3-1
窓を覆う薄いカーテンから漏れる朝日に刺激され、瞼を開いたそこには見慣れた部屋の天井。
再び微睡の中に落ちそうになる中、今日の予定を思い出した俺はベッドから上半身を起こして頭を振る。そう、今日はこの都市を出て故郷の町がある、イーエッグ島へと旅立つ日なのだ。
コンコンと叩かれたノックの音に「なんだ?」と声を発せば、その扉越しに「ジークさん。そろそろ時間です」と、もはや聞きなれたといっても過言ではないアヴィーの声が返ってきた。
「嗚呼、分かった」
そう扉越しに答え、俺はベッドから降りる。二週間程共に生活をしてきたが、どうやら彼は男同士であっても寝室という最低限のプライベート空間までには干渉してこないらしい。まあ、少なからず他人であるのだからある意味当然のことか。
着替えるためにクローゼット開ければ、中には既に社服として残していたスーツが一着あるだけだ。というのも引越の為に物を実家のあるイーエッグ島へ送ってしまっているからに他ならない。
加えて元来物を持たない、執着しない性分だったため十四年余り住んでいたにも関わらず、部屋に備え付けとして置かれていたベッドや椅子、机などの家具を除いた個人の所有物はひどく少なかった。それは引越の荷物を纏めた際、アヴィーに「もはや宅急便で送った方が良いのではありませんか?」と言われてしまう程である。ちなみに、彼のその指摘通り荷物は全て宅配便で送った。
普段着に着替えた俺が寝巻を旅行鞄に入れてリビングに出れば、燕尾服の上に春物の薄手のジャケットを纏った白髪の少年、アヴィオールがすでに自身の旅行鞄を持って出発の準備を済ませていた。
「それでは行きましょうかジークさん」
彼の言葉と共に彼と家を出て鍵を大家の元へ届けた後、近間の駅から地方と都市を往来する車両が停まる大きな駅へ向かう。時間的に出勤ラッシュの山場を過ぎているにも関わらず、未だ人の多い駅はごった返しており、構内で俺はアヴィーとはぐれやしないかと何度もひやひやした。
彼が誠実でしっかりしているのはここ二週間の様子を鑑みても間違いようのないことなのだが、どうにも何かに躓いたり他人にぶつかられたり、外部からの何らかの事情で細かな怪我をしたりすることが多いものだから俺が保護者の如くしっかりと彼の手を掴んでいなければいけない状態なのだ。
そんな俺たちの姿は、はたから見れば父親と息子という構図になっているのだろうか。と、アヴィーの手袋越しに手を握りながら、ふと思い亡くなった娘の、オデットの笑みが脳裏に蘇る。
温かな記憶を思い出しながらも俺は生まれ故郷であるイーエッグ島へ向かうために、島と本土を結ぶ船着き場がある街までの切符を買うため案内所へ行き、切符を二人分購入する。「自分の分は自分で払います」とアヴィーには言われたが、適当に理由をつけて彼にはお金を出させなかった。と言うか、これは俺が巻き込んでいることなのだから、その諸経費は依頼主である俺が持つべきだろう。
時刻表から少し遅れてやってきた列車に乗り込み、コンパートメント席に着いたところでやっと息を吐く。
駅自体は混んでいたが、地方へ向かうホームには俺たち以外の乗客が居ない状況だった。ちなみに時短と省スペース、低コストを掲げている鉄道会社にしては珍しく、コンパートメント席も備えており、長旅における二人きりの空間を楽しみたかった俺は乗車切符を買う際にその部屋も抑えたのだ。デザインこそ簡素だが、座席シートに施されたネイビーの色味や、装飾の金色が高級感を醸し出していて、俺個人としては好感が持てる使用になっている。
車内は四月上旬であるものの暖房がしっかりときいており、アヴィーは早いうちにジャケットを脱いで燕尾服姿になっていた。そして席に腰を降ろすや否や、前日に購入していた分の朝食―――とは思えない量の食糧に手を付け始めた。俺もまた仕事帰りに自分で購入した分の朝食を食べ始める。
アヴィーの食べ方は上品で粗もないのだが、食べる分量が尋常ではないのだ。若かったころの俺でも食べきれるかどうか分からない程、彼はよく食べている。おそらく、成長期だからと一括りにしていいレベルではない。
俺が仕事に行っている平日では、彼がいつ何をどれだけの量食べているのか知ることはできない。それに休日もできるだけ一緒に居るよう心掛けてはいるものの、始終目を配っていられるわけではないから彼がこっそりと何かを食べていたらソレは俺には分からない。
一応、食事の代金を契約料とする旨を言われはしていたが、彼が自主的に食費をせびったことは一度もなかった。
それこそ彼には朝食と夕食の献立を任せきりにしていたし、昼食や、彼との契約上必要不可欠である間食が出来る程度の金額は定期的に渡していたが―――現状を見る限り俺が渡していた金額では彼の一食にも満たないだろう。ならば彼は足りない分の金額を自腹で払っているのだろうか?
