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ピッピッピ、と、どこかから鳴る電子音を耳に感じながら視界を開ければ、真っ先に飛び込んできたのは白い天井。そして清潔が過ぎる、病院の匂いだった。
「あら、気が付いたみたいね」
不意に聞こえた女性の声。そちらに顔を動かせば、何度か会ったことのある妙齢の女性、サタナリア・S・トゥリアイーラがそこに座っていた。
きついウェーブのかかった長い黒髪を一つにまとめ、昔に流行ったようなひざ下丈の看護婦の格好をしている彼女は、俺と主従の契約を結んでいるアヴィーの姉である。
彼女の眼もとにある泣き黒子を認識した後、その背後にある物も俺は認知し始める。白い天井に、白いカーテン。隣にある点滴の道具は俺の腕に繋がっている。やはりここは間違いなく病院なのだろう。そして俺の記憶が間違いでなければ、アヴィーは、俺のアヴィオール・S・グーラスウィードはどうなったのだ。
「あ、アヴィーは、アヴィオール・S・グーラスウィードは、一体どうなったんですか!」
彼女は大きな何かから俺を守って潰された。はずだ。がばりと音が付きそうなほど勢いよく身を起こした俺を、サタナリアは片の手でぐい、とたしなめ、枕に頭を落ち着けるよう指示した。
「安心してジークフリートさん。アヴィーちゃんは元気よ。ただ、会うには時期尚早なだけ」
「時期尚早って、彼女は何処か怪我を? その治療のために時間が?」
「怪我らしい怪我はないわ」そうきっぱりと言い切り、サタナリアは小さくため息を吐いた。
「アヴィーちゃん。ずっと貴方の事を心配していたのよ? ふふっ。今はちょっと別の案件で他の病室へ行っているのだけれど、貴方が起きたことは連絡したし、すぐにやって来ると思うわ。ええ。来ますとも」
含みをもった笑みを浮かべ、サタナリアは俺にずい、と詰め寄る。
「ねぇ、それより貴方、アヴィーちゃんの事知りたいと思わない?」
「アヴィーのことを……?」
「そう。あの子のこと。口の堅いアヴィーちゃんだもの、貴方にだって自分の事を何一つ言っていないんでしょう?」
彼女の言う通り、アヴィーは自分の事を言わない。ぽろりと零したのは、グラタンの中にある玉ねぎとブロッコリーが嫌いだった。という話だけだ。あとは、彼女ではない誰かの話ばかり。
「だから私がジークフリートさんに、アヴィーちゃんの事……いいえ、私たちのことを教えてあげようと思うのだけど、貴方はそれを聞きたい?」
至近距離まで迫るサタナリア。その顔に塗られた化粧はいささか厚いようにも感じるが、以前まで女性に対して感じていたような嫌味は、そこから感じられない。
「お、教えてくれるのであれば、是非」
「ふふっ、いい子ね」
ぽんぽん、と幼子にするように俺の頭を撫で、顔を離したサタナリアは「何から話そうかしら」や「そうね、初めから言わなくてはね」などと独り言を呟いた後、俺に「ねぇジークさん。私達何人姉妹だと思う?」と訪ねてきた。
彼女は俺にアヴィーのことを含めた彼女たちのことを教えてくれるのではなかったのだろうか? だがそんな疑問を抱いた俺の回答を訊く間もなくサタナリアは「正解は七姉妹。長女のルーシー、次女のサタナリア、三女のアヴィオール、四女のベルフェリカ、五女のアシエス、六女のマンモーネ、末子のヴィクトリア」と正解を自答する。
