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人間風情  作者: 四円
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妖野に咲く

男はドアを開いた。

目に飛び込んだのは、黒ずんだ赤…。


「え…?」

頭は真っ白だった。

博士がうつ伏せに倒れ、背中にはナイフが刺さって床には血溜まりが出来ている。

は?何で?思考は伽藍堂を跳ねて回っている…すると、博士の身体は微かに痙攣を始め、ぐぐぐぐ、といびきのような笑いが聞こえた。

男は溜め息を吐いた、心に大きな疲労が溜まった。


「騙された?」

寝っ転がったまま顔だけこちらを向けた。


「あぁ、心から…全く何してんだよ」

起き上がりながら博士は言う。

「いつだか死んだふりをさせられたからね」

「随分と根に持つ奴だな」

男は小さく笑みを浮かべつつも、言われるまで思い出せなかった。


それから博士は手を背中に回し、ナイフを外してみせた。

「実は妖怪の街に行った時に買ったんだ。血糊もセットで」

刃の先を手のひらで押し込んで玩具だと明かした。

「悪趣味な…」

「まぁね」

博士が小さく呟いた。

鉄の匂いもしないと気が付くのも今更で、見返すと粗雑が目に付いた。

男が唐突に部屋を訪れたから、博士も急遽それらを仕上げたのだろう。


「にしても、なかなか散らかしてくれたな」

部屋中で怪物でも暴れ回ったかのような惨状を見回し、落胆は口から零さないまでも目と眉には明らかだっただろう。

そんな男の目を強く引いたのは、壁のスクリーン。

映画の一場面だと思われる、和装の男女の侘しい背中、暗い表情で見上げているであろうその先の、遠く遠くの満月があった。

本当に役者になりたいんだろうな、と、そんな博士の純粋な思いが男には苦く感じた。


「なぁ。少し、出かけないか?」

少し、逡巡が言葉の手前にあって、下手だっただろうか。

思えば、男の方から誘うのはその時が初めてだったのかもしれない。

博士は呆気にとられたような顔をしていた。


「珍しいね…それに今から?」

「あぁ」

お出かけに誘うには不恰好な顔をしていただろうか。

博士はじっくりとその目を見ている、少しの間に焦らされていた。


「いいよ。片付けるから待ってて」

「いや、そのままでいい。着替えるだけで」

「え?そう」

「後、寒いから着込んだ方がいいぞ」

「うん。分かった」



そうして博士を連れ出した。

部屋を出て、通路を抜けて、図書館に流れる冷たい空気と入れ違いになった。

玄関先には男の背を優に超える高さの竹が三本もプランターから伸びていた。

三ヶ月前に貰った櫛を博士が育てたもので間違いない、見ない間にまさかあの状態からここまで成長しているなんて思ってもいなかった。


「どこに行くの?」

「少し遠出をするよ」


男は空を見た。

真っ暗な空だ、どこまでも深く広がっていると思えた。


「ねぇ…雪降ってない?」

博士を見ると、両手で受け皿を作っていた。

男も目を凝らして空、街路樹の若葉、それから煉瓦の壁を背景にして、ようやく目に写すことが叶った白い雪は指先に触れるだけで溶けてしまうくらい小さく、微かな風が吹けば目測の及ばない繊維にまで解けてしまいそうだった。

