1-9
ナニカたちはアヴィーの命令通りダニエル神父を粗方食しきったのだろう。美貌の顔を一つ残し、標的を周りの有象無象に変えれば聖堂の中は悲鳴に包まれた。明瞭な視界が得られれば、おそらくここは地獄絵図と同等の場に化しているのだろう。見えぬことも、時には良いのだな、と妙に納得してしまう。
一方ナニカたちから解放されたダニエル神父の頭部は、苦痛を浴び、血にまみれており、美貌というに値はしないのだが、それでも元の造詣が整っているのといないのとでは大きな違いがあるように思う。
「嗚呼、これだから生き物は嫌いなのよ」
甘い香りを漂わせ、床に広がるダニエル神父の血だまりが跳ねれば、血まみれの神父の頭部を鷲掴みにし、それへ熱い口づけを与えている麗しい少女が居た。
「なっ」
てろりと光る唾液をたっぷりと絡ませて、何度も、何度も、何度も、何度もダニエル神父の顔に口づけるリリス。目の前で起きた、あり得てはならないような光景に度肝を抜かされた俺。だが傍らのアヴィーは違ったらしい。平素と変わらぬ落ち着いた声色で「その男をどうするつもりですか」と彼女に問いかけた。
だが問われたリリスは何も答えず、ダニエル神父に熱く濃くねっとりとした口づけを交わし続ける。
「ボクと同じにでもするつもりですか」
今一度アヴィーが彼女に問いを投げかければ、リリスは彼から唇を離し、唾液と血で濡れそぼった口を弧に曲げる。
「そうねぇ。ふふっ。私、生き物……というより脆弱な心臓のあるものはあまり好きじゃあないから、貴女みたいに手を加えて心臓を強化するのがちょうどいいかもしれないわねぇ」
ニタニタと、にやにやと、否、ねっちゃりとした粘っぽさを含んだ彼女の笑みと、何とも不謹慎極まりない言葉の真意を理解しかねた俺だが、そんなものに配慮する気は微塵もないらしいリリスは口早に自身の言葉を続ける。
「心臓は無意味に時を刻み、巡り終えれば壊れて二度と動かなくなるからねぇ。人の一生なんて替えの聞かない一回ぽっきりのゲームと言ったところかしら。ホント、神様ってクソゲーを作るのが趣味なの? それともこれってセーブポイントの一切ないマゾゲー? ねぇ、ねぇ? アヴィーちゃん。巡り巡る七姉妹の一人である貴女はそのあたりを、どう思ってる?」
「ボクは回答を拒否します。それで、彼はどうするのですか」
「ふふっ。そうねぇ……そう、ダニエル・ド・カルマンは此処に生きていたのかしら?」
にやぁ、と毒々しい猫を髣髴させるような笑顔を魅せるリリスだが、その言葉の真意は先ほどまでと同じで理解できない。彼女は一体何を言っているのだ。だって、そうだろう。ダニエル神父は今まさに豹の姿をしたアヴィーに胴体を喰われ、唯一残った頭部は今彼女自身が鷲掴んでいるのだから。
それにもかかわらずリリスが「生きていたのかしら?」と、もとより生まれていないように言うのはおかしな話だろう。何せ彼は今そこに生きて、死んだのだから。けれどリリスは自己暗示のように疑問の言葉を紡ぎ続ける。
「彼に子は居るのかしら? 彼に居場所は在ったのかしら? 彼は大業を成し遂げたのかしら? 彼に繋がりは在ったのかしら? 彼に影は在ったのかしら? 彼は想いを育めたのかしら? 彼はこの世に生を受けていたのかしら? 彼を生み落としたとされる親は存在していたのかしら? ―――彼に生は宿っていたのかしら?」
「何を言っているんだアイツは」
告げ口をするようにアヴィーへ向けてそう言いはしたが、彼女は視線を一瞬俺によこしただけで、俺の問いには答えてくれはしなかった。
「結論を言えば『いいえ』。彼にはもとより生などという煩わしい枷は宿っていなかった。これが私の世界の、この現世の事実! 私が見つけて決めたこの世の真実!」
「何が彼に生は宿っていなかった、だ! お前の言葉はただの独りよがりで、ダニエル神父が居たという元来の事実は壊せやしないだろう!」
アヴィーの沈黙にも、リリスの饒舌にも耐えきれず、叫んだ俺に侮蔑の視線を向けるリリスの顔はまさしく侮蔑そのもの。
