赤い舌
よく、奇妙な夢を見る。
子供の頃から、ずっと。
それも。
壊れたレコードみたいに、同じ夢ばかり。
例えばそれは、こんな風に始まる。
深夜。
僕が一人、仰向けに寝ていると。
誰かがそっと、布団の裾から潜りこんできて。
爪先から順に、赤い舌を這わせてくる。
実際に、見えている訳ではないけれど。
なぜか、その色だけが、鮮明に浮かんでくる。
――― ああ、またこれか。
恐怖し、嫌悪する僕を揶揄うように。
その両手は、僕の両足を掴み。
生温かい舌は、膝から太腿を舐め尽くし。
やがて、僕自身を柔らかく捕らえてくる。
あの、熱い何かに包まれる時。
痺れるような感覚と、微かな羞恥とに襲われて。
たちまち、体は竦み上がり。
必死に、それから逃れようとした途端。
はっと目が覚める。
びっしょりと、汗をかきながら。
けれど。
僕は誰にも、そのことを言えなかった。
何かは知らないけれど。
話してはいけないことのような気がしたのだ。
そして、残された感触が言う。
これは、悪いことだと。
罪深いことだと。
だから。
親にも、兄弟にも言わずにおいた。
二浪して、ようやく入った美大で。
上原教授に会うまでは。
「君のモティーフは、蛇が多いんだな」
キャンバスを眺めながら、彼は言う。
長い前髪をかき上げながら。
「そうでしょうか」
「そう。前回も、今回も…」
「気付くと、そういう形になってるんです」
「ふむ」彼は、また髪をかき上げる。「大体、想像は付くけれどね」
「どういうことでしょう?」
「いや。蛇を描くことが問題じゃないよ。問題は、これを殺せないことだ」
「え?」
「失礼だけど…幼少時に、虐待されたことは?」
「いえ、ありません」
「神話に興味は?」
「いえ、全く…」
「機会があったら、一度読んでみるといい。ヘラクレスでも、カドモスでも、建速須佐之男命でも」
「…はぁ」
僕には、教授の考えていることが判らなかった。
そして。
どうして彼が、僕の絵に繰り返し現れるそれを、蛇だと見抜いたのか。
何故、蛇殺しの神話を読めというのかも判らなかった。
その夜。
僕は家へ帰り、そのまま部屋に篭った。
念のため、きちんと鍵をかけてから。
昼間の不安を抱えたまま、本屋の紙袋を取り出して。
教授に言われた通り、ギリシャ神話と古事記、日本書紀を読む。
その途中。
母が一度、僕を呼ぶ。
「俊ちゃん、夕ご飯は?」
「大学で済ませてきた」
「そうなの?」
彼女は、残念そうに言うけれど。
僕はなるべく、顔を合わせたくなかった。
父を亡くしてから。
彼女の僕に対する態度は一変し。
まるで恋人のように、干渉してくるようになったから。
それから、夜中まで本を読み進んだものの。
勇壮な神々の活躍と、僕の奇妙な夢との関連性は判らなかった。
頭に適度な疲労を感じた僕は、諦めてベッドに潜り込む。
あの夢を見たくないから、なるべく横向きに寝るようにしていたのに。
この夜に限って、何故か、仰向けに寝てしまったようだ。
そして。
また、あの夢が始まった。
いつもと同じだ。
僕の足指を舐め、太腿を這い上がり。
トランクスのボタンを外し、僕を愛撫し始める。
熱い粘膜に包み込まれる感覚と、それに伴う屈辱的な快感。
次いで、柔らかな舌が、じわじわと舐め上げてくる。
――― 駄目だ。
これは、いけないことだ。
この日に限って。
僕は、父の形見のパレットナイフを傍に置いていた。
微かな理性の中で、右手を伸ばした時。
その木製の柄に触れた。
それから。
僕を喰らい尽くそうとする、得体の知れないものに向かって。
渾身の力を込めて振り下ろす。
神々の加護を祈りながら。
その刹那。
ぎゃあ、と声がして。
僕の体に、激痛が走る。
生温かい血が、見る間に広がっていくのが判った。
これは、夢ではない。
そう確信して、布団をめくった時。
僕はそこに、思わぬものを見た。
そして。
そのことが、信じられなかった。
血を流してのたうち回る、大きな蛇。
いや。
それは、蛇ではなく。
もっとずっと、恐ろしいものだった。
「…それで、その後どうしたんだい?」
教授が、優しい目を向けてくる。
僕の肩に、手をかけながら。
「幸い、怪我をしたのは僕だけでしたよ」
「どうしてまた?」
「…言わなきゃいけませんか?」
「いやいや。大体想像はついてるよ」彼は、くすくす笑った。「しかし、咄嗟にナイフを逆に持つとは。君らしいな」
「万が一のことを考えたんです。犯罪者にはなりたくなかったから」
「なるほど。実に慎重だ」
「退院してから、速攻家を出て。もう、帰るつもりはありません」
「それが、正解かもしれないね」
彼は微笑みつつ、近くの丸椅子に腰を下ろし。
胸ポケットから、煙草を取り出して火を点ける。
その青い煙を眺めながら。
僕は、かねてからの疑問をぶつけてみる。
「…教授」
「うん?」
「どうして、蛇だと判ったんですか?」
「君の絵のことかい?」
「はい」
「まだまだ、勉強が足りないようだね」
「……」
「有名なモティーフだよ。蛇というのはね。古代からずっと、繰り返し描かれている題材でもある」
「そうですね」
「蛇は、母性の象徴でもある。絡みつき、君を支配するものだ」
「……」
「蛇殺しの絵は、母性からの訣別、独立を意味している。判り易いだろう?」
「…ええ」
「だから、まずはそれを殺さなくてはと。僕は言ったんだがね」
「そういうことだったんですか」
「まあ、大した傷じゃなくて良かった。嫌な記憶にはなっただろうけど」
「はい。まさか、合鍵を作られてるとは思いませんでしたから…」
僕が溜息と共に、絵筆を置くと。
こんこん、と、ドアをノックする音がして。
その陰から、ひょっこり千夏が現れた。
「俊之、もう帰れる?」
「あ、うん。外で待ってて」
「メールもくれないんだもん。不安になっちゃった」
「ごめん。それどころじゃなかったから…」
「何よそれ?そういう言い方しなくてもいいんじゃない?」
「まあ、ちょっと待って」僕は慌てて、教授に向き直る。「すみません。貴重なお時間を」
「ああ、いいよ」彼は、鷹揚な笑顔を返す。「では、また明日」
「はい、お先に失礼します」
「あ、そうだ」
「はい?」
「蛇の意味するものは、必ずしも、母親とは限らないからね」
「……」
「それを、忘れないように」
「…はい」
教授の言葉を、胸に残したまま。
広い廊下へ出ると、千夏が待っていた。
「指輪、買ってくれる約束だったでしょう?」
「あ、うん」
「何処行こっか。予算、幾らぐらいある?」
その時。
僕はようやく気付いた。
嬉しそうに僕を見上げ、腕を絡めてくる彼女の肌が。
奇妙に、冷やりとしていることに。
「あたしも半分出すから、お揃いのを買おうね。授業中も、合コン中も。絶対に外さないでよ」
笑う彼女の口元から。
ちらりと、赤い舌が見えた。
「もう、俊之は、あたしだけのものなんだから…」