それが、次第に数を増していく、妖精の訪れの如くこの時間の儚さを熱で知らせて。


「雪だよね!」

博士は最近では珍しいほど浮き足立っている。

きっとすぐに止んでしまうだろうけど。


「あぁ…もうすぐ夏だって言うのに」

「奇跡だね」

「そうだな」

このまま行けば、博士は雪を見ることもなかったのだ。


行けば、囲う街並みは黒い空の下で、赤信号が酷く厳かに見え、それも濡れた地面のせいだろうか。

空の機械に灯る光の数も少なく、重厚感が薄れているのも、赤色を余計に強める要因だ。

目の前を過ぎた車が左折して、ずっと向こうへ走っていった。

テールランプまで、威嚇しているみたいだった。


「何だか空気が新鮮に感じる」

と博士は言うが、別段はしゃぐこともなかった。

停留所に近付くと、少なからず人とすれ違うようになる。

壁面や掲示板の広告とやけに目が合って、駆け足になった。

悪魔の存在などとうに映ってはいなかったのだろう。

停留所で先に待っている人は誰もいなかったが、路面電車はすぐにやってきた。

降りる人は一人か二人くらいで、男は博士と共に乗車した。

座席を塀にして人の頭は数える程しか見えなかった。

博士を窓際に座らせて席に着く。

扉が閉まり、僅かな揺れの後に夜景が流れていく。


「どこまで行くの?」

「何もない所」

「うん?」

「田舎だよ。自然の豊かな。花も沢山見られるぞ」

「こんな夜中に?それに急だし…何か変だよ?」

「たまにはいいだろ。俺は元々、夜型人間なんだよ。それにもしもの時は、向こうで宿を取れば明日は朝から観光できるだろ?」


不安げな、それとも訝しむ顔をしていた。

そんな状態のまま、電車は大きな駅に入り、そこで降車した。


「ここで夜行列車に乗り換えるぞ。はぐれるなよ」

屋内はやはりまだ混雑していた。

ある程度決まった人の流れに乗りながら、目的のホームに着くと、流線型の黒色の車体が止まっていた。

券売機に指輪を翳し、ざっと空席情報だけ目を通した。


「いつも乗る電車と趣が違うね」

車内は節電の為か仄暗い感じがしたが、夜行列車と言えばこんなものなのだろう。

左のスペースにはお菓子や飲み物、玩具など多種の自販機が置かれていて、右は通路が一本と小部屋に分けられていた。

曇りガラスの貼られたドア、その横で緑に光るランプを確認して入る。

調節可能な椅子が四つと折りたたみ式のテーブルのみ、広くはないが二人なら足くらい伸ばせるだろう。


「一応、寝られるようにもなってるから。後、普通の列車より速いから路面電車の比じゃないぞ」

博士は背もたれに寄りかかりながら、静かに車窓の中の景色が進むのを待っていた。

男はその斜め向かいに座った。


『本日は関東夜行倶楽部をご利用いただきありがとうございます。まもなく出発しますので、席に着いてお待ちください』


それからまもなく、穏やかな発車のベルが鳴る。

列車は揺れもなく動き出し、駅を抜けて車窓は数多の光が交差する街を映した。

段階的に速度を増していく。


「うわ、凄い!速い!」

あっという間に流れていく景色に博士はいつかの少年のように目を輝かせていた、そんな風に見えた。

寝る暇もないかもしれない。

窓の外を眺めてしばらくし、男はカバンをおもむろに漁って、男の手より一回り小さいポーチを取り出した。


「博士」

そこから桃色の飴玉を摘んだ。


「何それ?」

「これは不老不死の薬だ」

博士は目を見開いて、男と目を見合わせた。


「え?」

「冗談だよ。ただの桃味の飴だよ」

もう一つ取って、博士に渡し、男は先に包装を剥がして自らの口に含んだ。

それを見て博士も自身の手のひらの上に出した。

零さないよう口を覆うように含むと、列車はトンネルに入り、また一層暗くなった。


「移動時間も旅の醍醐味だよな。トンネルだけど…」

「うん」

無言の時間が続くと思いきや、早くもがりがりっと音がした、飴を齧る音だ。


「早っ…」

「え?どっちの飴が先に無くなるか勝ちだよ。噛んだ方が溶ける面積が増えるんだよ」

「やるならそこは我慢比べだろ」

「でも噛んだ方が味わい深くなるよ」

「そうか…ところで今日はお疲れだった?」

「え?全然?・・・少し眠いかも」

「寝ててもいいよ。着く前には起こすから」

「起きてるよ」

博士はそう言うが目はとろんとしている。


「トンネルって楽しいじゃない。この先にどんな景色があるのか」

頭を壁に付けながらそう言っていた。

男は席を立って、ドアをスライドさせる。


「ちょっとトイレ行ってくる」

「行ってらっしゃい」


通路に出て、ドアを閉めた。

目の前の車窓にはいつまで続くかも分からないトンネルの壁が流れ、それとは逆らうように歩いていって、自販機のスペースで物色する時間を過ごした。

そうしている内に、手前の窓から順に薄暗く明けていく。

窓に寄ると、無機質な壁は背高く茂る草むらに変わって、それすら通り越すとようやくトンネルを抜けたのだ。

広がる田園に畦道の電灯、ずっと先では光の点々が水平に走り、鎮守の森と山麓に生活の明かり。

目のみならず時間の感覚さえ奪われて、慌てて個室に戻った。


ドアを開いて「博士」と小さく呼びかける。

博士は向こうを向いて、眠っているだろうか。

そう思ったら、博士は何やら首を振って、こちらを向いた。


「呼んだ?」

「悪い。寝てたのか?」

「うとうとと…あ、トンネル抜けた?」

博士が窓に顔を向ける。

「あぁ」

男は椅子に腰かけた。


「川だ」

土手の街灯も届かないくらいの幅はある河川だった。

列車は鉄橋を渡って瞬く間に越えていった。


「ねぇ、次で降りよう」

「おー、まぁいいけど」



二人は列車から降りた。

ターミナル駅よりも随分と手前の駅の為か、降りるのはこの二人くらいなものだった。

見晴るかす沃野、何もない一面の水田。

列車から駅にちゃんと下車したと言うのに、辺りを見回すと何故だか野に放り出された気がしてならない。

明らかに降りる場所を間違えたと思って時刻表を見ると、田舎だろうが私鉄だろうが現代ではそれほど深刻ではなかったと、男はほっと一安心だ。


「清々しい気分になるね」

博士がそう語る横で、男はぼーっと空を眺めた。

叢雲が混じりながら、夜空に浮かぶ無数の星々が水田にまで煌めく神秘的な光景。


「何考えてる?」

「壮大だなぁって。一瞬だけ、何もかもがどうでもいい気分になってた」

呼吸すると肺が沁みた。

自然の新鮮さか、はたまた空気の冷たさかも分からない。


「こっちでも雪が降ってるんだ。一足先に冬が来たみたい」

「一足どころじゃないけどな」

県を跨いでなお降っている、どうせなら長く降ってもらいたいとさえ男は思い始めてきた。

時計を見るとまだ八時くらいだ。

