3-1
清々しいほどさっぱりと目覚めた私が早々に足を向けたのはマリア・クーベルタンが居る研究室だった。真っ白の廊下を急ぎ足で歩き研究室の扉にカードキーを晒し、扉を開ける。嗚呼、やっとマリアと会話することが出来る。そんな歓喜に充ち溢れんとしていた私の心を殴るように現実が襲い掛かった。
そう、そこにマリア・クーベルタンの姿がなかったのだ。
一体どういうことだ。部屋に設置されている監視カメラを睨み、その映像が保存されているはずの映像管理ルームへ私は急ぐ。そして映像管理ルームに到着した私はマリアを安置していた部屋の監視記録を探し出しモニターに映し出した。
ゴウンゴウンとエアコンの音が響き渡る中、マリアを安置した私とローラは部屋から出ていく。一応この研究所に設置されている監視カメラは教会に設置した物とは違い、研究員たちの言動を記録するため音も録音できる代物となっているのだ。
さあ、一体誰が私のマリアを盗んだのだ。前かがみになりながら画面を睨みつける私だったが、何時になってもそこにはマリアを連れ出すような人間の姿は見受けられなかった。そう、人間の姿は。ただその代わりにとでもいうように、研究室の闇から溶け出るようにして一頭の黒山羊がマリアの隣に立っている映像が映りこんでいた。
黒山羊は「ベェエエ」と不快な鳴き声を発しマリアの身体をくまなく嗅ぎ取ると自らの影にマリアを取り込み、そのままマリアもろとも闇に融ける。まるで幻覚や人為的に作られた映像を見せられているようなソレに私は打ち震え、幻想じみたソレを表示していたモニターを叩いた。
軽くヒビの入ったモニターの画面を改め、ホムンクルス達が安置されている部屋の現状を監視カメラ越しに映し出す作業に入る。私の研究成果とよべるマリアを黒山羊が盗んだのであるなら、同じく私の研究成果と呼べるホムンクルス達は一体どうなっているのだ。
パッ、とホムンクルス達を安置している部屋の映像がモニターに表示されたが、そこはもぬけの殻。血がにじむのも構わず唇を噛みしめ、いらだちをキーボードに込めながらその部屋の記録を遡れば、事前に安置されているはずのホムンクルスの姿もすでになく、私と共にこの研究所へ運ばれてきたはずのホムンクルス達が搬送されてくることはおろかその部屋の出入り口が開くことは一度もなかった。
一体、何だというのだ! 誰かが私を謀っているというのか! 誰が、何のために私のホムンクルスやマリアを奪ったのか!
しかしそれはもはや過ぎ去ったこと。なくなってしまったなら、それは仕方がないではないか。そう冷静な私が、私の怒りをせき止めた。私は腐っても研究者なのだから怒りにとらわれるのではなく、冷静に現状を把握し判断するべきなのだ。
胸に手を当て深く息を吸い、吐く。そう、もとよりマリア・クーベルタンなどという奇跡はいなかったのだ。ホムンクルス達だって新鮮な受精卵を作り出すアヴィオールさえいればいくらだって量産は可能なのだ。嗚呼。だからこそ、早くアヴィオールから受精卵を得て、それに私のマリアを組み込まなければ。
念のために、とアヴィオールが安置されている集中治療室の映像をモニターに出すが、喜ばしいことにそこにはきちんとアヴィオールがベッドの上で横になっていた。ほっと胸をなでおろした私は椅子から立ち上がり、多少ふらつきながらも私は映像管理ルームから出てアヴィオールが保管されている集中治療室へ向かう。
何故成功検体であるアヴィオールが集中治療室に居るのか。それは「M-Ave」投与実験の成功検体となった彼女をその後いろいろな実験で使用したため、その生体を健常な身体として残すことが不可能だったからに他ならない。
それでも今後に控える実験のために彼女を生かさねばならない私は、死の泉に両足愚か胸元まで使っている彼女を数多のチューブを繋ぎ、彼女が失った体の機能を機械で補い、生かしてやっているのだ。そんな彼女は身体の半分以上の機能を機械に頼っているが、ホムンクルス作成のために必要な受精卵を排出する子宮は一応今のところ健在だ。
集中治療室前の扉でカードキーを晒し、暗証番号を入力して部屋の扉を開けた私が真っ先に感じたものは無音だった。彼女を生かすために必須である機械の音がすべて、きれいさっぱり消え失せている。それを瞬時に悟った私はアヴィオールが眠るベッドに駆け寄り彼女の胸に耳を寄せて鼓動を確かめるが、案の定と言うべきだろう。彼女の心肺は停止していた。
「M-Ave」投与実験が成功して十五年以上生存し、私との間に子まで作ってくれたアヴィオールが死亡。しかも、彼女の受精卵にマリアの因子を組み込み再配列させようと思っていた矢先にこうなってしまうなど、あってはいけない事象だ。嗚呼、一体彼女の管理をしていた研究者は何をしていたというのだ!
