1-8
刃を汚していながらも、理性をなくしているような人食などという非道な所業とはまるで違う彼女の姿に「嗚呼」と声が漏れた。現状から分かることは、彼女が殺し、喰ったアレはヒトではないということ。そして彼女は今まさにヒトの命を救っているということだけ。殺すのでもなく、食すのでもなく、動かぬ状態にして生かしているのだ。
「貴方の手駒はこれだけですか? ダニエル・ド・カルマン」
「まさか、そんなわけはありませんよ。お嬢さん」
そうは言うものの現状これ以上のことはできないのだろう。逃げるように教会の中へ消えたダニエル神父。
「ジークさん。ボクたちも教会の奥へと行きましょう」
恐れのあまり尻を地につけていた俺に差し出されたアヴィーの手は、ヒトと、ヒトに類した何かの液体で汚れていた。だが、少なくともアヴィーの手であることは間違いない。極力アヴィーを否定、拒否したくない俺は彼女の手を借り、立ち上がる。そしてダニエル神父の消えた教会の中、聖堂へと俺たちは足を踏み入れる。
蔓延る闇を柔く撫でるほどのしかない光が聖堂の中に息づく中、何が隠れているともしれぬ聖堂をおくびもなく歩くアヴィー。それに同行する俺は少々腰が引けてはいるが、決して彼女からは離れはしなかった。
そんな中、不意に背後からただならぬ気配を感じ振り返ってみれば、黒い影―――一人の男が俺に煌めく何かを振り下ろさんとしていた。だが俺が「ひっ」と声を上げるより早く、小さな何かが飛び、「お、俺の指ィイイイイッ!」と男が叫んだ。
「おや。一応、意識がありましたか」
何時の間に割って入ったのだろう。俺と男の間に立ち、自身が持っているテーブルナイフに舌を這わせたアヴィーが毒づき「うっかり一撃をお見舞いしてしまいました」と零す。その騒動にさすがに気が立ったのだろう。光の差し込まない場所に隠れていたらしい黒い影たちは肥大し、統率のとれていない足音を立てながらぐるりと俺たちを囲む。
「それにしても蛆虫のごとくよく湧きますね」
有象無象とでも言えばいいのだろうか。無数の人間が取り囲む中央部に居ながら、何故彼女は平然としていられるのだろうか。
「私にはただの信仰心豊な、愛すべき信者にしか見えませんよ。それに蛆虫と言うのならば彼こそ蛆ではないのですか? 私たちの神を冒涜せしめんとする彼こそ、この世の蛆ですよ」
聖堂の奥。満を持して登場するかの如く現れたダニエル神父。その隣には従者、そして、その足元に転がされたのは俺の弟であるランスだった。さほど光源がなくとも分かるほどに、彼の顔はひどくはれ上がっており、服は土と血のような液体で汚れてしまっていた。
「ランス!」
まさか弟がいるとは思っていなかったが、彼もまた娘と妻を取られた身。事件を調べていた俺とアヴィーの会話に耳を欹てていたとしてもおかしくはない。嗚呼、そういえば俺とアヴィーが話をしていた時に物音がしたか。あの時はネズミか何かだと思ったが、アレはランスの立てた音だったのか。
俺の狼狽が相手にも伝わったのだろう。これ見よがしとでも言うように、ダニエル神父の従者はランスの口に銃口を押し込んだ。
「やめろ!」
例え嫌悪感を抱いていたとしても、少なからず兄弟の情があったらしい。俺の身体は自然に動く。否、動いてしまった。せっかくアヴィーと交わした約束を、反故にしてしまったのだ。
「捉えよ」
神父の声と共にアヴィーの周りに居た有象無象の影たちが一斉に俺へと襲いかかり、押しつぶされる。そして喉元にいくつもの刃物が突き付けられた。しかも当たり所が微妙に悪かったものもあるらしく、肩口や背からひりつくような痛みも感じた。
「さあ、お嬢さん。貴女は両手を頭の後ろにして、膝を地に着けなさい」