悶々とする事案を見せつけられながらも、その事に関して触れるのがエンゲル係数的に恐ろしく感じた俺は口を噤み、彼の食べっぷりを見守り続けることにする。そんな俺の心中を知らない彼は、早々にそのありえない量の朝食を一通り食べ終え、外を眺めはじめた。
それもつい先ほどまで食事をしていたとは想像できないほど姿勢よく、真っ直ぐ、見据えるようにして。
「アヴィーは何か興味のあるものはないのか?」
「……興味、ですか」
少し考え込んだ素振りを見せた後、アヴィーは「ジークさんはボクと出会った時、ベッドに座っていた少女を覚えていますか」と彼は逆にそう俺に尋ねてくる。
艶やかな髪に炎を閉じ込め、拘束具にまみれた少女。その姿を思い出し「嗚呼、髪がとてもきれいな子だったな」と答えればアヴィーは頷く。
「はい。その少女は妹のベルフェリカと言うのですが、彼女が手足や目、喉を患う前によく一緒にオペラやバレエを見に行っていましてね……。記憶に新しいのはオペラの『アリアーヌと青髭』や『青髭公の城』などの青髭関連のものでしょうか」
嗚呼、ベッドの上のあの少女は彼の妹で、そして身体を患っていたのか。ならば、どうして彼女はその身に拘束具を取り付けられていたのだろうか。患っているのならば治療や保護以外の理由を除き、そういう類の拘束は必要ないはずなのに。だが、質問に答えてくれたアヴィーの言葉を無為にできる程の度胸のない俺は、その疑問を口にしない。
「青髭、か。俺の印象としては娶った妻を次々に、残虐な方法で殺す。というものしか思い浮かばないから、あまりオペラとしては映えない気がするんだが……面白いものなのか?」
話題として、せっかく彼が提示してくれたものなのだ。俺自身オペラからなる観劇の類に興味はなくともここは話に乗るべきだろう。何しろ手籠めにしたくてしかたがない彼が、興味を持っているものなのだ。彼に好かれたいのならば彼の好みに合わせ、彼を理解し、少なくとも彼色に染まらなければなるまい。
そんな意味を込めて俺が知り得ている「青髭」を語れば、彼は気をよくしたのか一つ頷いてみせる。勿論、それでもなお彼の表情は変わらないから、本当に気をよくしたのかは俺の知るところではないのだが。
「オペラでの青髭は寓話や史実における残虐さはなるべく控えめで、どちらかというと青髭とその妻達との愛が全面に押し出されていますので、映えてはいると捉えますね。ただ面白いかどうかは何事に関してもですが、個人の視点にもよります……」
声を僅かばかり落としながら彼はそう言い切り、様子を窺うように、否、むしろ顔色を見極めるようにして俺の顔を見る。彼の金色の目に見つめられドキリと胸が高鳴ったが、俺は平然とした表情を取り繕い「そうか」と相槌を打った。
「……面白いかはともかくとして、ボクと一緒に観に行った彼女はその劇を気に入っていましてね。曰く『アリアーヌと青髭のヒロインであるアリアーヌも、青髭公の城のヒロインであるユディットも、なかなかに観測し甲斐がある』そうですよ。アリアーヌの方は『ストックホルム症候群の気があるので、ソレに至るまでの経過を観測するのが面白い』と言っていましたし、後者のユディットの方の物語に関しては『嫉妬心も疼きやしない茶番ではあったけれど、観測するにはそういう落胆も必要』と辛口な評価をしていましたからね。加えて彼女は『あんな凄惨な史実を、こんな陳腐で愛に満ちた無意味な物語にするなんて、むしろその能天気すぎる才能に嫉妬するべきなのかしら』と笑っていました。まったく、彼女らしい発言です」
印象として感情が希薄で、無関心を帯びていそうなあの少女がそんな皮肉を当時は言っていたのか。それもこの彼を目の前にして。思い起こすのも容易い二週間前の情景を、二週間前に見た少女の姿を思い出していることを知らないアヴィーは話を続ける。
「その『アリアーヌと青髭』や『青髭公の城』の元となった人物は、かの有名なオルレアンの乙女、ジャンヌ・ダルクの戦友でもあったジルド・レ公と言われていましてね。彼はジャンヌが処刑された後、自身の城でたくさんの子供を殺して裁判にかけられたのです。そしてその裁判が行われた公の場で、彼は『白い豹の悪魔、ベルゼブブを見た』と言ったらしいのですよ。優美で、孤高で、知的なる姿をしたソレが現れた、と」
