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一通りノーラの出してくれた食事を終えた俺とランスが、互いに酒を飲み交わしている間、アヴィーは黙々とノーラの作った食事を食べ続け、その傍らでは、マリアがきょろきょろと俺たちの顔を見まわしていた。あどけない表情を浮かべるマリアを見れば見るほど、自分の娘のことを思い出してしまい胸がキリリと締め付けられるように痛くなる。
酒と歳のせいでもあるのだろうが、やはり娘が生きていたらと思うと苦しくて仕方がないのだ。嗚呼、もし娘が生きていたならば妻の気が狂うことも俺が都心部へ行くこともなく、安穏にこの町で暮らしていただろう。特別な刺激こそないが、陽だまりのような温かさが何よりの幸福で在るのを俺はよく知っている。
ランスが語るオチの無い話は右から左へと聞き流している俺だったが、唐突に発せられた「アヴィーちゃん、ホントによく食べたわねぇ!」というノーラの明るい声は聴き流さなかった。どうやら彼女は、食欲旺盛と言うだけにはとどまれないアヴィーの食欲を見せつけられて驚いたらしい。黒山羊製薬のロゴが描かれたサプリメントを手に、ノーラは驚嘆の色を浮かべている。何人分を何日分作ったのか、俺は聞かされていないが、よほどの量を作っていたに違いない。さっそく空になった大鍋を洗い始めたノーラを尻目に「ごちそうさまでした」と呟くアヴィーは平然とした顔だ。
こちらとしては昨日、今日と彼が摂取した食事を思い返すだけで胃もたれ、胸やけしそうな勢いなのだが。そんな大食漢な彼が事件の真相を明かした暁には、豪華な食事よりも食べ放題の店に連れて行った方が良いのかもしれない。その時はきっと店の主に「もうやめてくれ!」と泣きつかれるかもしれない。
キッチンへ行き何か手伝うことはないかとノーラに訊ねていたアヴィーに、彼女は「長旅で疲れたでしょうからシャワーを浴びていらっしゃい」と入浴を勧める。
「それでは先にお借りします」
アヴィーにとってこの家は一応自宅、と言っても過言ではないのだが、やはり気兼ねしているのだろう。「借りる」という言葉に少々引っ掛かりを感じながら、そういえば都市で出した荷物が届けられていないことに気が付く。帰宅した際に合間を見て一度部屋にも行ったのだが、送ったはずの段ボールは見受けられなかった。ならばアヴィーはシャワーを浴び終えたら一体どんな服装をしているのだろうか。流石に人目のある、それも彼にとって他人といっても差し支えの無いこの家で下着姿に成ることはそう考えられはしないのだが、想像するぐらいならば許されるだろう。
だがそんな俺の淡く、邪な想像は容易く壊される。何故ならシャワーから上がった彼の服装は羽織っていた燕尾服がなくなり、白のシャツにズボンという、わずかにラフな着こなしになっている程度だったからだ。昨日ホテルに泊まった時は別室だったため彼の寝間着事情を知ることはなかったが、どうやら彼はちゃんとした寝巻を準備していなかったらしい。しかしそんな彼の恰好は普段見ることはない代物であり、俺はその姿にもまたそそられずにはいられない。
少し雄々しさのある乱れ方をした薄いシャツ。その向こう側にありながらも存在感を示す筋肉質な身体に、湿気を帯びた白の髪。湯で火照った白い頬は、僅かにあかく染まっており、此処にランスやノーラ、マリアさえいなければこのまま彼を寝室に連れ込み、熱い接吻を交わして彼の全てを啄んで、どこにも逃げられないように手の内に閉じ込めてしまいたくなる。
発育途中の少年、ないしは青年が有する色香に当てられたとでもいえばいいのだろうか。とにかく酔いのまわっている今の俺の眼には彼の姿がひどく扇情的に、なまめかしく映ってしまって仕方がない。だが、そんな想いを踏みにじるようにして在るのは、彼の片目を覆うその真っ黒な眼帯。美しいヴィーナスの描かれたカンバスをナイフで抉り取って紙で補修するかのような、あるいは、美しいニケの彫刻に傷をつけて、鈍色の粘土で補修したかのような不快感が潜み、ちらりと見える度に彼の持ち得る色香をことごとくかき消してしまう。
