(3)全裸から始まる異世界生活
体が風を切る感覚に横助ははっとして目を開く。だがすぐにまた目を閉じた。横助の体は空の中にあって、あり得ない高さから地面に向かって真っ逆さまに落ちていたのだ。だがすぐにはそのことを認識できなかった。恐怖心よりも吹き付ける風に横助は目を閉じた。
しかし徐々に自分の体が落下中であることを理解し始める。眼下に広がる緑の大地。少しずつ近づいていくその景色を見ながら横助は女神の台詞を思い出した。
『私がもう一度手をかざすと、あなたは白い光に包まれて、目を開けると異世界にいます』
確かに白い光に包まれて、目を開けると異世界にいた。
(でもなんでわざわざ上空からスタートなんだよ!!!)
心の中で悪態をつく横助だったが、それでも落下は止まらない。そのまま雲を突き抜けて、横助の体は下へ下へと落ちていく。
(くそっ!)
吹き付ける風に目を細めながら横助は改めて地上の様子を確認する。波打つ丘と丘に囲まれた場所に何やら街らしき建物の密集地帯が見えた。真ん中がぽっかりと空いたドーナツ型の街だ。その奥には雪を被った山脈がある。真下は一面の草原で、遠くの方に砂漠も見えた。
(ほんとに異世界なのか……)
横助は改めて思う。正直女神の前にいるときはこれが夢である可能性も考えていたが、今こうして風を切る感覚は紛れもなく本物だった。しかし感心している場合ではない。夢でないということは、実際に今横助の体は地上に向かって真っ逆さまだと言うことになる。
秒刻みで近づいてくる地面に、横助は早くも死を覚悟した。見えていた景色が左右に引き延ばされていき、森としか分からなかった場所に細かな木々が見え始め、木々に隠れて見えなかった池がすぐそこまで迫る。
(あ、もう駄目だ)
このまま水面に叩き付けられて死ぬのだと思ったその時。今まで猛スピードで落下していたはずの横助の体が急に魔法でもかけられたかのようにふわりと停止した。
「は?おわっ!?」
そして何が起ったかと思う間もなく横助の体は再び動き出し、そのまま池の中に落ちた。
バッシャーンッ!!!
しんとした森にその音が響く。しかしすぐにまた静寂がやって来る。
一方水の中の横助は命の危機に瀕していた。落ちた拍子に水を飲んでしまい、反射的に咳き込んだせいで完全に酸素不足に陥っていた。体が冷えて、視界が少しずつ狭くなっていくのを感じながら、横助は必至に水を掻いて水面を目指す。
「ごはぁっ!ごほっごほっ!!!」
一瞬、水面に出た横助は大きく息を吸うが、また咳き込んでしまう。しかしその一瞬で岸の方向を確認すると、再び沈もうとする体を何とか動かして水の中を進んだ。
しばらくそうして迫り来る死から必死に逃げていたが、やがて右手に硬い土の感触があった。その瞬間消えかけていた意識が覚醒し、どこにそんな力が残っていたのだろうかというほどの勢いで左手でも地面を掴んだ。そして残された生命力をフル動員して、何とか岸に這い上がった。
「ごほっごほっ!ごほっごほっ!!…………はぁ……はぁ……」
何度か咳き込み、肩で息をする。段々と体中に酸素が行き渡ると、耳や鼻に感覚が戻ってきた。森の匂いや風の音。生きているという実感に横助は全身の力が抜け、ドサリと仰向けに倒れる。木々に囲まれた森の中だが、池の周りだけぽっかりと開いていて空が見えた。今まさにここを落ちてきたのだと思うと横助は全身の毛穴が開く思いだった。