「だーかーらー、ダニエルという人物は生まれてなどいないと、何度言えば貴方は理解してくれるの? 祖である類稀なる幸運を持った父もいない。この教会は何も崇めず何も生み出せずに在る無の教会。この全なる奇跡である私がそう決めれば、その『奇跡』はもたらされるの。お分かりいただけたかしら、哀れで無知なヒトの子」
「わからない」
リリスの言葉にさほど耳は傾けず俺はそう断言した。わからないのではない、わかってはいけないのだ。
「貴方の場合はきっと、わからないのではなく、わかりたくないのね。でも私は優しいからちゃんと、教えてあげるわぁ」
ささやかな俺の抵抗さえもリリスにはわかっていたらしい、慈母の笑みを浮かべた彼女は涼やかな声で語る。
「情報化された現在時点のこの世界では難しくなっているけど、人間の存在というのは思いのほか曖昧なのよ。何せ人との繋がりが無ければその存在を立証することはひどく難しいのだから。そうね、例えば人里離れた山の奥に人が住んでいたとするじゃない? でもそのことを知らない人里の人たちにとって、その人は『居る』のかしら?」
「その定義自体は捉えようによるだろうが、ダニエル神父は違うだろう! 彼にはきちんとした人脈が在るじゃないか!」
「そうね。でも居ないという結論は同じでしょう?」
「なっ」
「いないの」
「彼なんて、居やしないのよ」と改めて断言したリリスは我が子を慈しむ母のようにダニエルを胸に抱くと、そっと彼の頬に自らの手を添え、可愛らしい唇で語る。
「そう、現実を捉えたうえで私はダニエルという存在を再構築するわ。いるけどいない、いないけど、今、永遠の処女である私から貴方は生まれなおしたの。これが私のダニエル。私のおもちゃ」
再度彼の唇に口づけ、下品とさえ思わるほどのリップ音を立てれば、徐々にダニエルの身体はミチミチと音を立てて元の人型へと戻ってゆく。どういう仕組みなのかはわからないし、わかりたくないが、まるで気味の悪い手品を見せられている気分だ。傍にいるアヴィーはその光景を見ながらも、ソレを止めたりすることはなくぽつりと「悪趣味ですね」と呟いた。
「そんな私の悪趣味から再生を経た貴女にそんなこと言われるなんて、私とっても心外だわぁ」
何がそんなにおもしろいのか、まったく俺には理解できないがケタケタと軽快に嗤う彼女は壊れたおもちゃのようにも見えてくる。
「ああそうそう、此処は何も崇めず何も生み出せずに在る無の教会だから、貴女達の好きにしていいからね。あと、ダニエル私の足を舐めて綺麗になさい。貴方の汚れた血が付いてしまっているじゃない」
リリスの言葉に従うように、彼女の腕に抱かれていたダニエルはずるりと身体と頭を垂れ、彼女の小さな靴に唇を付けた。だがその目には生気も表情もなく、ただ彼女の命令を聞くだけの久々津人形のようだった。
これが、あの、天使的な笑みを浮かべ、女性にもてはやされていたダニエル神父なのだろうか。否、違う。彼は先ほど首だけになり、死んでしまったではないか。それが、身体を再生させたからと言ってまるまる同じ彼なわけがないだろう。
「なあに、この程度。奇跡である私にかかれば容易いことよ」
「何が奇跡ですか。こんな下品なもの、奇跡と呼ぶにはおこがましすぎます」
得体のしれない甘い芳香、生臭い血の異臭。相反する香りに鼻孔が犯されるなかで、やはりアヴィーは平然とした面持ちと声で、リリスに物申した。
「何その答え。おこがましい? それこそ私が貴女に言ってやりたい言葉だわ! 十五年前の貴女は何時だって激情的で楽しかったのに、今は冷静さと分別がありすぎてあっけない! しかも『ボクは理性の塊です』って言わんばかりの冷徹ぶり! そんなの、認められっこないわ! 貴方が認めても、私が認めない! あの人の娘は、もっと悪魔的であるべきなのよ! そうじゃない貴女こそ、あの人の娘を名乗るだなんて、おこがましい!」
室内に響き渡るような大声で叫んだ彼女は、おもちゃを親にねだる子供によく似ており、つま先を舐めさせていたダニエル神父の頭を下に、地団駄を踏んでいる。
その姿は我儘な少女そのもので、ダニエル神父の存在を語っていた先ほどまでの真剣さは何処へいってしまったのか。ぐるぐると、歪に、そして目まぐるしく変化する彼女の表情と性格と口調に、俺の理解は追いつかない。一体リリスはどういう人間で、何者なんだ?
