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すとん、と長椅子の真ん中に座った彼女が湯気を立たせる紅茶に口付けるのを見た後、ボクは室内をくまなく練り歩きます。ボクが彼女の傍ら、ひいてはこの屋敷から居なくなって早十五年。何がどのように様変わりしたのかは掴みかねますが、先んじて、ボクらの住まいであるこの部屋の在り様を確認することが必要でしょう。
脱衣所からこの部屋に入ってきた時ボクはここを青い部屋、と認識しましたが、じっくりと見渡すことのできる今ではその認識が少々変わりつつありました。
まず、室内の色は単純な「青」ではなく、マンモーネの好みの配色である群青色。しかも、その壁紙の所々には薄い金色の線でバラ模様があしらわれています。そして床に広がるカーペットもまた群青色ですが、屈んでよく見ればたくさんの色が使われており、その細かな刺繍は職人技を思わせます。加えて、ベッドを覆う天蓋や、窓の両脇にまとめられているカーテンもまた群青色で、深い水の底に居るような静謐さが伝わってきました。
次に家具ですが、今彼女が座る長椅子以外の家具は全て白い色でした。とはいっても物の多い部屋ではありませんから、紅茶やお菓子の置かれたテーブルや、ドレッサー程度なのですが。それにボクや彼女の瞳と同じ金の色もまた、室内のいたるところ――具体的にいうなれば家具の猫脚部分や、扉の取手。天井からぶら下がる煌びやかなシャンデリアにありました。物の価値こそボクには分かりませんが、この部屋を飾りたてる全ての物がおそらく高級ブランド品でしょう。優雅さを持った家具たちに指を滑らせて、そこからにじみ出る溢れにあふれた『彼』からの惜しみない愛情にボクは舌鼓を打ちます。
ボクが居た十五年前とまるで変わらない『彼』からの愛情。そして、執着。部屋の外へと繋がる扉には厳重すぎるほどの格子や鍵、センサーの類が取り付けられており、まるで宝石を守る厳重な金庫の様だと思わずにはいられません。かけがえのない、もう代わりの居ない、大事な彼女を守るためだけに作られた、この部屋は金庫なのです。そう、宝石箱ではなく――金庫。
室内を一通り回りつくしたボクが彼女の元へ戻れば、すでに彼女は一人で二人分の紅茶と菓子を食べ終えてしまっていました。どうやら白の青年の方は彼女が先ほど脱衣所に置き直したベビードールを処理するために脱衣所のほうへ行っているようです。
「ところでママちゃん。外と連絡を取ることは可能ですか?」
戻るや否や唐突にそう尋ねたボクにちらりと視線をよこした彼女は「ええ」と短く答えて、立ち上がります。そしてドレッサーの一番下にあるカギ付の引き出しを開け、中から薄い電子端末を出しました。
「これで一応、ね」
一応、強欲の悪魔を彩られた身として、最低限の株式だとかの金銭関係の類は動かしているのですね。ええ。
渡してもらった電子端末を開き、メールフォルダを開ければそこには大量の未読メールが残っていました。しかも最も古い未読メールは十年以上前の年月日になっています。
「ママちゃん、これは?」
これは少しばかりお灸が必要な案件なのではなかろうか。と思われる案件に遭遇してしまったボクは、まず彼女の尋問から始めます。きっと彼女の事です、何か理由があるのでしょう。
「……ベルフェリカちゃんから届いている、メールですわ」
「タイトルからして、再三貴女の情報更新を求めているようですが」
「……わたくし、こんな密室に居るでしょう? だから、更新することが何もなくて」
「書くことがないから送らない。だけどベルフェリカちゃんからは情報更新を求めるメールが届く。そのことが重圧となって、読むのを止めた。と?」
「ええ、そうなりますわ」
「はぁ、まったく。貴女という方は……もう、こんなことは金輪際止してくださいね」
「……善処しますわ」
