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人間風情  作者: 四円
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月を頼りに

竹は幅の広い鉢植えに密集して栄え、今や家の二階に届くんじゃないかと言うくらいまで伸びていたが、鉢植えではここが成長の打ち止めだと彼は既に分かっていた。

三日おきくらいに、土が乾いた頃にジョウロを傾けて充分な水をやる。

庭にある植物は竹のみであり、水を与え終わるとジョウロもサンダルもテラスに置いて、窓から室内に戻った。


点けっぱなしにしていたテレビ。

『この夏、去年の感動がまた蘇る──』

耳に入る言葉が頭で突っかえる、落ちぶれた彼に現代広告は痛く突き刺さる。

家の中さえ針のむしろだ。

広告も、報道も、文化も芸術も何もかも。

棚のマグカップ、冷蔵庫も、生活のどれに至るまで、そう感じながらも日が暮れるまでの時間を幻想小説を読んで過ごした。


その日は仄かに蒸し暑く身体から熱が抜けなくて、本を閉じて窓辺に座り込んで薄く入り込んでくるすきま風を感じていた。

呼吸するように自動で換気や温度の調節を行う、生きている家だ。

薄暗がりの庭に悠然と過ごす竹を悄然と眺める、日頃から放任主義の彼に独り言を呟く。

『ご覧ください!ぞろぞろと妖怪楽団が行列を作って歩いています!今夜の百鬼夜行もまた一段と大賑わいになりそうです!』

目を向けずとも妖怪を礼賛するテレビ番組だろうと分かる。

窓からテラスを通してオレンジ色に染まる空が見えて、彼は立ち上がって支度を始める。

ハンガーに吊るされた暗く渋い紅紫のレインコート、金色の刺繍が控えめにされた袖、いつものようにそれを着て家を発つ。


荒い呼吸で、腕を思うがままに振り抜き、幾度となく地面を強く蹴って、彼は土手の風を切って進んでいた。

空はぼんやりと白く、既に東からくすんだ青の色を深めていく。

空に点灯する機械は川沿いまで途切れているので、その端の灯りは網の目が粗いようであった。

街灯に照らされた地面が等間隔ながら、距離が顕著に遠ざかっていった。

ピピピピ…と静かに鳴り出した腕時計のアラーム。

三十分の経過を知らせるもので、彼はゆっくりと足を止めていく。

眼前には自動車が行き交っていて、左を見れば巨大な河川に架かる橋で、時間内にここまで辿り着けるようになった。

あの日から毎日決まった時間に土手をジョギングしていた。

とは言えど、今やジョギングと呼べるほど体の良いものでもなく、現在その実情は遮二無二ひた走る狂人に過ぎない。

ただ昔に戻ったみたいに、時計通りの日々を過ごす。

それがなければ人としての暮らしが成り立たなかった。

時速五十キロで目の前を過ぎる自動車の列が眩しくて仕方なく、踵を返して歩き出した彼は、視線が向かった路傍の花は鏡の破片のようだった。

それを見ると、自分が惨めに思えて、またどうにもしようがなくなった。

長い長い土手を引き戻される。

河川に架かる橋を斜めに見て、彼はやるせない寂寥感を襟まで垂れ流しながら思うのだ──




以前、彼女と出会った所に着くと、またあの水際で黒い服を着た彼女が茫然自失に入っている様子を見つけた。

およそ一ヶ月ぶりのことながら、彼はもう忘れられているんじゃないかと言う思いでその場所へ降りるのを躊躇っていた。

ふと、白く小さな花弁の群が爆ぜるように舞い散っていて、こちらの方へと流れ、男はそれに目を取られて、振り返った先の長い長い堤防の道から月盛りは暈の幻惑にまで遠ざかり、もう見えなくなった。