絶体絶命と言わんばかりの俺の姿を見せつけられたアヴィーは、少し眉根を潜めた後彼の言うとおりに、両手を頭の後ろにして膝を地に着ける。
「どうやらこれで、貴女方もチェックのようですね」
早々に訪れた王手に 神父はご満悦らしい。天使的な笑みを浮かべながら、彼はゆったりとした足取りでこちらへと向かってくる。
「まったく。貴女のようなすばらしい器が、貴女の言葉を聞くこともできない愚かなヒト一人を盾に取るだけで身動きできなくなってしまうなど、本当に嘆かわしいことですね」
俺の上に乗っていた有象無象の人間たちを退かさせ、俺の毛髪を無造作につかんだダニエル神父は俺に顔を寄せる。
「せっかくこのお方は刃となり盾となり貴方を守っていたというのに、貴方はその恩瑛を自ら捨て、あまつさえ危機的状況に陥らせさえしてしまった」
なんて罪深く、愚かなのでしょうね。
吐き捨てはしないものの、心の根ではおそらく吐き捨て、暴虐の限りを尽くしたいのだろう。優しい表情を保ちながらも、雰囲気と声には激しい苛立ちの色が見て取れた。
「さあ我が主、今一度梟の預言者の手を借り、私の前に真の姿を現してくださいませ」
その言葉に反して秘められた苛立ちを解消するように、俺を地に叩きつけ頭部を踏む神父。だがそんな彼と、彼の足蹴を受ける俺を見ながらアヴィーは「断る」と拒否の言葉を吐いた。
「器でしかない貴女の意志を聞いているのではありません、私は貴女の中で眠る、我らが王に言っているのです!」
怒声のごとく響いた彼の言葉に合わせて、アヴィーの身体に、腕に、わき腹に、足に、幾人もの子供たちが飛びつき、齧り付いた。否、違う。これは教会の扉を開けた時にも表れた人を模したナニカだ。
「アヴィーッ!」
「そう、私は貴女の抱く我が王に言っているのです。なので、貴女の肉体は、ゴミクズも同然」
天使の笑みを消し憎悪の表情を浮かべたダニエル神父。されどアヴィーは「ふん」と鼻で嗤うように息を吐き、自らに齧り付いているヒトを模したナニカを引きちぎり、床に叩きつけた。
無論、自らの肉がそのナニカに食いちぎられようとも、無遠慮に。
流石にこんなことをしでかしてしまえばダニエル神父も業を煮やして俺やランスに危害を加えるだろう。いつ来るかとしれぬ痛みに戦々恐々としていたが、痛みが来ることも、銃声が鳴ることもなく、ダニエル神父の怒声だけが聖堂に響き渡った。
「貴女にはもう、断るという選択肢はないのですよ! 今一度断れば、貴女が大切に思っている彼の喉笛が掻っ切られ、その弟もまた絶命するのですから! さあ、私と共に世界を導きましょう、バアル・ゼブル様!」
ばあるぜぶる? ダニエル神父はアヴィーをそう呼んだ。しかしアヴィーにはバアル・ゼブルなどというものは彩られていないはずだ。
「……どういうことだ、アヴィー。お前にはベルゼブブが彩られているんじゃないのか!」
叫んだ瞬間、ダニエル神父の足が今一度俺の頭部を踏む。そして、それが退かされたと思いきや、腹や背を何度も蹴り飛ばされた。
「お前のような下賤なモノがっ! 汚らわしいヒトの名でっ! 高貴な我が主! 我が王! バアル・ゼブル様をっ! 羽虫の名で呼ぶなっ!」
激高したダニエル神父の怒声、止むことのない蹴り。視界に入るアヴィーは何をするでもなく、そんな俺を見下していた。まるで、それが俺に課せられた罰であるかのように。
否、罰なのだ。アヴィーとの約束を反故にした俺への、これは罰なのだ。だから俺はこれを甘んじて受けなければならないし、アヴィーはそれを受けさせなくてはならない。紛うことなくこれは、アヴィーから俺へ贈られた罰なのだ。痛みに喜びを感じさえするようになった最中、聖堂内の雰囲気がまどろみを帯びたものへ変わった気がした。