大体三十分くらい列車に揺られていたのだろうか。


反対を向くとフェンス越しに広場が見えた。

居酒屋があったり、誰かの肩から上が彫られた像があったり、この安心感が堪らない、宿がある。

傍にある案内板を見て、博士が現在地である駅を指さし、道をなぞった、その先は川だ。

そして道のりは、目の前に広がる田んぼの方だった。


「ちょっと博士さん?」

「はい。何でしょうか」

「そっちは何もないですよ」

「何もない、だからこそ得られる何かがある」

「胡散臭い宣伝広告か?」

「さぁ、深呼吸して」

促されるままに大きく息を吸って、吐いた。


「ね、こっち。ほら神社があるでしょ?お参りしていこうよ」

気の赴くまま、博士の足を止めることなど出来やしなかった。

大きな山を背に鎮守の森と灰色の鳥居、後は左の方には住宅街も見える。

結局、広場とは反対の畦道を進むことになった。

まだ田植えを終えたばかりの水田に、冷たい雪が波も立てず混ざり合っていた。



萌え渡る樫や椎、篠竹や楠、この田園地帯に大木としては狭い空間でありながら、様々な種が混在していて、いかに大切に扱われてきたのかが一目で分かる。

鳥居の前で一礼して、鎮守の森に踏み入った。

最奥に社殿が静かに構えている、誘われるように敷石の参道を、中央を避けて歩いた。


「何で真ん中は歩いちゃダメなんだっけ」

「神様の通り道だから」

「神様かぁ」


手水舎で手と口を清めた後、今度は注連縄が飾られた巨大な杉が目に止まり、落ち葉の上を歩いて寄った。

樹皮の道を辿れば天まで届くほど高く、溢れんばかりの生命力を感じさせる。


「あ、今の見た?トカゲが住んでたよ」

石灯篭の中の壁に這う姿が一瞬だけ見えた。

「実はあの灯篭の中は地下の国に繋がっているんだ」

「メルヘンチックだね?」

「じゃあ金銀財宝」

「欲を出してきた」


再び鳥居で一礼し、左右で向かい合う狛犬の視線を越えた。

拝殿は材木の隅に歳月の色を見せつつも、手入れが行き届いていた。

再選箱を前にして、財布から取り出した五円玉を博士にも渡す。


「こういうこともあろうかと常に持ち歩いているのだ」

「もしかして意外と信心深い?」

「都合のいいことは信じることにしてる」

「うわ。打算だ〜」

「かの安倍晴明は言いました。この壺買えば厄も天変も怖くないよ。意訳」

意訳。


鈴を鳴らして、二礼二拍手一礼。

目を瞑った。

雨のような、波のような葉擦れの音、虫たちのざわめき、男の中で木霊して止まない。

清らかな息吹に浸りながら目を覚ました。


「行こうか」

「うん」

博士は何を祈っただろう。

そんなことを考えながら、男は続く沈黙を認めた。


「こっち。方角的にこっちが近道だよ」

拝殿の横の道を通りながら高い樹林の綾なす空を仰ぐと、「あ、コウモリ」と博士が言った。

振り向くと、博士が見ていたのは縁側の下で、土台に羽を広げて倒れ伏すコウモリの姿を見つけた。

その小ささからまだ子供だと分かるが。


「コウモリか…」


羽の弱い動きは、這ってでもどこかに行こうとしているようだった。

その黒褐色の身体に雪がゆっくりと触れて溶けるのを見た。

博士がその傍に寄ろうとして、男は慌てて「おい」と呼び止めた。


「触るなよ?」

「知ってるよ。病原菌でしょ?でも可哀想だね」

若くして落ちていたカシの梢を拾って、軽く振ってからコウモリの所へ屋根を張るように被せた。


「こんなことしか出来ないけど」

コウモリのつぶらな瞳と目線を交わしていた。


「博士は優しいな」

「んー…どうだろ。でも、もしそうなら助手のおかげだね」


それから踏み入ったのは狭い獣道のようだった。

「ここって道なのか?」

「多分、道っぽいけど…」

「人の歩く道じゃないぞ…」

そう言いながら裏口を抜けると、鳥居もないまま土手に出られた。

目の先に広がるのは河川敷だ。

階段を降りた先に緑の野、白いさざれ石の河原に、川幅の広い水流の黒に光が白くうねる姿が見えた。

だがそこまで行くには、膝くらいまで伸びたのさばる雑草群を越えなければならない。

微かに土が見えると言っても足のやり場がなく、管理人にすら忘れ去られた道なのかもしれない。


「よし。行こう」

と何だか気が籠った声で博士が言って、男が振り向いて止めるより早くその中に足を運んだ。

足元でぴょこぴょこと小さな虫が跳ねて茂みに隠れた。

男も結局、博士の後を追うことになる。


足を高く上げながら雑草を越え、階段に辿り着くと、博士はまたすぐ降りていって、一足先に河原に降り立った。

男は立ち止まって、足を上げた疲れから大きなため息を吐きながら顔を上げ、景色に目を奪われる。

対岸には葉桜と街灯が延々と並んで、川に光が落ちている。

ずっと先に鉄橋が架かっていて、列車が通過していた。


男は博士に視線と戻すと、もう開けたその原の中央まで進んでいて、そこで立ち止まっている背中があった。

白い服とその金の髪は、この宵闇の中でもはっきりと目に映った。

結局、一度も切ることなく、髪はその背丈の半分を占めるほど長く艶やかだった。

翻し、風を孕み、振り向くと凛とした表情を見せる。

男が階段を降りていく。


「そこで止まって」

「ん?」

言われた通りに足を止めた。


「そこが観客席だよ」

「結構な特等席を頂いたな」

博士は微笑んで、数歩後ろに下がり、直立する。

男は座ってそれを見ていた。


「本日はご来場いただき誠にありがとうございます。竹取蓮化生より。第七幕、妖野に咲く。舞の場面から・・・」

スポットライトもないけれど、その佇まいからお辞儀をする姿、一挙手一投足まで妖しく映る。


第七幕、妖野に咲く。

この場面は少し原作と違って、かぐや姫と兄弟のような仲の侍女が、月を見るかぐや姫を何度も制止し、その月への感情の正体が明らかになる場面だった。

それは確か、こんな河原で──


「月の都の人は美しく、老いることがありません。月の都へ帰ることを、恐れることはないのです。悲しむことはないのです」

かぐや姫の沈黙、侍女は答えた。


『そのようなこと…御殿様も、奥方様も、たいへん悲しまれますよ』

あまり表情に出さない侍女が、この時ばかりは顔を僅かに歪めていた。


「ええ、それでも月を見ると、どうにも心細くなって、恋しくて適わないのです。これはきっと、化生の私に科された罰に違いないのでしょうね」

『いいえ、姫様。月を見たせいですよ。姫様はお美しい方でございます。ですから早くお屋敷に戻りましょう』

焦る侍女に対して、かぐや姫は悟ったように物静かだった。


「過去の契で、この世界にやって来て、これが運命だったのでしょう。知っていますか、花びらは、巡り巡っていつかは月へ帰るのです。花ですら、適わないのです。お別れしなければならないのです。もう二度と、会えないのです」