顔を戻すと彼女がこちらを向いていて、目が合って、少しして、彼女はやにわに膝を折り、俯き、しゃがみ込んだ。

男は堪らず駆け寄って、彼女の肩を優しく叩いた。


「どうした?何があった?」

彼が聞くと、首を振って黙りこくる。

しかし夜の孤独な静けさの隙間で咽び泣く声が確かに漏れ出て、彼はその背を摩り、落ち着かせながら、じっと彼女の言葉を待った。

その時、浅瀬の石の上に落ちたきらきらとした光の反射を見ながら、彼女の嗚咽が何度も聞こえる。

深呼吸をするにも上手く息が吸えずに突っかえた後で、

「どこか遠くへ行きたい」

そう消え入りそうな声を吐き出した。



彼は博士を連れて列車に乗ったことを思い出しながら、紺のレインコートを小さく畳んでバッグにしまった。

乗っていることすら忘れてしまいそうな揺れのない列車の中、向かいの席で彼女の目はまだ少し赤かった。

ぼんやりと大きな窓の先、流れゆく人々の光景を見るようだった。

艶のある長い髪を低い位置で一つ結びにしていて、座高は彼よりも少し低い、思えばいくつくらいなのだろうか、そんなことを考えていた所、あまりに凝視されていた為か彼女は目を合わせた。

遅らせて目線を外すものの、沈黙が彼を刺して居たたまれない気持ちから渋々口を開かせる。


「あー…言いたくないならいいんだが、何があったか聞いても?」

すると彼女は目を伏せて俯き、しばらくしてから首を振った。

「・・・ごめんなさい」

「いや、全然」


彼はそう言うが、これ以上の場を保つ方法が乏しい現状に内心では焦っていた。

するとそんなことを察したのか「あの」と彼女の方から声がかかった。


「不老不死って・・・」

その言葉に博士の死がフラッシュバックして、彼は心臓をごっそりと掻きむしられる。

堪える時間があった、それは彼女はそこまで言いながら今は口を噤んでいたからだ。

彼女は瞳孔が開いた彼と目を合わせてから特別言い直した。


「どうして、不老不死の研究をやりたいと思ったんですか」

「え?」

「もっと、あなたの話を聞きたいです」

「俺の話?どうして?」

「人の話を聞くのが好きなんです。冗談でもいいですから」

内心、ずるいなと思いながらも、彼は話し始めた。


「人生で何か一つでも好きを貫かないといけなかったから」

「何となく納得できますね、それ」

「ただの親からの受け売りだよ…。暗黒期に就業した人間だからそれを鼻にかけているんだ。それを抜きにしても、俺にはこれしかなかったから。研究だけが人生で、それ以外のことは何も出来ない。それだけだよ」

ただそれでも、その道にすら人間であることを否定された。


「不老不死は、俺の尊敬している人の為の研究なんだ」

彼の耳には未だ深い所で指導者の声が残響し、網膜に焼き付いている。


「その人はこれまで歴史的に多大な功績を打ち立てていて、理想を実現する力があって、それでもまだ永遠と巨大な理想を掲げ続けている。だから憧れていたんだ」

薄暗い部屋では厚手のカーテンには白い光が細々と遮断し切れずにいて、それと窓との隙間から差し込む日の光がテーブルの縁に落ちていた。

効きすぎた空調に寒気を覚え、シーツに縮こまりながらイヤホンを耳に差し、延々と指導者の音楽を聴いていた。


「──で、友人に不老不死研究に誘われて、当時発表した論文が認められたから、その人の近くで研究が出来るようになったんだ。まぁ…結果はあんな形に終わったけど。博士の件があっても…あの人はあの人のままだったよ。罪に迷わない人なんだ。けど俺のあの人への敬意は今も変わらないんだ…普通なら幻滅するのに」

「その人はどうして不老不死になりたかったんですか?」

「・・・平和の為に…」

そこで言葉を切って「そういえば」と繋ぐ。


『妖怪が丁度いいんだろうな。自由に生きて、好きに一生を終えられるんだから』──前に博士とそんな話をしたな。あの人もそうなんじゃないかな。結局、研究の行き着く所はそこくらいなものだよ」