(しかしまあ、静かだなぁ)
死ぬ思いをした反動か、横助の心は森の静けさを映すように落ち着いていた。爽やかな風が横助の体をなぞる。股間が寒い。
(そうだ、俺って今、裸……だよな)
ここがどんな世界なのかは分からないが、街があったということは、少なくとも全裸でウロウロしていても大丈夫な世界でないことは確かだった。
横助はキョロキョロと辺りを見回す。池を囲むようにして茂る木々や草花。植物の感じは横助の世界とあまり違わない様に見える。
ふとその中に見慣れない植物を見つけたので横助は近づいて確認してみる。見慣れないと言っても、作りは特に他の植物と変わらなかった。果たして光合成をしているのかは分からないが、普通に根を張り、葉を広げている。ただその葉というのが異常に大きかった。それもただ大きいというのではなく縦に長かった。ちょうど人間の腰一回り分くらい。
「…………いけるか」
横助は葉の柄の部分を両手で掴み、捻るようにして葉をちぎり取った。腰に巻いてみると見事に横助の腰一周分の長さがあった。丈も問題ない。そこで巻き付けたはいいが止めておく手段がないことに気付いた。だが都合のいいことに切り口から粘性の液体が漏れ出していたので上手い具合に固定することが出来た。
「うん、いい感じだ」
横助は満足げに頷く。これで一応、大事な部分だけは隠すことが出来た。全裸に葉っぱ一枚。変態であることには変わりないが、全裸よりはマシである。
(つーかパンツがないから葉っぱで代用するとか、逞しすぎるだろ俺……)
ほぼ毎日コンビニエンスストアを利用し、分からないことは全てネットで調べる生粋の現代っ子だったとは思えない図太さに正直横助自身が驚いていた。
しかし本番はここからだ。葉っぱ一枚なんて無課金ゲーマーも真っ青な装備から最終的に魔王討伐まで行わなければならない。女神曰くこの世界の横助は割と素でチートらしいが、さすがに今の状態で魔王を倒すのは不可能だろう。第一魔王がどこにいて、この世界にどんな影響を及ぼしているのかも分かっていない以上、とりあえず何らかの形でこの世界の人間に接触して情報を集めるのが先決だった。
(優しい人に出会えるかどうか、そこがポイントだな)
争いに溢れ、陰謀が渦巻く。ここがそんな殺伐とした世界でないことを祈りつつ、横助は森の中に入っていった。
森の細い小道をしばらく歩きながら、横助は周囲の木々を観察した。どこかで見たことあるようなものも多いが、明らかに横助の世界にはないだろうと思われる変わった色や形の植物も多々あった。
(さっきは何も考えず触ったけど、一応毒とかも気をつけた方がいいのかな……)
そんなことを考えながら横助が歩いていると、突然森の中から女性の悲鳴が聞こえた。
「キャー!!!」
悲鳴は横助が歩いている道から少しそれた先から聞こえてきた。
「や、やめて!来ないで!」
続けて声の主が誰かに襲われているような言葉も聞こえてくる。声の感じからみてかなり若い女性のようだ。もしかすると子供かも知れない。
横助はとりあえず声のする方へと森をかき分けて進んでみる。
しばらく行くと、鬱蒼とした森の中にそこだけ光が差し込んでいる場所があった。それから長い黒髪の少女が一人、地面に座り込み怯えた目で何かを見つめている。おそらく先程の声の主はこの少女だろう。
(でも一体何に…………っ!?)
