10.すれ違いの果ての約束
このままではいけない。そんな強い思いが愛海を動かした。
今愛海は優磨と屋上で向かい合っている。だいぶ寒くなってきた。風がないのでまだましに感じるが、セーターなしではとても立っていられない。
「なんですか、話って。やっぱり海人君はやめて僕にするって話ならうれしいんですけど」
優磨はもう愛海の前で初めて会ったときのような可愛らしさを振りまくことはしなくなった。これが本当の姿かと今更実感する。
「そんな風に茶化さないで。そもそも優くんは私のことが好きだったわけじゃないでしょ」
「好きでしたよ」
「嘘よ。誰でもよかったんじゃない」
「宮村先輩。傷心の僕を更に傷付けるために呼んだんですか?」
「えっ、それは違うよ・・・。ごめん」
(おいおい、優磨くんのペースに乗せられてどうする)
屋上のドアのところに隠れて様子を見ている鈴子は思わず突っ込みたくなった。すぐ側には海人と翔子もいる。
今回の作戦では、優磨の本心を愛海が聞き出し、翔子への想いを口にした時点で本人が飛び出す、はずだった。だが、口のうまさでは優磨の方が上だ。いつの間にか愛海の方が問いただされそうになっている。
「まぁいいですよ。宮村先輩が海人君を好きなことはわかってましたから」 「えっ、いつから?」
「いつからって・・・かなり前から。だってわかりやすいですもん。海人君がそんなにいいですか?僕でもあんまり変わらないような気がしたんだけどなぁ」
「かっ、海人は優くんと違って一途だもん・・・」
「僕だって一途ですよ。宮村先輩だけです。これから証明してみせますから、そうしたら好きになってくれますか?」
「それは・・・」
なんと答えていいか考えすぎて言葉を詰まらせる。そんな愛海を見兼ねて飛び出そうとする海人を、鈴子が抑えつけた。
「あんたが出ていくとこじゃないでしょ」
「だって愛海が困ってるのに・・・」
「あんたが出ていったらわざわざ作ったこの場が台無しになっちゃうでしょうが。それに、心配しなくても愛海はちゃんと海人くんのことが好きだから、何言われても気持ちが変わることはないわよ」
鈴子に言われると不思議と安心する。飛び掛かりそうな勢いだった海人は、静かにもとの位置に戻っておとなしくなった。
「愛海さんからお話は聞いていましたが、さすがですね」
翔子が側から尊敬の眼差しを向けてくる。
「愛海がなんて?」
「鈴子さんはホーリーナイトの扱いに関してはとにかく凄いと」
(人を猛獣使いみたいに言わないでよね)
愛海には後で一言言ってやらねば。
「そういうことじゃないんですよね。わかってます」
「優くん・・・・」
鈴子たちのやり取りをよそにあちらでは話が進んでいた。
「僕がどれだけ海人君と張り合ってみても、勝てるわけがないんですよね。だって、僕は僕でしかないんですから。海人君に成り代わろうとしても、代われるわけがないんです」
「でも、だからこそ優くんにしかない良さもあるんだと思うよ」
「それ、慰めてるんですか?」
「違うよ。私は嫌いじゃないよって言いたいだけ」
「でも好きになってくれなきゃ意味ないですよ。僕の本当の姿なんて、きっと誰も好きにならない。みんなが好きになるのは、僕の演じる竜崎優磨だけなんです」
「そんなことないよ」 「そんなことないっ」
声が重なった。びっくりして振り返ると、たまらず飛び出してきた翔子が拳を握り締めて立っていた。
「翔子・・・?」
(翔子さん、まだ出てくるタイミングじゃないのに)
陰では鈴子も頭を抱えていた。こうなったらもう計画なんてどうでもいい。行くところまで行くまでだ。
「なんでお前がここにいるんだよ。宮村先輩が呼んだんですか」
「違うの、優磨。私が愛海さんにお願いしたの」
「お前何考えてんだ。またおじさんに何か言われたんだろ」
「違う。そうじゃないよ」
優磨は聞く耳を持たない様子だ。あまりに冷たくあしらおうとするので、愛海はどぎまぎした。割って入るべきか判断がつかない。
「ちゃんと話がしたくて」
「お前と話すことなんてない。さっさと帰れよ」
「ちょっと、優くんっ」
あまりのひどい対応にたまらず口を出した愛海を、翔子は冷静に遮った。
