。誰が見ても下手な切り方だった。
「これはひどい・・・」
自分で切ったわけでもないのに、責められているような気になって愛海はうつむいてしまう。紫音は黙ってカットの準備を始めた。
「紫音、ごめんね」
「なんで宮村が謝るんだ。おしゃれにってわけにはいかないが、ちょっとはましにしてやるよ」
紫音はしばらく考えていたかと思うと、おもむろにハサミを握って躊躇うことなく髪を切り始めた。耳元でハサミの音がする。あのときとは音が全然違うが、嫌な光景を思い出してしまい、愛海はぎゅっと目をつむった。無意識に手を固く握りあわせる。
その様子に気付いた紫音は、海人に目配せした。すぐに海人が愛海の前に回り込む。
「愛海、大丈夫?」
海人は愛海の手を包み込む。はっとして開いた目には、不安の色が揺れていた。
「ごめん。もう平気なはずだったんだけど・・・」
「仕方ないよ。終わるまで手握ってるから、もっとリラックスして」
「うん。紫音が髪切ってくれるんだもんね。もっと喜ばなきゃ」
一生懸命笑おうとするがうまくいかない。
(これは相当くらってるな)
ここまで弱っている愛海を紫音は見たことがない。手を止めることなく動かしながら、今後のことも考えて今回できっちり片を付ける必要があるなと思った。
紫音の仕事はさすがだった。鏡に映して確かめることもなく、さっさと切り終えてワックスで髪型を整える。少し癖のある愛海の髪は軽くなったために所々跳ねてしまう。それをわざと散らしているようにうまくスタイリングする。
「手入れがちょっと大変かもしれないが、もう少し伸びるまでは俺が毎朝やってやるから。俺がいない日は長屋に頼め。あいつも手先は器用な方だからできるだろう」
「わぁ、すごいよ紫音。雑誌で見たことある髪型みたい」
全て終わった状態で鏡を渡される。覗き込んだ愛海は完成度の高さに歓喜の声をあげた。周りで見ていたみんなも紫音の腕の高さに感心するばかりだ。
「本物だったのね」
「疑ってたのかよ」
「だって高校生で司の専属スタイリストなんて、仕事場見たことない人間にとったら怪しい話じゃない」
「愛海、かわいい。短い髪も似合ってるよ」
「海人・・・」
少し前まで自分にまとわりつく海人を、早く現実を見て離れていけばいいのにと思っていたのに、今は何があっても離れていかない海人に安心している。
本気で不安だった。こんな自分を見て海人は嫌いにならないだろうか。離れていってしまわないだろうか。周りの圧力に耐えたとしても、海人の心が冷めてしまったら自分ではどうすることもできない。その不安に気付かされたのだ。
「さ、教室行こ」
「では私も自分の学校へ帰ります。今日はいいものを見せてもらいました」
「宮村、いつもどおりにしてればいい。お前のことは広まってるが、だからってみんながみんな態度を変えるわけじゃない。特にうちのクラスの奴らは普段と変わらずだろう」
「そうそう。私もずっと傍にいるし」
「みんな、ありがと」
愛海の笑顔に少し元気が戻った。それぞれの思いを胸に屋上から出ていく。途中で愛海は翔子を引き止めた。
「翔子さん、ちょっとお願いがあるんだけど・・・」
「?」