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結局彼女の意見らしい意見を聞くことのできぬまま、アヴィーは「少し、待っていてください」と言葉を残し、二階へと駆け上がり、すぐに戻ってきた。それも、一抱えにできる程度の大きさをした機材を持って。
よくよく見ればそれは旧式のプロジェクターであるのが分かったのだが、コレを使って責務。すなわち、俺の望みである『イーエッグ木乃伊化殺人事件』の真相を語ってくれるのだろうか。
壁に白い布地を張ったアヴィーは碌に手伝いもせず椅子に座るだけであった俺を振り返り、一礼をする。
「ボクが今から説明することの前置きとして、全ては卓上の理論であることを理解してください。途中で反論をする、ケチをつける、ちゃちを入れるなどの余計な行いをされた場合、ボクは説明を止め、それ以上の介入は致しません。勿論、一通りの説明を経た後にならば質問を受け付けますが、それでもよろしいですか」
勿論、相槌や質問ならば受け付けますが。と付け加えたアヴィーに俺は「構わない」と是の意思を伝える。
「それでは卓上の理論ではありますが、この事件の解説を致しましょう」
リビングの灯りが消え、視界が一気に暗くなる。そう感じた刹那、暗闇の壁にイーエッグ島の地図が映った。
「この事件の解説として鍵になってくるのはおよそ二つの要素。『木乃伊化遺体発見時刻』と『地形』です。まずは遺体発見時刻の方の解説に入ります。遺体発見時刻とは、文字通り遺体を発見した時刻ということ。で、あるならばその時刻丁度に遺体が置かれた可能性はほぼゼロ。皆無です」
――勿論、これが何らかのミステリー要素を含んでいるのであれば話は別ですけれど。
そう余談をした後、「そしてこれが、遺体発見現場の点です」とプロジェクターと同じく事前に用意していたのか、教師や解説者が持つような指示棒で順々に壁上のイーエッグ島地図を示していくアヴィー。その先には赤い点が徐々に書き加えられていっていた。しかもその総数が俺の知っているものよりもはるかに多い気がするのは、おそらく気のせいではないだろう。
「卓上の理論として、『もし』事件が一定の時刻に行われているものと仮定し、その時刻を深夜二時とした場合。遺体発見時刻から差を割り出します。この地点は六時に発見されましたので、ジークさん。計算をお願いできますか」
そう唐突に計算を求められた俺は「あ、嗚呼」と少しばかり上ずった声を出しながら「えっと、もし遺体発見時刻が朝の六時ならば、仮定としての事件発生時刻である深夜二時から四時間後ということだよな」と答えた。
「はい。そうです。それでは次に、その四時間で遺体発見現場からどれだけの距離まで行けるのか、計算してみましょう。移動ルートは舗装されていない農道が主体になりますし、畑や荒れ地が多くを占めているので直線距離ではまず難しいです。なので、今回は時速四〇キロメートルの車で移動すると仮定してください」
「えっと、四時間と時速四十キロメートルだから、一六〇キロメートル移動できる計算になるのか……」
一六〇キロメートル。時速四〇キロメートルというやや遅めの速度ではあるが、道のりさえ加味しなければ、イーエッグ島の最北端から最南端までがおおよそ行ける距離であろう。少々生徒と教師のような構図だな、現状を楽しみさえしながら、俺は事件の説明をするアヴィーの言葉を待つ。
「先ほど言ったように、この地点の遺体発見時刻は六時ですから、今割り出した一六〇キロメートルを半径として円で囲みます」
彼女が支持棒で示していた点を中心に、半径一六〇キロメートルの円が画面上に書き加えられた。
「そして、現在遺体が発見され、なおかつ遺体発見日が遺体安置日と同日であると確証の得られたものを同じように計算をし、円で囲ったのがこの画像です」