「いいんです愛海さん。優磨、私は自分の意志でここに来ているの。誰かに何か言われたわけじゃないわ」
「ならその話とかいうのを早くして、さっさと帰れ。もう僕に関わるな」
「関わらないわけにはいかないでしょ。だって私たち・・・」
「いいなずけだとでも言いたいのかよ」
鼻で笑うような言い方に、愛海も翔子も耳を疑った。翔子が唯一すがっていた契が、軽く笑い飛ばされてしまう。
「あんな昔の口約束、今じゃないも同然だろ。そもそもいいなずけの話は神崎の方から言ってきたんだ。あの頃は竜崎の方が上だったけど、今は神崎の方が財力も権力も上だ。お前が嫌だと言えばあんな約束いつでもなかったことにできる」
かつて神崎グループは資金繰りに困っていた時期があった。そのときに助けたのが竜崎家であり、当時仲の良かった二人をいいなずけとすることは、翔子を担保とする意味も含まれていたのだ。もちろん幼い二人に大人の事情などわからない。だが、大きくなるにつれ神崎グループも成長し、優磨と翔子の立場も変わってしまった。今なら神崎社長の一声で竜崎との約束などどうとでもできる。
「もう父親の言いなりになる必要なんてないんだ。竜崎との約束に縛られることもない。お前はもう自由なんだよ」
「私だってバカじゃないもの。そんなこと知ってるわよ」
「ならもう僕に関わるな。僕と関わっても神崎には何の得にもならない」
「損とか得とか・・・」
冷静だった翔子から突然大粒の涙が零れた。思わずぎょっとする愛海の目の前で、翔子は本気のパンチをおみまいした。当たる寸前で優磨は受けとめる。
「そんなことで私は動かないわよっ」
「お前、本気で殴るのやめろよ!さすがに僕でも骨が折れる」
「うるさいっ、バカ、わからずや!」
翔子は蹴ったり殴ったり、泣きながら優磨を攻めまくる。令嬢とは思えない豪快さと身のこなしだ。それらをよけたり受けとめたりと、応じる優磨も普通ではない。
急な展開に、愛海はもちろん、陰の鈴子と海人もきょとんとしてしまっていた。
「鈴子さん、あれってなんですかね・・・」
「さぁ。新しい愛のかたちなんじゃない?」
「俺には真似できないなぁ」
(絶対真似するな!愛海が死ぬ)
間に入ることもできずに見守るしかない愛海。目の前では激しい攻防戦が続いている。翔子は泣きながらということもあってか、段々と息があがってきている。それを見て、優磨は心を決めた。
「あぁ、もう。めんどくせぇな!」
一瞬の隙をついて懐に入り込むと、襟と腕を取って鮮やかに投げ飛ばした。翔子の体は宙を舞い、コンクリートの上に落ちた。どすんっと痛い音がする。その場はしんと静まり返った。
「優磨・・・・負けたわ」
「負けたわ・・・・じゃない!なんなんだお前はっ。空手やってる人間が本気でやるなんて殺人行為だぞ」
「だって・・・」
「だってじゃない!」
「・・・ごめんなさい」
疲れた優磨も倒れこむように寝転がって空を仰いだ。雲ひとつない空は、冬を間近に控えて薄く色付いていた。
「気は済んだか?」
「いいえ。まだ伝えていないことがあるもの」
「なんだよ」
「私は・・・私は優磨が好き。優磨以外の人なんて、今まで一度だって見てこなかった。お父様に言わされてるわけじゃないのよ。これが私の意志であり、本当の気持ちなの」
「お前、僕がしてきたこと忘れたわけじゃないだろ?」
「ええ。あなたがおつき合いしてきた人全員、顔も名前も完璧に覚えているわ。すごく嫌だったし、何回も泣いたわ。その度に空手に打ち込んで・・・おかげでこんなに強くなっちゃった」
優磨はその事実に驚いていた。自分のしたことで翔子に少なからずショックを与えるのはわかっていた。だが泣くとまでは思っていなかったのだ。
そもそも優磨が彼女をつくり出したのは、翔子がきっかけだった。大きくなるにつれ、立場の入れ替わっていく竜崎と神崎。それにともなってどんどん美しく成長する翔子。そんな翔子に恋心を抱く男たちは、桜蘭学園だけでもあまるほどにいた。だがそんな男たちの申し出を、翔子はことごとく断り続けた。全て優磨のために。