白い豹。優美で、孤高で、知的なる姿。その単語を聞いて、俺の中でストンと何かが落ち着いた。そして自然に「まるでアヴィーみたいだな」と言葉が漏れ出てしまっていた。
その言葉を聞いた彼はほんの少し、そう、ほんの僅かではあるのだが表情がきょとんとした、あっけにとられたかのような顔になった。と、思う。そんな俺の錯覚かもしれない表情を浮かべているアヴィーは「ボク……ですか」と少々躊躇いがちに言い、ぱちりぱちりと瞬きをする。
「ああ。お前の髪は白くて色味も似ているし、何より優美だ」
ぱちり、ぱちり。二度、彼の白い睫が瞬きをしたのを見て、今の俺の発言がまるで口説いているかのような代物であったことに気き、すぐさま「別に、口説いているとかそういうわけでは! 嗚呼それにベルゼブブというのは悪魔だったか、そんな、俺は悪い意味はなくてだな……!」と訂正の言葉を入れる。
「わかっています、慌てないでください。でもそうですね、白豹。その喩は誇らしいですよ」
そうアヴィーに言われても、「だが」や「しかし」と零してしまう俺に少々嫌気がさしたのか、彼は唐突に指を突出し、俺の唇をその人差し指で押した。
「大丈夫ですから、落ち着いてくださいジークフリートさん」
ふにり、と再度指で俺の唇を押す彼にそう言われた俺は、彼の指の感触を唇で味わいながら深呼吸をし、少し荒くなっていた息を整える。徐々に落ち着きを取り戻したことを見て取ったらしい彼は、名残惜しくもあったが、俺の唇から指を離してしまう。そして改めて座席シートに座り直し「ジークさんの故郷であるイーエッグ島について、教えていただけませんか」と問いかけてきた。
「え?」
彼の事だから、島の事や町の事は調べつくしているものとばかり思っていたが、そうではなかったらしい。
「島の大きさや島の人口。それにからなる出納金額や、在住者の主な仕事場である黒山羊製薬会社やそれに類する印刷会社、運送会社。加えて島内に点在する町や村などの情報も入手しています。ですが、貴方から見た景色はジークさんの口から語られなければ、ボクは知ることが出来ません」
ですからボクに、ジークさんから見た島の事や、町の事を教えていただけませんか?
そう柔らかな口調で質問の意味を噛み砕いてくれた彼の希望通り、俺は「俺から見た景色」の内にある故郷の町について、語り始める。
「俺が住んでいた町の人間は誰もが優しく、おおらかだ。少し卑屈な言い方をすれば、それこそ『前向きすぎ』な人たちだが、決して悪い人たちじゃないんだ。少しだけ他人の気持ちを推し量れないだけ。彼等は妻と俺を、追い詰めた。でも、嫌いではない。嫌いになるべきではない。彼等は善人なのだから。少しだけ、善意にその心が傾きすぎているだけなのだ」
「まるで、自分に言い聞かせているようですね」
「それはそうだ。その証拠があるのだから」
「善意の証拠、ですか」
「嗚呼。俺の住む町では殺人は愚か窃盗や、強盗などの事件が起きたこともなければ、万引きや隣人同士のいざこざでさえなかったのだから。それは皆が善人であることの証拠ではないのか?」
「貴方がそう認識し、そう思っているのならそうなのでしょう。ボクが決めるところではありません」
俺の目を見て頷きながら次をどうぞ、と言うアヴィー。彼がせがむまま、彼の望むまま、俺は俺の知る俺の景色を彼に伝え続ける。
俺が彼色に染まろうとしているのだから、彼もまた俺色に彼が染まればいいのに。そんな、我ながら少しばかり歪んだ想いを抱きながら。
イーエッグ島へ向かう中で食事や電車の乗り換え、イーエッグ島と本土を繋ぐ港のある街で一泊。そうやって島へ降り立った頃には既に、俺は俺の主観におけるイーエッグ島についてアヴィーに語り尽くしてしまっていた。
イーエッグの気候や、島特有の祭り、島の人間の働き口である製薬会社についての事柄等。おそらくそれら程度ならアヴィーは知っていただろうが、それらの事柄も交えて様々なことを俺は語った。十数時間以上語り尽くさせられた。
だが、それでも彼は「他に何か言っておくべきことはないのですか?」と貪欲が過ぎる程に俺へそう問いかけ続けてきた。
もっと他にないのか。隠していることがあるのではないか。そうチクチクと彼は刺してくるが、彼に嫌われることを恐れている俺は、自分の抱く劣等感や卑屈さを言わずに隠した。彼には知られたくないのだ。今はまだ、彼に拒絶されたり、見放されたりしたくないから。