その時、侍女は何も言わず、唇を噛み締めていた。


「・・・出来ることなら、帰りたくなんてない」

『それならば、どうか行かないでください』

かぐや姫が涙と共にそう零した瞬間に、静かに勢いを持って侍女が言った。


「あなたは昔から、完璧な侍女に務めてくれましたね。化生の身の私を導いてくれて、けれど私の道を妨げることはない」

『私がそう振る舞えたのは、姫が美しく、意志の強いお方だったからでございます』

「あなたがこの世で私にとっての、羽衣のような存在だったのですね」

『羽衣…とは』

かぐや姫は空を仰いで、しばらく経った。

流れる雲の姿が、その輪郭が目に映る。


「ねぇ。舞を見てくださる?」

侍女は、何か言おうとして、きゅっと口を噤んで、もう一度ゆっくりと開き直して「はい」と答えていた。


それは可憐な花がそよ風に揺蕩うように、狭く、細く、小さな足つきで、川のせせらぎの上に淡く繊細な声色を重ねて唄う。

長い腕は鷹揚に伸びる、なだらかに山を昇っていくように、白い衣装が風で膨らんだ。

ゆっくり、ゆらりと、大きく歩幅を伸ばしていく。

時に恐ろしいと思うほどの落差を付けて、自由な足取りはまるで地を離れたよう。


風が吹いて、心が一体になる、ざわめきがそこら中から聞こえる。

木や草、水も誰も彼もがひそひそと言葉を交わしていた、そう表現しても過言ではない。

応えるように、空に幽かな光が立つ。

輪郭を顕にした雲が開け、黄金が広がる。

山の向こうからやってきていた、もうあんな高くまで昇ってきていた、円な瞳が目に差した──満月だ。


月光がたまゆらに野を照らし、川を走れば濃淡は鱗のよう。

博士の姿は清廉さが際立ち、はんなりと金をなびかせ、芙蓉のかんばせを涙で濡らしながら、白雪にも劣らない儚さを併せて笑って、どこか狂ったように月影の上で踊る。

博士の唄声は男にはどこか聞き馴染みのあるように感じて、心の奥深くから暖かな郷愁が湧き上がってくる程だった。

そんな中で見る博士の姿は、ただ、やり場のない月への恋情を晴らそうとしているのだと感じた。

勢いは岩を割るかの如く激しさを極めた、直後、力が抜けたように静けさを取り戻した。


「ありがとうございました」

礼をする博士に、男は精一杯の拍手を贈る。

やはり男には博士の芝居を見る目はなかった。


しかし舞台を終えたと言うのに博士は悠然とそこを離れず、涙と輝く凛とした目を合わせてきたので、誘われるように階段を降りて舞台に上がった。


「良かったよ」

そう声をかけると、手で目元を拭って得意げな表情を見せる。


「晴れるとこんなに明るいんだね」

博士は辺りを見回しながらそう話す。

「雲一つないのに、まだ雪が降ってる」

「風花か」

最後には月を見上げた。


「もうこんな時間だ。駅で解散でもいい?」

「待って」

男の横を通り過ぎて、階段に向かう博士を止めた。


「・・・悪いな。もう帰れないよ」

振り向く博士に男は告げる。

その時の博士がどんな顔をしていたのか、その明かりの下でさえ覚えていない。

ただ、その後、博士が「あ、花だ…」と言った。


「え?」

「ほら、よく見て」


両手で器を作って、空に掲げる博士。

雪は、雪にしては不規則な軌道を描いて、降り積もるはずもないのに、いつの間にか地面には溶けずに白く残っている。

空からはらりと零れ落ちたようなその一粒一粒が、ようやく季節に相応しい花弁の形を成していた。


「本当だ…」

この花吹雪は山の方から来たのだろうか。

ふと思い出したのは、花を咲かす妖怪のこと。

ともなれば、花を落とす妖怪がいてもおかしくはない、なんて。


「わぁ…凄い、綺麗…。あれって何かな」

手の器を下ろして大事に抱えながら、顔は月に向いていた。


「あれって?」

「とても大きくて、どこまでも広がっていて、遠いのに、近いような、幻想的な、もしかして生き物かな?本当に、迎えに来たんだ・・・」

まさか本当に月人が迎えに来ているのかと思わせられる。

恍惚とした表情は、情熱の中に身をくべるかの如く、月を思って止まない。

「博士?」と、男は呼びかける。


「──あぁ、そっか」

呟かれた、物悲しさを醸す声音。


「いつからだ?いつからだろう」

博士がようやくこちらを向いた、けれど焦点が合っておらず、不気味で仕方がなかった。


「世界って美しいね…ねぇ、助手」

高揚感と多幸感に満たされ、言動に現実との乖離が見られる。

それは、薬の幻覚作用であることを物語っていた。

その博士の言葉の後に続くものは沈黙──甘美で清廉な花の匂いを残して、花が散っていた。

猛烈な花吹雪が殴りつける、鋼鉄の感触だ。

砕石の上、うつ伏せに眠る博士、男はしゃがんで、博士の肩に手を添えてひっくり返そうとした時、その重さを知った。


運命通りの死。

博士は自分を人間だと信じながら死亡した。

計画通りの人生は完了し、これにて次の段階に移る。

で、ありながら、男の中の信号が脳裏に映すのは真っさらな白紙のページ、身体中から血の気の引く感覚・・・


こつ…こつ…と、石と響く靴の音がして男が振り向くと、二人が神社の横を抜けてやって来た階段から、こちらに向かってくる人影があった。

自然光の下で、清潔感のある白髪や黒いスーツが神々しく引き立てられる。

男の胸が早鐘を打った、その存在感に当てられて、疑問が溢れる、理解を遠ざけさせられる。

そして、男と博士と、同じ高さの大地へ降り立った。


「こんばんは」

深く重く、耳に通るだけで心まで揺らす声音。

「君が博士の教育を担当されている方ですね」

目が合っている、凛とした目、その実体が、こちらに近付いてくる。

