機械
大きめのスプーンに収まった艶やかな無色透明な液体を男は顔の前まで持ってきて、口に含まないままじっと見つめていた。
微弱な手の震えに一滴、一滴と滴る。
「冷めるよ?」
右の死角から唐突に聞き慣れた声がしたもので、ばっと振り向くと見慣れない格好がすぐ傍に立っていた。
夜の海の上に純白の小さな花々が身を寄せ合っているような柄で、長い髪もまとめられ、顔もどこか大人びていてる、博士は人通りもそこそこの高架駅を背にして立っていた。
「十分も遅刻したな」
何と切り出そうか迷いながら、そんな言葉が走った。
別に問い詰めようとしたとか、そんなことはないから余計、男自身の表情が曇った。
そのいつも通りの紺色の服は少し萎れている気がした。
「誘った側なのにごめんね、慣れない道だったから」
博士は、男の手元にあってまだあまり飲み進められていない器を一瞥しながら、向かいに座った。
「いつ着いたの?」
「時間ぴったりに」
「ふーん」
「何か飲む?」
「いいや」
天気予報曰く、今この昼下がりから青白い花曇りの空をして、一日を通して肌寒い気温だそうだ。
そうして啜った、スープはぬるく、塩気が強かった。
曖昧な咳払いをして、殺風景なテーブルの上に腕を重ねる博士を見た。
「久しぶりだよね」
博士が言った。
「そうでもないよ」
「えぇ〜…あなたからすればそうなのかもしれないけどさ〜…」
実際、妖怪の街に行ったあの日から男が博士の部屋を訪れることはなく、こうして二人が会うのはしばらくぶりで、男の方はどうにもよそよそしくなっていたのだ。
昨日、博士から連絡を貰った時から、どうして部屋に来なくなったのか問い詰められる瞬間を、頭で何度も反復していた。
なおかつ外で待ち合わせをすること自体が初めてだから、意地の悪い夢を見ているような気になるのも仕方がないだろう。
「元気にしてた?」
そう話しかけたのは博士の方からだった。
「ぼちぼちな」
男がそう返すと、博士は淑やかに笑った。
もう一杯、スープをすくって口に含むと、男は頬に手を当てて軽く抓るように抑えていた。
「モデルのポーズ?」
「染みた」
「虫歯か。不摂生してるんじゃない?」
口内炎だ。
治りかけていたはずなのにと、男はぶり返す憂鬱な日々を想像し、スプーンを翻していた。
「博士、研究の方は順調か?」
博士はバツの悪そうな顔を見せる。
「あー…研究はもう辞めたんだ」
「へぇ」
驚きが先に来た。
「どうして?」
男は白い綿のことも気がかりだった。
博士は目線を左の方に寄せて、けれど駅か何かを見上げる訳でもなかった。
恐らく研究は進展がないままなのだろうと思い、気がかりは自然と流れてしまっていたのだが。
「妖怪だっていずれは死ぬからね。だから私は不老不死を諦めたんだ」
博士は澄んだ瞳をしていた。
「まぁ、妖怪が丁度いいんだろうな。自由に生きて、好きに一生を終えられるんだから。こんなこと言うと妖怪反対派の奴らがほれ見たことかって顔をするんだろうけど」
「反対派?」
男は三度スープを飲み下した。
残りも半分くらいになっていた。
「曰く、妖怪共存社会における倫理観のずれを指摘している。妖怪の安楽死的な事象と、その死生観が自殺を増長していると。今後、人の倫理観のハードルをより一層、低下させていくのではないか?って」
「ふーん。ねぇ、そっちは?今何してるの?」
降ってもいないのに、ざぁざぁという雨音が波打つように体の奥深くから湧き出て、胸の辺りを掻き毟りたい衝動で、器に両手を添えた。
「俺は、まだ、研究を続けてるよ」
口に一気に注いで、水を差した。
「そうなんだ」
博士は置かれた空の器を見て、両腕を退ける、席を立った。
「出発しよっか」
博士が先を行く、以前と変わらない安息感の縁、頬をずきずきと蝕む。
「どこに行くんだ?」
博士がこちらを振り向いて、言った。
「今日はたくさん時間を貰うよ」