彼女は目を大きくしていた。


「今は、あなたは、不老不死になりたい?」

「なりたくないよ」

自分でも驚くほど脊髄反射に言葉が出た。

その為か彼女も少し引いたような顔の引きつり方を見せていた。


「不老不死は人が手を出しちゃいけない領域だった」

それは自戒だった。

罪人がそんなものを望んではいけない。

人が手を伸ばすことすらしてはいけない。


「けど、あの人は誰よりもずっと大きなものを見ていたから、何もかも許されたような気になっていたんだ。実際は何も考えちゃいなかったんだな。最初から汚れていた癖に」

彼女の話を聞きたいと思っていたのに、いつの間にか宛のない心情ばかり溺れるほど吐き出していた。

そんな彼に彼女は言った。


「なら、一緒に地獄でも行きますか」

目を伏せて口元を小さく吊り上げた。

光が差しては途切れを繰り返し、彼女の肌の色が明滅する。


「冗談ですよ。でも、そんなような淵を歩きたい気分なんです」

前に会った時とはまるで別人みたいなことを言うものだから、彼は少々面食らってしまい「あぁ…」と形にならない反応しか示せやしなかった。

しかし彼にはどこ行く術もなく、既に道は踏み外した。

彼女はその先で思いもよらない所へ連れていってくれる、胡乱で甘く御伽噺に出てくる案内人みたいだと彼にはそう見えた。

あの河川からそうだったのだ。




一時間くらい二人は列車に背筋をさすられて、地方の中でも主要駅で下車した。

街並みは画一化されて近代的で、無機質な建築群の表面にはべったりと人の手でその生育を管理された植物が謳歌する。

どちらかが指針を示す訳でもなく、気の向くままに、人通りもそこそこの大通りを歩いた。

それから三叉路を曲がってシャッター街を抜けた脇道から、川に沿って歩いて広々とした公園の敷地を出れば、土蔵造りの古い景観が取り残された曳舟道が異世界を訪れたかのような心象を膨らます。


遊歩道と銘打たれるその風景は潺湲たる川に分かたれて堤防が敷かれ、こちら側は左が木の形を残した柵と右が黒い板塀の狭い幅員で、向こう側の方が枝垂れ柳に紫陽花とその間隔を縫ってレトロな街灯の白い円がふんわりと漂わせ、奥に古民家や食堂が軒を連ねる広そうな表の道だった。