「ダァーニエールくぅーん、もうそれぐらいにしたらどう? 私、弱者が弱者へ行う暴力って、滑稽だから嫌いなのよねぇ」
今までに一度も聞いたこともない、甘く可愛らしい声が聖堂の中に響けば、俺を蹴っていたダニエル神父の足が止まる。
一体誰がその声を発したのかと目線のみで辺りを伺えば、眩い金の髪を揺蕩わせ、桃色のワンピースを纏った齢十四、十五ほどの可憐な少女がゆっくりとした足取りで聖堂の奥からこちらの方へ歩を進めていた。
血生臭い香り漂うこの教会に似つかわしくない少女の出現はダニエル神父自身にも知らされていなかったらしく、彼は驚いたように目を見開き、素早く頭を垂れた。そして俺を足蹴にしていただろう信者たちはみな片膝を付いて頭を低くさせる。
「麗しき梟の預言者、リリス殿。今宵もまたお美しいお姿です」
「毎度ながらお世辞をどうもありがとう、ダニエル。ところで今晩が時満ちし、約束の晩なわけだけれど、滞りなんて絶対に無いわよねぇ?」
梟の預言者、リリスと呼ばれた少女は一瞬俺に視線をくれた後、ダニエル神父の身体に己の身体を摺り寄せ、白い柔肌の掌を彼の首元に回し彼の眼をじっと見つめる。この様子をダニエル神父に入れ込んでいる女性陣が見たら非難の声が上がることは間違いないだろう。だが、この場にそんな女性が居るわけはなく、彼の「も、勿論です。王を孕む者も居ります」という言葉だけが返された。
「んふふっ、それなら良いの」
頬をうっすらと染め始めたダニエル神父の傍からパッと離れた彼女はその可憐な相貌に相応しい笑みを、地面に伏す俺に向ける。
「ねぇ、ジークフリート・クーベルタン。梟の預言者の私は、選ばれざる貴方にも祝福の手を差し述べるわ。だから、私の為に、私を助けて?」
彼女の背後にあるダニエル神父の怒りの眼差しに恐れを感じるが、ペタリとリリスの手が俺の頬に触れた途端そんなものが微塵も感じられなくなった。彼女の身体から溢れる甘ったるい香りが徐々に身体を蝕み、思考を飽和させる。四肢が訴えていた痛みも、鼻を突いていた嫌な匂いも消えて、この世に彼女と俺の立った二人しかいないような感覚に切り替えさせられていく。
そして彼女が発する言葉すべてに絆され、諭され、立たされ、俺は歩かされる。俺達の歩みを邪魔するものは、誰も居ない。何せここは俺と彼女しか居ないのだから。
もっと考えなくてはならないことがあるはずなのに。もっと肝心な信念があったはずなのに。すべてが抜け落ち、霞がかった思考だけが目の前の彼女に集中する。
「そう、いい子。さあ、いらっしゃいジークフリート。私の――」
「それを、ボクが許すとでもお思いですか!」
俺の手を引く白い腕が離れ、身体が柔らかい何かに抱きかかえられ跳躍した。何が今、俺の身に起きたのか。皆目見当もつかない。だが、俺の目には今、アヴィーの顔が至近距離で映っている。
「あ、アヴィー?」
甘い匂いと共にまどろんでいた思考が僅かに晴れる。どうやら俺は、アヴィーの華奢な腕に抱きかかえられているという状態になっているらしい。
男としてはいささかプライドが崩れる体勢ではあるが、この緊急時に苦言を呈すわけにもいかないし、そもそも文句を言える立場でも最早なかった。意気揚々、と言えるほどの物ではなかったが少なくともアヴィーの役に立つつもりでいたのに、これでは完全にお荷物だ。こんなことなら、教会の入り口でおとなしくしているべきだったかもしれない。
彼女の腕の中でそんな後悔をする暇はなく、俺の身体はリリスやダニエル神父たちがいる方とは逆の方向へ投げ飛ばされた。
「彼はボクの雇い主ですよ、リリス」
