2-1
感じたのは苦しさでした。そして次に冷たさと重み。一体何が起きているのでしょうか。と一瞬思いましたが、なんてことはありません。ボクが生まれた日、ボクが望まれた日、ボクが死んだ日。その全てと同じくして、ボクは今、重石を着けられ水の中で殺されようとしているようでした。
身体全体を水が覆っていることを知りながら、ボクの身体は酸素を求め呼吸をしようと口を開きます。
「ごぼり」そんな音が鼓膜を揺らすと共に空気だけがボクの肺から抜け出て行ってしまいます。そして代わりにとでもいうように水が、ボクの管を通って身体を満たそうと入ってくるのです。
苦しい。
そう明確に理解しているのにボクは水底に沈んだまま。どうしてでしょうか。どうしてボクは無我夢中で外を求めようとしないのでしょうか。襲いくる苦しさを紛らわすように、両の腕を動かせばそのどちらもがすぐに壁に着きました。
どうやらボクが居るこの場所はヒト一人が入れる程度のバスタブか、そのあたりなのでしょう。壁から手を離し、次にボクをこの水底に沈めている重石を確認します。
柔らかい。そしてほんのすこし温かい。これは、小さな子供でしょうか? 指先から感じる人間独特の肌の質感と重みに疑問を感じていれば、突如としてボクの目の前に黒い影が映ります。そして次の瞬間、ボクの身体は柔らかな重石共々持ち上げられ水の外へと強制的に出されることになりました。
空気。新鮮な空気。ボクが欲していた空気。そのはずなのに、舌先を貫く味覚はひどく苦く刺々しい。まるで悪意と敵意を持ってボクを毒殺しようとしているかのようです。水に犯されても地獄。息を吸っても地獄。生きているだけでこの苦痛。嗚呼、なんて惨い。
死にかけていたにもかかわらず楽観的にそう思いながら、呼吸をし、酸素を得ているボクの鼓膜を真っ先に揺らしたのは「ゴホッゴホッ」と咽る、懐かしさを帯びた少女の声でした。そして次に「お嬢様! 一体何をしておられるのですか!」と悲鳴にも似た叫びをあげる青年の声。
「ゴホッ……。何、って……見て分からないんですの?」
貴方、予想以上に愚鈍ね。
群青色のベビードールをしとどに濡らした少女は、恨みがましそうに黒い髪に褐色の肌を持つ青年を見上げます。
――入水自殺
ぱっとボクの頭の中に思い起こされたその言葉はあながち間違ってはいないでしょう。ですが愚かしくもその青年は「……わかりません」と答えてしまいました。
「ええそうでしょうとも! 分かりたくないから分からないんでしょう!」
わたくしがどんな思いで此処に居るか、わたくしが本当は何をしたくてこんなことをしているのか貴方は分かりたくないだけ! 主人の意見に従うことしか能のない使用人になんて、わたくしの事は何一つ分からない!
我儘を含んだ悲痛な叫びを上げる、ひとりぼっちな彼女の細い肩を労わるように、ボクはそっと抱きます。怒りか、あるいは冷えで震える彼女の肩からは今にも折れてしまいそうな脆弱さが伝わってきました。
「――嗚呼、アヴィーちゃん。アヴィーちゃん。わたくしが大好きなアヴィーちゃん。わたくしが成り通せなかったアヴィーちゃん。貴女を失ってしまって、わたくしとても悲しかったの。そして、貴女を死なせてしまったこと、わたくし、とても後悔したわ。だって、貴女がわたくしの初めてで、わたくしの根源で、わたくし自身だったのだもの。だからお願い、あなたを手放してしまったわたくしを嫌ってくれても構わないから、どうかわたくしを許して。わたくしはもう二度とあんな過ちを犯したりしないわ。今のわたくしはあの頃の愚かなわたくしと違うの。今回はちゃんと、貴女を生かしてみせますわ。だから、わたくしをゆるしてちょうだい」
ボクに口を挟ませる合間を取らず、一気にそう言った彼女はボクの顔を見上げました。けれどボクと同じである彼女の金色の瞳はどこか濁っていて、ボクの片目と彼女の瞳が絡み合うことはありません。
ボクは抱いていた彼女の肩を放し、冷たなってしまった小さな手を握ります。そして、濁ってしまっている金色の瞳を改めて見つめながら僕は言うのです。「許します」と。
