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今日の寝覚めは最高だ。目覚まし代わりに設定している端末の音で目覚めた俺は、瞬間的にそう断じた。その根拠は目覚めた瞬間に鼻腔を突いた朝食の香りと、それに準じて思い出した昨日の顛末のせいである。
煮込んだキャベツ独特の甘い香りが漂う中、早々にベッドから起き上がり整えられるだけの身支度を整えてしまう。というのも昨日初めて会ったアヴィオール・S・グーラスウィード少年に、お世辞にもきれいとは言い難い寝起き姿を見られて幻滅されたくはないからだ。ただでさえ会って一晩しかたっていないのに、なけなしの好感度をこんな些細なことで下げたくはない。一通りの身支度を整え、満を持して寝室の扉を開ければリビングにあるローテーブルの上には色鮮やかな朝食が並べられていた。
「おはようございます、ジークフリートさん」
台所からマグカップを二つ持ってやって来たアヴィーはそう声を掛けると、「丁度朝食が出来ましたから、どうぞ」と俺に席を勧めた。
「あ、嗚呼……おはようアヴィー」
彼に勧められたとおり座った俺は、昨日の燕尾服とは違い完全な私服姿のアヴィーを見上げる。深緑のタートルネックにベージュのズボン。そして調理の際に着たのだろう、ギャルソンのようなエプロンを腰に巻いている彼は、さながらお洒落なカフェの店員だ。朝からとても良いものを見せてもらった。と、眼福にあずかりながら、彼が用意してくれた朝食を胃にゆっくりと納めていく。
目覚めと同時に感じた煮込んだキャベツ独特の香りは的中しており、朝食のメニューの一つはキャベツを主とした野菜のスープだった。何時も昨晩の食べ残しを適当に流し込むだとか、出勤の時間に合わせて外で何かを買って食べるということばかりしていたため、こうやって腰をしっかりと落ち着けてきちんとした朝食を摂るのはもしかしたら都市に来て初めてかもしれない。それにキャベツのスープに加えてスクランブルエッグや、何処から見つけて来たのか、蒸かしたジャガイモや厚切りのベーコン、ライ麦パン等の主食も皿の上に乗っている。
「出勤までそう多く時間はありませんから、早めにどうぞ」
並んでいる食品たちの出所を尋ねてみようか考えていれば、アヴィーから先に釘を刺されてしまい、俺は黙って食事を食べることにする。昨晩の食事もさることながら、今日の食事もまた美味しく、朝の限りある時間で食べるには惜しいほど美味しかった。
野菜のスープは起き抜けの身体を芯から温めてくれるし、味も刺激の強すぎない塩分少なめの味わい。他の品々も蒸かしたり焼いたりした程度ではあるだろうが、それでも、他人が自宅で作った料理に慣れていない俺にとってはひどく感慨深いものだったのだ。
名残惜しくもアヴィーお手製の朝食を食べ終え、改めて身支度、出勤の支度を整え出勤する俺に「行ってらっしゃい、ジークさん」の言葉を贈るアヴィーの姿はまるで妻。他人からすれば新婚夫婦のようにも見えるかもしれない。一時の幸福感が俺の心を満たし、会社へ赴く足を軽くしたが、すぐにその幸福感は不安へと変わる。
俺が仕事をしている間、彼はどう過ごすのだろうか、と。
焦りに任せてポケットの中に入れていた電子端末を取り出したが、アヴィーの連絡先を登録した覚えのない俺は画面を開くことなく腕を降ろす。刹那、握ったままの端末が震え一通のメールが届いたことを知らせる画面が現れた。
差出人は登録されていないものではあったが、タイトルの項目にアヴィーの名が綴られている。まるでどこかで彼が俺を見ているようだ。そう感じながらもただの偶然に違いないと判断した俺は、上がりつつあった口角を平素の物へと戻し、アヴィーの物からであるらしいメールを開いた。
「from:Abbiol.アヴィオール・S・グーラスヴィードです。電話番号などの連絡先を添付しておきましたので、要り様の場合は使用してください」
必要事項しか記載されていないメール画面。しかしこれで彼と連絡を取り、彼の様子を知ることが出来ると喜んだ俺はすぐさま「了解した。訊くのを忘れていたが、今日はどう過ごす予定なんだ?」と彼に送り返信を待った。
そうやって何度かアヴィーとメールのやり取りをしていれば、自ずと会社へたどり着いており、気を重くしながらも俺は社員用ゲートをくぐり、窓際にある自分のデスクへと移動する。
部署の部屋には既に幾人かの社員が居たが、特に俺に挨拶することもない。対する俺も彼等に対して挨拶はしない。机の上に鞄と電子端末を置き、羽織っていた薄手のコートを脱げば机の上で電子端末が揺れる。勿論送り主はアヴィオールで、メールの内容は「機嫌の悪い女性の対処方法は把握しておられますね」という確認の文面であった。だがそこには「分からなければそれまでです」という彼の意図さえ隠れているようで、それを読んだ俺は唾を飲みこむ。
昨晩アヴィーが教えてくれたのは、女上司が俺に厳しくする「理由」だ。それを鑑み、もっとも彼女の、否、女の機嫌を直すようにはどうすればいいかを考え得た中で浮かんだのは、一夏だけ付き合っていた気難しい女性の色。
些細なことで機嫌を悪くしていたけれど、そこがとても魅力的であったビー・キュニシア。気難しい彼女の機嫌を取ることはひどく難しかったけれど、あの頃から成長し、多少他人の気持ちが分かるようになっているはずの俺なら、ビーより劣るとも知れない女上司の機嫌も、少しは良い方へと向かわせることが出来るかもしれない。