「どうかしましたか? ジークさん」
脱衣所から出てきた彼を、まじまじと見ていたことに不信感を持ったのだろう。アヴィーにそう声を掛けられるが俺は「いや、なんでもない」と答え、手元にあった熱っぽい酒を飲み下した。
酔いが回っているせいか、いつもよりひどい疾しい想像をしてしまった俺は頭をゆるく振り、邪念を追い払う。そんな俺の近くでは睡魔に負けつつあるマリアが船をこぎ始めており、幼い彼女を家に帰って寝るようノーラに勧めれば彼女たちは自宅へ戻る準備をし始める。しかし俺の傍らに居る赤顔のランスは、そんなことに気が付かないほど泥酔しており、呂律もほとんど回っていない状態になっていた。
「ごめんなさいジークフリートさん。普段はこんなになるまで飲まないんだけど、よっぽどジークフリートさんが帰ってきたことが嬉しかったみたい」
「まったく、仕方がないな」
俺は泥酔状態のランスに肩を貸し、彼らが住まう隣の家へ送り届けることにする。
「アヴィー、ノーラ達を送ってくるから留守を頼んだぞ」
「はい」
椅子に座って俺たちを眺め、時折相槌を打っていたアヴィーにそう言い残し家を後にする。まぁ、彼らの家はこの家の隣なのでそう時間はかからないから、彼を連れてきても心配はないのだが、用心するに越したことはあるまい。ずるずるとランスの足を引きずりながらノーラ達が住まう家の二階の寝室までランスを運び、そのままベッドへ彼を投げ入れれば「うっ」と声を漏らすだけで目を覚まさない。結構ぞんざいな扱いをしたにもかかわらず、目も覚まさないとは。明日のランスの具合が心配である。
それにしてもランスの寝顔をこうもまじまじと見るのは、幼少の時以来だろうか。無防備で、幸せそうな寝顔。今の彼は十五年前の俺とよく似ている。愛する妻と、可愛い娘が居る掛け替えもない時間。それを彼は今過ごしているのだ。
彼の家族の姿を想い、俺は心が痛む。幸せそうな彼らに迷惑をかけてまで、俺にあの事件を追いかける意味はあるのだろうか。もしかしたら、捜査をしているうちに、何かあらぬことに彼らを巻き込んでしまうかもしれない。嗚呼、そんなことなら彼らに連絡せず近隣の街で宿を借りるべきだったか。
今更悔やんでも仕方のないことに心を裂き、ありえるかもしれない可能性に後悔するが、それでも、と俺は思うのだ。それでも俺は娘と失い妻を壊したあの事件の真相を知りたい。隠されている真実を知りたい、と。
「……にい、さん?」
ベッドの上で転がり眠っていたはずのランスが目を開けて、俺を見ていた。
「ジーク兄さん……」
明確な意思を持って、俺の名を呼んだランスは俺の服の袖を掴む。
「ランス……?」
ぎらつく瞳に、紅潮する頬。これは獲物を見つけた獣の色。瞬時にそう判断するも、既に俺の服を掴んでいた弟は俺をベッドの上へ押し倒す。一体何が、ランスは俺をノーラと間違えているのか? だがこいつは、間違いなく俺の名を呼んでいた。
「兄さん、兄さん、兄さん。やっと、帰ってきてくれた……。オレ、ジークフリート兄さんが帰ってきてくれるの、ずうっと待ってたんだ」
兄さんについてきたあんな蛆虫、すぐに始末してやるから……兄さんは安心してオレの傍に居てくれよ。
そう言いながら俺に抱きつくランスに対して嫌悪感が湧くと同時に、ぞわりと鳥肌が立った。こいつは何を言っている? そして兄である俺に何をしようとしている? それに蛆虫とは、何だ。ランスは今、アヴィーの事を、俺が欲して仕方がないアヴィオール・S・グーラスウィード少年を蛆虫と揶揄し、あまつさえ始末するとさえ言いはしなかったか? 彼の言葉の意味を悟った今、俺の中にあるのは怒りだった。ランスが俺に向けている言葉も、していることも俺の心を揺さぶらない。ただあるのはアヴィーを冒涜した彼への怒りだけ。
俺の心情を知らぬまま俺を組み敷き、今にも肉を食いちぎらんとする彼をありったけの力で殴り飛ばし、気絶させた俺は「ごめんな、ランス。でもアヴィーを冒涜したお前を許すわけにはいかないんだ」とだけ言い残して静かに寝室の扉を閉めた。