「ねぇ、どうしてアヴィーちゃんはそんなつまんない個性に成り下がっちゃったの? どうしてアヴィーちゃんはその人を心の底から求めてないの? 少しでも一緒に居たら情の一つでも沸くでしょうに! どうしてS氏に対するように求めないの? どうして彼の愛を欲しないの? どうして彼を食さないの? どうして彼に強要しないの? どうして彼に望みを抱かせないの? 何理性の塊みたいな割り切り方しているの? 貴女それでも暴食の業を抱く悪魔なの? どうしてそんなあなたがS氏の娘になれるのよ! アタシがなりたくて仕方がない、あの権力者の娘に!」
「そんなこと、姉妹の資格が無かった貴女が言うことじゃないでしょ?」
そう声を発したのは、何度か顔を合わせているサタナリアだった。
聖堂の扉に背を預け、外から差し込む白い光に照らされる彼女の衣服は相変わらず黒く、照らされているのに闇に混じっているような妙な感覚にとらわれる。
「っ、閣下の意思に染まらない薄情者!」
「薄情者で結構よ。閣下がそれでも良いと判断しているもの。さ、貴女も早々に退却したら? もうしばらくしたら世間の目がこちらに到着するわよ?」
世間の目。ということは警察関係者などがこの教会に押し寄せるということなのだろうか。
「チッ」と少女らしからぬ舌打ちをしたリリスは先ほどまでの激昂が嘘であったかのように「それじゃあアヴィーちゃん。あの薄情者と貴女のお父様。そしてこの無の教会をよろしくねぇ」と朗らかに笑い、教会の影へと消えていった。勿論、自身の意思を喪失したと思しきダニエル神父を軽く小脇に抱えて。
リリスの背を見送った後「ぱんぱん」とサタナリアが小気味よく手を叩けば、扉の向こうから病院内でも見たおかっぱ髪に黒い看護服を着た少女、瘧たちが現れる。
「さあみんな。世間様が来ても良いように、証拠隠滅よ」
蜘蛛の子が散るように聖堂内部に散らばり、溶けた瘧たちは、逃げ惑う有象無象の人影たちやヒトを模したナニカたちを捉えたり、聖堂内部の清掃、撤去作業をしたりし始めた。
おそらく世間の目に触れてはならぬものを、隠すつもりなのだろう。だが聖堂内は暗いため瘧たちがどのようなものを撤去、清掃しているのかは分からない。それでも、目にしない方が精神衛生上よろしいのだろう、という判断ぐらいはついた。それに隠蔽や虚偽をあまり快く思わない俺でも、流石に正体不明であろうヒトを模したナニカたちをこのまま野放しにするのはよくないとは思うため、特に彼女たちの行いに口を挟みはしない。
「先生、良いタイミングでした。ありがとうございます」
ツカツカと高鳴るヒールの音を響かせながら俺たちの方へやってくるサタナリアに、アヴィーが礼を言う。
「そんな、お礼なんていらないわ。それにアヴィーちゃんが頑張ってくれたおかげで、いろいろサンプルも採れたもの。こちらがお礼を言うべきだわ。さあ、アヴィーちゃんたちはジークさんの手当ても必要でしょうから、病院へ行ってちょうだい。貴女が隠した車は表に着けてあるから」
さあ、はやく。そう急かすようにアヴィーの肩を叩いたサタナリアは、俺に目をくれることはなく俺たちの前を過ぎ去ろうとする。
「あ、あの」
ランスたちは、ノーラやマリアは一体どうなったのか。そう尋ねようにも彼女は目線を俺にわずかに向けただけで、俺の問いに答えてはくれず、変わらぬ足取りで主祭壇の方へと消えてしまった。
サタナリアと瘧の出現、リリスや神父の退却。それらによって、もはや襲われるという危険が過ぎ去ったのだと遅ればせながら気づき、気が抜けたのだろう。急に、視界がぐにゃぐにゃと不安定に回った。しかも未だ生々しく香る血肉の異臭に混じり、リリスが去ったにも関わらずまだ甘い芳香を秘めた香りがじわじわと脳内を犯しているような気さえしている。