おそらくですが、彼女が今言った理由も、ボクが勝手に代弁した理由も、彼女がメールの返信を怠った本当の理由ではないでしょう。なにせ彼女が、その程度の理由でメールを読むことすらしなくなる子ではないと、ボクは昔から知っているのですから。
一つ息を吐いたボクはそれ以上詰問することはせず、未読のまま溜まり続けているメールに目を通していきます。どうせ、彼女を取り巻く環境を知れば本当の理由が自ずと分かってくるでしょうから。
順序よく目を通していっているメールの内容といえば、マンモーネとしての情報更新要求が優に千件以上。ですが情報更新要求以外のメールはかなり少なく、ベルフェリカちゃんの増減に関することか、最近ではこのイーエッグ島内で起こっているらしい事件の事がほんの少し書かれている程度でした。それにそのメールが今日の朝にも届いているところをみると、彼女が未だS氏に見放されていないようでボクはほっと胸を撫で下ろします。これで離縁を申し立てられていたら、ボクと彼女は路頭に迷う羽目になってしまいますから。
ぽちり、と今日の朝に届けられたメールをボクは開きます。
「from:Belphelica. 二〇七九年五月一日〇三時イーエッグ島内『略即図:地点780,1949』ニテ木乃伊遺体放棄ヲ確認」
端的にそれだけを綴るベルフェリカちゃんの変わらなさに少しだけ気が抜けたボクですが、傍らの彼女はそうではなかったようで唇を噛み、苦虫を噛み潰したかのような渋い顔をしていました。
「あの男が言った通り、本当にあの事件が再び起きているんですのね」
あの男、とは誰の事でしょうか。とは思いましたがボクは無難に「そのようですね」と相槌を打ちます。
「それでママちゃん。貴女は如何するのですか?」
「如何って勿論アヴィーちゃんをすくいますわ」
「ボクを、すくう」
「ええ。すくうの。食欲旺盛な貴女の事ですもの。この事件に、この謎に、舌先だけでなく腸までを漬けているのでしょう?」
ボク自身もまた紛うことなくアヴィオール・S・グーラスウィードではありますが、僕とは別に存在し得ているアヴィオール・S・グーラスウィードの現状を知らないボクは曖昧に「おそらく、」と答えます。ですがママちゃんの言うとおり、きっとこのボクである『彼女』はこの島に入っていることでしょう。
「ならばわたくしはすくいますわ」
彼女の白い指がボクの頬にふれ、眼帯をなぞります。
「誰に成っていようとも、貴女をすくう。もう、わたくしのせいで貴女を失うわけにはいきませんもの」
「そうですか。――そうと決まれはベルフェリカちゃんに今までの非礼を詫びる文を送ると共に、多くの事をお願いしなくてはいけませんよ」
彼女の返事を待たずしてぽちぽちと文章を打ち込み、ボクはボクの一存でのみソレを送信します。そんなボクの勝手な行いにあっけにとられた顔をしている彼女は口を開けようとしましたが「後でゆっくりと、お話をしましょうね」というボクの言葉で彼女は口を閉じます。
ベルフェリカちゃんからの返事が来るのを待ちながら、ベルフェリカちゃんがネットワーク上で管理しているボク自身、アヴィオール・S・グーラスウィードの更新履歴を辿っていきます。
そして、最新のアヴィオール・S・グーラスウィードを選択し、要項を読んでいきます。どうやら今この島に来ているボクは十五年前の「イーエッグ木乃伊化殺人事件」に関わりを持っている人物であり、なおかつ『彼女』は事のあらまし全てを知っているようでした。
そう、あの事件の顛末も、島を実質支配している黒山羊の事も、『彼女』が守りたいと思っている彼の周りに集う数多の人間の思考も。それら全てを『彼女』は知っていながら、無慈悲な過去の顛末を知りたいと望む無知な彼の元に居るのです。
自身の心も、思いも、過去も全部殺して。『彼女』はそこに居続けようとしているのです。