雲がかかる空の、その上に貼り付けられた空の機械は大袈裟な青い光を向けて街を見ている。
男はそれから目を逸らしながら、博士と他愛のない話、世間話らしきものを垂れ流し、行ったり来たりの距離感を続けていた。
『今日は雲が多い一日になるでしょう。一週間のお天気です。明日から一週間、晴れが続く予想です。気温の変化にお気をつけて過ごしましょう』
そんな天気予報が沈黙を埋めることもあった。
駐車場の脇を抜けて、先が緩やかなカーブになっていく坂道を下っていく。
右に咲く花のその先を見ると緑の芝生が広がって、シートを敷いてピクニックをしている人達がいた。
一体どこに行くんだろうかと思って、男はよく首を回していた。
「遠いの?」
「ううん。遠くはないけど…そういえば今日って土曜日か。研究の時はいつも早く帰ってたよね」
「あぁ、今日は別に、気にしなくていいよ」
「そう…!やった!」
博士は男の前を横切って、低木の黄金色の花を前かがみになって観察し始めた。
五つの花弁を持ち、一本の細い枝に連なるように咲いているらしい。
すると突然、枝の一本がひとりでに揺れるという、植物らしからぬ挙動を見せて、「え?」と困惑の声を上げながら博士は小さく飛び退いた。
男もそれを見ていて、目を凝らしてその正体を疑った。
「目が付いてる」
男は揺れる花のつぶらな瞳と目が合った。
花の一つに擬態していたのだろう。
まるで虫のようであるが、実態は明らかに妖怪だった。
博士は溜め息混じりに吹き出した、安堵と徒労の色だ。
「化けて寝てたのね。ごめんね」
妖怪は特に喋る訳でもないが、また枝が頷くみたいに揺れて花の匂いに気分が安らいだ。
日常のたまの縁に離れがたくも、博士は手を振って再び坂を下っていく。
「妖怪も色んな形があるけど分類できるのかな?」
「どうだろうな」
「そういえば前に妖怪から貰ったタケノコのこと覚えてる?」
「覚えてるよ」
「あれね、こーんなに大きくなったんだよ。私の身長なんて優に超えちゃって」
「え、本当に?」
口には出さずとも奇跡だと思った。
男はてっきりもうなくなっているものと考えていたから。
「また見に来なよ」
博士にそう言われ、足音から軋んだような音がした。
「またいつかな」
二人は大きな池の上に来ていた。
木の足場には不安感を覚え、柵にしたって心もとなく感じる。
薄らと濁った水面は手を伸ばせばすぐに届くくらい近くて、数多くの黒い鯉が優雅に泳いでいた。
「お、あそこ、錦鯉だ」
「金のもいるよ」
水面を眺めていると、どこからかパンの耳がそこに降ってきて、近くの鯉たちが一斉に大きな口を向けて水飛沫が上がった。
向こうの足場で鯉に餌を上げる子供とそれを見守る夫婦がいた。
自分たちも以前はあんなだったのだろうか、なんて俯瞰してみる。
博士はもう保護者を気取られる年齢じゃないだろうに、と心の蝋を煽りながら「博士」と呼びかけた。
「俺も買ってこようかな」
「油で揚げると美味しいみたいだよね〜」
「え?餌としてだぞ?」
「あ、ふふ…ははっ」
ツボに入ったらしい、変人だ。
それに合わせるかのように、ピピピピッと機械音が彼の腕時計から繰り返し発せられた。
「何の音?」
「悪い。いつもはこの時間にアラームが鳴るようにしてるから」
「こんな時間に?」
「時間ごとにやることを管理してるから」
「何それ。大変じゃない?」
「俺にとっては昔からの日常だよ」
男は改めて停止状態に設定した。
その花壇には、膝までは及ばない程度の押し寄せる緑と白の波が出来ていた。
博士はまた純白で可憐な花に惹かれて近寄って、博士はしゃがんで観察していた。
いつかみたいにまた髪が地面に付くんじゃないかと不安があったが、もうそこまで長くはなくて、整えられていて、杞憂だった。
男が博士の変わったと感じる要因の一つがあるだけだった。
花は下向きで顔を隠しているような、鐘のような、裾に緑の斑点を付けている。