「何だかいい所に来ましたね」

と彼女は川や対岸に目を向けて言った。

「こっちは彼岸だけどな。まるで死んでいるみたい」

言うも興感に包まれながらの彼に、彼女は少し笑って「風情がありますよ」と返した。

地獄の淵と言うにはまぁ浅い川だけど、と彼は思いながら気分はかなり夢見心地だった。

真四角の行灯が両岸に置かれ、淡い柑子の光は道路鋲となってずっと向こうの石橋まで続いていた。


「昔、友人と将来はどうやって死ぬかって話をしたことがある。死生観と言う奴だ」

「佳境も佳境の話ですね」

苦笑を浮かべる彼女とは鏡写しのような顔になった。


「俺もそんな、言うなれば人生における結末の話を今するのかよって思ってた。高校の頃の話で、進路とかも決まってた時期だったのにさ」


『死に方ってのはある意味、人生の全てじゃないか』と友人が言っていた。

人生の全て、詰まるところ過程の集約される地点と。

それはチャイムも聞こえない夜の果てで、高架駅のホームの先端に打ち付けられた柵の手前から、分岐する線路と山の如く聳える数々の摩天楼を見ていた。


「そういう真面目な話…まぁ、ふざけた話でもある訳だが、あいつからそんなことを聞かれるなんて思ってもみなかったんだ」

「あなたは何と答えたんですか?」

「あの頃は…ただ、考えるだけ無駄だって答えたよ。終わりのことなんて考えてなかったし、それからも考えなかった」


あの頃はとうに霞みがかって、継ぎ接ぎだらけ、無秩序かつ誂え向きで有毒な記憶だと言うことを彼は分かっている。

溢れ者の端緒、根拠、本性、楽しいと思うことを、自分の為になることを、人目も憚らず人心も厭わずに繰り返したのだ。


「目の前の課題に向き合うことに夢中だった。都市部における植栽の適応性の差異を研究していたんだけど…そこでの記録や発見の日々が束になるのが好きだった」


友人はずっと遠くを見つめていた。

あるいはそれが虚ろだったのが定かではない。


「けど、俺がそんなことを言ったからか、あいつは何も…何も話さなかったよ」

横を歩く彼女の影が動いて、顔は振り向かせずとも視線を感じた。

居心地を悪くさせたかと彼は不安に思いながら塀の隅の徒花を見ていた。


「俺もあいつには悪いことをしたかも」

「そんなに昔からの仲だったんですね」

「友人だなんて言葉に押し込むのも変な話か。旧友だったよ」


今、何してるんだろうな。

彼はそう考えると窮屈な心に隙間風が吹くのを感じられた。

それを懐かしさと同列に語りたくないのは、やはり天邪鬼が為のことであろうか。


「私も前に、そんな話をしたことがあります」

「へぇ…話はどういう具合な?」


彼女の話を聞くのは初めてなものだから、好奇心に蓋をして慎重に尋ねるよう心がけたのだが、彼女の顔は難色を示していた。


「最後には笑っていないといけませんね」

「笑ってか…」

今も言葉通りにはいかない、二人してそうだった。


「けど、どうせろくな死に方しませんよ、私たち」

彼女の綺麗な瞳と目線が交わってどきっとした。

不安と恐れと言った毒性の塩梅は彼にとってはある種の快楽とも呼べるものだった。


温かな色の行灯には川を眺める修行僧だったり、昔ながらの家屋が待っていたり、それぞれに違う種類の切り絵が描かれていて、二人は一つ一つをゆっくりと見て語り合いながら歩いた。