「ジークさん。今の貴方に此処の空気は毒ですし、身体のことも気になりますから、先生の言う通り港町の病院へ行きましょう。それに此処に居るとされている方々に関しても、病院へ行けばわかるでしょうから」
だから、早くこの場から逃げ出しましょう。
アヴィーにそう急かされるが、ぐるぐるとまわる視界の中では立ち上がることもままならない。それにたとえ立ち上がれたとしても数歩歩いただけで倒れてしまいそうな気さえする。いつまでたっても立ち上がらない俺を見かねたのだろう。アヴィーは「少々失礼しますね」と断りを入れた後、俺の肩膝下に触れ、そのまま持ち上げた。
「あ、アヴィー?」
ぐにゃぐにゃと不安定に回る視界の中では何がどうなっているのかは明瞭にわからないが、それでも、今現在俺がアヴィーにお姫様抱っこなるものをされているのだということは理解できる。
あまり振動を与えないようにしてくれているのか、かろうじて歩いているのだろう、という振動だけが伝わる中で、俺は自身の無力さと男としてのふがいなさに打ちひしがれていた。嗚呼、やはりアヴィーの勧めの通り、教会の外で待機しているべきだった。
だがその後悔も徐々に視界のゆがみが取れ、明瞭になってきさえすれば容易くはねのけられた。何故なら、俺の前、それも至近距離にアヴィーの顔があるのだから。
やわく差し込む白い月明かりで照らされるアヴィーの顔は冬季のように美しく、なめらかで、もしこの瞬間両腕を自由に動かせたなら、彼女の量頬に手を当てて撫でていたことだろう。否、そんなこと、おこがましくて出来やしないだろうが。だが密着できる機会はそうないと思われるので、矮小なプライド等はかなぐり捨てて、思う存分アヴィーの身体を味わう所存ではある。
聖堂、もとい、教会から出ればサタナリアの言った通り俺たちが来る時に使っていた群青色の車が停められており、その前では瘧が一人後部座席の扉を開けて俺たちを待っていた。
「どうぞアヴィオール様、ジークフリート様!」
さあ中へ。そう言わんばかりの仕草をする瘧に従って、アヴィーはまず俺を中に入れ、その後自分も俺の隣に腰を据えた。
「瘧、先生の管轄病院へ行ってください」
「了解しましたー!」
今にも敬礼しそうな、溌剌とした声を上げた後、車を急速前進させた瘧。前の座席に座っていないのと、少々疲れ気味のため確認する気も起きないのだが、おそらく車のヘッドライトは点いていないだろう。
俺をお姫様抱っこし、車の中に入れてくれた隣のアヴィーも俺と同様少々疲れているのだろう。座席の背に深く腰と背を預けぼんやりと外を眺めていた。
「なぁ、アヴィー。彼女……リリスとはいったい何者なんだ?」
訊ねなくては一生リリスについて訊く機会など無いような気がした俺は、思い切ってそうアヴィーに尋ねてみた。例え、アヴィーが持つ俺への評価が少々下がってしまうことになろうとも。それだけの意味はおそらくあると信じて。
「……リリス。彼女はこの世に蔓延る奇跡の具象。ボクにとっては災厄の権化としか言えません。ですが現状から察するに、しばらくもすれば憑き物も落ちて平素に戻るでしょうから、特に心配することもありません」