それを知った優磨は翔子の気持ちを冷めさせるために、わざと違う子に手を出し始めたのだ。翔子の気持ちが冷め、神崎からいいなずけの解消を申し出れば、約束はなかったことになる。そうなれば翔子は自由に相手を選ぶことができるし、自分に縛られることもない。幼い頃資金の担保に捧げられたはずの彼女は、自分で羽ばたけるほどの美貌と強さを身につけていた。もう優磨の腕の中には納まりきらない。
「バカ・・・。僕のことなんかで泣くな・・・」
「仕方ないでしょ。人は辛い思いをすると涙が出るものなのよ」
翔子は泣こうが喚こうが、辛かろうが悲しかろうが、決して優磨から離れようとしない。優磨と生涯を共にする、それが翔子の全てだった。
「でも、どれだけ泣くことになっても構わないの。優磨がどこでなにをしようと、最後には私と一緒になってくれるって信じてたらずっと強くいられるの」
「やめろよ。そんなつまらない人生歩くなよ。翔子にはもっとふさわしい奴が他にいる」
「今まではいなかったわ。優磨以外の人のことを考えて胸が苦しくなることなんてなかったもの。ときめきも、喜びも悲しみも、私の感情全部、優磨がいなくちゃないのと一緒だわ」
「どこでそんなセリフ覚えてくるんだ。恥ずかしい奴・・・・」
優磨は起き上がった。照れ臭さが顔に出ている。
「何度も言うけど、今の僕と一緒になってもなんにもいいことなんてないぞ」
「いいか悪いかは私が決めるわ」
「翔子は神崎家の長女で僕は竜崎家の三男だ。竜崎家からしたら、なんの権力も継げないあまり者をあてがってるような失礼な話なんだぞ」
「うちの会社だって弟が継ぐんだもの、私だってあまり者よ。それに、優磨のお兄さんたちとなんて考えたこともないし、考えたくもないわ」
「おい、その言い方は兄さんたちに失礼だろ・・・」
「やだっ、私ったら」
翔子もがばっと起き上がった。今更だが口を押さえる。ちらりと見たら優磨と目が合った。
「優磨・・・?」
「バカっ、見るなよ」
優磨は慌てて顔を背ける。その目には確かに涙が浮かんでいた。
桜蘭学園での三年間で、優磨は完全に心を失ったと思っていた。愛とか恋とか本気でどうでもよかった。はじめのうちは翔子に対する後ろめたさで眠れない夜もあったほどだった。それが段々と慣れ、翔子の姿を見ても何も感じなくなり、完全なる抜け殻の自分ができあがった。どれだけ綺麗な子を抱いても、優しい彼女の笑顔を見ても、ぴくりとも心が動かなくなっていた。いつも相手との距離を的確に計りながら外れのない竜崎優磨を演じ、疲れてくるとあっさりと関係を切った。
それなのに、今優磨の胸は熱い感情で激しく揺さ振られている。無くしたわけではなかった。眠らせていただけなのだと実感する。
目覚めた感情は収まることを知らず、優磨の目を熱くする。
「優磨」
「なんなんだよ・・・。こんなのめちゃくちゃかっこ悪いじゃんか」
翔子はそっと優磨の後ろに回ると、ふわりと包み込むように腕をまわした。
「家の存在が重いなら、神崎の名なんて捨てても全然かまわないのよ」
「バカ言うな・・・」
優磨はすぐ後ろにいる翔子の頭を優しく撫でる。おかしなことなど考えずに、こうしてずっと傍にいればよかった。
「お前が神崎家の娘じゃなきゃ、いいなずけの効力がなくなるだろうが」
「優磨・・・」
翔子はあまりのうれしさに頬を上気させて、優磨の顔をつかんで引き寄せるとキスをした。
「なんかデンジャラスなカップルだね」
鈴子たちのところに合流した愛海は、遠目に眺めながら呟く。
「お似合いなんだかどうなんだか」
「でも、これからもいろいろ大変そうだよね、あの二人」
「大丈夫だよ。いや、大丈夫でいてくれなきゃ困る」
「なんで海人が困るのよ」
「だってあの二人が別れたりしたら、また愛海のところに来るかもしれないじゃないか」
「そんなこと心配してるの?」
「だって本気でとられるんじゃないかって思ったりしたんだよ?」
「はいはい。よくがんばりました」
鈴子に頭を撫でられて、海人はぶすっとした。子供扱いというより子犬扱いだ。
その様子がおかしくて、愛海は軽く笑った。海人が拗ねるといけないので、優磨にちょっとだけドキドキしてしまった事実は秘密にしておくことにした。