そこまで考えた私はハッと辺りを見回し、研究所内の情景を思い出す。機械の音がしない。そして、人の話し声は愚か足音も音もしない。深夜帯であっても多少の機械音や足音が響いているはずの研究所内で、何一つ音がしないのだ。まるで私一人しかこの研究所に居ないかのような錯覚。否、錯覚などではなく私しかこの研究所に居ないのではないだろうか。その事実に気付いてしまった私は獣の咆哮のような雄叫びを上げてアヴィオールが眠るベッドを叩く。
「何故だ! 何故こんなことになっている!」
ぶるぶると震える腕は力んでいるせいか血色の好い赤を帯びており、掌からはべったりとした鮮血がにじみ出ている。まさか、と考えるよりも先に、私には「M2-Ave」の実験で成功と呼べるに値する検体オデット・クーベルタンが居るではないか。それだけで十分だろう。そう思うのだ。否、そう思うしかない。何故なら今の私には“まさか”の可能性を直視できるほどの強い精神が無いから。
ぐらつく意識をかろうじて留めている私の耳に来訪者を知らせるベルが鳴る。研究所内に無音が蔓延っているせいか普段ならささやかである呼び鈴が研究所内に響き渡っており、私はその鈴の音を鳴らす者に応対するため玄関にあるインターホンと連絡が取れる管理室へと急ぐ。無人を装ってもよかったのだが、もしかしたら研究員か黒山羊製薬の使いがやって来たのかもしれないという淡い期待を込めて、私はそのインターホンと繋がっている受話器を取る。
「はじめまして。私、S氏の使いでやって来た者ですが、入ってもよろしいですか?」
研究員でもなければ、黒山羊製薬の使いでもない見も知らぬ他人の来訪。本来ならばうまく窘めて帰らせるものなのだが、「S氏」という肩書を携えているのであれば話は違ってくる。
「ええ、どうぞ。今そちらの鍵を開けるので「構いません。すぐにそちらへ行きますから」
彼女がそう答えた刹那、受話器からプー、プー、プー、と話し中を伝える音が伝わる。といっても玄関のインターホンとしか繋がっていない受話器からそんな音が聞こえるなど、まるで元から繋がっていなかったかのようではないか。そんなわけがあるはずない。そんな思いと共に受話器を戻し、S氏の使いと名乗った彼女の言葉を思い出す。
「構いません、すぐにそちらへ行きますから」
まるで私がこの管理室に居ることがわかっているかのような発言。S氏の使い―――黒い看護服を着た、私とおなじ研究者。黒山羊閣下の意思に従わない、薄情者。サタナリア・S・トゥリアイーラ。彼女の顔が脳裏にちらつくが、そもそも彼女がこの研究所に来たことはないはずだ。同じ黒山羊製薬の研究者とはいえ、来訪したとあれば私が教会で実験をしていようとも、管理責任者でもある私に連絡は来るものだろう。
それに今私が何処に居るかなど、部外者である彼女が分かるはずがないでないか。来るはずがない。まさか、本当に来るものか。
そんな淡い思いを砕くようにカツン、カツンと、高いヒールの足音が研究所内に響き渡る。ゆったりとした足取りではあるが確実にこちらへ向かってやってきているその音が鳴る度に、焦りの気持ちが競り上がってくる。
逃げるべきか。しかし何処へ? 何処へ逃げるというのだ。むしろどうして逃げる必要があるのか。S氏の使いと名乗る彼女と話をして、別れればそれでいいだけではないのか。そう思いながらも私はアヴィオールが安置されている部屋へ走っていた。あの部屋は玄関から最も遠いし、入室にはカードキーとパスワードが必要で関係者以外は入ることは不可能。焦りで震える手でカードキーをかざし、パスワードを入力する。そうすれば扉は開き、ベッドで眠るアヴィオールが私を迎え入れてくれた。