酔いが回っているとはいえランスが発したあのアヴィーに対す侮辱の言葉を俺は許さない。否、酔いが回っているからこそランスの本音が漏れたということなのか。知りたくなかったランスの本音を知ってしまった俺が階段を下りて玄関へ向かえばマリアを寝かしつけたらしいノーラが扉の前に立ち、俺の行先を遮った。
「ねぇジークフリートさん」
「なんだ? ノーラ」
行く手を阻むノーラを至近距離に迎えた俺は、彼女が向ける真剣な眼差しに少しだけすくんでしまう。俺より若くか弱い女性であっても、外敵から家族を守るような強い目で見られてしまえば、すくまずにはいられまい。少なくとも俺は先ほど彼の夫であるランスを殴ってそのまま放置してしまっているのだから。
「あのアヴィオールって子、本当にジークフリートさんの知り合いの子供なの?」
疑心に満ちた眼を向けたまま、ゆっくりとした口調で問いつめてくるノーラ。これが女のカンとでもいうものなのだろうか。
じわり、顔を伝う汗を感じながら「嗚呼、勿論。アヴィーは知り合いの子供だよ」と答える。流石に十五年前のイーエッグ殺人事件の捜査をするために二週間ほど前から雇い始めた子供だとは言えない。それに何より彼は人材派遣の体を背負い、S氏と名乗った人物の子供なのだから、嘘は言っていない。
「ほんとうに?」
「本当さ。ノーラ達に嘘なんて吐いて俺に何の得があるっていうんだ?」
そう俺は嘘なんて吐いていない。ただ、彼女の視点からしてみた場合俺の嘘ではない事実が“嘘”になってしまうだけ。たったそれだけなのだ。
「それもそうね。ジークフリートさんが私たちに嘘を吐いても得なんてないものね。……じゃあ、あの子いつまで此処に居るの?」
まるで、見透かされているようだった。アヴィーを雇う最終期限は事件の真相を明かすまでだから、二、三年、いや、もっとそれ以上の年月を彼は此処に居ることになるかもしれない。期限の分からないアヴィーとの契約を思いながらも、それが表情に出ないうちに俺は答える。
「それは未だ分からない。あいつの親が、ちょっと問題を抱えていてな……」
真実を伝えられない俺は、人には人の事情があるのだと、あまり多くのことは語れない体を装いノーラの問いを拒めば彼女は優しげな笑みを浮かべて「そう……。ごめんなさいね、ぶしつけな質問をしてしまって」と俺の前から立ち退く。
「それじゃあ、おやすみなさい。ジークフリートさん」
俺を家の外まで送った後、にっこりと笑みを浮かべ静かに玄関の扉を閉めた彼女の表情こそは笑っていたものの、とろけた光を映す双眸は、笑っているようには決して見えなかった。まるで二人が、アヴィーの事を歓迎していないように俺には感じられた。
疎いと言われていた俺でも、そう感じてしまったのだ。この町は外部からやって来た人間に、これほどまでに嫌悪や不信感を抱くような所だったのだろうか。それとも、これは俺の単なる勘違いなのだろうか。
勘違い。そうであれば良いと願いながら隣の自宅に帰れば、リビングでお決まりのティーカップに口をつけながら、ぱらぱらと楽譜を捲るアヴィーが居て、やっとそこで安心して息を吐けた。彼とは二週間程しか共に過ごしていないというのに、長年居たはずのランスやノーラと居るよりもずっと気が楽になる。
「お帰りなさい、ジークさん」
戻ってきた俺を白い睫越しの金眼が捉えた後、彼は持っていたティーカップを机の上に置き、立ち上がる。
「コーヒーにしますか。紅茶にしますか」
「紅茶で頼む」
「了解しました」
夜も更け、これから寝るというのに眠気が覚めるようなコーヒーは飲むべきではないだろう。それにノーラが浮かべたあの笑みだけで十分目は覚めている。
どかり、と少々荒っぽく椅子に座りぼんやりと机の上を眺めれば、あるのは飲みさしの紅茶と、開いたままの楽譜。曲のタイトルから察するに幼少期に習うようなものなのだろう。だが学生のころから音楽関係からなるモノに興味がまるで無く、楽譜やそういったものが全く読めない俺にはそれでさえも五本の細い線にオタマジャクシが無差別に並んでいるようにしか見えない。