ボクは貴女を許します。何故なら群青色の貴女はボクの愛すべき姉妹が一人。七つの悪徳が一つ、強欲のマモンを彩られたマンモーネ・S・アンヴェリーなのですから。
群青色のベビードレスを纏った小さな妹。マンモーネはボクの言葉を聞くとぽろぽろと涙を零し、小さな声で「ありがとう」と言います。そんな彼女の耳元には金の細かな細工と共に大粒のダイヤモンドとサファイアをいくつもあしらったイヤリングが、水を滴らせながら輝いていました。
寝巻として有用されているベビードレスを着ながら、そしてあまつさえ入水自殺を試みながらも着飾ることを怠らない彼女にボクは「流石、強欲ですね」と称賛の言葉を贈らずにはいられません。
ですがそのボクの称賛が彼女の耳へ届けられる間はなく、彼女の傍らにいる青年が「身体を冷やしては身体によくありません」と彼女の肩に温かそうなバスタオルを掛けました。
彼女と共にボクをも引き上げた彼の服もまた水で濡れています。ですが彼はそんな些細なことを気にする素振りもなく、ひたすら優しく彼女を拭きにかかります。水の一滴も残らぬよう。今にも壊れてしまいそうな彼女を間違っても壊してしまわぬよう、丁寧に、慈しみながら。
けれど濁った瞳に映る彼女の世界では、そんな丁寧さも、慈しみも、歪んで映ってしまうのでしょう。「そんなこと、貴方にしてもらいたくありませんわ。即刻この浴室から出て行ってちょうだい」とぴしゃりと言い放ちます。
「ですが……」
彼女の事を心の底から心配しているのでしょうか。あるいは主人の体調を気遣っているのでしょうか。はたまた、もう一度彼女が入水自殺することを恐れているのでしょうか。青年はその後ももごもごと言葉を濁すだけで、決してこの浴室から出て行こうとはしません。
「今日はもう、こんなことをしはしないから、早く出て行きなさい」
わたくしにはもうアヴィーちゃんが居るのだから、わたくしをアヴィーちゃんと二人きりにして。
「わかりました……」
ちらり、と黒の彼がボクを見たような気もしましたが気のせいでしょう。彼は改めて彼女にタオルを渡すと一礼します。
「脱衣所に変えのタオルと洋服を置いておきますので、お着替えください」
「分かっているわ、その程度の事。嗚呼、それと。二人分の温かい紅茶とお菓子を部屋に運び入れておいてちょうだい」
「二人分、ですか?」
「二人分が嫌なのなら、三人分でも四人分でも好きなだけ持って来れば良いじゃない」
苛立たしげに彼女はそう言い、その後続けて「何か文句がありますの? あと、部屋に水一滴でも零したらタダじゃ済ませませんわよ」と厳しい言葉で青年の背を押しました。
正直に「風邪でも引かれたら後味が悪いから、濡れた服を早く着替えなさい。あと温かい飲み物を飲んで、身体の熱を維持しなさい」と言えば良いものを、従者の青年を信じきれていない彼女にはソレが言えないのです。
「ごめんなさいね、アヴィーちゃん。許してもらって早々、こんな姿は見せたくないのだけれど」
目を伏せ、震える彼女をじっと観察し、ボクは口を開きます。
「『貴女』と会うのは十五年ぶりですが……、マンモーネ。いろいろ、混ざっていますね」
傲慢と憤怒と、より一層濃い怠惰の香り。そう端的に述べれば彼女は「嗚呼、」と憂鬱気に声を漏らしました。
「やっぱり、分かってしまいますわよね……。アヴィーちゃんはわたくしの姉妹ですもの。ええ、混ざっていますわ。怠惰の香りが一番強いのは、きっとこの部屋に監禁されていることが原因ですわね。従者以外の他者との触れ合いを断絶するこの部屋に居れば、誰だって怠惰に染まってしまうはずですもの。でもそんなのはもう終わりですの! だって貴女が、アヴィーちゃんが此処に帰ってきてくれたんですもの! もうわたくしは、一人っきりじゃあない!」
伏せていた目を上げてボクの瞳を食い入るように見た彼女。その目はやはり濁ってはいましたが、ボクの許しを得たせいか、ほんのわずかに光が入っていて彼女らしい強欲の色が垣間見えています。
「それは良かったです。ところでマンモーネ。身体の方は大丈夫ですか?」