端的に言おう。イーエッグの島は円で埋め尽くされ見えなくなった。思わず「こんなことで一体何が分かると言うんだ! それにこの程度ならば警察だってやっているだろう?」と叫びそうになったが、寸前のところで口を塞ぎ、俺はアヴィーの解説の続きを待った。口を挟めばそこで彼女の理論を訊くことができなくなり、同時に十五年来の俺の望みが潰えるということなのだから。
「イーエッグ島を覆い尽くす円ではありますが、これらすべての円が重なっている個所がこちらになります」
全ての円が重なっている地域を拡大すれば、偶にしかイーエッグ島の地図を見ない俺でもわかるほどに、此処から近い場所であると判断がついた。
「次に、事件の解説で鍵だと述べた『地形』に焦点を当てます。今回使用する地形は先ほど円が全て重なった地域。そしてこれがその地域の地形……川の凹や、わずかな丘、全て加えた、いわゆる表面積の地図です」
その言葉と共に、ぱっとプロジェクターの画像が切り替わり、表示されたのは先ほどアヴィーが指名していた地域を歪に広げた画像。これがあの地域の表面積らしいのだが、一体どのようにして割り出したのだろうか。
そう不意に思った俺ではあるが、思い返してみれば、アヴィーは現場の写真や動画を電子端末に納めていたし、最近も遠出をした先々でこまめに写真を撮っていたりしたではないか。それがこのためだったのか。と妙に納得し、それと同時にそれを行っていた彼女を少なからず奇異の目でみてしまっていた俺は思わず目を下へ背けてしまう。
「ジークさん。次で最後になりますので、きちんと前を向いてください」
そう声をかけられ、俺が躊躇いを含みながらも視線を壁上の画像へと戻せば、アヴィーは解説を続けはじめた。
「つい先日の、一晩にして三つの木乃伊が発見されたことは覚えていますね」
「嗚呼、覚えている。一晩にして三つの木乃伊が、しかもそれぞれ近い場所で発見されたなんて前代未聞だったからな」
アヴィー伝いではあるが、この町の警察署長からその連絡を受けた時俺は心底驚いたものだし、そんな緊急事態でなければ四日ほどこの家に留まってはいなかっただろう。それに、ノーラとランスからはもちろん、親しくしていた町の人間からの言い知れの視線に時々苛まれたこの四日間を、俺は忘れやしない。
「その三つの木乃伊が安置されていた地点をこの地図に表し、点を結べば……」
「正三角形だ」
最期の最期でうっかりそう言ってしまったが、そこは大目に見てくれたのだろう。「ご明察。そしてその正三角形の中心部をあらわせば、此処は一体どこになりますか」とアヴィーは地図の中心部を指示棒で叩く。そこは、町の人間ならばおそらく誰しもが行ったことのある場所。そして、俺もアヴィーも足を運んだ場所。
「教会ですよ。ノーラさんやマリアさんがミサへ赴き、ジークさんの父や母、妻や娘が眠るとされる。あの教会が、犯行現場なのです」
断定するかのごとくそう言ったアヴィー。しかも仏頂面に定評のある彼女の表情からは、自身の色すら見受けられた。
しかし、犯行現場が教会だと? たしかに教会は木乃伊が置かれていた三地点の中心部に位置してはいるが、だからといってそこを犯行現場だと決めつけるのは早計ではないだろうか。だがその一方で、卓上の理論とはいえ、その理論の一端を自ら回答し、組み立てをも視認してしまった身としては、「そうなのか」と納得せざるをえない。
だってそうだろう? 卓上の理論上ではあるが、この教会が島中に遺体を置く始発地点としてふさわしい場所なのだから。
「以上で卓上の大まかな理論説明は終わりますが、何か質問はありますか」
犯行現場、を言ったところで一通りの説明は終わったらしい。部屋の灯りを点けて椅子に座ったアヴィーはテーブルの上の紅茶に手を付けた。
相変わらずの無表情に加え、見入ってしまいそうになるほど優雅な手つき。ティーカップの持ち手をなぞる彼女の手袋越しの手が、愛おしく、たまらない。そう、考えている場合ではないのだ。俺は、彼女の問いに答えなくてはならないのだから。