男はすぐに立ち上がって、礼をした。


「いや、そんなにかしこまらないでください。あなたとは前に一度、ご挨拶をした程度でしたね」

顔を上げると、指導者が目の前に立っていた。

この国の星と呼んで差し支えのない人が、何故。


「一年も前のことです。お忙しい中、覚えていただいて光栄です。それより、どうしてあなたがここにいらっしゃるんですか」

恐る恐る言葉にすると、その彫りの深い顔立ちは柔らかく微笑んだ。


「不老不死は、私の悲願ですから」

指導者の言葉、そこに下賎な男の本懐にあったのだと、今また沸々と使命感が歯車を回す。


「私の手となってくれている君に、感謝しているんです」

指導者は男の手を取って固い握手をさせた。

「それにこのような機会、私も立ち会わねば失礼に当たると思って。急な視察で申し訳ありませんでしたね」

「いえ、そんな、とんでもないです…。指導者みずからこんな場所に来ていただいて」

「今回はご苦労さまでした。博士を運ぶのは大変でしょう。鵺に任せますよ」

男が横たわる博士を一瞥すると、指導者が空を見ていたので男も目で追った。

いつからいたのか、大きな翼が空を旋回する様が見えた。


「それでは、先に失礼します」

お辞儀をして、僅かに俯きながら指導者の横を通り過ぎていく。


「博士の死は決して無駄にはならないよ」

最後に、指導者がそう言ったのを鮮明に覚えている。

男はまるで心でも読まれているかのようで、どこか頭の中には悪魔と言う二文字が過ぎった。




耳にはイヤホンを挿していた。

目的を見失いそうになる度、そうやっていつも同じバンドの曲を聴いた。

風のように無限に膨らむメロディ、柱となる凛々しい男声に女声のコーラスが並ぶ。

呼吸をさせる、そんな曲。

男が生まれるよりも前、指導者がバンド時代に演奏した音楽だった。

今も男の目には偉大なる指導者の姿が焼き付いて消えることがない。

全ては不老不死の為、使命の為。

『私は、不老不死を諦めたんだ』

博士はそう言っていた。

男は辞めたふりをしていただけだった。

全身から力が抜けなかった。


アラームが鳴る。

起床のアラームだった。

目には乾きを防ごうと薄く膜を張って、ぼやけた視界のままくうを眺める。

頭だけが冴えていた。

いつも通り身体を起こすと、錆びついたように重く、カーテンを開けるのを嫌がった。


がらがらと数回うがいをして、歯ブラシのスイッチを入れて口に含む。

『人なんて、歯を磨くだけ、服を着るだけでぎこちない動作をしているのに』

重い頭に鈍く響いた、これも博士の言っていたことだ。

唾液を吐き出すと、白い洗面台に鮮やかな赤が細かな泡と滲んでいて、目の曇りが晴れるまでしばらくの時間を要するが、ただの徒労に終わる。


時計を見ると、朝食を取る時間もないくらいで、すぐに着替えに切り替えた。

頭部が慣性に逆らわず揺れながら、支度を終えて家を出た。


あの部屋、博士の生活していた部屋は、以前まで男が住み込みで研究を行っていた際に使用していた部屋だった。

これまで何度通ったか分からない、けれども普段と変わりようがない白い廊下を行き、ドアを開けた。

そういえば・・・そうだった。

部屋はこの有様だったのだ。

目の前すぐの足元に黒い血溜まり、部屋は全体が散らかって事件性を示唆し、まざまざと見せつけられる罪に顔を顰めた。

不快感は心臓から全身の血液を押し退け、置き換わっていく。

勢いは強く血管が深く枝分かれして、身体に棘を刺すように増えていく気さえする。

さながら、天狗が住み着いたようだ。

心臓が壊れたかのような音を立て、落下してしまいそうで、ドアも閉めずに踵を返して走り去る。


それから、入口を出てすぐの壁に凭れかかって、そのまましゃがみ込んだ。

傍にある鉢から伸びる竹稈が、三本の矢のように天を穿つ。

最初はタケノコを一個植えただけ、地下茎がないと育たないと知っていながら博士にはそれを黙っていた。

竹すら見殺しにしていたんだろう。

俯くように顔を向けた道路に右側から白い光が強まってくる。

すると灰色の車が走ってきたかと思えば目の前で止まり、後部座席のドアが開いて友人が出てきた。


「よお、何だか懐かしい気がしてくるよ。いつも早いよな〜」

男は何となくその声に安堵していた。

スーツケースを下ろしている所に、立ち上がりながら男は呟いた。


「俺はもう限界かもしれない」

固まった様子で振り返る友人。

「どうしたよ」

と心配そうな顔を見せて「いや、分かってるけどさ」と付け足した。

腕を組んで少し思い悩んだ後、車の助手席のドアを開けて顔を突っ込んだ。


「悪い運転手さん。こいつ送っていってくれません?」

「ええ。了解しました」

友人を間に挟んで、中年のドライバーさんと顔を合わせた。


「接ぎ木は俺たちでやっとくよ。それと、しばらく休んだらどうだ?」

「あぁ…」

男は立ち上がって、ふと竹の方を見る。

「そうだ、これも持ち帰りたいんだが…」

「え…じゃあ後で送ってもらうよ。じゃあ気をしっかりな。また来週、飲み行こうぜ」


そうして男は家に帰り、連絡を待った。

何も手に付かない。

男に残された道は研究の成功しかない、それを祈るばかりだった。

頭部を鈍痛が反復している。

時折鳴る定時のアラームで痛みが増す、三回目くらいでやっとその大元を止めたにも関わらず、無音とは程遠い孤独の中、体感では何十時間と経過していた気がする。

ピコン、と通知音がして「読み上げ」と言うと『接ぎ木は失敗した』と抑揚のない機械音声にそう返された。

失敗した──失敗した?

