02:友情は忙しない
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――別れてよ、あなたの瞳に私は映っていないから。
次の日の朝、佑芽は古い記憶の残像にうなされるようにして目を覚ました。
「いってぇ」
そのとき、見事なほどのひねりを加えベッドから墜落し、したたかにそのあまりなにも詰まっていない頭を床に打ち付ける。
後転に失敗したとでもいうのだろうか、自分の膝がそれぞれの瞳のすぐ近くにあるといったような変な姿勢で佑芽は意識を覚醒させた。
「絶対あいつのせいだ」
悪夢を見ることになった原因に苦言を呈しながら身体を起こそうとする。
その時に目に入った時計盤は六時三十分の到来を示していた。
いつも設定している目覚ましの時間よりも約一時間早い。
「最悪じゃねえか」
布団に戻ってもう一度寝ることも考えた。
だが、それをする気にはなれなかった。
あまりにもしわくちゃなったベッドシーツの姿に加え、悪夢を見た後に起きてもう一度寝ると同じ夢を見やすいという経験から、二度寝するのを諦める。
佑芽は深くため息を吐きながらカーテンに手を掛け、シャーという心地の良い音を立てながらその手を引いた。
「曇りか。雨降らなきゃいいな」
目に飛び込んできた少し薄暗い灰色。それを見るだけで気分が沈んでしまう。
「歯磨きしてシャワーを浴びよう」
寝ぼけた頭でそう呟く。決まりきった行動だからこそ何も考えずに身体を動かす。
逆に途中から意識してしまうと、右の奥歯は磨いたよなとか言ってしまいそうによくなるから注意だ。
そうして歯磨きをそこそこに佑芽は寝巻を脱ぎ始める。
歯ブラシが引っ掛からないようにシャツを丁寧に脱がし、ズボンはパンツごと一気に下ろす。
そうして目をこすりながら洗面台にやってきた。
「――ペッ。ひどい顔だ」
ある程度寝ていたはずなのに目の下にクマがある。
これもあの悪夢――しいてはあの頭のおかしい少女のせいだろう。
ほんと、気疲れする。
入念に歯ブラシを水ですすぐと、百円ショップで買った歯ブラシ立てにある穴に挿入した。
カランという音が鳴った。
「……」
四つも入れる部分があるというのに刺さっているのはたった一つだけ。
それが自分の現状を表しているようで虚しくなる。
「あ~あ。まともな結婚相手が欲しいよ、まったく」
自分の腕に指を這わせながら佑芽はそう悪態をついた。
鏡に映る己の肉体。
運動をあまりしないにもかかわらずあまり肥えていないおなか。
胸や肩の厚みも昔と変わっていない。高校を卒業して七年経とうというのに、この容姿はあの日からあまり変わっていない。
その腕に残るミミズ腫れも。
「宇宙人っていると思うか」
大学に通っている間だけ借りれる限定優良物件の学生マンションから出ると、すぐに大きな公園が目に入る。
陸上競技場の位の大きさのそこは、二十四時間三百六十五日というフルタイムでにぎやかである住民の憩いの場だ。
中には石造りの灯篭や仏像、ちょっとした川に偉人の大きな青銅像など様々なものもある。
樹木の数も多く、一種の森のようなものを形成していた。
広場には、黒塗りのシンプルなスケートボードを片手に多くの若者が今日も集まっている。
少し柄が悪そうに見えなくもないが、このご時世に外で趣味に興じている時点でそれなりに言い人格を持っているのだろう。
そんな公園を抜けるとすぐに国道にでた。
片道四車線の大通り。
地方にから出てきたものからすればこれだけでもかあるチャーショックを受けるらしい。
前に大学の同級生だったやつからの話だ。
その通りに沿って歩いて三つ目の信号。
それを左折して、ラーメン屋やコンビニを通り過ぎるとようやく目的地にたどり付く。
Closeと書かれた札がかかる扉を容赦なく開け、奥にいるのであろう人物に向けて挨拶をした。
その後、制服に着替えるために厨房の隣にある更衣室に向かう。
そこから出てきたとき、ちょうど開店時間になっていたようで何人かの人影がすでに店内にいた。
その中の一人。
多くの参考書をそばに侍らせながらしきりにシャーペンを動かしている男に佑芽はそう問いかけた。
「はあ?」
返ってきたものは怪訝といった感じでこちらを見てくる瞳と、少しだけ怒気を孕んだかのような声音だった。
「頭でも打った?」
何にも包むことなく暴言を吐いてきたそいつは、細いステンレスのフレームに指をあてきらりと眼鏡を光らせる。