呼吸を止めているアヴィオールの寝顔を撫で、ほっと胸をなでおろした私はそっと耳を澄ませる。突然の来訪者が響き渡らせるヒールの音は相変わらず聞こえており、明確な意思を持って私を追ってきているようだった。私が此処へ逃げたことを知る者など居るはずがないのにもかかわらず、徐々に近づくその足音は部屋の扉の前で鳴り止む。
「っ……」
扉が開けられることはない。それはわかっている。わかっているが、どうしてだろう。わななく唇、背筋を走る悪寒。身体の震えが止まらなかった。震えをこらえるように自身の肩を抱き、来訪者の彼女が居るだろう扉を睨みつける。この部屋に入ることが出来るのはもはや私だけ。何物にもこの領域は入られない。
刹那、「ピピッ」というカードキー認証音とパスワード入力音が響き渡る。そして無慈悲にも扉を開け入ってきたのは黒い修道女の服を着た少女だった。柔らかなうねりを持った長い黒髪を片方で結い、左目付近にある泣き黒子が特徴的な彼女の眉間には深く鋭いシワが寄っている。私の知っているサタナリアをそのまま若くしたかのような、嗚呼、彼女は人体の再構成を極めていくうちに若返りの端を掴んでしまったとでも言うのだろうか。
俺の心情を知らない彼女は、憤怒の表情を浮かべながら「はじめまして。の方が良いのでしょうか」と声を発した。その瞬間、目の前に居る彼女が俺の知っているサタナリア・S・トゥリアイーラではないが、彼女もまたサタナリア・S・トゥリアイーラなのだと分かってしまった。
若返りなどではない、俺の傍で眠るアヴィオール・S・グーラがあのオデット・クーベルタンであるのと同じように、彼女もまたサタナリア・S・トゥリアイーラを継いだ娘なのだ。
「貴方がこの研究所の管理責任者ですか?」
「ああ、そうだが」
一体どうやってこの研究所で使うカードキーと、この部屋のパスワードを知ったのだ。そう問いたかったのだが、私にそんな隙を与えず彼女は「私はサタナリア・S・トゥリアイーラ。S氏から支援を受けている娘の一人ですわ」と唇をあげて笑みを見せる。
しかし笑みとは裏腹に彼女の眉間にある皺は消えていない。そんな彼女に対し私もまた礼儀として名を名乗ろうと口を開こうとしたが、名を名乗る前に彼女が私の唇に指を当てられ、言うに言えない状況に陥ってしまう。さらに彼女は、私の唇に指を添えるだけではなく、唇の奥にある歯列にも無遠慮に指で触れさえした。
一体何をする気だ。自分のされている行いを明確に認識した私は後方に一歩後ずさるが、それに合わせるようにして彼女もまた前に一歩前進する。そしてそのまま勢いをつけて彼女は私の歯列を指で割り、そのまま口腔を指で、ではなくもはや手でぐちりとえぐるようにかき回した。
「ングゥ!」
「そして私は黒山羊製薬の掃除婦の役割も賜りました」
威圧のこもった彼女の発言に、自然と冷や汗が伝う。黒山羊製薬の掃除婦。聞いたことはないが、この現状を鑑みるにソレは始末屋や殺し屋と同意義なのではないだろうか。ついぞ今までサタナリアが張っていた笑みは消え失せ、怒りの表情のみが彼女の顔に張り付いていた。
「お前を使っていた黒山羊閣下も、もうお前はいらないとのことよ。ようやく、お前を始末しても良いという許可が得られてとても素晴らしい気分だわ。お前を始末したらさぞかしすがすがしい気分になれるのでしょうね」
怒りの表情をさせながらもほんのりと頬を赤らめ恍惚の色を見せる彼女は、年相応の少女を私に思わせる。しかしどうして黒山羊製薬は彼女のような人間を差し向けるに至ったのだ? 私の研究は彼等にもメリットがあったはずだ! それではなんだ、昨日の事件で黒山羊製薬が後ろに居たことが明るみにでも出でもしたのか?