「なあ、その遺体安置地点とやらの所在数が俺の知っている被害者の数よりも多いような気がするんだが」
先ほど地図を見せてもらった際に気になったことを俺は言う。俺が知っている、ということは即ち俺に情報を流してくれている警察もまた知っているということ。だが、彼女が提示した遺体安置地点の数とはやはり一致しない。もしや署長は知っていてなお俺たちに教えなかったのか? しかしアヴィーのいる手前、そんなことを彼がするだろうか? 答えは否だろう。または俺には教えず、彼女にのみ教えたということはあり得るかもしれない。ほんの少し、署長とアヴィーの間に在るかもしれない二人の秘密に緑の瞳をした獣が目覚めそうになる。
「増えている分は、ついぞ警察にも発見されることのなかった被害者たちです。林の奥や、荒れた畑などにはあまり人は立ち入りませんからね」
まあ、今日の捜索で数体見つかるとは思いますが。
「お前は、それを捜しに行ったのか」
「はい。最近はそれも鑑みて移動していましたから」
署長とアヴィーとの間に二人の秘密とやらはなかったらしい。目覚めかけていた緑の瞳をした獣は改めて安らかな寝息を立てる。
「ほかに質問はありますか」
わかってやっているのだろう。ティーカップの口を手袋越しの指でなぞりながら、アヴィーは俺を見据えた。だが、ただ単に「質問はあるか」と問われても、俺は先ほど質問した遺体安置地点の数以外の疑問やそれに類する反論に至れるまでの知識を持ち合わせてはいない。
おそらく、それをも鑑みてアヴィーはこの事を俺に語って見せたのだろう。ほんの少し、アヴィーに対して「意地悪だ」と思いながら、俺は彼女との会話を成立させるために、ただ漠然と思ったことを口にすることに決めた。
「アヴィーの言う卓上の理論の成り立ちや、教会が犯行現場であるという説は理解した。だがどうして警察や探偵などを含めた他の人間が、そのことに気付かなかったんだ?」
たくさんの人間がこの事件の情報を目にし、加えて十五年という歳月もあったのだ。にもかかわらず他の人間がこの理論に気付かないのは、おかしな話ではないのだろうか。
「そういう風になるよう、形作られているからです」
触れていたティーカップの持ち手から手を放し、落ち着いた声でアヴィーは言葉を続ける。
「行方不明となった被害者が、たった一晩で木乃伊化するという摩訶不思議がまかり通るこの事件。連日と言って差し支えないほど頻発しているにもかかわらず物理的な証拠は愚か、遺体を置いている犯人の目撃情報さえも浮上していないのです。何の情報も入ってこなければ、折り重なる死の恐怖と隣人への疑心暗鬼で心は荒み、失ったものへの悲しみと犯人に対しての憎しみから著しい精神的抑圧を覚えます。まるで、一種の暗示が伝播し続け混沌とする中で、誰がまともに事件を調べようと思いますか」
きっとアヴィーが微笑むということができたのなら、この瞬間に浮かべているだろう。そう妙な革新を得てしまうほど残酷なことを、彼女は今、俺に対して言った。
――誰がまともに事件を調べようと思いますか。
それは、俺をも含めた誰もが、まともにこの事件を調べていないということと同意義だ。少なくとも俺は俺なりにまともに調べたはずだし、調べる努力をしたつもりだ。ソレに関しては彼女自身も力添えをしてくれたではないか。にもかかわらず彼女は、誰もまともに調べてはいない、と取れる発言をしたのだ。
「だが、それでもまともに調べた人間は一人ぐらいいるだろう!」
声を荒げるつもりは微塵もなかったのだが、感情的になりすぎているのか、思わず大きな声が出てしまう。
感情的になったのは何故か? それは自分がかけた年月を否定されたから? 汗水を含んだ自分の努力を否定されたから? 無いなりにそれでも考えようとしていた自分の思考を否定されたから?
