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右目のこの痒みがしつこくて、右手人差し指のつけ根あたりで懸命にこするのだが、それがさらなる痒みを呼ぶ。痒いのはたぶん白目の部分。自分の白目は見ることも嗅ぐこともできないというのに、そこはカビの土台になってしまったような不潔感を患っていた。この不潔というのは、汗にしても垢にしても、往々にして痒みを伴うものである。私はここ数日、目の不潔になやまされているのである。
「少し前から目の痒みが治まらなくてね。」
「本当。実は僕もなんだ。」
ある日そのことを友人に打ち明けた。すると奇遇にも、彼も私と同じく目の痒みが治らないのだといった。お互いに医者を頼ることはなく、そもそも私たちは医者嫌いが縁で始まった仲であった。しかしあるのは共通点ばかりではなかった。話しを進めるうちに、相違点というのも見られたのだ。それは互いの痒みの種類であった。
「本当かい。目の痒みというのは不潔な感じがして嫌だよねぇ。」
「不潔?僕は羽毛に触れているみたいに痒いよ。もう目から生えていると言ってもいいくらい密接さ。」
彼曰く、目の痒みというのは羽毛であるらしかった。言われても私にはピンと来なかったが、その様子を見て始まった彼の熱弁のうち、「指で目を擦るとよけいに痒くなるのは、それに合わせて眼球付近の羽毛も動いてしまうからだ」という説だけは、たしかに納得できるものがあった。とは言いつつも、それで私の意識のカビが羽毛に変わるようなことはなく、結局その日、私は家にカビを持ち帰ることとなった。経過した時間の分、カビは目をさらに広がっているような気がした。
帰宅して早々にすることといえば、手洗いうがいである。これはおそらく生涯変わることはない。結局はこれも同じで、個人の意思は消えて形骸化してしまっているとはいえ、実際に外から帰ってきた手や喉は汚れて不潔であり、その不潔は目に見えずとも、落とさなければ必ず痒みを呼ぶのだろう。私は今までに手洗いうがいをサボったことがなかった。
ひねった蛇口からの水に両手を通し、左手でつくったお椀にハンドソープを出して合掌。昔ながらの固形石鹸ではこの清潔感はなかっただろうな、とぼんやりしていたらうがいまでも終えていた。
そして今日も、私は右目が不潔だった。ハンドソープは目に毒だが、洗ったばかりの右手にもう一度水をかぶせ、カビの痒い部分に撫でて当てた。このときの、目の熱が引いていく感じは気持ちがよく、もしもこの水道水が白目のカビを育ててしまうのだとしても、なかなか目の水洗いをやめようという気にはなれなかった。やはり明日も、昨日今日のように水洗いを目に施すのだろう。明後日にはやめよう、一昨日に決心したことを私はとっくに忘れていた。