それでもそよ風がほんの少しひんやりと沁みたのは、こんなにも近い川による所なのだろうか。


それから横に架かる橋の横断歩道を渡って、遊歩道はまだまだ続いていた。

川に隣接した旅館があってそこで宿を取ることになった。

食事など諸々のことを済ませ、「おやすみなさい」と言葉を交わした後、受け取った鍵で二人はそれぞれの部屋に入った。


玄関は仄暗くも部屋の奥から街の明かりが差し込み、緑色に光るスイッチにも頼ることはなかった。

明かりを付けることすら億劫に感じるのは便利な自宅に慣れてしまった為か、あるいはそれが本懐である為か、定かにはしなかった。

そうありながらも鍵は既に閉めた後だった。


小さな部屋には布団一式が敷かれ、衝立の向こうの窓際にモダンな椅子とテーブルが置かれていた。

布団の上に膝からなだれるように座り込み、それから時計を見た。

もう就寝するにしてもおかしくはない時間で、ふかふかの羽根布団に寝転がって仰向けになり、目を瞑った。


次第に呼吸が荒くなっていく。

巨大な蛇が首に巻き付いているようだった。

頭を抱え、喉で悶え、首元を掻きむしり、溢れ出す涙を指で拭う。

何度も何度も、それの繰り返し、三十分くらい経った頃だろうか。

彼はひりひりと痛む首元を押さえながら身体を起こしてぼーっとドアに目を向けると、そこにはいつかの日当たりの悪い玄関が重なって見える。

水色を映す曇りガラスをずっと眺めていた。

彼女と話をしたが為に昔のことが過ぎるようになったのかと考えつくが、彼は目を伏せて否定した。

それ以前から二度とは消えない心象だった。

彼は立ち上がってその方へ歩いていく。

靴を履いて鍵を開け、ドアを引いて外に出た。


通路に出てすぐ正面で、緩く縛った髪が夜風に吹かれて微かに揺れる様を両の目で捉え、息をする間も置かず彼女は彼の方へ振り向きながら柵に置いていた腕を下ろす。


「起きてたのか」

と彼が言うと、

「ついさっき、目が覚めちゃって」

顔を逸らして答えた。


宿の通路部分は開放的でほとんど外と同じようなもので、風にも左右されることのない大気に肌寒さが顕然としている。

彼も柵の方へと寄ってみる。

この二階からでは真下に見える川は僅かに遠いが、穏やかな水面は煌めいてその中に水草が底にしがみつく姿があった。


「見えますか。今日は…満月ですよ」

「あんなものを見ては身にも心にも障るよ」

と空を見上げる彼女に対して彼は川底に目を凝らしていた。

それでも心臓には釘が刺さったように博士が形を残している。

あの日、博士の死から日々欠けていった月が、またこうして満ちている。

それを知っている現状にやるせなさが浮かんだ。


「夜って、不思議と感傷的になってしまうな。寂しさか、それとも憂鬱なのかは分からないですけど」

彼女は呟き、川沿いに並ぶ行灯に目を向けてこう続けた。


「月には、今よりもっと昔から、あの切り絵に似たものを感じてる。物語を読んだ時と同じような」

「読了感?」

「それもあって、後は…ファンタジー?どちらも手の届かない場所への憧れみたいな。多分、その場所へ逃げたいのかも」

それを聞いて彼は光線を辿ってしまって、目にした水晶のような小さくて丸い月は、まさしく遠く遠くに光る幻想だった。

彼女の感じるそれはどれだけ遠くに来ても変わらないのかもしれない。

彼はふと、思い出した話があった。


「人は夜にかけて体温は上がっていくと聞く。こうして起きている時間の分だけ、熱を蓄えていくのだと。この夜の寂しさは、今日募らせた熱を失いたくないからじゃないだろうか」


すると「あ」と彼女が声を漏らした。

「眠ってしまうのが怖いんだ、私」

言葉にし終えては横顔に不安を帯びていた様を彼は見た。


「全部夢で終わってしまうようで。いっそ、全部夢に終わってしまえば」

次第に顔を伏せていく、鬼気迫る声にははち切れそうな心拍数が聞こえてきた。

「どうした、大丈夫か」

彼は声をかけるものの、伸ばそうとした手は僅かに震えた程度でそれ以上は動かせなかった。

静まり返って、虫の声だけ聞こえる。


しばらくして、彼女の口が開く。

「ついこの前、親友の葬儀を終えたんです」

彼は僅かに目を見開いた。

これまでの遊歩道での話、それに留まらず友人に連なった話が急に毒へと変わるように苦味を増していた。


「不治の病でした」

彼女は欄干に付いた腕に顔を伏せていて、彼はその不甲斐ない表情を見せずに済んだ。

「それは…」

彼女の話を聞きたいと思っていたにも関わらず、まともに言葉を返せない稚拙な脳をひたすらに恥じることしか出来なかった。

彼女はそれにすら気付いていないだろう、顔を上げても暗い色を表のまま言葉を続けた。


「親友が苦しんでいたのに、その時の私は自分勝手なことをして、約束だって破ったんです。そんなだから症状が悪化していることも教えられていなくて。恨まれているかもしれません」

「約束って?」

そう聞くと彼女は口を閉ざしてしまって、彼は質問を変えた。


「どんな人だったんだ?」

「明るくて…みんなのお姉ちゃんみたいな。私に手を差し伸べてくれて、知らなかった世界に目を向けさせてくれた恩人です」

「そんな恨まれるようなことをしたのか?病状が悪化したのだって、心配をかけたくなかったってこともあるだろ?」

「・・・どうなんでしょうね。いつも、目の前からいなくなってから推し量る羽目になる。人に偉そうなことを言える立場じゃなかったです」

「そんなことはない」と咄嗟に言葉が出た。

「俺にとって君の言葉は奇跡だったよ」と続けて、すると彼女は、何とも言えない、何を思ったかも分からない、微妙な顔を見せた。


「その後、ご友人とはどうですか?」

「しばらく連絡はとってない…立つ瀬がないな」

「お互いに欠けたもの同士ですね。大切な人と、人間性を一緒に失くしたもの同士」

「俺たちは揃って人間じゃないからね」

彼は自虐的で蠱惑的な言葉に走ると、彼女の苦笑の中にも綻びがはっきりと見て聞こえた。

それまで彼女は夐絶した向こう側の住人のようで、彼女こそが月にも負けずとも劣らない非現実だったにも関わらず、今更、あの川を隔てたこちら側で同じ屋根の下で会話をしているのだと、今更になって彼は気付いた。