「あらぁ、残念。でも私が今一番求めているのは彼なんかじゃなくって貴女なのよ、アヴィー」
投げ飛ばしておきながら「雇い主である」と豪語するのはこれいかに。だがそんな俺の指摘が彼女たちに伝わるわけもなく、両者は互いの動きを見定めているのか微動だにしない。
「ふふっ、ねぇアヴィーちゃん。私のプレゼント、ちゃんと貴女に届いたかしら?」
少女が浮かべるべきではない、下劣な笑みを見せたリリス。対するアヴィーは舌を打ち、彼女から距離を取ろうとするもののその場から動くことができないらしい。おそらくリリスに何かをされたのだろうが、その何かがどういったものであるのかは、俺には分からない。
しかもリリスの傍に居ないというのに、どこからか甘い香りが俺の鼻腔を刺激し、脳髄を犯す。呼吸をするたび、思考に霞がかかり、目の前の事象さえも歪み始める。
「さあ、今のうちに彼女を捕まえてちょうだい。男の方は、そのまま放っておいて構わないわぁ」
ニタニタと、粘つくような笑みを漏らしリリスがそう命令すれば、彼女の後方にいた有象無象の人影たちが動けないでいるアヴィーを捉え、その両腕を縛り上げた。そしてリリスがアヴィーの身体を引きずり、聖堂の奥、主祭壇の前に置けば、人影たちはその周りに集い、長々と詠唱のような言葉を吐き連ねはじめた。
思考に霞がかかっている俺には彼らが何を言い、何をしようとしているのかは分からない。けれど、あの中心からアヴィーを助け出さねば、きっと俺は後悔することになるだろう。
嗚呼、早く。早くあそこから彼女を救わねば。そうは思っても身体は動かず、ただただ目の前で起きている事象を見つめることしかできない。嗚呼、なんて俺は無力なのだろうか。一通りの詠唱が終わったのだろう。アヴィーとリリスを囲んでいた人影の円が割れ、散開すれば、俺の方からでもその中心にいる二人を見ることができるようになった。
揺れる桃色のワンピースに対し、微動だにしない常盤色。上機嫌に「んふふっ、」と声を漏らし笑ったリリスはアヴィーの首根を掴んで顔を上に向けさせる。そして意識があるのかも定かではないアヴィーの頬をリリスが撫で上げ「さあ、己を出しましょう」と、少女には似つかわしくないほど下劣な笑みを浮かべた。
「っ、あああっ!」
リリスたちによって何をされたのかは知らないが、声を上げ床の上でのた打ち回るアヴィー。だがその挙動もしばらくもすれば収まり、痙攣へと変わる。びくりびくりと安定性のないリズムで身体を跳ねさせる姿は、まさしく水を奪われた魚のよう。
「あ、アヴィー……?」
やっとのことでひねり出した声ではあったが、アヴィーはそれに反応しない。むしろ身体の痙攣さえも徐々にその頻度を減らしていってさえいる。このままでは、アヴィーが、否、アヴィーはどうなってしまうのだろうか。
「さあ、最後の仕上げですよ、ダニエル」
彼女たちが居る場所のすぐそばに控えていたらしい、リリスに名を呼ばれたダニエル神父は二人に向かって一礼をしたのちに、両手を広げた。
「時は満ち足りた。顕現の陣を敷いた土地は己が神聖に属し、白き乙女を捧げ、称賛の言葉を三つ唱えよう」
「優美なる姿を得た我が王よ」
「孤高の誉れを受けた我が王よ」
「気高き知性を持つ我が王よ」
「我らが僕の声を聞き御姿を此処へ、我がバアル・ゼブル王よ!」
ゴゥ、と室内であるにも関わらず突風が吹き、あまりの激しさに目を閉じる。そしてその突風が止んだ頃合いで目を開けば、アヴィーがいたはずのその場には優美な白豹が一頭、居た。ソレの凛とした佇まいは神聖な生き物であることを俺の脳に知らしめさせる。だが、肝心のアヴィーは、俺の大切な彼女はどこへ行ってしまったんだ?