否だ。俺はただ、俺の目の前にいるアヴィーが自らの行いを否定したことに、怒りを感じているのだ。だってそうだろう? 少なくとも彼女は解決の糸口を見つけ、今先ほど彼女なりの理論を俺に教えてくれたばかりなのだ。そんな彼女が「事件をまともに調べた人間」でなくてどうするというのだ。それに、彼女という一人がいるのだから、他にまともに事件を調べた人間がいたとしてもおかしくはないだろう。
「ボクの場合はこじつけであって、まっとうに調べたわけではありません。それにボクは悪魔を彩られた身。人間ではありませんから」
テーブルの上に置いてあるドーナツをかじり、咀嚼するアヴィー。まるで俺に時間を与えてくれているような行動だが、それでも俺は言及ひとつできない。何故なら俺は、どんな理由であろうと彼女を、否定、したくないから。
「はぁ」
小さく、あきれるようなため息を零したアヴィーは俺に向き直ると「貴方が、そうだったではありませんか」と彼女は囁いた。
確かに俺は愛する娘を亡くし、心身ともに悲観にくれた。しかもそんな俺を苛むがごとく壊れてしまった妻。彼女は娘に連なるようにすぐ逝ってしまったけれど、それでも俺に著しい精神的抑圧を与えたのは確かだった。だが、それでも俺はまっとうに事件を調べたはずだ。
「犯人はいなければならない。証拠は必ずどこかにある。見つけられていないのは現場の人間が愚かだからだ。そうジークフリートさんだって思っているでしょう。ですがそういった妄念に囚われ続けている以上、如何まともに事件を調べられるのですか。と、言葉にして教えてあげなければ、わからないのでしょうか。それとも、理解はしていても納得したくないがために、わざとはぐらかしているのでしょうか」
発言内容にこそトゲがあるように感じるが、彼女の口調はひどく穏やかなものだった。加えて仕草や無表情に近い表情からも怒りや、それに類する色は感じられない。
「まあ、このような荒唐無稽なことを永遠と繰り返すのもまた、この島の節理なのでしょうけれど」
独り言なのだろう。そう呟いた彼女はテーブルの上に残っていたドーナツ五種すべてを平らげ、立ち上がる。
「それらの理屈を含めた、ボクなりの、それこそ『悪魔的』に類する卓上の理論があるのですが、ジークフリートさん。貴方はそれを聞きますか、聞きませんか」
「聞かせてくれ」
即決だった。そうしなければ、アヴィーがそれを語ってくれることは今後二度とないだろうから。それになにより、俺は彼女のこの落ち着いた声の色がとても好きだから、その音を耳にずっと入れ続けていたいのだ。
俺の答えを聞き、今一度部屋の灯りを消したアヴィーは再びプロジェクターの画像を壁に映し出す。
「この島における現状の節理を説明するにあたり、今回の事件の遺体安置場所を読み解いていきましょう。……そもそもただの地図でこの事件を読み解くことは不可能です。いくら遺体安置の点を合わせてみても基盤が歪んでいては何も見つけられません」
「基盤が歪んでいる?」
そう言った後に、これは余計な行いの内に入るのではないかと気が付き、冷や汗がじわりと出る。だがアヴィーにとっては余計な行いではなかったらしく、彼女は俺の心配をよそに言葉を続けた。
「はい。歪んでいるのです。そして、このイーエッグ島全体の地図を先ほど『地形』として説明した表面積、すなわち川の凹やわずかな丘はもちろん、建物などの表面積を加味した表面積にすると基盤の歪みが直ります。さらにここで、地図を表面積にした際まばらに広がった遺体安置の点を、遺体安置の日取りを鑑みて繋ぎ合わせれば……」
アヴィーの説明の元、プロジェクターが映す画像は変化し、遺体安置の点と点が結ばれてゆく。そして、最終的に浮かび上がったのは、亡き妻がよく作っていたタティングレースにするにふさわしいのではないか、と思えるほどに美しい円形の細かな模様だった。さながら魔法陣、と言っても差し支えはないだろう。