だから、彼女は今ここにいる。


「せっかくだから明日はもっと遠くまで行こう」

と彼は一度彼女に振り向いて言った。

「もっと?」

「ダメか?行き着く所はどうせ同じだろ。いつかくたばって、月に還る…だけ」

彼は月明かりを正面に当てられに向かって、穢れなき満月を一心に見つめてそう言った。


「ロマンチックですね」

彼女はもう柔らかな声音をしていて、それが撫でるようで彼は自然と笑みが浮かぶ。


「今まであまり意識はしてなかったけど、小さなロマンの欠片が生活の至る所に散らばってて、それを辿って生きてきたんだろうな」

意識しなかった…訳じゃないと本当は気付いていた。

目の外にあったのは、これまでの彼にとってそれが堕落的で嫌悪すべきものだったからかもしれない。

彼女と話をすると、どうしても目は過去へと向かって深々と突き刺さっていくのだが、おかしなことにほろ苦く甘く優しく知覚されては満更でもなく甘んじる他に術はなかった。

して不意に左手の細やかな感触があり即座に目を向けた。

彼女の方から宙ぶらりんな彼の手を手繰っていて、両の繊手で掬うように遇し、引き寄せられる。


「今日一日募らせた熱、ですね」

その手は彼よりも少し温かかった。

心臓はまるで今にも走り出したくなるくらいに血を回す。


「行きましょうか。また、明日」

と続けざまに彼女が言った。

覚えがない花の匂いが彼の嗅覚を刺激する。

「あぁ」

身から出た錆と言う間違いなく不名誉な共通点で、それによって色づく関係性だった。

その時、遠くの空に見えるいくつかのビルの光芒さえ、幻想を綾なす色彩の一つとして心地よいものに思えた。

彼はとうに彼女の存在全て、愛おしく思えていた。


『悪い夢を見た後はいい夢を見ないとね』

と博士が言っていた。

『悪い夢のままにはしないでね』

あの時の博士の言葉を真っ直ぐに認められるくらいに、今この時を織り成す全てが愛おしい。


「悪い夢にはならないよ」

夜風に吹かれて、彼は微熱を知った。

心くすぐる花の匂いが微熱の膜を乱して通った。




そういえば、今まで何となく大人っぽくも確かに若そうだと思ってはいながら聞けずにいた、彼女は二十一歳らしかった、となると彼とはほとんど十歳差になる。

全くもって手遅れだろうが、もう少し理性的と言うか、大人としての立ち振る舞いをしなければと年上としての矜恃が芽生え出した。


その日から数日の間を彼女と共に旅をして過ごした。

まだ物静かな朝に散歩をして蓮の花祭りを見たり──

「落ちる時は一緒だね」

と手を握られた。

「落ちないよ」

蓮の池の内は木板の足場があるのだが、前から来る老夫婦とすれ違うにしろ道幅は狭く、中央の東屋で待ったり、トの字になった所で譲り合ったりすることもしばしば、誰も彼もの声が穏やかで優しく、その中でも彼女の高すぎない声音は際立って耳に残った。