定時の少し前に出勤してきた女上司の姿を黙認した後、持ち帰りによって完成した仕事の文面を確認してもらうべく俺は彼女の元へと移動する。
そして半ば不安になりながらも、気難しい昔の恋人を相手にするかのように、女上司に接してみれば俺の待遇は一気に改善された。弟や妻からも「疎い」と頻繁に言われていたこの俺が実感できるほどに、彼女は俺にやさしくなったのだ。
具体的にどうやさしくなったのかと言えば、製作した資料に目を通してないのではないかと思うほどの矛盾じみた訂正の要求や、「未だ書類は完成しないの?」という完成を急がせる言葉を吐かれることも、過度の仕事を押し付けることもなくなったのだ、と言おう。
その変化は喜ばしいものではあったが、今の俺にとって彼女の上機嫌具合はどうでもよく、今はアヴィーが家に居るのか、それともあの家を出て別の場所に居るのか心配で仕方がなかった。それも仕事の合間、一時間に一度彼に電話を掛ける程に。
だがアヴィーは、まるで依存度の高い恋人のような行いをしている俺に、悪態を吐くこともなく、今何処に居て、何をし、この後如何するのかを明確に教えてくれた。そのことに一時安心はしたのだが、電話越しに聞こえてくるけたたましいサイレンの音が俺の不安を煽る。
アヴィー曰く、近くで事故があっただけで実害はないということだったが、常に危険が潜む街中だ。俺に責任を取る必要が無くとも、何時彼にその危険が訪れるか分からない。だって、そうだろう? 過度の危険が潜んでいるとされていなかったあのイーエッグ島の小さな町で、俺の娘は行方不明になり死んでしまったのだから。
そんな俺の心配事が電話越しでも伝わったのだろう、アヴィーは「今日するべきことは殆ど終わりましたので、すぐに帰宅します。それではお仕事、頑張ってくださいね」と俺の返事も聞かず、一方的に電話を切ったのだ。
そして今日の勤務時間も終了し、ほとんどの社員が帰った頃合いで俺は改めて女上司の机へ足を向ける。
理由はただ一つ、会社を辞めたいという旨を直属の上司である女上司に伝えるためだ。そういえばアヴィーにはまだ仕事を辞め、島へ移ることを言っていなかったな、と今更ながらに俺は思い出す。
彼の事だからおそらく俺の今後を思い、仕事に支障が無いようにと女上司とに在ったしがらみの解消を勧めたのだろう。だが俺が導き出した結論は退社、そして島への移住。それも昨晩の時点で決断していたにも関わらず、それを彼に伝えていないという不始末ぶりだ。それをアヴィーが知ったらどう思うのだろうか。
少なくとも昨日、今日の苦労は一体何だったのかとため息を吐かれ、なけなしの好感度が右肩下がりの急降下を見せるのは明らかだろう。表情に喜怒哀楽を見せない彼ではあるが、心中には多少の感情があるだろうから。帰宅の際には一応謝罪の念として甘い物でも買って帰るべきだろう。……彼が甘い物が好きかは、知らないが。
女上司の机の前にたどり着いた俺は、ごくりと唾を飲み、休み時間の際にアヴィーに電話越しで伝えられた言葉を思いだす。
「下手な謝罪は、普通ならば逆上されて然りなのですが、貴方の現状を鑑みるにおそらく彼女も未だまんざらではないのでしょう。尽くしてもらっていたこと、諸々に関する礼を感情込めて言えば、おそらく貴方なら九割の確率で許されると判断します。むしろ……、いえ、これ以上は過干渉でしょう。それではジークさん、貴方に良い結果が迎えられんことを、心からお祈りします」
そんな彼の助言通りに、配属当初の礼を感情込めて伝え、加えて退社したい旨を言えば、昨日までの態度からは考えられない言葉が彼女の唇から放たれた。
「―――私も会社を辞めて、貴方についていきたい」
そんな突拍子もないことを言った女上司を諭すように丁寧にお断りをすれば、今度は「ならば今日、一緒に食事へ行かない?」と誘われてしまう。電話越しのアヴィーに、「もし食事に誘われる場合があれば、行ってください」とも言われていた俺は「わかりました」と頷くが、その心中は穏やかではない。
せっかく目の前の女に媚び諂っているというのに、誘われた食事にも行かないのは明らかに行動が矛盾しているから行くしかないだろう。そう、例え俺が外食ではなくアヴィーの作った料理を食べたいと強く願い、仕事帰りに甘い食べ物を買って帰る算段をしていたとしても、だ。
「それでは、帰り支度を済ませてきます」
俺は上手く笑顔が作れているだろうか。
うまく彼女をおだてることが出来ただろうか。
上手く彼女の心に入り込むことが出来ただろうか。
そんな俺の心配をよそに、目の前の女は白粉と頬紅を塗りたくった顔を歪め、脂身ではないかと思わせるほど艶やかすぎる唇を弧にして笑う。そして俺の肩口に艶やかに彩った指先を連ねる手を乗せ、はちみつのような嫌に甘い声色で「それじゃあ、また後でね」と耳元で彼女は囁いた。
そんな彼女に対し、俺の心は嫌悪の熱を湧き上げる。それと同時に俺はアヴィーに早く会いたくて仕方がなくなった。笑いもしない、怒りもしない、困りもしない。ただひたすらの冷静を顔面に張り付けているだけの少年に、俺の心の中で熱されたこの嫌悪の気持ちを覚ましてほしくて仕方がないのだ。嗚呼、どうして容姿端麗であるはずの彼女よりも、男であるアヴィオール・S・グーラスウィードに俺はこうもそそられ、思い馳せてしまうのだろうか。