「もっとも簡単な方法として、外周を結び、円を作るだけでもこの場合は説明が可能なのですが、『悪魔的』に論じるのであればやはり、こちらの細かな円。それこそ、加害者側の彼らにとって魔方陣と呼ぶべきようなモノらしく見えるでしょう」
指示棒でぐるりと円をなぞった後、先ほどここが犯行現場であると論じた中心部の三角形を突いたアヴィーは言葉を続ける。
「円は万国共通ともいえる陣。それもその中心ともなれば、まぁ、黒と言っても過言ではありません」
やはり、あの教会でこの事件の引き金がひかれているということなのか。
「島全体、そして百程の被害者数ともなれば大がかりにこそ見えますが、これでもまだ簡易的ですしホンモノだと言える確証はありません。ですが信じる力は何物にも勝るのです。そう、盲信すべきもののため、生贄を捧げるとともに特定の位置、指定された日取りに被害者を添えて魔法陣を形作る。そんな加害者側の段取りなど、詮索するつもりはありませんが、それでも信じてさえいれば、それが例え嘘が作り出した虚無のだとしても、真の充実へと変貌を遂げるのです」
俺の顔を見るアヴィー。だが、俺の表情や言葉から納得の色が見えないことを悟ったのだろう。アヴィーは少しばかり目をそらし、考える素振りを見せた。彼女の言葉選びを責めるわけではないのだが、正直なところ彼女の言葉では俺の理解が追いついていかないのだ。
「信じる力は時に人の死を招きもすれば不治の病を治し、那由多の奇跡を起こすエネルギーを秘めているのですよ」
彼女はそう言いなおしてはくれたが、言葉選びに難があるように俺は思う。そこにもまた愛着を感じずにはいられないのだがこの場合は少々難といえるだろうか。
「ジークさんはプラセボ効果、プラシーボ効果なるものはご存じありませんか」
「あるが……。とどのつまり、そういうことなのか?」
加害者側の彼らが何かを強烈なまでに盲信するが故に、本来形のないものが形あるものとして認識されてしまう。要は、信じる者は救われる、そんなところだろう。だが、それの何処がこの島の節理と関係しているのだろうか。理解しているかのような発言をした後にこの疑問に気づいてしまった俺を前に、アヴィーは俺の発言に返答する。
「そう、信じる者は救われる。そういうことです。そして、島全体に展開される魔法陣は、特異点となった木乃伊遺体たちを糧に、徐々にその効力を島にいるすべての人に発揮していきました」
「島にいるすべての人に、何を発揮したんだ?」
「ボクは先ほどこうも言いましたね、『何の情報も入ってこなければ、折り重なる死の恐怖と隣人への疑心暗鬼で心は荒み、失ったものへの悲しみと犯人に対しての憎しみから著しい精神的抑圧を覚えます。まるで、一種の暗示が伝播し続け混沌とする中で、誰がまともに事件を調べようと思いますか』と」
「ああ、そうだな」
一種の暗示が伝播する――魔法陣の力で、か。
「加害者たちの盲信が叶うならば、犯人に対して憎しみを抱く被害者家族たちと、隣人への疑心暗鬼で心が荒んだ人々の妄念である『一刻も早く犯人を捕まえてほしい』という妄念もまた叶うのですよ。少なからずこの『魔法陣』自体には叶えるべき望みを選別する能力はありませんからね。それに憎しみという感情は、ひどく執念深いと聞き及んでいますから、それはもう強く広く、そして十五年ほどの歳月をこの島の外で過ごしていてもなおその妄念が払拭されないほどに根深く伝播されたのでしょう。そしてジークフリートさん。この事件の割と当初で愛娘を失った貴方もまた、その妄念を促進し、伝播させたうちの一人なのですよ」