それに博士は人差し指を巻くようにして触れた。
「見て、スノーフレークだよ」
スイセンのような葉に、スズランのような花、鈴蘭水仙とも呼ばれる種だ。
甘い香りがしていて、オレンジの羽に黒い水玉模様の蝶も辺りを飛んで回っていた。
「一片の雪か」
博士が呟いた。
スノーフレークを直訳して、雪の薄片ということだろう。
視線を手前から奥の方まで伸ばしていくと、葉が雪をぱらぱらと被っているように見える。
「この前調べたんだけど、キジカクシ目ヒガンバナ科なんだって。スイセンと同じだよ」
「へ〜」
「凄く昔は見た目や特徴で分類していたからユリ目にまとめられていたんだ。それがDNA解析の分類体系になってからは種の進化を根本から辿れるように変わって、ユリ目からキジカクシ目が独立したらしいよ。人の歴史は、凄いね」
「細分化されていくんだな・・・ふふっ」
「ん?何?」
男は自分が気付かないほど自然と笑みを浮かべていた。
声が溢れ、慌てて首を横に振った。
「今日の博士はまるで別人みたいだったから」
「そう?久しぶりだもんね、会うの」
博士は嬉しそうだった。
「でもやっぱり博士は博士なんだなって思ってな」
「ん、褒められてないなぁ」
「褒めてるよ」
未来の植物博士と呼んでいたが、今では本当に博士みたいだった。
饒舌に熱意を曝け出して話す博士が、男の記憶に印象深く残る子供っぽい博士と重なって、少し気が緩んだのだろう。
そう思って、溜め息が出た。
「ねぇ、子供の頃とかさ、何かなりたいものってあった?」
「唐突だな」
また歩き出して、何の脈絡もなく博士が聞いたのだった。
男は少しの間だけ黙り、思い起こされたのは、窓を覗く少年で、俯瞰して見ている男自身には、その少年がどんな景色を見ているのかが見えずにいるのだ。
これは当然のことなのだが、また、過去が遠ざかっているように感じた。
「昔から研究ばっかりだった」
「昔から…植物の研究?」
「あぁ」
「何で植物だったの?」
「・・・単に綺麗だと思ったから。言うなれば俺は花に引き寄せられた虫だね」
「ふーん。花屋さんとかは違ったの?」
「あー…都市の機械には植物を模した物が多いと聞いて、そういうものに憧れていたんだろうな」
花屋というのも、考えなかった訳ではなかった。
その上で研究に走った、欲深い奴だったのだろう。
始まりは憧れだった。
成せるまでコンプレックスになっていったけれど。
「花屋にはなれないな」
男は静かに呟いた。
それから、辿り着いたのは一面を青く染めるネモフィラの花畑だった。
「うわぁ…綺麗」
博士が零した言葉の通りだった。
若葉の林に囲われていて、空は雲と機械の光が覆っているけれど、花は時期が来れば咲く。
甘い香りがする、植物の吐いた、冷えた爽やかな息──懐かしい気持ちが込み上げてきた。
歩く、ただ外を歩く、そんな過去の体験が浮かび上がって今、この実感がより立体的に味わい深く感じられる。
もう、季節の変わり目だろうか。
ふと、男は深く呼吸をした。
ゆっくりと花畑の中の道を歩く。
「そういえば、前に夢で見た花畑を探して歩き回ったな」
「そんなこともあったね」
博士は恥ずかしそうに苦笑していた。
「最近は全然見なくなったな」
「そうなのか」
男は無意識に博士と距離が空くのを感じていて、そしてちょうど直近に都合のいい話があったからかもしれない。
「俺は悪夢を見たよ」
急いで埋めるように、何の気もなしに、男はそう口走っていた。
「どんな夢?」
「水槽の脳」
「あぁ〜」
「この世界が本当は全て作り物で、現実は水槽の中にある脳が見せられている夢って言う思弁だな」
男は自分の出した話題ではあるが、素っ気なく切り上げようとしていた。
すると博士はお淑やかに微笑みながら、さながら無邪気さを携えながら、「怖かったんだ?」なんて聞くのだ。
「別に」
本当に、その夢に対して大した考えはなかった。
まるで子供みたいに、それに頓着する歳でもなかった。