取り留めもない私の考えを察したのか、彼女は「なに? 黒山羊閣下に見捨てられた理由は愚か、見捨てられたということすら知らなかったの? 昨日の夜遅くからもうここには誰も居ない無人研究所に成り果てていたというのに? ゴミカスみたいに捨てられたことを認めたくなかったの? それとも理由がわからなさすぎて目をそむけていたの? まあなんにせよ、あさましいまでの自己愛ね。自分と自分の行っていた研究を過大評価しすぎよ」と、吐き捨てた。
嗚呼、黒山羊製薬は私の研究を、私のマリアを不要だと決めたのか。
「そうね。必要だったら今迄みたいに野放しにさせておくでしょうから」
口に手を入れられ何も言うことが出来ない私の心情を読み解き、高慢げな言葉をぶつけてよこす彼女は、にやぁと欺瞞をふんだんに含んだ笑みを見せる。教会の者を示す修道女の姿にあるまじき悪の権化とも呼べるようなその笑みに私の膝はわななき、腰が抜けた。
どすり、と床に腰を落としてしまった私の口から彼女の手が抜ける。私の唾液と蛍光灯の光でテラテラと淫らなまでに輝く手を一度振った彼女は腰を抜かした私の頭を乾いている方の手で掴み、再度私の口腔に手を突っ込んだ。
「私の姉妹であるアヴィオールを幾度もいたぶっておいて、よくもまぁここまでのうのうと生かされてきたものね。ホント、忌々しい。例えお父様がお前の実験を容認し、重要視していたとしても私はお前を否定するわ。だってそうでしょう? やっと真なるお父様に出会えたアヴィオール……もとい、オデットをも手籠めにしようと考えるなんて汚らわしいじゃない。だからお前には居なくなってもらうの。すべての人間の記録から、お前と言う存在を抹消してあげる。そう、お前がしてきたことも、お前が此処に居たことも、お前の望んだこともすべて別の誰かが成したことにするの。勿論お前が愛し、渇望したお前の娘。マリアの存在も別の誰かのモノよ。悲しい? 苦しい? 非道な仕打ちだと泣きわめきたい? でもね、お前がお父様にしたことに比べればこの処遇はとても優しい罰なのよ」
私の成果を他者の成果にする? それはあるまじきことだが、それよりも私のマリアの存在が、別の誰かのモノに成るということが一番許せなかった。もし、私が口をきけたのならば彼女の言葉通り非道な仕打ちだと泣きわめいただろう。ブツブツと物騒なことを一人で呟き続けていたサタナリアは忌々しげに、眉間の皺の堀を更に深めた。
「私に与えられた憤怒の主は、決してお前を許さない」
ぐり、と膝にえぐるような痛みが走る。顔を無理やり上げさせられているため自身の膝を見ることはできないが、おそらくサタナリアの履いているピンヒールが私の膝に突き立てられているのだろう。ぐじゅ、と肉を刺す嫌な音が耳に届き、それと同時に焼けるような痛みが脳髄に襲い掛かった。
声を上げて助けを呼ぼうにも、口に手を入れられ、あまつさえかき回されていては声をうまく上げられない。
そもそもこの研究所には私を助けるような第三者は存在しえないのだから、叫んだところで意味はないだろう。うぐうぐとくぐもった声を上げることしかできない私は、せめてもの反抗として私の口腔を犯す彼女の手を力強く噛んだ。彼女の肉に立てた刃先から、ジワリと私の舌先を彼女の血液が滴るのがわかる。
それなのにもかかわらず彼女は痛みを表すような苦悶の顔は浮かべなかった。むしろ「私たちを粗末にしたお前なんかに、奇跡が微笑むわけがない」と吐き捨て、私の口腔に収めた手を頭部ごと引きよせる。
そして今まで私の頭部に添えられていたサタナリアの手には、見慣れた注射器が持たれていた。もしや彼女は私に「M2-Ave」を投与するつもりなのか。だが発育途上などではない私の身体にソレを投与したところで、何になるというのだ。
「優しい罰だもの。―――娘に犯されなさい」
彼女の言葉と共に注射器の針先が首元に刺さり、ぐちゅりと薬剤が投与される。それは徐々に熱を孕み、身体の至る個所にその熱を伝染させる。嗚呼、マリアが私の身体を蝕み、作り替えている。まるで抱擁にも似たその感覚に促されるかのように、私の手が無意識に身体を強く掻き毟る。血が滲み、肉がえぐれようとも構いやしない。私はマリアの抱擁をもっと強く、深く受け入れたいのだ。
マリアが私を抱いている。私のマリアが私を抱きしめ、犯してくれている。
その喜びで心満たされていた私であったが、事前にこれを「優しい罰だ」と前振っていたサタナリアが私にそんな甘い夢を見続けさせてくれるわけがなかった。微睡の中に居た私の首元に、再び注射器が刺され薬剤を投与される。コレもまた「M2-Ave」だろうか。
そんな考えもつかの間、彼女は中身の入った注射器を何本も取り出し私に見せつける。その中には明らかに「M2-Ave」ではないものも含まれており、私は頭を振って拒絶の意思を示した。マリア以外の誰か、何かが私に入り込むことは許さない。いいや、私の中に居るマリアを私以外の誰かが犯すのは許さない。あってはならないことなのだ。
そんな私の心情を知るのだろうサタナリアは「許さないのはこちらの方よ」と無情に言い、私の首元にそれらを突き刺し続けた。一本、二本、三本、四本、五本。それぞれが私の身体に投与される度に私の身体が焼け、内に居るマリアが悲鳴を上げた。やめてくれ、やめてくれ! これ以上私のマリアを傷つけないでくれ!