名前は楠下翼。
あだ名はもちろんクツシタ。
高校生時代からの親友であり、一浪して医学部に合格した秀才であり、しっかりと大学院にも進学している。
自分とともに今年で卒業見込みである。
なぜ一般大学生と医学部の卒業年度が一緒なのかは察してほしい。
それともうひとつ、一番重要なこと。
彼女持ち。
「はぁ……」
「なぜため息を吐くの。自分から求めてきたくせに」
「そんな当たり前のことを求めているわけねえだろ」
「じゃあ、なんて言ってほしいのさ」
佑芽から目をそらした翼は目をそらしながらため息を吐く。
「キャトルミューティレーションってあるだろ」
「あの牛が攫われるやつのこと?」
「そう、それ」
パチンと佑芽はフィンガースナップをして翼を指さす。
「あれ、正確にはアブダクションっていうらしいよ」
「だから、そういうインテリな答えは求めてねえんだよ」
あまりに堅すぎる回答に憤慨した佑芽は、ピンと伸ばした指をそのまま翼の頬に突き立てる。
「どんぅなぁことをもとめてぇるのさぁ」
「もう少しファンタジーに富んだ答えだ」
佑芽の手を払いのけた翼は深いため息をついて口を開いた。
「まったく。……人間は万能じゃないんだから、今はいないと言っていても未来で居るといわれるんじゃない。そのくらいしか言えないよ。もしかしてUFOでも見たの」
「それは見てねえけど、宇宙人と疑いたくなるくらいの人格を持った人物なら出会った」
その時の光景を思い浮かべながら、佑芽は遥か彼方を見つめるように遠い目をした。
「なんだよ、それ」
「俺はあれを同じ人間だと思いたくはない。俺の脳が自分と同種だということを拒否している」
「ほんとに大丈夫? やっぱり頭を打ったんだね」
カタカタと身体を震わせる佑芽に対して、翼はその眼鏡の様相からは想像もできないほどの優しい雰囲気を放ちながら心配してくれる。
見た目で損している、それが彼のひととなりを知っている人の総意だった。
「おう。今朝起きるときに頭を打った」
「あっ、頭を打ったのは本当だったんだ」
佑芽のカミングアウトにキョトンとした表情になる翼。
勉強を中断させたことに対して不快感を示そうとしていたことなど、とうの昔に忘れているようだ。
「そういえば」
翼の姿勢がピンと伸びる。何かを思いついた時の彼の癖だ。
「ここ最近宇宙人がストリートのバスケットコートに出るっていう噂になっているけど、佑芽は知ってた?」
佑芽の目が点になってしまう。
それを見てか、翼は不思議なものを見るような顔をしてこちらを見つめてきた。
「どうしたのさ」
「いや、だってさっきまで宇宙人がいないとか言っていた奴が、急に宇宙人が出没しているなんて言ったら驚くに決まっているだろ」
「ああ、そんなこと言ってたね」
とぼけるように明後日の方向を見つめる翼。
その様子に苛立ちを募らせ始める佑芽だったが、当の本人は気にした様子など一切なく話を続ける。
「荒らしっていうのかな。この近くのバスケットコートに宇宙人のマスクをかぶった女性が現れるらしいよ。なんでも、手あたり次第に勝負を挑んでいるようなんだ」
「ふ~ん」
「なんか興味なさそうだね」
「それだけだったならな」
ストリートに変人が現れることはそれなりにある。
本場のアメリカでは、ヒーローのコスプレをした集団が大会で優勝することも珍しくはない。
そういう事情を知っていたからこそ佑芽はあまり関心を持てなかった、次の言葉を聞くまでは。
「なんでも、大の男をボコボコにしてしまうくらいに強いって話だよ」
「なに」
翼からもたらされた情報に思わず変な声を上げてしまう。
「あっ、少しだけ興味が出てきたね」
「ああ。ストリートバスケをやっている連中は、伊達にそこに入り浸っているわけじゃねえからな。そいつらに勝てるということは相当の実力者なんだろ。それも女性と来た。さすがに気になる」
腕組をして真剣に話を聞こうとする佑芽。
その態度に気分を良くしたのか、翼は声のトーンを一つ上げた。
「引退してもバスケットマンだというところは変わってないね」
「一線から退いただけだがな」
本当に好きなものはずっと好きだ。
時間があれば手を出してみたくなる。
それが人間の性だろう。
だからこそ、本格的にはやってなくても趣味程度は遊んでいる。
自分にとってそれがバスケだっただけのことだ。
「戦ってみてえな」
「佑芽でも1on1ならできるしね」