男はスマホを手に取り、この目で確認しようと友人からのメッセージを開くと、ちょうど続く言葉が送られてきて自動で読み上げられる。

『首を接いだが動かなかった』

そんなはずは、マウスでは成功したのに。

男は狼狽しながら、返信しようとするも指先は動かない。

それなら、何の為に…。

無駄死に…と言う言葉しか出てこず、スマホをテーブルに放り出し、床に寝転がって天井を見つめた。


『博士の死は決して無駄にはならないよ』

指導者の期待に背を向けて蹲る。

今まで積み重ねてきた実験の全てが、全てが男を殺そうと躍起になってる。

博士の存在が、研究が、下賎なそいつの身を祟るんだ。

『あなたは機械だよ』

博士の言葉が何度も打ちつける。


時代に選ばれてなど、いなかった――

『お前は病気だ』『お金を払ってるんだよ、何でそんなことも出来ない?』

甲高い言葉が劈く。


命を弄んで、エゴで育て、見捨て。

その時、男はふと、その自分こそが幼い子供のようだったと思える。

してはいけないことをした、叱られる、そんな不安。

怖い、怖い。

研究を辞めた時に、会うのも止めるべきだったんだ。

中途半端に関わるから博士をただの機械として見られなくなった。

そんな後悔も今更だった。




それから睡眠時間が激減した。

自分で目を瞑ることすら難しくなって、どこか興奮状態にあって眠らない日まで出てきたので、途中から睡眠薬を服用し始めた。

日中は漠然とニュースを眺め、届いた竹の世話をし、それ以外で家の外にも出なくなった。

そんな生活が六日くらい続いたのだろうか。

週ごとの暮らしの評価が赤になっているのを見たのは久々で、ふとその日が土曜日と言うことを思い出して、男は友人に連絡を入れた。


『元気してるか?』

なんて男が聞く。


『いつもの店に行こう』

あまり待たずに友人から返ってきた。

普段は騒がしい割に、こういうメッセージでのやり取りとなると常に淡白だった。

しかし午後になっても向こうから連絡して来ないのは珍しいと感じつつも、男は家を出た。


店に行くと角の席に友人がいて、既に空になったものと満杯のハイボールがあった。

その外見は普段の活発さを離れていて、髭も剃らず短髪も乱れ、おまけに目には隈が出来ている。

友人の様子を見たせいか、それとも、男の方から連絡を取ったからだろうか。

何となく、自分から声をかけなくちゃならない気がした。


「研究の進捗は…修正は難しいか」

席に着いて、表情の暗さがなおのこと判然とする。

「そうだな」

友人はそう返すだけで新しいグラスを口に運び、炭酸を少し喉に通した。

男は男で何を頼むでもなく目は虚ろだった。


「泡瀬がな…」

友人が切り出して、頭にぼんやりとギターを弾く女の子が思い浮かぶ。

「自殺したんだ」

「自殺?」

「まぁ…たまにあるよな」

友人はそう言ってみせるが、沈んだ表情が拭えない。

五、六年前からずっと追っていて、嬉しそうに握手をしていた姿も見てきたが故に、男にはかける言葉が見当たらなかった。

不幸は重なるものだ。


「何か、崩れていくんだよなぁ…」

「そうだな」

「けど、最期に聴いた曲は明るかったんだよ。ただ、目に見えない何かに縛られてたんだ…。そういや、後追いも多いらしい。一種の美学って奴なのかな」

「それは…理解できないな」

はは、と乾いた笑いをされる。


「みんな、自分の代わりだと思ってんだ。俺もそうだった。結局、そういう奴らは自分の好きな角度で飾る。寄り添う訳じゃない」

また、ぐいっと酒を飲む。


「おい、ペース早いんじゃないか?」

「全然」

少し投げやりに言われる。


「でさぁ、思うんだ。不老不死になって、どうなるんだって。世の中は便利になればその分の不都合も生じる。例えばインターネットの普及で情報過多や共同体の分裂が起こりやすくなった。生きている家が作られて人はより管理されるようになった。で、不老不死が実現されたらどうだ?人間社会に生まれただけで、一生目に見えない柵に囲われて管理され続けるんじゃないか?」

「指導者がいればそんな風には使われないよ…」

「・・・今でさえ人生百年と言われて、それでも長生きはしたくないと言う声が多くある」

「じゃあ何で──」

『なら何でこの研究をしてきたの?』

男は頭から下る声に言葉を詰まらせるが、友人は間も置かずに次の言葉を補完しただろう。


「研究は楽しかったよ」

だが、その言葉の前に少しの閑寂があって、後には堰を切ったように注がれる。

「ただ、俺には使命なんかなかった。多分そんだけ。指導者には惹かれなかった。だからお前が博士って呼んでた機械も、見て見ぬふりをした」

自分が友人とは似て非なる世界に生きていると思わされ、目の前に引かれる漸近線にみすみす手をこまねいた。


「羨ましいよ。好き嫌いとか、政治とか、指導者とか、そういうものに傾倒する奴が。俺は怖いよ、そういう表明がさ。どの立場に着くのかって。今の時代、外から見てるだけってのが多数派で、きっと誰かに投影して、依存してるだけ。俺には泡瀬がそれだったんだ」