それ以上の説明はないのだろう、アヴィーは口を紡いでそれ以上は話そうとしない。かわりに「安心してくださいジークフリート様。人間の一生で、あんな類稀なるモノに二度もブチ当たることは滅多にありませんから、気に掛けなくても平穏に生きていけますよー! むしろ出会えてラッキー☆ と思わなきゃ損ですって! 私なんて今日見逃しちゃって、一回もまだ目にしてないんですから、お二人が超うらやましいですー!」と車内でやけに一人だけテンションの高い瘧が俺の質問に答えてくれた。
「ああ、そうなのか……」
親切で答えてくれたのだろう。「フンスー」と満足げな鼻息を立てた瘧はさらに車のスピードを上げた。
……本当に、リリスと出会えてラッキー☆ なのだろうか。正直あのリリスという少女は得体が知れない。
見目こそ麗しく、華やかな印象や明晰そうな雰囲気はあったが、徐々にその甘さに隠された子供じみた幼稚さや醜悪さが垣間見え、結果として俺は彼女のことが分からなくなった。それが彼女の姿であるとアヴィーが宣言するのなら納得するのだが、それでもリリスの理性的な一面を序盤で見せつけられ、何かの効能のように彼女に魅了されていた瞬間のある俺としては、なかなか受け入れられないものである。
「瘧の言う通り、深く考えず、出会えたことを喜びとした方が楽ですよジークさん」
「アヴィオール様、ひどーい! 私結構物事を深く考えてるつもりですよー?」
「貴女はもう少し他の瘧を見習って、協調性を学ぶべきです。あとちゃんと前を見て運転してください。それにもうここまでくれば車のライトも点けて良いでしょう」
「むー、了解ですー!」
特に反論することなく、アヴィーの言う通り車のライトを点けた瘧。その後特に会話らしい会話もない中、俺は唐突に思い出す。先ほど目の前で起きた出来事が衝撃的、尚且つ連続して起きたせいですっかりと頭から抜け落ちてしまっていたが、俺たちは十五年前に起きたイーエッグ木乃伊化殺人事件と現在起きている事件の真相を調べに来ていたのだった。
「アヴィー。これから事件はどうなるんだ」
「どうなるも何も、終わりです」
「終わり? それは犯人が捕まって、もう二度とこんな事件が起きないということか?」
実行者はともかくとして、首謀者としての犯人はおそらくリリスとダニエル神父であろう。だがあの二人は逃げたはずだ。否、むしろサタナリアに逃がされてさえいたはずだ。それに、あれだけのことでこの事件が終わりだというのだろうか?
あれだけのことを目の当たりにさせられた俺としては「これで終わりなのだ」という実感は得られたのだが、それでも「あれだけのことで、本当に終わりなのだろうか?」と思う自分もいるのだ。何せ、首謀者の二人が共に逃走しているのだから、また同じことが起きてもおかしくはあるまい。
「ジークフリート様は、何を言ってるんですかー? 犯人なんて捕まらないですよー! 捕まったとしてもそれはスケープゴート。いわゆる世間を落ち着かせるための哀れな生贄ですー!」
「瘧、貴女は病院に無事到着するまで口を噤んでいてください」
「ンムー!」
瘧の発言が癇に障ったのだろう、瘧に発言を慎ませたアヴィー。だが、もし瘧の言うことが本当だとしたら、本当の犯人は捕まえられることなく逃げおおせ、世間体のためだけに犯人がでっち上げられるとしたら、やはりまたしても同じ事件が起きるではないか。
「事件はもう起きません。少なくともリリスはダニエル神父の思想に基づいて手を貸していただけにすぎませんし、廃人と化した彼にはその思想も残ってはいないでしょうから」
「ならば、この事件の真相とは一体何だったんだ」
俺の娘が死に、俺の妻が心を病み、島中を震撼させ、十五年の間を空けて新たな犠牲者を大量に出した。この事件の真相とは、いったい何なのか。