「……ああ、そうだな」
翼からのその言葉に佑芽は伏目になりながらそう答えた。
「あ!」
急に翼が声を上げる。それは静かな店内に広がっていき変な残響を残して消えていく。
「どうした?」
「もうすぐ講義が始まる時間だった」
「逆に聞くけど、午前中に講義があるにもかかわらずここに来たのか」
「ここのエスプレッソを飲まないと僕の朝は始まらないんだよ」
呆れた。
もともと変なこだわりがあるような奴だ。
そういうルーティーンがあってもおかしくはないのだろう。
でも、たった十五分くらいしか居れないとはわかっていながらもここに来るのはどうなのか。
こちら側からすれば上客であるし嬉しい限りだが、ここまでの融通の利かなさは心配になる。
そんな想いとともに佑芽がため息をついていると、翼は慌てたように荷物をまとめ始めていた。
「慌てるくらいだったら無理してこないほうがいいぞ」
「ここに来る理由は君の監視の意味もあるんだよ」
「……彼女にでも言われたのか」
「よくわかったね」
「伊達に長い付き合いじゃないからな」
翼の彼女さんとはそれなりに顔見知りだった。
それどころか、彼らを結び付けた人物の一人が佑芽だったといっても過言ではない。
「心配してたよ。いまだに大学を卒業していないのかとか」
「お前を待ってあげてたんだよ」
「よく言うよ」
呆れたような視線を向けてくる翼。
それに対して思うことがないわけではなかったが、どう頑張っても勝てない気がしたので黙っておく。
「今年こそは卒業してね」
「求人案内次第だな」
「またそんなこと言う」
お母さんのようなことを言ってくる翼。
世話を焼くとこに苦言を呈そうと佑芽は自らの口を開きかけてやめた。
瞳に飛び込んでくる綺麗な黒髪。
男にしては長く女にしては短いと感じるくらいの絶妙な髪の長さ。
切れ長の眉に大きな瞳。
頬は柔らかそうにふくらみ、ぷるんと震える唇にはリップが塗られているのであろう。
うん、なんか、あれであった。
「お前が彼女でもいい気がしてきた」
「な、なにを言っているのさ。僕にはすでに先客がいるから駄目だよ」
「先客がいなかったらいいのか?」
「ううっ」
先ほどの声に少し苛立っていたのだろう、いじめたいという気持ちが少しだけ出てしまった。
「冗談だよ」
嘲笑するような笑顔をした佑芽は、こつんと翼の肩をたたいた。
別に同性愛者というわけでもない。
翼に粗相を起こそうと思ったこともない。
ただ、将来への不安からそんなことを思ってしまったのだろうと納得した。
「ほら、講義に送れるぞ」
「う、うん」
いまだに呆けている翼に声を掛けた佑芽は、彼の目の前にラッピングされたクッキーを置いた。
「お詫びだ。これで機嫌を直してくれ」
「本当に冗談じゃすまないんだからね。もう二度と人前で言わないでよ」
「人前じゃなかったらいいのか」
わざとかと思うほどに餌を掲げてくるその状況に佑芽は口を挟まずにいられなかった。
「もう……」
その言葉に翼は頬を膨らませ、もう知らないというようにバックを背負って立ち上がる。
「翼もストリートバスケをよくやるんだから気を付けるんだよ。本当は賭けバスケも今すぐやめてほしいんだから」
「わかってるよ」
「本当かな」
深くため息を吐く翼に対して佑芽は親指を立ててやった。
「気を付けてよ、その宇宙人と思うくらいにぶっ飛んだ女の子にもね。キャトられたら笑い話じゃすまないよ」
おちょくられているのにも関わらず、さらにお節介を焼いてくる翼。さすがに煩わしく感じてきたのでそっと自然に終わらせることにする。
「またのご来店を心よりお待ちしております」
「もう知らないっ」
最後にそれだけを言い残して翼は店から出ていく。
佑芽のよくある日常の一風景だった。
「……やっぱり彼女でもいいな」
冗談半分本気半分。
そう思ってしまうほどに翼はかわいいやつだった。
願わくは、自分と違ってまっとうな生き方をして幸せになってくれることを切に祈る。
窓から彼の背中が見えなくなるまで見つめた。翼が社会の雑踏の陰に姿を消した頃合いを見計らって踵を返す。
「マスター、そろそろ焙煎を教えてくださいっすよ」
恒例の朝活を終えた佑芽は、角の席で熱い声を上げる奥様方の声を聞きながらそう口を開いてカウンターに向かった。
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