『彼女』が彼と共にこの島を訪れたのは、歪な心を持たされた街の人間の手から無垢な彼を守るため。事件の調べているのは、ボク等姉妹が円滑にこの事件を把握するため。そんな二足の草鞋を履く『彼女』は、ボクの隣に居るママちゃんとは違って、真面目らしく、その事件を解くのに必要な島中の細かな地形、俗にいう実測図を調べるために、ベルフェリカちゃんの目が届かない場所の観測をこまめに行っているようでした。
加えて、見つかっていない木乃伊を探しも行ってくれているようです。なんとよくできたボクでしょうか。彼を守りながら、地形の観測を行い、木乃伊探しに勤しむ。ボクでありながら、ボクではない『彼女』の多忙であろう業務に感謝しつつ、事細かに書かれてある今回の事件のあらましや、更新し続けられているボク自身について生々しく書かれた履歴を見て、ボクは今のボクを“思い出す”ことが出来ました。
「アヴィーちゃん、ベルフェリカちゃんから返信が来ましたわ」
ぴょこん、と画面内に現れたメール受信の表示を指さした彼女に頷き返しながら、ボクは届いたばかりのメールを開きます。
「from:Belphelica. マンモーネ・S・アンヴェリー及ビ、アヴィオール・S・グーラスウィード両名ノ情報更新完了。我々ノ愛シキ妹、マンモーネ、ハ近日中ニ罰金又ハ現物ヲ近隣姉妹に与エヨ、トノコト。之ヨリ質問内容回答ヲ行ウ。室内ニオケル、認知デキル耳ヤ目ニツキマシテ。回答:ベッド下、天蓋右上、ドレッサー左下、カーテン左裏、シャンデリア中央部右手三目ノ電球内……」
ベルフェリカちゃんから送られてきた、彼女が把握し得る室内の盗聴器や監視カメラの数に嫌気がこみ上げてきます。これではまるで『彼女』が島へ来た時に直面していたような状況と同じではありませんか。
「ここでも、ですか」と一つ溜息を吐きながら一方の彼女を見やれば「あの寄生虫が二人を使っているのですね……」と明らかな怒りと、嫌悪を顔に表していました。
「こんなもの、さっさと取り払ってしまいましょう!」
間近にあるドレッサーの左下部分に隠されているという監視カメラ、ないしは盗聴器を探そうとし始めた彼女をボクはすぐさま静止します。
「苦い物ではあるかもしれません。ですが、まずは咀嚼し、一考しましょう。マンモーネ」
彼女をママちゃん、ではなくマンモーネと呼んだボクに息を詰め、彼女は渋々と頷きます。
監視カメラや盗聴器は気味が悪いですし、ボクだって今すぐ外したい気持ちでいっぱいです。けれど、少しばかり冷静に考え、手段を選べばそれらを活用することが出来るのです。
第一に、電脳世界に重きを置くベルフェリカちゃんがソレらを認知できているということは、これ等全てが電子ネットワークを介しているということ。
第二に、それらにハッキングして、ダミーを流すこともまたベルフェリカちゃんにとって、とても容易いということ。
故にそれ等を取り外し、ボクたちが別場所を盗聴監視しても、これ等を取り付けた相手は、外されたことを知らないのです、嘘が流れていることも知らないのです。そして、逆に見られていることも、聞かれていることも知らないのです。
なんと、面白いことでしょう。なんと、頼もしいことでしょう。なんと、香しいことでしょう。
「ほらママちゃん。苦い食べ物も、一考し、ひと手間加えるだけでこんなにも香しい食べ物になるのですよ」
そんなボクの提案を聞いたママちゃんは身を乗り出し、目を爛と輝かせます。
「まあなんて魅力的な提案なの! わたくしはそれに賛成するわ! 賛成、大賛成よ!」
両者賛成の下、部屋に設置されている全ての監視カメラや盗聴器がママちゃんをこの部屋に繋ぎとめる『彼』の物ではなく、別の誰かの物だということを確認したボクらはベルフェリカちゃんにそれら全てにダミーを流してもらいました。そして、それら全てを探し、取り外してしまうことにします。嗚呼、ティーカップ一杯に、なみなみと乗せられることになるであろう盗聴器や監視カメラの行方を考えただけで、ボクと彼女はこの先が楽しみでなりません。