「時期には少し早かったかな」

四方八方で立ち葉が森のように茂って、その上にとても大きなピンク色の花が咲く中、まだ花を開かせない蕾が多くあった。


「あっちは少し遅かったみたい」

と彼女は花弁が散って花托だけになったものに目を向ける。

「千差万別だよ。きっとそれがいいの」

彼女の見ている景色の輪郭がぽわっと彼の目にも浮かんできて、花祭りの色彩は実物以上の感覚だった。


とある昼下がりには二人、同じ部屋で別々の本を開いたり──

「なかなか贅沢だね?」

「普段とは違う場所で読むって言う所に情緒があっていいんだよ」

旅館の香りであったり、障子を開けて吹き込む風を感じたり、そうして得られる開放感による非日常的な物語と融和が彼にとっての至高だった。


「本、よく読むの?」

本を狭めて彼は「大体ぼっちだったから」と答えた。

「だいだらぼっち」

「にしてもまぁ、前より読む時間が増えたかな」

「増えるだいだらぼっち」

「わかめじゃないんだから」

それからはお互いに黙読に入るものの、思うように集中は行かず、視線の右往左往するところ心ここに在らず、目が合った。


広大な薄暮の空には銀の船も浮かぶ隙間もない。

フェルミンの言うことも不死の薬の淡白な苦さも、余韻はただ今この午後五時過ぎの安心感に融和した。

それから列車に乗ったり無邪気に走り回ったりと各地を逍遥し──竹林を見た。

踏切を越えて、先の砂利道で後ろからカンカンカンカンと警報機が赤く迫り立ててきて、欠けた月を見た。




ある夜更けのこと、ソファから目が覚めるとあの部屋で、博士がいない、それなのに真っ黒い厚手の服を血みどろにして深紅のナイフを持った怪しい人間がいて、一目見て殺人鬼だと分かり鳥肌が立つほどの危機感に身を縮めた。

奴はここに人がいるのに気付いていないのか、その姿は収縮して清廉な博士の姿に化けた、その瞬間を確かに見た。

奴はバレていないと思って油断している。

今しかないと思って、いかにも自然な足取りをして近付いて、奴がこちらを向いてその卑しい目が合った、即座に首を掴んで床に押し倒す。

ぎゅっと絞め付けるが奴は抵抗しない、間違いないこいつが悪い奴だと、更に強く締めるがそれでも僅かに手を振り目で合図するまだだまだ絞め足りない泡を吹き出して、本当にこいつは殺人鬼なのかと、朧気な不安が押し寄せる、だが手は緩めず、やがて息が止んで、しばらくしてようやく肩から力が抜けていった。