少女の視線を辿った先、そこに見えたものに横助は驚愕した。ここが異世界であると言うことを早速思い知らされたのだ。
体長三メートルはあろうかという人型の巨体に隆々と盛り上がる筋肉。深緑色の体に腰布だけを巻いている。そして何よりその顔。猪のような潰れた鼻と下から突き出す牙。それはまさしくオークであった。オークが今にも襲いかからんとその少女の眼前で息を荒くしていたのだ。
横助は思わず木の陰に身を隠す。この少女がこの後どうなるのか。犯されるのか、あるいは殺されるのか。どちらにせよただでは済まないことは確かだった。しかしそんな現場を目撃して、横助は隠れてしまった。
しかしそれも当然である。横助にとってオークなんてものは想像の世界の生き物で、漫画やアニメでしか見たことがない。それに今、飛び出したところで何が出来るのか。今まで人並みの人生を歩んできた横助はモンスターどころか人間ともまともに戦ったことがない。もしこれがチンピラに絡まれている女子高生なら、まず間違いなく見て見ぬ振りをしただろう。
だが一方で見過ごす事への罪悪感も横助の中にはあった。今まで困っている人を見かけても何かと理由を付けて無視してきた。横助はそんな自分が心底嫌いだった。常に変わりたいと思っていた。いつかは、機会さえあればと思っていた。その『いつか』は今をおいて他にない。
(俺は……あの子を助けたいのか)
そう思ったその時、横助の体に突如力がみなぎった。突然の出来事に横助が狼狽えると、それに呼応するように横助の中の力も揺らいだ。
(魔法とは精神、思いの強さ……)
横助は女神の言葉を思い出す。もしこの力が少女を助けたいという思いによって生じたものならば、次にすることは決まっていた。脳裏に女神の声が反響する。
『それを実現させるだけの想像力。勇者よ、炎を────』
(炎を、想像する……!)
突如、横助の拳にボウッと炎が灯った。赤く揺らめく炎に、横助は反射的に熱いと思ったが、すぐに熱くないことに気付く。しかし燃えている感覚は確かにあった。
「本当に、炎が宿った……」
横助は放心したように呟く。だがここからどうするのか。拳に炎が宿ったなら、次にするのはその拳で敵を殴り飛ばすことだが、果たしてそんなことが出来るのか。女神の言葉を信じるなら、この世界において横助はかなり身体能力が高いはずだが、それは一体どれくらいなのか。三メートル近い巨体を持つオークを殴り飛ばすことが出来るのか。
(俺なんかに出来るのか?殴り方すら知らない、俺なんかに……)
横助は思うが、そうこうしている間にオークが少女に向かってその太い腕を振り上げる。
「────ッ!?」
その瞬間、横助は飛んでいた。飛びながら、自分が強く地面を蹴っていたことを知った。助けなければと思うよりも前に体が動いていた。横助の体はぐんぐんと進みオークに迫る。遠目でも大きかったが、近くまで来るとさらに大きい。本当に大丈夫かという思いが一瞬頭をよぎるが、もう遅い。
(最悪俺が囮になって……!)
横助は驚く少女を横目に見て、拳を引いた。一際大きい炎が宿り、拳から肘の辺りまで燃え上がる。
「吹き飛べぇぇぇぇっ!!!」
そう叫びながら、ようやく横助の接近に気付いたオークの顔面に燃える拳を叩き込む。
ドゴッという鈍い音と共にオークの巨体が傾いた。横助がそのまま拳を振り抜くと、オークは炎を引き連れ、木々をなぎ倒しながら森の奥まで飛んでいった。そしてちょうど直線上にあった巨木の幹にぶつかって止まる。元々潰れていた鼻はさらにへこみ、炎の影響か黒い煙もくすぶっていた。
横助はそっと地面に着地して息を整える。拳の炎が消え、同時にさっきまでみなぎっていた力も霧散するように消えた。
「はぁ……はぁ……」
肩で息をする。緊張が解け、本音では今すぐ地面に倒れ込みたかったのだが、横助は何とか震える膝で体を支えていた。最後に言わなければならない台詞があったからだ。
「あ、あの……」
少女が震える声で話しかけてくる。
「お怪我はありませんか?」
横助は爽やかに尋ねた。我ながら決まったと思った横助だったが、少女の視線は真っ直ぐに横助の股間へと向いていた。
「ええ、私は大丈夫ですが……その……お召し物が……」
横助の足下には、お召し物と呼ぶにはあまりにもお粗末な葉っぱが一枚落ちていた。まだ先程のオークの方が立派のものを腰に巻いていた。
横助はバタンと仰向けに倒れた。