トポトポトポ、とお湯を注ぐ音を聞いた俺が背筋を伸ばせば、タイミングよくキッチンから戻ったアヴィーが紅茶の入ったティーカップを俺の前に置いた。
「それにしてもお二方とも嬉しそうでしたね」
「そうだな」
ごく平凡な家庭と、その幸せを現したようなランスとノーラの笑顔を思い浮かべながら相槌を打つ。俺が無くしてしまった幸せ。それを彼らには失ってほしくない。幸せに嫉妬しないということはないが、それでも俺は彼らには幸せを保持してほしいのだ。
「……貴方は、十五年前のあの日に戻りたいですか」
ぱちりと開かれ、まっすぐ俺を見つめる彼の金色の瞳。まるでその瞳が俺に「戻そうと思えば戻せるのですよ」と言っているように見える。無論戻れるのならば、娘が行方不明になる数十秒前でも、買い出しに行く直前でもいいから戻り、オデットの命を救いたい。そして連なるようにして死んでしまった妻を取り戻し、俺の生活を救いたい。そう思うのは確かだ、しかし。
「そんなもの、叶えられるはずがないのだから、思うだけだ。望みはしない」
俺達は人間で、現実を見て生きていくしかできないのだ。いくら願っても時間が巻き戻ることなどあり得ない。SF映画、小説、漫画などの空想の中ではよくあることかもしれないが此処は現実で、そんな空想じみたことは叶わない。
「そう。だから貴方は事件の真相を知ることを願った」
「……?」
じっと俺の眼を見つめてくる彼に対して眉根を潜めれば「いいえ、こちらの話です」と彼は珍しく言葉を濁す。そして自分の紅茶を一息に飲み干し、俺が声を駆ける暇もないほど手際よくカップを洗い終えてしまう。
「それではボクは先に失礼します。ジークさんもお疲れでしょうから、早くおやすみください」
それではおやすみなさい。
まるで逃げるようだ。そう感じながらも「おやすみ、アヴィー」と去り際の彼に声をかけた俺は、アヴィーが出してくれていた紅茶に口付け、熱いながらも一息にソレを呑み干した。
「おやすみなさい」
「お帰りなさい」
「ジークフリートさん」
ティーカップを洗い、リビングの電気を消して、俺もまた自室へ戻りながらノーラやアヴィーに言われたそれらの言葉を反芻し、脳裏に反響させる。
挨拶。名前。あれらは傍に近しい人間が居なければ投げかけられることのない言葉。意識的に人との繋がりを希薄にさせていた都市では、あまりかけられることのなかった言葉。―――嗚呼、しかしそれは彼が来てからの二週間でめまぐるしくも大分緩和はされていたか。だが、それでもなおその何気ない挨拶に、たったこれだけの言葉に心がゆすられている気がする俺も俺だ。
「ねぇ、ジーク。この島の外へ、行ってみない……?」
未だ残る妻の声、アヴィーの声と入り混じって俺の中で響く。その響きに耐え兼ねた俺の腕はベッド傍の本棚に在ったアルバムに伸びる。ノーラも俺の私物であるアルバムには掃除の手が回らなかったらしいく、ソレについていた埃を叩いて開けば娘のオデットと妻がにこりと俺に向かって微笑んでくれた。
たった数ページしかない思い出の記録。十五年前のあの日、娘のオデットが行方不明にさえならなければきっと今頃結婚のことを少しばかりは考える年頃の女性になっていただろう。平日は大学へ行き勉学にいそしみながら友達との繋がりを深め、休日は家族そろって教会のミサへ行く。そんな花の二十一歳。
本来あるべきだった彼女の華やかな未来を思い描きながらアルバムをめくってみても、むなしさしか生まれない。そこにあるのは決して戻ってくることのない家族の笑顔、笑顔、笑顔。写真一枚一枚に添えられた妻と俺とが書いた愛情たっぷりのコメントが胸にじくりと突き刺さる。あの頃の幸せが、懐かしく、いとおしく、痛い。
その痛みに耐えられなくなった俺は、彼女たちが笑むアルバムを閉じ枕元に置く。そしてどうにもならない鬱屈した思いや戸惑い、不意に沸いた怒り。その全ての思いを全て旅の疲れと歳、酒の力のせいにして寝巻に着替えることは愚か靴を脱ぐことさえせず、俺は仰向けの体勢のまま重くなった瞼をゆっくりと閉じることにした。