目の前に転がるのは死体。

動悸が始まる、息が詰まる、夢だ夢だと思って景色は霧散し、瞬間的に緞帳が上がる。

薄暗闇の部屋はぼやけているが、頬の湿った感覚と頭を撫でられている感触は澄んでいた。


「魘されてたよ」

と頭の裏から声がして、目を擦ってから顔を向けると、長い髪を垂らし傍らに座す彼女に木陰のような安らぎを覚えた。

呼吸一つとっても安寧の実だった。


「悪い」と彼女を案ずる。

「もしかして、起こしたか?」

そう聞くが首を振って「あまり寝覚めが良くないんだね」と言う。


そのうち彼は冷静になって、また頭の中で光景が繰り返す。

今何をした、何故首を絞めたのか、何故止めなかったのか何故殺したのか──


「博士を殺す夢を見た」

我が身可愛さに自分の大切なものを殺した。

否応なく自分の本性を思い起こさせる絶対的な悪夢だった。


「今、博士を殺したことから目を背けて、のうのうと生きてる」

また顔を枕に着けて手を祈るように胸元で、握りしめる圧力はけれど骨も軋むには至らなかった。


「結局、悪い夢になるんだな」

「大丈夫。大丈夫だよ」

と彼女にかけられる優しい声音で微かに和らぐ。


「博士は月に行ったって思って、思い込んで。理想も甚だしい。たかが幻想だ」

花びらが月へと還るように、そんな月への幻想、いや、ただの逃避なのだ。

まだ吐き出されていない内容物が健気にも溢れんばかりの振る舞いで喉元に閊え、そのまま長い爪で裂いてしまえよと首筋に爪を立てる。


「ねぇ、本当に博士を殺したの?」

一瞬、顔を引き攣らせて傍目に彼女を見た。

突然何を言い出すのかと。

「殺したよ」と彼は彼女からも顔を逸らしたままそう答える。

すると彼女が雲みたいに上から覗き込んできて、それに僅かに顔を向けた所で両頬が手のひらに捕まって天を仰がせられる。

彼女の深い瞳が真っ直ぐに差しているのが分かり、今に口許を煩わせるであろう気配に気後れする。

この暗さでも顔を逸らしたくなるのは気恥ずかしさからだ。


「私はそうは思わないよ」

彼女がようやく放った一言は、未だ彼には明瞭じゃなく。

「何で?」

「何となく。私がそう信じるだけだから」

そう言われると彼の脳裏で渦を巻く言葉は解けてしょうがなかった。


「これも私の理想だね…」

それから、彼女の手が離れる、彼はそれを視界の端まで追った。


『人は見て聞いて知った事実の分の、それ以上の思い込みをしているんですよ』

蓋が外れたように彼女のその言葉が込み上げてきた。

分かっている、彼は分かっているのだ、それが軸足となって働いていることを。

彼は身体を起こして、隣り合わせの布団に足を崩して座る彼女の方へ。


「君はどうして一緒にいてくれるんだ?」

じっと見つめる彼に彼女は顔を逸らすことなく、

「あなたが私と一緒にいてくれてるんだよ」

と静かに返した。

それとも淡々と返されたのかも分からなかった。


「俺は自分勝手な人間だよ」

「・・・殺せるものなら殺してください」

自分の為に、自分勝手に大切なものを殺してしまうような人間だと、前にもこんなこと言ったのを彼女も覚えていただろう。


「嫌に決まってる」

眦を下げる彼女は閑雅で、帰するところ彼は手のひらの上なのかもとさえ惟る。

それから、彼女が顔の角度を変えるだけで心が乱される。

それは不思議なことに決して嫌なものではなかった。


「私はあなたの思い込みの激しい所がね、そんなに嫌いじゃないんだよ。だからいいよ。一緒にいてあげる」

しなやかで頼もしくあり、喜びがひたひたと押し寄せてくる。

不意に彼女の姿が沈んで、膝の上に這って頭を乗せてきて、彼をちらっと見上げながら言うのだ。

「ねぇ、死んだらどこ行こっか」

「死んだら…?」

彼女の言説では、死後の世界さえ思い込みの範疇だろう。


「人間って終わりが見えていると、最期くらいはって気持ちで善人になれるんだよ。性善説よろしく、本当は誰しも善人でありたいのかも」

もしかするとそれは、彼女が前にしたのだという死生観の話に通じていたのかもしれない。


思い余った末に、彼は「なぁ」と。

「この際だからって言うのも変なんだけど…正式に交際をしないか?」


彼女は少々驚いたのか、こちらを向くのにその瞳は一瞬のみ見開かれていて、そのうち落ち着いた。

「しよっか」と、その答えは早かった。


余情も浸る間もなく「もっと寄って」と彼女に頭から抱き寄せられる。

そこにあるのは今や心地良さであった。

「あなたも幸せな夢が見られますように」

もし絹に声があるならこんな声なのだろうと彼は密かに思った。




次の日は家に帰ることになる。

「そろそろ竹の様子も見ないと」

彼がそう言うと「一緒に行ってもいい?」と彼女が聞いてきて。


それから、最寄り駅に向かう列車も、その帰り道も心が弾む道のりだった。

対岸はあの遊歩道の時より遙か遠くにある、いつもの土手を歩く、最中、彼女が言った。


「楽しそうだね」

浅瀬から引き上げられる笑い声から返して、

「いつまでもこうして歩いていたい」

と彼は言った。

彼女と話すとあの原因不明のエラーの如く繰り返す焦燥感もたちどころに薄れていた。

何もないのに、心は既に満たされていたようだった。

工業地帯の夜景も、その煙も無毒化されたように澄んでいる。


「私もね、あなたと過ごしてまだ数日だけど、知らない世界ばかり見てる。あんまり外に出たことがなかったから」

「インドア?」

「そんなとこ。活動範囲が狭いんだね…また出かけたいな」

「いつでもどこへでも。その気になれば海も渡れるぞ」

「あー、海か…そうだ。いつか、一緒に空を歩けたらいい」

「空?」

「そうだよ。沢山のビルのもっと上、大きな川も小さくなるまで見下ろして、いつか月に手が届く、そんなくらいまで」

恍惚としているような眼差しで、現実的かのような口ぶりで彼女は言うのだ。


「あなたと嘘みたいなことをしたい」


月、今この地球から見るそれは、何物にも遮られない晴れた夜空のうち密やかにありながら、盗人飛行機に啄まれるくらい小さな体その半分も影色に落として、こんな地上の街明かりに食われてしまう程か細く思えた。

それには何の焦燥感も、窮屈で嫌な感じも感じられず、むしろそこに見るのは、相反する求心だ。

ああ、そうだと、彼は病熱を思い出す。

きっと、月も思うがまま。

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