ひとくさり話し終えてまたビールを呷る友人に明らかな邪気を見た。


「お前、もしかして雨鬱の気があるか?」

「とっくに診断された後だよ」

「そう…そうか…」

「研究はどん詰まりしたまま、辞めた」

「それって」

「退職した」

都市では雨鬱なんて言葉が古くから使われていた。

症状としては抑鬱や過食、過眠、後は抽象的だが性格が悪くなる。

理由は日照時間の減少だとか、あるいは暮らしの変化だとか言われ、それを理由に空の機械が作られたくらい人の生活に宿を借りている、時代に巣食う病だ。

それで、退職した友人を引き止める言葉すら湧いてこなかった。


一人はいささか千鳥足で、もう一人は鈍の足跡を残して、雨粒の滴る高架線の下を行く。

『人は何を思って歩くのか?』

男は友人の姿に振り返りながら、人は自らの足で歩かなければ生物でさえない、そんな世の中かもしれない、そんな節を見る。


「機械は運命通りに死んで、機械からすれば俺たちが悪魔か。未来も過去も全てを見通す悪魔様」

こんな相関関係とすら呼べない証拠で、悪魔がいると信じるのも科学者として馬鹿らしい話だった。

「・・・」

男は口を噤んだ。

自分たちの手によって生み出された博士と言う人生の運命通りの結末に、友人も気が気でなかったから、そんな話を男にする。


「実験の件、俺も共犯だよ」

「優しいんだな…?」

友人は気味の悪いものでも見るように顔を引き攣らせた。

それから目を逸らして、

「俺たち誰も、いい人になんてなれなかったな」

なんて嘲笑する。


「なぁ、俺たちは自分のことを人間って呼べるのか?」

友人が聞いた、それは、

「お前が言ってたことだよ」


罅のような充血に吸い込まれそうな程の瞳孔に、声は出る前から震えていた。

「お前は人間だよ」


それに対して友人は淡白だった。

「けど、お前も死ねないだろ?」


それから一緒に飲むことはなくなって、今後会うかも分からなくなった。

男には友人は人付き合いが上手で、趣味も多く、柔軟な人間に見えていた。

あんなに脆いだなんて思ってもいなかった。

そして友人がああなっているのに、自分の心は本当に無機質なのかもしれないと思いさえした。

頭痛が正常に直そうとする証明だった。




誰一人もいない舞台がテレビに映し出された。

ざー…と言う音の所在を探りつつ男は椅子に腰かけ、猫背になりながらも目を逸らす暇もないのは、今一度、あの人の声、言葉を聞きたいと思っていたからだった。

まもなく指導者が壇上へ上がる。


『当時、人は自由でした。技術、文化、時代に恵まれ、パンとサーカスを求めた。そんな、自由に降り注いだのは、雨…我々は腐ってしまった』

身振り手振りはどこか芝居がかっていて、所作に操られるように視線を動かされる。


『社会はいつの間にか割れた鏡のようにそれぞれの真実を映し、傷つけ合い、多くの血を流しました・・・』

顔を伏せて、しばらくの静止と沈黙。

ゆっくりと、男は目を合わせられた。


『動かなければならない。停滞は快楽であり堕落である。前進は危機であり、未来だ』

男はその強い言葉に狼狽えて身を引いた。


『明日は明日の風が吹く。未来には無数の可能性が広がっているのだから、全力で駆け抜けるしかない』

その凛々しい瞳をして、まるで今日や昨日を捨て去るような、博士の存在を捨て去るような、これまで何度も聞いたその言葉が今は利己的、独善的に聞こえる。

また、沈黙だ・・・ふと家の呼吸を感じる。

振り向けば冷蔵庫の音、モニターの赤いランプやエアコンの生ぬるい風が嫌で、今この部屋の温度が嫌で、募る危機感に男は格子の付いた窓に顔を向けた。

雨が激しく窓を叩いていた。


ノイズの中でレインコートには冷たさだけが染みながら、フードを被ったその上からは指導者の声が未だに届く。

街のスクリーンのいずれも指導者の姿を映していて、男は立ち止まる。


『──られたのです。私は時代に選ばれた。自分の行く運命の先に誰もが平和で暮らせる、優しい世界を夢に見た』

背を向けた、顔を逸らし、再び走り出した。


『ただ、ただこれだけが使命だ──』


指導者は、その実績はさることながら、政治的中心に立った年月が長いからこそ、国民や外国に対して唯一無二のシンボルとして指導者と呼ばれるようになった。

男はそれに憧れていた。

しかし一度指導者に悪魔の姿を見てしまった。

今日、その姿は、罪に迷わないハスの葉のようだった。


男は使命だと信じて不老不死研究に努め、倫理を欠くことをした挙句、友人には『人間だよ』と優しさと逃避を履き違えたのだ。

優しささえ人は間違う。

倫理の本質さえ見紛う。

地獄への道は善意で舗装されているとも言う。

なら、人はもう動けないじゃないか。




それから、川に来ていた。

何もない土手だ。

川の向こうに光る工場地帯の夜景だけがあるが、あんなものはまさしく対岸の火事だった。

そこで、彼は彼女に腕を引かれたのだ。


男が話を終えた時にはもう、息がむせ返り、はち切れたように惨めに過呼吸を起こして、か細い手に雨が止むぐらいまで背を摩られていた。

少し落ち着きを取り戻して、彼女はまず、こう聞いていた。


「だからあなたはここに身を投げようって思ったんですか?」

「あなたの見ているこの世界は妄想だと言われたら信じるか?自分一人を残して、この世の全てが嘘であると言われたら信じるか?俺は、俺が機械だとかそういうことよりも、自分以外の全てが偽物になるってことの方が怖かっただけなんだよ」


「・・・本当にそう思ったんですか?」

問い詰めるような言葉に男は少し焦った。


「ついでに、友人を呪ってやろうと思ったんだ。死ぬことが人間の証明になるのなら。けど、自己犠牲じゃ世界平和も成り立たないだろってな」

怒りを剥き出しにするように、憐れに…。

それから、自分自身を茶化すように気丈に振る舞って語る。


「しかし、何だろうね、今ここに至るまで、恐怖心みたいなものがまるで薄かった。別に俺が川に落ちたってそれが人間である証明にはなり得ないと思ったのか。だからこんな吹き溜まりみたいな所に落ちた。ただの埖だ。花びらは月に帰るだなんて、幻想だったな」