まるで子供みたいに、切れ長の目をした博士がくすくす嘲るように言った。
「あなたは機械だよ」
──男が持つ言葉がことごとく乾いてしまった、時間の錯覚があった。
「悪い夢を見た後はいい夢を見なきゃね」
博士がそんなことを言っていた。
「そんな話があるの?」
「自論だよ」
博士はまた──不敵に笑っていた。
「はあ」
「悪い夢のままにはしないでね」
漠然とした感情に晒されて、空を見上げていた。
青白い空に、機械を透いて、寝ぼけまなこのような白い半月が朧げに浮かんでいた。
「もう月が出てるんだ」
「今日は…上弦の月だな」
水車よりもそっちか、なんて思いながら。
二人が歩く天空遊歩道から望める、緑の広場に設営された巨大水車は思いのほか小さく見えるものだ。
まだ昼と言っていい時間帯だろう。
けれどライトアップされたそこの光景は遠目ながら輝いて、綺麗だった。
「綺麗だね」
博士も水車の方を見て言っていた。
「回ってるのを見るのは初めてかも」
都市にはこんな巨大水車が各所にいくつか存在しているから、水の流れは川のように、血のように巡っている。
「都市の永遠の花だよ」
重ね着した胴に冷たい風が吹きつける。
壁もなく少し高い所にいるせいでもあるが、この頃の気分屋な気候にはうんざりさせられる。
「ねぇ」
男は声に振り向いた。
「今から少し飲まない?」
博士が、そんなことを言った。
博士が二合瓶を手に持って、見るからに不慣れな持ち方をして、彼の方にある白磁の猪口に口いっぱいまで無色透明の酒を注いだ。
少し怪訝な感情と、博士に対する心配から男の顔はぎこちなく薄ら笑いを浮かべた。
「博士から酒に誘われるなんてな」
「私も大人だからね。大人の嗜みですよ」
博士も自分の方に酒を注いで、瓶を置いた。
「いただきます」
男が言って、博士もそう繰り返した。
そうして口を付けた、まろやかな甘い味わいで、酒の匂いもすっきりしていた。
「飲みやすいね」
博士がそう言った。
「あぁ」
男は既に風景の方を見ていた。
ウッドデッキからは暮れなずむ広い空が近くに見える。
夕景に沈む上弦の月が帰りを急かすようだ。
「人は何を思って歩くのか」
博士の呟き、何気ない呟きのようだが、男は振り向いた。
博士の目には道行く人々が映っていた。
博士も一度こちらに顔を合わせて「職業病かな」と苦笑を澄ませ、また街に正面が向かう。
「昔から機械のマウスに触れていたから、生物の姿が機械みたいだなって思うんだ。今、この都市で生きる人々のことも」
男も博士が目に映す景色を見ていた。
きっとこの仕事をしてなくとも、現代人はどこかしらでそんな現実を空想しているだろう。
心から石になったように固く、重く、痛く感じる。
そう思いながらまた、酒を口に運んだ。
「人なんて歯を磨くだけで、服を着るだけでぎこちない動作をしているのに」
博士は白くか細い両の手を、遠い遠い景色に伸ばした。
それは、例えば一片の花弁を、手を添えるように捕まえるような。
「役者はそれを自然に見せる」
男の中で合点が行った。
だから博士は、なりたいものは何だったかなんて聞いたのか、と。
博士の言葉がただ呆然と羨んでいるだけではないことに気付いた。
「役者になりたいのか?」
そう聞くと、博士は一度こちらを振り向いて、その表情は口角を上げて、けれど口を閉ざしていた。
三度、無垢な顔が過ぎて、横顔が無表情に映った。
いつか傍目にもくれなくなって、遠ざかる、そんな気がした。
「ねぇ。もし私が役者になったら、どんな役が似合うかな?」
博士がそんなことを聞いたので、
「かぐや…」
呼び止めるように男がそう言いかけて、言い淀んだ。
それで男の方を向いた博士がまた、
「かぐや姫?」
と聞き返した。
男は目を逸らして、口元に酒を運んだ、後悔の味がした。
「今は昔、竹取の翁というものありけり…」
「初めから…!?」
「ふふふ」