アヴィーの目を見据え、俺は彼女にそう問うた。しばしの間を空けて、アヴィーは俺から目を逸らすと小さくため息を吐く。
「……はぁ。事件の真実はもう貴方もわかっているはずです。この事件は居もしない神を称える哀れな人が、奇跡を叶えるために成した狂気の所業なのだと」
「それでも、俺はこんな終わりを望んでなどいない!」
俺が望む終わりとは、犯人が捕まり、事件の全貌が公表され、傷ついた人々や亡くなった人々の家族が安らかな生活を送りはじめる、そんな終わりだ。少なくとも夢物語のような望みであることは十分にわかっている。だが、それでもそのうちの一つでも叶っていればよいところ、一つは愚か一つも叶っていないのだ。
けれどアヴィーは俺の怒声にほんのわずか目を細めて俺を視界に入れなおしただけで、慄きもしなければ、俺の望みをかなえられなかったことに対して謝罪さえもしない。むしろ「そもそも貴方の望みは事件の真相を知ることでした。それ以上のこと―――具体的にいうなれば貴方が望む通りの終わりを烏滸がましくも求めるというのならば、それはボクの管轄する領域ではありません。むしろそういう非現実じみた類の望みは、先程会ったあのリリスに懇願するべきです」と言いさえした。
「はぁ……。少し気が動転している今のジークさんに言うのも意味はないのでしょうが、今一度言った方が良いのでしょうね。十五年前の事件と今回の事件の被害者はとある神を盲信する彼らに殺されたのです。そしてこれ以上木乃伊化遺体が新たに作られることは、現状においてあり得ません。と」
「……っ、」
彼らの、リリスやダニエルたちの盲信が、俺の娘を、俺のオデットを殺した。そんなこと、わかっている。リリスやダニエルたちが首謀者であったこと、そして彼らの盲信が俺たちを踏みにじったことを。だが俺は、わかっていたとしても認めたくないのだ。そんなくだらないことのために俺の娘が犠牲になり、俺の人生が踏みにじられたのだと、認めたくないのだ。いや、認めたくなかったし、認められなかったからこそ俺はこの事件の真実を望んだのだ。
だがその真実は俺の望みとは異なるものだった。アヴィーとしても事件の真実をせっかく提示したというのに、俺が認められないというだけで否定されているのだから溜め息息だって吐きたくなるだろう。嗚呼、こんなこと終わりのない堂々巡りだ。これが、事実で、真実なのだ。ならばこれ以上を望み、求めたところで何一つとして事実も真実も変わりはしないだろう。
「……これで、おわりなのか」
俺自身の区切りをつけるために、今一度終わりを尋ねれば、アヴィーは頷き、「はい。これで終わりです」と静かに答えてくれた。
「そう……か」
ならばもう俺は事件の真相を追うことはやめよう。こんな『悪魔的』な盲信を秘めた事件など。
――『悪魔的』。そう、この事件は悪魔的な事件だった。ならば、その悪魔に類するベルゼブブを彩られたアヴィーに望みを叶えてもらった俺は、彼女に何を捧げればいいのだろうか。
「アヴィー、お前はベルゼブブという悪魔を彩られているのだろう?」
震える声をできるだけ抑えながら問いかければアヴィーは「はい」と短く答える。そう、彼女が本当に悪魔だとするならば、一つ目の願いが叶えられてしまった現時点で魂の譲渡は確定するのではないだろうか。
「なぁ、悪魔は魂と引き換えに三つの願いを叶えると聞いた覚えがあるんだが、悪魔を彩られたお前に一つ願いを叶えられた俺はいずれお前に魂を渡さねばならないのか?」
「いえ、もうすでに魂は受け取っておりますので貴方から徴収する分はありません」
この望みの対価である魂はもう受け取っている? 一体どのタイミングで?