目の前のサタナリアも、亡くなったベルフェリカも、アヴィーと姉妹である割には似ていないような気がするが、そこは腹違いだとか、種違いだとか、いろいろな血族背景があってもおかしくはあるまい。ただそんな無為な質問、思うだけにするべきだろうと、俺は何も言わずにいたのだがサタナリアはその無言にすら慣れているのだろう。わかっているような口調で「ええ、そうよ。似ていないだとか、歳が離れすぎているとか、そういうのはどうでも良いのよ。むしろ実際年齢が姉妹間でちぐはぐになっているのは割とよくある話だもの」と言ってしまう。
「嗚呼。あと此処は病院だから、私の事は『ドクター』と呼んでね」
「ドクター……?」
「そう、ドクターよ」
満足げに彼女は笑うと「嗚呼、話の途中だったわね」と話を戻した。
「七姉妹である私たちの中にはね、実は悪魔が秘められているの」
「は?」
思わず間の抜けた声を出してしまったが、何をいきなり飛躍したことを言うのだろうかこの人は。
「何も驚くことではないわ。七つの大罪を冠した七つの悪魔。ルーシーには傲慢のルシファー、サタナリアには憤怒のサタン、アヴィオールには暴食のベルゼブブ、ベルフェリカには怠惰のベルフェゴール、マンモーネには強欲のマモン、ヴィクトリアには嫉妬のレヴィアタン。その各々が私たちに秘められている。それだけのことよ?」
名前もどこか似ているでしょう? と平然と笑うサタナリア。言われてみればそうだが、アヴィオールとベルゼブブに限ってはどこも似ていないように、俺は思うのだが。
「アヴィーちゃんは少々特殊でね。『ABBIOL』という綴の内にあるBBはベルゼブブ『Beelzebub』の後半にあるBBよ。ベル『Beel』で括るとベルフェゴールのベルフェリカちゃんと被ってしまうから」
まあ、ベルフェリカちゃんのベルは『Bel』だから綴り上ではそうでもないんだけどねぇ。一人そうごちた彼女は俺に言葉をはさむ余地は愚か思考させる余地も碌に与えず、言葉を続ける。
「まあ、私たちに、現実を飛躍した悪魔とやらが本当に秘められているのかどうかは、アヴィーちゃん本人に訊いてみるといいわ。あの子は貴方に嘘を吐かないでしょう? それにその表情から察するに、貴方もアヴィーちゃんを時々“おかしいな”だとか、“変だな”と思っていたんじゃあないの? でもこれで、あの子のすさまじいまでの過食具合と、人の心在らずな言動に、理由が着いたじゃない。あの子は悪魔を秘められているのだから“そう”なんだって。ねえ?」
今までとは一転してにやにやと、意地の悪い笑みを浮かべたサタナリア。その薄気味の悪さに後ずさりしたくなったが、あいにく自分の身体はベッドの上。これ以上後ずさることができない俺はできるだけ冷静になろうと、頭を動かすことにした。
彼女たちには悪魔を秘められている。それもアヴィオールには暴食のベルゼブブが。それを否定せず受け入れるならば、最初から俺の事を知り尽くしていることも、魔法のような手品を繰り広げられることも、俺の心情や行動の先を読むことも、タイミングよく俺に連絡してくることも。全て納得がいく。
しかも、アヴィーに秘められている悪魔がベルゼブブと言うのであればさらにだ。
何しろ彼女は島へ訪れる際の列車の中でベルゼブブの話しをしてくれたのだから。それも今思うに、珍しく、饒舌なまでに。そのうえ俺はそのベルゼブブ、優美で、孤高で、知的なる豹を、アヴィーの様だなとさえ、言ったのだから。
だがしかし、悪魔など、この世に居るはずがないではないか。それに、もしそんなものが跋扈しているのであれば、どうしてそれを認知できる人間がその存在を写真に収めたりして世間に公表したりしていないのだろうか。
浮かんだ疑問をいかにして言葉にしようか、逡巡している俺。そしてその間を楽しむようにして見つめているサタナリア。俺と彼女の間にできたその微妙な雰囲気を打ち壊したのは、俺たちを囲む白のカーテンを開ける音だった。