「そこじゃないですよね」

と、彼女はその一言で恐ろしいほど強く見えた。


「あなたの悲しみは博士が大切だったからですよ。そして罪に押し潰されそうになったから、こんな所まで落ちてきたんです」

「どうだかな…」

そう言いながら対岸の工業地帯を睨んだ。

有害な煙にしたってああも美化されている。

見てくれを取り繕っただけの、本性は…醜い欲に塗れた、その正体は、毒に違いないのだと、男は信じて疑わなかったのだ。


彼女は雨が降っていないのを確認して、傘を閉じて立ち上がった。

骨董品のような傘だと思っていたところ「立ってください」と彼女に手を差し出され、手を取って立ち上がった。

すぐに手を離すと、彼女はそれからこんなことを言い出した。


「よし、走りましょう」

「はっ?」

彼女は戸惑いの声も聞かずに階段を登るので、男は言われるがままに早足で追った。

さして長くもないであろう階段だが、足を上げるのが一苦労だった。

やっとのこと登りきると堤防で待っていた彼女と顔を合わせた。


「走るって、何で、どこまで?」

「ここじゃないどこかへ」

彼女は男の手を引いて駆け出した。

堆い土手の上は冷たい風が正面から吹きつけ、思わず一度目を閉じて、それから薄らと瞼を開けた。

ひたすらに脚を繰り出し、足裏に交互に発生するアスファルトを蹴る感触はどこか柔らかい、身体は錆を落とすように軽くなった気がした。

川沿いに華やいでいた菜の花は姿を消し、反対の路傍にはシロツメクサと思われる白く背の低い花々が代わって咲いていた。

その先には首都高速が空に線を引く。

それから高架の巨大な支柱を過ぎた辺りで視界に映った、回る巨大水車が一輪の花のように光の束を灯していて、その最奥の空は仄かに赤みがかっていた。

遠い風景、ある種、走馬灯のような景色を横目に走って、走って、揺さぶられ、スクリーンの声すらもう耳には入らなかった。


そうして、この手で握ったのは、ゴミだった。

おかしいな。

男は東屋に置きっぱなしにされていた缶を一個手に取って、椅子に置かれた手提げくらいのゴミ袋に入れる。


「どうして、こんな、偽善者ぶるような…」

肩で息をしながら男は呟く。

「そこにゴミがあるから」

その一方で彼女は息の一つも乱さず満足そうな顔をして、ビニール袋を手に装備して椅子やら床やらに落ちた紙くずを集めていた。


「善とか偽善とか、特に考えてないですよ。それにあなたも手伝ってくれてるじゃないですか」

男はもう膝に手を着いて、走り出してから未だ止まない心臓を落ち着けていると言うのに。

男の体力が落ちたのか、彼女が化け物なのか、実際は大した距離も走っていなかったのかもしれない。


それにしても、偽善…男はその言葉を反芻して、ゴミ拾いを手伝いながら彼女に問いかける。

「あいつは、俺の友人はなんであんなこと言ったんだと思う?」

「お前も死ねないだろって?」

彼女にそう聞き返され、緊張しつつも何とか頷く。


「本当は機械的な世界じゃないと思いたかったから、俺にそう吐き出した?あいつは・・・あぁ、いや…」

男は口を噤んでしまいたい思いに駆られるが、言葉を引っ込める気力さえなく「何にしろ、酷い奴に見えてしまうか」と、憂色を湛える。


「俺はあいつを悪人に仕立てあげたかったのか?救いたいと思って、けれど、真反対の言葉を返されて、恨みなのかな。だとしたら偽善どころの話じゃないな」


「また…」と彼女がぼそっと呟いたのが聞こえ、すぐに「知ってますか?」と繋げられた。

「人間って妖怪なんですよ」

「妖怪?」

「時に鬼だと恐れられ、時に天狗と疎まれるでしょ?お前の母ちゃんだいだらぼっちー!とか」

男は少し笑った。


「あなたは、ほら、天邪鬼」

男は自然とひねくれ者扱いを受けたが、大して気にならなかった。


「後、あなたの友人も。本当は助けを求めているのに、意思に反して言葉を出すこともあるじゃないですか」

「そういうもんか」

「それです。それであなたはただ友人の助けになりたかっただけです。もしそうだったら、助けになりたいって、その思い自体には善も偽善も関係ないでしょ?」

「優しささえ人は間違うんだよ」

「けれど間違えてでも人は誰かに優しくしたい、そうとも言えますよね」

「ポジティブだな…だけど全部あなたの理想だ」

「人は見て聞いて知った事実の分の、それ以上の思い込みをしているんですよ」

彼女はゴミ拾いを袋に入れて、きゅっと縛り終えた所だった。

男はまるで説法でも受けているようで、感嘆の念を覚えていた。

もしも世界がそんな風だったら、いや実際、彼女にそう見えているのなら、男は羨望せざるを得なかった。

こんな肉体にも魂が宿っていて、それをちょこんと摘まれた感覚に、彼は気が抜けてくうに身を委ねた。


「本当は、もういっそ全てを駄目にしてしまいたいって思ってたんだ…。職も生きがいも、人間性も、友人も、全部失くしたからな。もう終わるべき、そう考えていたのかもしれない。研究者として、人殺しとして」


「潔いんですね」

そんなことはない、と心の内で呟く。

落ち着いてくると、今度は心の内から罪悪感が湧き上がってきた。


「・・・今までの話が嘘だって言ったら許してくれるか?」

「信じます」

男からすると、誰にも信じてもらえない話な方がありがたかった。

その上で、彼女が今言ったことを脳内で再生した。

改めて言う。

「全部嘘だよ」

「私はあなたの話を信じますよ」

苦い味がした。


「自分の為に、自分勝手に大切なものを殺してしまうような人間を信用するってことだぞ?」

「じゃあ、信じてほしくはないですか?」

「いや、そういう話でもなくてだな…」

彼女と話すと変に考えさせられるせいか、段々と頭が冴えていった。


「じゃあ、私は私の理想の話を信じたと言うことで」

「・・・ありがとう」


しかしわざわざ時計台前の広場まで来て、その東屋でゴミ拾いをするなんて思ってもいなかった。

「初対面の二人がこんな急に、ゴミ拾いをし始めるなんて悪魔にも予測しようがないよな」

「そもそも妖怪なんてものがこんなにも自由に飛び回っている世界なんて、その時になるまで誰にも予測しようがない未来ですよ」

男は不意に博士のことを思い出した。

博士は仕組まれたその身で、その脳で、夢を語ったのだ。


自販機で缶ジュースを買って、外でメルヘンな時計台を眺めながら彼女は呟いた。

「もし悪魔がいるなら、きっと幸福を導いてくれるかも」

「ほら、さっき、悪魔に取り憑かれたって」

「あぁ、けど、何で悪魔?それならどっちかと言えば天使とか神様だろ?」

「対価や代償がある方が安心できるでしょ?」

「強かだな…」

けれど男は不思議と納得できた。

ある意味それは、人間社会らしいというべきか。

ゴミを拾うのも悪魔への対価と考えたら面白いと男は思えた。


「あなたの話も聞かせてくれないか」

「・・・また、今度。また今度、海でゴミでも拾いましょう」




彼女の声で彼は全身に浮遊感を錯覚し、身震いをして瞼を開けた。

遠く、回送列車が行く。

橋を渡って川を越え、窓から光を零しながら遠ざかっていく。

そんな様を彼は堤防のベンチに座って見ていた。

頭は整理されたように澄んでいて、彼女はまるで彼の夢に住まう理想が形を成した仙女のようだったと感じる。


透明な世界に声が再生される──聞き慣れない、けれど忘れようがない声で。


ぼやける視界を削り取るように擦ってから、おもむろに立ち上がって水際の欄干まで歩いた。

手を置いた、冷えきった鉄の心細さに、微睡みの熱は今や泡沫のように消えてしまった。

随分な夢に絆されて、ロマンチスト風情が、現実との落差に、酷く狂わされる。


・・・彼は歩いて、空中遊歩道まで来た。

上下左右に人が行き交う街は、洗濯機でもみくちゃにでもされるみたいに蠢いている。


『人の世にはこれから人の怪の氾濫が起こる。怪物が、人の世に溢れ出す。まさしく堰を切るように』


彼はその光景をただ眺めているだけだった。

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