「どういう意味だ?」
アヴィーが言った事の意図をくみ取れなかった俺は、新たにそう質問をした。
「ボクはジークさんの魂ではなく貴方の娘、オデットの魂をお預かりしていました。そして、貴方の願いを貴方の娘の魂を糧に叶えていただけです」
「どうしてお前がオデットの魂なんかを、」
もしや彼女がオデットを殺したのか? 取りつかれたような発想に指示されるまま、俺はアヴィーに掴みかかる。だが彼女の表情は変わらない。
「彼女は盲信的な彼らの被害者となり、死と共に町へと捨てられました。しかし、彼女は強い意志と共にかろうじて生きていたのです」
「なっ」
「そして当時この事件のために此処へやってきていたボクは虫の息であった彼女と出会い、彼女の願いを聞いたのです」
「オデットは、何を望んだ」
アヴィーを掴んでいた手を離し、彼女の薄い唇に意識を集中させる。きっと俺の求めた真実が、彼女の口から今解き放たれるだろうから。
「彼女はボクに『あの人たちからパパとママを守って』と望みました。彼女は生きる希望を取られてもなお最期まで貴方方両親のことを想っていたのです。この世に居ることは珍しい、かのアガペーのように。もしかしたら、生きる希望が無いからこそ生まれた、他者への無償の愛なのかもしれませんけれど。そしてボクは貴方の奥さんに会い、その時に願いを一つ叶えました」
「妻は、なんと答えた」
俺の声が、震える。
「彼女の望みは『娘 愛しいオデットを返してほしい』それだけです。だから、ボクは彼女に娘を返しました」
嗚呼、そうか、そうなのか。だから妻に娘は見えていたのか。彼女は嘘も吐いていなかったし、妄言も言ってはいなかったのだ。そこに、彼女の世界には間違いなく娘が居たのだから。
「十五年前に貴方にも望みを訊ねる予定だったのですが、当時の貴方は娘を失ったことと奥さんの世話で少々疲れ、望みを抱く場合ではありませんでしたし、ボクはボクでリリスと相対し、一度の終わりを迎えてしまったので尋ねることはできませんでした」
そう言ったアヴィーは、ずい、と自らの身体を俺に押し付けた。車を運転している瘧は、バックミラー越しにこちらを凝視してはいるがアヴィーの命令通り何も言わない。
彼女の胸元についているマカライトグリーンの宝石が、白いスカーフが、俺の胸に、当たる。彼女の弾力のある肉と、やわらかな体温、豊満さのない重みが俺の皮膚を侵食する。彼女の薄い唇から洩れる静かな呼気が俺の頬を滑り、彼女の冷たい視線が俺を突き刺す。
「少なくともボクと貴方の娘は一つになりました。ボクが食べた食材と同じように、彼女の魂もまたボクの一部分になっていることは事実。僅かにその片鱗が垣間見えることはごく自然のことかもしれません。特に、記憶も混じる魂ともなればその片鱗は色濃く表れるでしょう」
至近距離でアヴィーが笑う。その笑みは十五年前に失われた俺の娘に重なって、溶けて、霧散する。嗚呼、嗚呼、娘はずっと此処に居て、俺を待っていたのか。
「……なぁ、オデット」
「なあに? パパ」
にこりと可愛らしい笑みを見せた彼女。その笑みは古いアルバムを彩る小さなオデットのソレで。俺はどうしても彼女に言わなくてはいけないことができてしまったのだ。
「ずっと、俺のそばに居てはくれないか」
俺は、お前を、もう二度と手放したくないんだ。大切で、愛おしい、俺の宝物。事件を発端として失ってしまったものは多いけれど、それでも戻ってきてくれるものがあるのであれば、俺はそれを二度と手放す気はない。オデットも、勿論、オデットを秘めたアヴィオールも。
「貴方が魂をかけてそれを願うならば、ボクはそれを叶えましょう。ボクたちはそういう存在ですから」
わらう。アヴィオールの姿を得た、俺の娘が、俺の目の前で、笑う。
皮膚を侵食するやわらかな体温が、これを現実だと俺に知らしめる。俺の娘は今此処に、俺の前に居るのだと。ならば俺が彼女に、彼女たちに言えることは一つしかあるまい。ゴクリと息を飲み、口を開く。
そして俺は望みを口にし、それを聞いた彼女たちは満足そうな笑みを浮かべる。
するり、と俺の頬を優しく撫でた弾力のある肉。やわらかな体温。その二つに誘われるようにして、俺は目を閉じ、そして世界を暗転させた。




