1作目 キュクロプス
ゆっくりと息を吐きそしてゆっくりと吸う。
体は感覚を失い、自身の薄っすらとした視界の先に見える草花が、
その指に絡みついているのさえ忘れてしまった。
背後に気配はない前方にも気配はない。
体の感覚を取り戻そうと指を動かすよう脳で指令を出す。
さび付いたような間接は軋みながらもゆっくりと絡みついた花を握る。
柔らかくつやつやとした茎は少しでも力を入れたら折れてしまいそうだ。
ゆっくりと自身の体が呼吸を取り戻そうと脈打つ。
指先では足りないと足が静かに動き出そうと震える。
忘れてしまうぐらいの時間の流れの中いつも目の前に出口は開けていた。
ここから逃げ出すのは容易い事だ、ある一つの事を除いては。
不意に背後から不気味な咆哮が響く。
地を這うように轟く声は獲物が逃げないように鋭く見張り続けていた。
恐怖からなのか分からないが、その声を聞くと体は眠りつくように動きを止めた。
再び動かなくなった指先から植物の呼吸を静かに感じる。
私にはなくなってしまった有機物特有の呼吸。
無性生殖で増えるこの生き物が
私よりもよっぽど命を輝かしているのが、実に皮肉だ。
感情が一切ない彼は私の存在など気にせずただ笑っている。
ここはとても素敵な場所。
ただし、キュクロプスには気をつけて、あなたが逃げてしまう事を恐れている。
そう謳うように伝えると彼はいとも簡単にキュクロプスに食べられてしまった。
目の前に赤く大きな口が広がり不気味な一つ目がぎょろぎょろと光る。
彼と同じように謳うと私も食べられる。
その大きな口に広がるであろう鋭い歯で
私の体は私のものでなかったようにぐちゃぐちゃの肉へと帰るのだ。
私が眠り続けていると信じている間に早く逃げないと同じ末路を辿ってしまう。
幾度となく逃げる機会はうかがっていた。
怪物は、食事を終えた後にしばらくこの場所を離れるのだ。
今度こそ逃げることが出来るであろうか。
眠りついた体を必死にゆさぶり起こす。
足はすぐに目を覚まし、従順に次の指令を待った。
気づかれたとしても出口まで走りきれるはずだ。
目の前の光が私を本来の住処へと手招く。
今度こそ私はここから逃げ出すことが出来る。
怪物の気配が背後から消えた瞬間、
私は長い間動かさなかった体で立ち上がった。
全身が生への欲望を満たそうと大きく呼吸をした。
実に心地いい。
忘れていた感覚が、私の足を走らせた。
草花を蹴散らしながら私はただただ我武者羅に走る。
その先に逃げるために。
背後で不気味な低い声が響く。
私が逃げることを必死で止めようと怪物が鈍重な体をくねらせ追いかけてくる。
今度はもう諦めない。
恐怖で震え始める体を必死に揺さぶりながら私は出口へと転がり込んだ。
光のその先へと期待を込めて。
私は全身で大きく呼吸をした。
キュクロプスから逃げ切った私はそこに立っていた。
光の先には荒廃した大地が広がっている。
寒々しい無機質の世界。
光の先には私が想像していた光はなかった。
私は何から逃げていたのだろうか。
振り返ってはいけないと止めるが好奇心には勝てなかった。
温かな緑で溢れ太陽が降り注ぐその場所は
私が想像し、期待していた光の先の世界であった。
深海の彼方から響くような穏やかな声が私を呼ぶ。
一つ目の巨人は、その目に涙を流し私を見ていた。
その咆哮は憐れにここへ戻る事が出来ない私へと泣いた。
怪物には私が恐れていた鋭い歯もなく、不気味な一つ目はとても穏やかであった。
その怪物から私は全てを悟った。
私が逃げていた事、私の住処がこちら側であること。
ありがとうと初めて声を出した。
その言葉が受け入れないのか怪物は首を静かに振りゆっくりと私を見つめ直した。
ありがとうと再び言うと私は荒野へと足を進ます。
背後からは、去っていく私に向けて
心を切りつけるような悲しい声が延々と響く。
しかし、私は涙を流しながらも住処へと帰らなければならない。
こんなに寒々しい場所でも私は生を感じていた。
自身の体があの時と比べ物にならない程生きている事を感じ、涙を拭った。
かつて私がいた場所はここと比べられないほど美しい場所であった。
その場所には私をずっと守り続けていた
キュクロプスという一つ目の怪物がいたのであった。
今もその怪物は、歩き続ける私へと涙を流している。