一呼吸おいて、博士は左を向いて、その正面に遠く浮かんで見える上弦の月を見据えた。
「次の満月の日、月から迎えが来るでしょう」
琴線に触れる透き通った声。
「帰らなければなりません」
力強く微動だにしない眼が、棚引くピンク色をした雲を貫いている。
博士は──本当に別人みたいだった。
涙がほろりと輪郭を象る、たった一粒だった。
自然と心の奥底から湧き出て、どうにか堪えて、それでも溢れた一粒。
それを拭うこともせず、目線は空を、月を見ていた。
『何故です』と、脳裏に焼き付いていた侍女の表情と、言葉だけ反響していた。
「どう?」
博士の凛とした青い目が刺さる。
何でもない表情に気圧されて、男はずっと、空になった猪口の縁を口元から離せなくなっていた。
そのうち博士は猪口に目をやって、両手を添えた。
「あのかぐや姫、綺麗だったよね」
そう言って口を付けた姿で、男の見る昔の博士の姿が溶けて、蛹のように変容しているのだろうと感じた。
「私には遠いかな」
「いや、凄かったと思うよ」
猪口を置いて、目は伏せながら男は言った。
「そう?」
「俺には演技を見る目はなかったけどね…それでも、博士は、天才だと思う」
「・・・ありがと」
顔を逸らしてそう言った、街を映す博士の瞳は輝いて見えた。
今度は男が両方の器に酒を注いだ。
瓶の中身も少なくなってきて、博士が藪から棒にこんなことを言っていた。
「本当はどこかに行きたいとか特になかったんだ。ただ久しぶりに話したかっただけ」
酔いが回ったんだろうか。
「久しぶりに話せて良かったよ」
博士に久しぶりに話したかった、なんて言われたから。
言った後から、ありきたりな返事かななんて思った。
今更だが博士から、どうして部屋に来なくなったのかも聞かれなかった。
それならそれでもいいとまた酒瓶に手を伸ばそうとして躊躇い、ケトルの方を手に取った。
男は酒と同じ器に水を注いで、それを呷った。
博士はまさか眠くなったのか、テーブルに突っ伏して、頭を男の方に向けている。
別のコップを取って──水を注いで博士の方に出した。
「水も飲めよ」
「・・・うん」
顔だけ起こして、コップを見た。
そんな一方で、男はまた少し、酒に注いで呷るのだ。
例え毒あっても人は都合のいいものを薬と呼ぶが、これはきっと毒か薬かも分からない。
身体だけ起こしていながら瞼を閉じた博士は、ゆっくりゆらゆらと左右に揺れながら鼻歌を歌い始めた。
男はその歌をどこかで聞いたことがあるような気がした。
「何の歌?」
男がそう聞くも、博士は既に夢うつつにいるようで、
「何だっけ…」
と言って、続きを歌った。
酒と相まって、漠然とした揺籃の心地に浸る。
空はもう、暗い青、月も朧、それどころか完全に隠れて、見えなくなってしまっていた。
そんな内、目は密かに…。
「俺はあいつとは上手くやれない。お前は凄いよ、ホント」
――コオロギだ。
時折、コオロギの声が聞こえてくる。
窓際のテーブル、カウンターの下、厨房の方はと瞳だけをゆるり見回すが、どこにもその姿は見られなかった。
客のいない店内で休息を取るかの如く、静かに、密やかに鳴いているのだ。
「おーい」
友人がテーブルに身を乗り出し、顔をぶつかるくらい近くで手を振ったので、鬱陶しさに仰け反った。
座布団に手を突いて、足を崩した。
「よく外にも連れてってるんだろ?」
「あー」
流石に、適当に返しすぎたと男も反省して、数秒後にこう付け足した。
「交流は大事だと思って」
「そうだよな。やっぱりテスラだよな」
友人のその返しに、男は何も言わなかった。
何も言わずとも勝手にくっちゃべっているのだから、男としてはありがたいものであった。
それと同時に喧しいと思わんこともない。
「でもしばらくはそんなに外出はしてないよ。一週間前に向こうから誘われて出かけたくらい」
「そっか。ご苦労さまさまだぜ?ようやく今日で三ヶ月だ。後は満月を待って、機械は停止して、接ぎ木にするだけ」