俺が妄念を伝播させたうちの一人? たしかにアヴィーの言う通り俺の愛娘であるオデットはこの事件がこんな大事の事件になる前に殺されたが……。そう思った俺の脳裏に彼女の言葉がよみがえる。
「犯人はいなければならない。証拠は必ずどこかにある。見つけられていないのは現場の人間が愚かだからだ。そうジークフリートさんだって思っているでしょう」
そう、犯人はいなければならないのだ。証拠も必ずどこかにある。見つけられていないのは現場の人間が愚かだから。
「その凝り固まった固定観念が、柔軟な思考と一滴の発想を封じている癌なのです」
この俺の、考えが? いや、だが、そんなわけ……あるはずがない。しかし、アヴィーがそう言っているのだ。俺が唯一信頼し、嫌われたくないと恐れているアヴィーがそう、言っているのだ。そんな彼女を、俺は否定したくない。だがそれでも、俺は俺の根底にある「犯人はいなければならないし、証拠もなくてはならない」という固定観念を覆すことができない。明らかに狼狽し始める俺に近づくアヴィー。やめろ、そんな、未だ納得しきれていない、理解の追いついていない俺を、見下すような目で、見ないでくれ。
「もし、その凝り固まった常識、固定概念がなければ証拠がないなりに事件を読み解こうという人間がいたかもしれません。ですがこの島に展開された魔法陣がそれを許さない。その考えを、ジークさんたちがもつ固定観念で潰すのです」
するりと、布地が俺の頬に触れる。目尻から頬へ、そして喉笛をなぞられ、そして撫でられているのだ。理解するまでさほど時間はかからなかったが、それでも実感は湧かなかった。
アヴィーが、俺の頬を撫でている? それも優しい手つきで? まるで猫を手懐けるような柔らかな手つきで俺の頬やのど元をなぞるアヴィーの手。くすぐったさはわずかに感じるが、それでも彼女に触れてもらえているだけで、俺の心は安寧を取り戻す。嗚呼、アヴィーが、俺を寵愛してくれている!
「時に。貴方を含めこの辺り一帯の方は盲目的に教会のダニエル神父を信じているようですが、どうしてですか」
「神父とはそういうものだからだろう? 彼の身の潔白は教会が保証しているし、やましい所も不審な所もない。彼は清廉潔白だ」
「いいえ。どうしてですか」
「いや、だから……神父様がそんなことをするはずがないからだろう」
「いいえ。だから、どうしてですか。とボクは問うているのです。彼も貴方方と同じ人間。いくら神に頭を垂れ使えていようともそれは同じことでしょう。彼も人の子、性欲も殺意も、憎悪も因縁も、望みの一つや二つ当然のことながら心中にあるでしょう。にもかかわらず貴方は、『彼は何も望まぬ無欲な人間だ』と、このボクに言い切れるのですか?」
「っ……」
俺はダニエル神父について詳しくは知らない。もしかしたら何かを隠しているかもしれない。にもかかわらず俺は、数度しか会ったことのない彼を、心底信頼していたのだ。彼のまとう雰囲気がそうさせているのだろう。彼は万人の気を引きつけてやまないのだ。いや、もしかしたらこれもまた伝播され、根底に根付かされた固定概念なのかもしれない。
それに先ほどアヴィーが教えてくれた犯行現場、魔法陣の中心部は彼の居る教会だ。少なからず彼もまた、この事件に関わっている可能性は高いだろう。俺の自問自答がアヴィーにも伝わったのだろう。強烈な名残惜しさを俺に植え付けながら、彼女は俺から手を放してしまう。
「さあ、この事件についての『卓上の理論』説明は終わりです。行動は明日にでもしましょうか」
部屋の灯りを点け、プロジェクターや壁に張っていた布地を片づけ始めるアヴィー。だが、どうして彼女は、今日、それこそ今すぐ警察と共に教会に行くだけで終わるかもしれないはずのものを明日などと言ったのか。明日というのであれば、少なくとも一人を見殺しにするつもりなのだろうか。