島についての事を語り尽くし、もはやあけすけに言える事がなくなった俺とは対照的に、アヴィーは自分自身についてのことは殆ど語らなかった。
俺が島の事について話している時に細かな質問をしてみたりもしたのだが、彼の答えは「何時」「何処へ行き」「何を」「どのように」「どれだけした」のか。そして、共に居ることが多かったらしいベルフェリカという少女が何を言ったのかという類の、ある意味客観的な出来事を語ることしかしなかったのだ。
その出来事を経て、彼が一体何を感じたのか、彼は何一つ語らない。語られずとも表情を見れば少なくとも分かる。と、思う者もいるかもしれないが、彼の表情はいつも通りの憂い、あるいは無表で、一切変わることはなかったため、感情の微弱な差異も俺には察することが出来なかった。
それでも面と向かって話す。という行為そのものに心理的効果はあるようで、彼について得られるものがなくとも至近距離で長時間の慣れ合いを経た俺は、そんな曖昧なはずの彼のことでさえ愚かにも“わかった気”になってしまっていた。
本土や他の国から入ってくる貨物船の往来を眺めながら船着き場を抜け、それなりに人が行きかうイーエッグ島の街へと俺たちは出る。海と街に壁らしい壁がないため街全体的に潮の香りが満ちているが、悪い気はしない。むしろ”らしさ”があって俺は心地よさすら感じる。
「ジークさん、これから何処へ行かれますか」
電車の中は勿論、船の上でもその食指を押さえていなかったアヴィーは何処で購入したのかは分からないが、コーンの上でぐるぐると幾重にも巻かれたアイスクリームを持っていた。春先で未だ寒さが残っているというのに、よく冷たい物が食べられるものだ。
「……食べますか」
片手に持たれている旅行鞄を一旦降ろした彼は、アイスに突き刺されていたスプーンでそれをすくい、俺に突き出す。これは言わずもがな、恋人や仲の良い間柄でよく繰り広げられるというシチュエーションではないか。
予期せぬアクシデントとして訪れたソレに俺は内心狼狽えるが、行っている本人にはまるでその気がないのか、「早くしなければ溶けてしまいます」と平静に言う。
「い、いただこう」
ぱくり、と彼が差し出していたスプーンの先を口に入れ白いクリームを絡め取れば、アイス特有の冷たさと濃厚なミルクの甘さが広がる。
「どうですか」
「……美味しい、な」
「それは良かったです」
そう言って彼はスプーンでアイスをすくい、自らの口に入れた。
俺の口腔を一度犯したそのスプーンに、彼の舌が絡まる。白いクリームが、彼の舌を染め上げる。赤い彼の舌とクリームの白のコントラスト。彼がクリームを口に含んだ瞬間はそれこそ一瞬であるにもかかわらず、俺にはその瞬間がスローモーションのように見えるのだ。彼の唇から、彼の咥内から、目が離せない。だが彼がそのスプーンを使ったのはその一度きりで、すぐに傍にあったゴミ箱にスプーンと、コーンの持ち手に撒かれている紙を捨てた。
「……それで何処へ行かれますか」
降ろしていた荷物を持ち直し、改めてそう尋ねた彼はぺろりとクリーム舐める。ごく当たり前の仕草であるはずなのに、扇情的にソレが見えてしまった俺はすぐさま彼から目をそらし、ポケットの中に入れていた端末を取り出して画面を確認する。
「弟のランスが向かえに来てくれる予定なんだが、アイツの仕事が終わるのは十七時でな……」
「ではそれまで少し時間が空くのですね」
「そう、なるな」
俺の返事を聞いた彼は「なるほど」と一つ頷き、まるで思い出したかのように「新しい紅茶の茶葉が欲しいんです。良い店を知りませんか」と俺に顔を向ける。彼の顔、すなわち、彼が向ける視線がちくちくと痛むが、彼の扇情的な口元を見ないようにために、俺は「弟の結婚式で七年ぐらい前に此処へ来てはいるが、俺の記憶はほぼ十五年前で止まっているから端末で探したほうが良いんじゃないか……」と少々投げやりに言う。
しかし彼は「構いません。やりたいことはそれぐらいですし、もしなくなっていたとしても、十分な時間潰しになります」と俺を言いくるめてしまう。そして畳みかけるようにして「ボクにこの街を案内してください」と俺に言った彼の手からは既に、アイスクリームは消えていた。