その話の渦中は、機械。
「今は博士って呼んでるんだっけ?」
博士は、それは、そのからくりは。
まだ、生後三ヶ月の赤子であった。
男や友人の手によって生み出された、機械のマウスと同じ、不老不死の素を組み込まれた機械の人間だった。
その機械に元となった人間の頭部を吻合し、オリジナルを不老不死にする、それが使命だった。
接ぎ木とする為にはまず神経をオリジナルの型に慣らす為、精神の成熟が必要不可欠であると推測された。
機械の造形は初めから成体を模しており、夢を司る機械によって水槽の中で潜在的な核となる記憶が埋め込まれるらしい。
博士が夢で見た景色と言っていたのは、恐らくは記憶の断片を博士が夢として捉えているのだろう。
しかし精神年齢は年相応に低く、知識を一から学ばせる必要があった。
「観察の結果はどうだった?」
観察は、その人格や倫理が正常かを判断する為であった。
その為に男が、教育係を兼ねて博士に接することにしたのだ。
会話によって言語を覚え、性格や倫理観が形成される。
機械は成長が早いと言う特徴があって、僅か三ヶ月の間に大人と大差ない人格に仕上がった。
「博士の倫理や人格に問題はない…が…」
「が?」
子供の多くは身近な人間の振る舞いを真似る。
男はいい人を演じなければならない。
どんな時であっても、善良な思想と無害で清廉な言葉遣いを心がけるように。
だが──
「俺はいい人を演じられなかったよ」
博士と言う鏡が写したのは虚ろな男の姿。
それこそが、機械だったのだ。
「別に関わる必要はなかったのにな」
「万が一を考えろよ。人で成功するかは分からないんだから」
「それで毒されたら実にならねーよ」
不満げな男をよそに、友人はハイボールを飲む。
男の下にも同じジョッキがあって取っ手に触れるが、躊躇いから結局また手放した。
今日は・・・左の座布団が二つ続いて空いている。
「博士に、言われたんだ。あなたは機械だよって」
「へぇ、そりゃあ…なぁ…」
「もし、俺たちが機械だったらどうする?」
今度は男の方から問いかけた。
友人は笑いも、呆れもせず、手を置いた。
「だからあんまり関わるべきじゃなかったんだよ」
友人は無表情から一転、はっ、と何か閃いたらしい。
「てか俺が機械だったら、もう不老不死できてるじゃん」
「何だそれ」
おかしな話だと笑う男に友人が、酔いも覚めたような神妙な面持ちをして言う。
「お前が罪悪感を感じるなら、俺も共犯だよ。お前よりよっぽど大罪人だ」
友人は見透かしたように言う。
その優しさを男は申し訳なく感じていたのは、自己裁定の帰趨が古びた歯車、ただの部品だったから。
右からテレビの雑音、厨房から何か柔らかいものを叩くような音、あちこちで悪魔の嘲笑う姿が目を向けずとも窺える。
『まるで人が機械の部品みたい』と、そう言ったのも博士だった。
「未来のことを考えようぜ。研究が終わったらどうする?」
友人から問われて、どうするんだろうと思った。
男の頭は真っ白で、未来の断片さえ希望する余地がない。
「さぁ…お前は?」
「山でも買って隠居すっかな」
「交流はどうした交流は」
「今後も継続で。週一な」
「飲み会は交流か…?」
「とりあえずお前は自分の畑に戻れよ。また何かあったら呼ぶからさ」
「あぁ…」
「辞めたいか?」
すぐに首を振った。
言葉は潤滑油だった。
歯車が回って、軋んで、思い出す、嫌な記憶ほど歯止めは効かない。
糸を巻いて、じわじわと首を絞めていく。
言葉一つで思い出す。
「人間社会に生まれたからには、人は人でなくてはならないんだよ」
「お前が恵まれているから?」
分かったように友人が聞いた。
「・・・それに、職を手放すのは人生を手放すのと同じだ」
「何だよ嫌味かよ」
「は、本気で山に住む気だったの…?」
友人はにんまりと笑った。
「世俗を離れて暮らすのもいいだろ?」
「かもな」