一体何が起きたのか。どうしてこのような現象と向き合っているのか。消えてしまったアヴィーを探そうと痛む身体を必死に動かせば、動いた俺に狙いを定めてしまったのだろう。白豹が俺を見据え、一跳ねしたかと思うと俺の上に飛びかかってきた。
「ヒッ」
噛まれる。瞬時にそう判断し、次に来る痛みに備えて瞼を固く閉じるが何も感じられない。恐る恐る瞼を開けば、白豹の金色の眼が、じっと俺を見つめていた。よくよく見てみればこの白豹の片目はアヴィーと同じく失われており、そして慈しみと憂いを秘めている。直感ではあったが、嗚呼、コレに敵意はないのだなぁ、と率直に思ってしまう。
「あれはオセではないか!」
安堵感を胸に秘め、上半身を上げて床に座る体勢へとなった俺の耳に飛び込んできたのは、ダニエル神父の怒声。白豹から視線を動かし、その声が発せられた場所を見れば、ダニエル神父がリリスに掴みかかっているところだった。
「いいえ、あれはオセじゃあないわ。ただ、貴方たちの信念が足りていないがために他者の想像を得てしまった我が王の愛しき御姿よ。ほぅら、ちゃんと見てごらんなさい。あの銀毛の地毛に黒く染まった悪意の花を散らしたような斑点。その眼光に映る一つの金眼。地に着く四肢は『優美』『誉れ』『知性』に関しては何の欠点もないくらいの御姿でしょう?」
「しかしどうしてこのような……っ、あいつのせいか!」
天使的な笑みはもはや忘れさられ、憎々しげな表情を俺に向けたダニエル神父。ヒト一人はたやすく殺せそうな表情をしたダニエル神父をよそに、自らを掴んでいたダニエルの手を擦り抜けたリリスは俺の方へと歩み寄る。
「ねぇ、ジークフリート・クーベルタン。貴方はバアル・ゼブル様の名を……いいえ、ベルゼブブの名を聴いて何を経たの?」
グルルルルル、と傍らの白豹がリリスに対して唸り声を上げる中、俺は「……あお、ひげ」と答えた。
イーエッグへ向かう際の電車の中でアヴィーが雄弁に語った青髭の話。
――殺された沢山の子供達。
――ジルド・レ公が見た白い悪魔。
――優美で、孤高で、知的な白銀の豹。
ベルゼブブに関する事柄を、今一度思い出せばリリスが上機嫌に「そうでしょうね。ええ、合っているわ」と嬉しそうに笑い両腕を広げる。
「そう、貴方はバアル・ゼブルからベルゼブブを経て、青髭のベルゼブブを得たのね。汚れたと謳われた羽虫ではなく優美な白豹を容易に想像し得たの。それにしてもなんて甘美な姿なの! 貴方の想像力にも、アヴィーちゃんの変化にもほんとうに感嘆の息しか吐けないわぁ」
爛と目を輝かせ、嬉々とした表情で両肩を抱きしめた彼女はまるで虚栄を得た女王の様。
「十五年前の召喚が歪だったのよ。あんなカイブツじみたもののどこが美しくて誉れ高くて知性に溢れているの? 今思い返してもげんなりしちゃうわ! ホンット、今の姿、青髭からなる豹の姿の方がよほど王としてしっくりくるってものよ!」
「されど! この姿では世界を救うにはいささか矮小ではありませんか!」
喜び勇むリリスに反し、この現状に納得のいっていないダニエル神父の怒声が聖堂に響く。
「世界を救う? 何を貴方は言っているの?」
「なっ!」
「どうせ貴方の言う世界なんて有象無象の人間が住まう世界の事でしかないんでしょう? そんなの端から救う価値なんてないわ。だって貴方が勝手に世界に絶望して、勝手に救いを求めていただけであって、世界には絶望もなければ救いも必要ないのよ。それこそ、希望なんてもの足元にだって転がっているのに、勝手に人間が無いと喚いて、勝手に絶望して、勝手に救おうとしているだけじゃあない。ホンット、滑稽で浅ましいったらありゃしないわ」
どうやらリリスとダニエル神父との間には思想の齟齬があったらしい。喜びの笑みの中にひとすじの侮蔑を込めて、リリスはダニエル神父を見つめた。そもそもダニエル神父は、神父であり、此処は神の子の教えを説く場所であるはずだ。ならば何故、彼は神の子や天井に坐神を信仰してはいないのだろうか。
「ダニエル神父、貴方は神を信じているのではないのか……?」
傍らに座す白豹の存在を生々しくも感じながら、俺が声を発せば「断じて違います!」とダニエル神父に両断された。
やわい月明かりが刺す聖堂の中を改めて見わたしてみれば、此処には本来あるべき形の十字も像もおかれてはいない。ただ、それらしい別の像と十字らしきものが祭壇に掲げられているだけだ。俺の知る限り昔から此処の十字や像は“そう”であり、それが此処での正しい姿であるのだという固定概念が根付いていた。だが俺は一度この島の外へと出てしまった身。此処ではない別の世界を見てしまった俺には、もはやこの十字や像が彼らの本来信仰するべきものの象徴であると断定ができない。