何処か不調はありませんか? それこそ、医者に診せた方がよろしいのでは? 未遂ではありましたが貴女は入水自殺を行っていたのですよ。
「お気遣いなく、アヴィーちゃん。わたくしならもう大丈夫ですわ。そんなことよりも『マンモーネ』なんて堅苦しい呼び方はよして。昔みたいにママちゃん、と愛らしくわたくしを呼んで?」
「ねぇ?」と猫なで声で強請られたボクは「わかりました。ママちゃん」と答えて彼女に手を差し伸べます。ずっとこの浴室で二人きりで居るのも悪くはありませんが、彼女は濡れた身。早々に着替えて温かくした方が今後のためでしょう。
差しのべられたボクの手を借り立ち上がった彼女は濡れた群青色のベビードレスを脱ぎ去り、脱衣所へ移動しました。無論、脱ぎ去られた群青色のソレを浴室の中に置き去りにしたままで。
「片付けないのですか?」
濡れた背中にそう声をかければ、彼女は疎ましげな顔で振り向き「ワーズワースかティークが片付けてくれますわ」と答えます。ですが彼女はそう発言した直後にボクが言いたかった本当のことに気が付いたのでしょう。「あ、」と声を漏らし、濡れたベビードレスを掴んで脱衣所の籠へと入れました。
「わたくしは強欲のマンモーネであって、怠惰のベルフェリカちゃんではありませんものね。全てを従者任せにするのはよくありませんわ」
強欲としての在り方を思い出してきたらしい彼女は早々にタオルで濡れた身を拭き、髪を乾かし、用意されていた群青色のワンピースへと着替えます。
「アヴィーちゃん。わたくし行きますわ」
脱衣所の向こう側にある部屋へ出るだけだというのに、彼女は少し意気込むかのようにしてそう言います。まるで、何かに怯えているかのように。
おそらくその何か、はボクが呼吸した際に感じたあの苦く、刺々しい毒のような味の敵意と悪意。きっと彼女はそれに怯え、それに屈っしまいとひとりで懸命に闘っているのでしょう。
「大丈夫ですよ、ママちゃん。今の貴女にはボクが居るのでしょう?」
脱衣所の外へと繋がるドアノブを握る彼女の震える手に、ボクは手を添えます。日に当たらないせいか病的なまでに白い肌に、骨ばった指。異様なか細さを映す彼女の手にはそれでもぎらぎらと輝く、彼女らしい強欲の証が着けられています。
「それに貴女は強欲の悪魔を彩られたマンモーネ・S・アンヴェリー。その財力は権力の証であり、その権力もまた財力の証。富に恵まれた貴女は自信を持って其処に在れば完結し、無欠なのです」
外にどんな毒や、敵意、害虫が待っていようとも、貴女は強欲の悪魔を彩ったS氏の娘なのですから何も案ずることはありません。凛としたその姿を知らしめ、周知させればよいのです。
「ええ。わたくしはマンモーネ・S・アンヴェリー。もう、違えたり、しないわ」
今度こそ、すくってみせる。だから、わたくしは違わない。違えない。
自らにそう言い聞かせ、ボクと共に白色の扉を開いた彼女。開かれたそこに在ったのは青い部屋と、一人の青年でした。金色の髪に、白い肌をしたその青年はどう見てもバスタブから彼女をすくった青年とはかけ離れていますから、別人でしょう。その白の彼は脱衣所から現れた彼女を見るや否や、足早に駆け寄って来ます。
「お嬢様、お身体は大丈夫ですか?」
「ええ。問題ありませんわ。それよりティーク、紅茶の準備はできていますの?」
「はい、温かい紅茶とお菓子を二人分用意してあります」
「そう」
少しばかりの笑みを見せる白の彼、ティーク青年ですが、残念なことに彼女は彼を見てはいません。現状、彼女の視線の先に在るのは、は未だ通っていない道筋に落ちている少しばかりの水滴。
おそらく彼女をすくった黒の彼が残していったものなのでしょう。一瞬、指摘でもするのでしょうか。と彼女の顔色を窺いましたが、彼女がソレを指摘することはなく、何も気が付かなかったという素振りで紅茶とお菓子の置かれたテーブルへと向かいました。
まあ、そうでしょうとも。彼女をすくった黒の青年に向けた「部屋に水一滴でも零したらタダじゃ済ませませんわよ」というあの言葉は素直になれない彼女の精一杯の思いやりだったのですから。