「へー、意外」
「お前から言ったのに」
友人はぐびぐびと酒を呷って飲み干した。
ジョッキを置くと氷が鳴る。
「てか今日寒くね?」
「飲むのが早いんだよ…それにいつも通りの格好じゃ寒いだろうな」
男も家では厚手の黒シャツを引っ張り出すことになったのだが。
「朝見た時は晴れの予想だったのに。外れか?」
「まぁ、滅多にないな」
「んじゃあもう一杯いっちゃいますか」
「何がじゃあだよ」
友人が男の方のジョッキをじっと見ていた。
「今日はいつにも増して飲んでないな」
男はまだ口も付けていなかった。
「飲むか?」
「じゃあ貰う」
差し出されたそれで友人はさっそく喉を潤した。
男は代わりに友人の空のグラスを手元に寄せる。
時計の針は六時十分を回った具合だ。
きりきりりり──コオロギはまだ、どこかで鳴いている。
ふと、懐かしさを覚える旋律と歌声、耳に入ってくる音楽に気が付いた。
その頃には友人は既に、奥のテレビに顔を向けていた。
ギターだ。
顔は出さずに首から下までが画面に写っていて、黒髪や薄灰色のインナーカラーが肩になだれ、熟れた柿色のギターを怠惰な指先と透いた曇り声とで弾き語る。
友人が好きなアーティストだった。
「そういえば弾き語り動画が特集に取り上げられるって話してたんだよ」
フォークソングのカバーらしい、それも選曲がなかなか古く、特集自体が『若者による古き良き邦楽曲カバー集』だからと言うより、時代に囚われない姿勢なのだと友人が言っていた気がする。
数年前の話になるが、路上ライブをしていたのを友人と見かけて、その時から友人が特に熱を持って推していた。
雨音を縫う繊細な歌声と鮮やかに弦を弾く姿が印象的で、ずっと変わらない聞き心地の良さだった。
「ペンライト振りて〜」
「この曲に…?」
男も久しぶりに聴いた楽曲とその声質に、心が左右に揺れ動いていた。
友人は、偉そうというか、私が育てましたと言わんばかりに誇らしげだった。
入店のウッドベルが鳴って、男は入口の自動ドアからやってきた三人にこっそりと目を向けた。
その中の一人、眼鏡をかけた男性と目が合った。
「来たぞ」と男が友人にそう言って目配せし、振り返った友人が三人組に「よお!こっちだ!」と声をかけた。
一様に挨拶を済ませて、眼鏡をかけた男性が長靴を脱いで最後に座敷へと上がり、男の横に腰を下ろす。
「え、ハイボールだなんて珍しいですね」
と話しかけてきて、他の人も「あ、本当だ」と同調していた。
「え、あぁ…」
生憎、人付き合いの下手な男は乾いた笑いを返すのみであった。
友人は男から受け取った酒を飲み干すばかりである。
「今日は何を話されていたんですか?」
「ん」
友人はグラスを置いて、男を一瞥したかと思えばその後すぐ、また隣の顎髭の男性に視線を戻した。
「こいつがしょっちゅう博士を連れ出すからさ、普段どんな話してんだろうなって思って聞いたんだよ」
するとその視線はこちらに向いた。
「どんな話されるんですか?」
「酔いつぶれたこいつと同程度の話」
「あぁ、なるほど」
「理知的で生産性のある会話ってことだな」
斜め前に座った他の二人がメニュー表を見ている間、横に座った細目の男性に聞かれた。
「機械の調子はどうですか?」
どう、と言われても。
「特には」
変化がないと言うくらいしか男に術はなかった。
「なら、良かったです」
何が良かったのだろう、なんて男は考えてしまう。
交わす語彙が少ないだけだと分かっていながら。
皆が注文を終えた頃には、喧騒が広がっていた。
「それでさ――」
話が弾んでいるのを横目にしながら、いつの間にか空だったはずの窓際のテーブル席にはいくつかの人影が立っていることに気が付いた。
飛び交う言葉で店内の熱気の膨張を四方から感じ、それを意識すると何故だか息苦しさを覚えるようになる。
男はもう冷たくもないジョッキから、それでも目が離せなかった。
きりきりりり…!