「私は親、いえ、そのずっと先からバアル・ゼブル様を心から崇め、信じているのです! ですから、私たちは貴方を貶めた偽りの神など、崇めてはいないのです! これらはすべて、紛い物なのです!」
俺に言っているのか、それとも傍らの白豹に言っているのか、定かではないダニエル神父。だが彼の発言により、やはり彼は、彼らは十字架を象徴とした教えを信仰してはいなかったのか。と俺は一人納得することができた。
「忌々しき天上の彼らのせいで貴方は悪魔などという邪悪な身分に、汚れた羽虫に身を窶されたのですよ? 今はその美しき豹ですが、何時更なる下層に落とされてもおかしくはないのです! だから、落とされる前に早く、私と共にこの腐りきった世界を浄化するのです、我が王よ!」
我が王よ、と言っておきながらも彼の言葉は命令に近く、これでは彼の言葉に誰も耳を傾けやしないだろう。
「下らぬ戯言を」
さめざめとした色を纏い、そう吐き捨てた豹はいつの間にかアヴィーへと姿を変えており、「この世を浄化したところで、愚かな考えがなくなりはしないでしょう」とも続けた。
「貴方とて、自身が腐っていないなど大きく宣えないでしょう」
「なっ」
「女どもをその美貌で転がし、子を孕ませ、母子、そして柔く脆い少女たちを人柱にした。あまつさえ、それに悔いることなく恍惚し、愉悦すら覚えた。そして先ほどまで同族である人間と、ヒトならざるヒトをボクに差し向けたお前は、それでもなおこの身に宿るバアル・ゼブルに胸を張って『自身の身は腐りきっていない』と、貴様が糾弾する者共と同じではないと、断言し切れるのか」
「っ!」
息を飲むダニエル神父。そして俺もまた、アヴィーの言葉を疑った。ダニエル神父が女に子を孕ませ、その母子はもちろんこの木乃伊化事件の主だった被害者である少女たちを殺していたのか。それも、愉悦さえ覚えて。
ならば彼が俺のオデットを殺したのだろうか。十五年という歳月を隔てながら、彼が俺の愛娘を、家庭を、人生を踏みにじったというのか。
衝撃の事実を知らされた俺は、目の前のダニエル神父に殴り掛かりたくなるが、痛む身体がそれを許さない。嗚呼、せっかく憎い犯人が目の前にいるというのに、俺はやはり何もできないというのか!
「この身の王は、決して、我が同士をないがしろにした貴方たちを許しはしない。―――故に、貴様は死をもって我に従属せよ」
凛とした声と鋭い眼光でダニエル神父を見下すアヴィー。彼女の衣服は裂けていたり、黒く滲んでいる箇所はあったりするが あるべきはずの怪我は一つとして見受けられなかった。
「っ、貴様ら、集え!」
怒りに震えるダニエル神父がそう叫べば、俺たちの周りに、黒い有象無象の人影と、ヒトを模したナニカたちが集まる。アヴィーの身体に食らいついていたモノもいるのか、口元には赤い血が付着している個体が数体見える。
「お前たち、その娘を駆除しろ! あれはもはや我が王を宿した者ではない!」
有象無象の人影たちは迅速に襲いかかってくるが、アヴィーはそれを赤子の手をひねるかのようにたやすく撃滅し、床に沈めてゆく。一方ヒトを模したナニカたちはゆらり、ゆらりと動くだけでダニエル神父の命令に従う様子は見られなかった。
「どうしたお前たち! 早くアイツを!」
「――さあ愛しい我が子供(蛆虫)たち、ダニエル・ド・カルマンを食しなさい」
ダニエル神父の言葉をかき消すようにアヴィーの声が響いた瞬間、ナニカたちが一斉に神父に食らいつき、捉えた。
「ッアアア!」
先ほどのアヴィーは、自らに齧り付いたこのナニカたちを容易く引きはがし、床に叩きつけていたが、ダニエル神父はそうしない。否、おそらくそうできないほどそのナニカたちの力が強いのだろう。
有象無象の人影たちも彼を救おうとナニカたちを引きはがしにかかるが、ダニエル神父の肉ごと引きはがされ、そのたびに彼の悲鳴が上がる。もはやこの聖堂に充満しきっている血の香りがより一層濃くなる。
ぶちぶちと肉のちぎれる音や衣服の避ける音、ナニカたちがやわらかな物を咀嚼する音などが響く中、「ボクの血肉を食したが故に、ボクの配下になるのは当然の理なのです」とアヴィーが落ち着いた声色で語り、「それが今後、貴方の教訓になると良いですね」と皮肉さえ添えた。