「人間の姿をしていたら道徳的に管理しにくいから。まずは原型を変えるのよ」
お前と、お前の中に居る娘もろとも、ね。
嗤う彼女は続けて六本、七本、八本、と薬剤を投与し続ける。じゅくじゅくと頭は愚か身体に広がる熱は徐々に私とマリアを融かし、別のナニカへと作り替えてゆく。一体、サタナリアは何を私達に投与したのだ!
「嗚呼コレ? お前の実験でも使っていた、黒山羊閣下が初期に作っていた『TB-13』に、犬と牡牛の遺伝子を組み込んだものよ。『TB-13』が絶大な効果を発揮するのは発育途上の生体だけど、大人に効かないわけじゃあないの。それにこれだけ打てばお前もすぐに素敵な化け物になれるわ」
犬や雄牛、とは断定せず化け物と嗤う彼女は九本、十本と私に投与をし続けた。そして一通り投与し終えたらしい彼女は空いた手で改めて私の顔に触れる。
「ほら、もう顔中に毛が生えているわ。きっともうじき骨格も人間から犬に変わるのでしょうね」
クスクスと少女らしい声を出して私の頭を撫で上げるサタナリア。彼女が触れたところが熱を持ち、火照り、焼けているような熱ささえ感じたのは刹那で、すぐさま痛みは遠くへといってしまっていた。
「あら、鎮痛剤が効いてきているみたいね」
目の前の彼女ではないが、同じ声色が部屋の中で反響する。
「先生……」
くるり、と目の前のサタナリアが振り返った先には、私が昔から知っている“サタナリア”が居た。黒山羊閣下の意思に染まらない、薄情者のサタナリア。昔ながらの看護服を着た彼女はヒール音を立てながら私たちの方へと歩み寄る。
「上出来じゃない。サタナリアちゃんも、彼も」
「ほんとうに、私は上手くサタナリアに成れているでしょうか?」
「ええ。とっても上手よ」
よしよし、とでも言うかのように看護服のサタナリアは修道服のサタナリアの頭を撫でるが、ソレを至近距離で見せつけられた私には戸惑いで一杯になる。ひとりしか居ないはずの人間が、二人もいる。それも片方が片方の頭を撫でる、というこの場にそぐわない珍妙な行いをしているのだ。戸惑いもするだろう。だがそんな私の心境をよそに看護服のサタナリアは「強いて言うならもっと心の底から憤らなきゃ。でも、まあ、彼が実の父親じゃあ貴女も憤りにくいわよねぇ」と俺を見下す。
実の父親? 受け入れられない言葉を耳にしながらも、それを問うための声帯が無くなった私。二人のサタナリアに見下されている内に、俺の視界は徐々にぼんやりとしたものへ変わってゆく。嗚呼、嗚呼。マリア、マリア、マリアマリアマリア。わたしの、まりあ。わたしはただおまえをふたたびだきしめたいがために、わたしは……わたしは。
ぐにゃりと揺れる目の前の黒い二人が解け、混じり、どろどろになって私の脳髄を犯してゆく。その合間を縫うようにして、きらりと眩いばかりの金色の糸が滑れば、その黒いどろどろは煌めきと共に私のマリアへ変わる。
「おやすみ、パパ」
ああ、わたしのマリア。お前はそんなところに居たのか。