また、コオロギは声を大きく響かせた。
「コオロギ?」
「常連さんだよ」
そんな会話が周りでされる。
音の途切れる間隔は短くなって、よもや鳴かない時間の方が少ないのではないだろうか。
ずっとそればかりを耳にしていた男は、今もどこかで鳴いているコオロギのことを子供らしいと感じて、人知れず疎外感を分かち合った。
友人は空のグラスを置いて、立ち上がりながら、
「よし。トイレ」
そう言って、男と目が合った。
「テスラテスラ」
は?としか出てこなかった。
そのまま友人はこちらに背を向け、靴を履き、お手洗の時に小走りで駆けていった。
「何かの呪文ですか?」
と斜め前から男はそう聞かれた。
「さぁ…?」
その後、周りでしばしば会話が続いているが、男が口を開くのは、小物を摘み、食らう時だけだった。
視線は意味もなく、メニュー表をなぞった。
「そういえばこの間の百鬼夜行見ました?荒川に沿って長い距離で行われたそうなんですけど」
男は振り向くと隣の男性が顔を向けていた。
「見なかったな」
男はそう答えた。
「巨大な鶴が飛んでいたらしいですよ」
へぇ、それは、縁起が良さそうな・・・男は思うが、声には出さなかった。
「縁起がいいって話題になってた奴だ!」
他人の声ばかりが自分の耳の内で反響していく。
毎度のことながら、こんなにも自分は喋れない人間だったか?と男は思い返す。
それも、最近は博士とよく話すし、一緒に外へ出るようになったから尚更のこと。
博士とは上手く話が回るのに、考えずとも返答が自然と思い浮かぶのに、何だかぎこちない人間を実感している。
頭の中が空っぽで仕方がなかった。
原因が自分にあるというのは理解しているが、今更、それを直すのは面倒臭いというか、妙な恥じらいが生まれてしまって、そう、その男は面倒臭い人間なのだ。
しかし、今まではそれで不都合はなかったのだが、今は深くに虚無感がぎゅっとあった。
きりりり・・・と、どこにいるかも分からないコオロギ。
男は、自己啓発の耳鳴りを挿す・・・寒いくらいの風を浴びた。
家までの帰り道、いつものように人気のない土手を通った。
空は暗黒で、月明かりもない夜の街には心もとない街灯だけが慎ましく道を照らしていた。
『また今度飲もう』
腕時計を見ると友人から連絡が来ていた。
『そうだな』
と返して画面を閉じた。
腕時計が映す時刻はまだ七時にも至ってはいなかった。
錆びて鈍い足を繰り返し進めながら、川の方に目をやった。
その前に道端に咲き誇っていた菜の花がもうほとんど枯れていたことに気付いた。
花は、一日一日枯れていく。
それから、堤防を下った水際に傘を差す人影が薄らと見えた。
今日も対岸の工業地帯でも見ているのだろうか。
一応は有名な夜景のようだから。
男も何とはなしに立ち尽くして、その姿を見ていた。
そうしていると、耳鳴りも無視して虫の声が強く責め立てるかの如く耳元まで迫って聞こえた。
コオロギを置いてきてしまった。
友人の言う罪悪感が、今になって染み出してきた。
そこは、高架線路の下だった。
前後左右、夥しい数の頭が揺れ動いていて、男はその合間を縫うように進むしかなかった。
人々の頭上に壁から飛び出す形の看板広告が、手の届かない高さから冷ややかな顔を合わすよう、第二南口までずっと続く様がある。
そこには指導者の静止画だけが、そればかりが繰る。
焦るように足は早く、早くなっていく。
男は、白い通路を抜け、あの部屋のドアを開いた。
目に飛び込んだのは、黒ずんだ赤い…血液だ。
「え…?」
男の頭は真っ白だった。
博士がうつ伏せに倒れ、背中にはナイフが刺さって床には血溜まりが出来ていた。