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Sの娘たち Act.A  作者: 威剣朔也
2 A.あるいはマンモーネ・S・アンヴェリー
23/52

1-1



 一面の黒。雄大なその中で時折点滅する光。さらさらと細かな何かが滑り落ちていく音が聞こえる。そんな場所に漫然と揺蕩うボクは、一体“何”だったでしょうか。


 せめて自分自身の(かたち)を確かめようと下方を見やりますが、そこは曖昧模糊としており、より一層自分が何であるのか分からなくなってしまいます。


 そう、まるで身体をバラバラに解体されて、何処かに隠されてしまっているかのよう。ひたひたと忍び寄ってくる気味の悪い、得体の知れない不安定な感覚を抑えようと、冷静を繕い装い「ふむ、ふむふむ」とボクは一人頷きます。


 勿論その装いが声は愚か動作にさえなっていないことは知っています。しかし、それを行わなければボクはボクを見失い、その得体の知れない不安定な感覚に飲み込まれてしまいそうなのです。


「暴食の悪魔、ベルゼブブをその身に彩った『アヴィオール・S・グーラスウィードちゃん』でしょう? まったく。見ていられないわぁ」


 やわらかな声に言葉を乗せ、ボクの眼前に突如として現れたのは、ひどく甘ったるそうな蜂蜜色の髪を揺蕩わせる一人の少女でした。


 太陽の恵みをたっぷりと浴びた蜂蜜色の髪に、瑠璃の宝石をそのまま埋め込んだかのような青い瞳。そして淡いコスモス色のワンピースを纏う、煌めきと甘い匂いを秘めた彼女を、ボクは、いいえ。ボク達は知っています。


 彼女の名はリリス。奇跡という地位を勝ち得た、あわいの乙女。


 百の面よりも多彩な顔を持ち、ありとあらゆる場所に現れる彼女ですが、その姿を目にすることは稀有。ただ、稀有だからといって刹那に(まみ)えることのできる彼女を容易に忘れられるはずもないのですけれど。


 何故なら彼女は、歪でありながらも、がらんどうでありながらも、ボク達の終わりと始まりを造った存在。始祖、あるいは母とも呼べる存在なのですから。


 リリスの記憶をきっかけにして、ボクは忘れていた記憶を断片的にではありますが徐々に思い出しはじめました。


 確かボクが彼女と最後に見えたのは十五年前。そう、イーエッグ木乃伊化殺人事件の折でした。闇が蔓延る堂に描かれた円の中、歪な笑みを浮かべた彼女はボクの身体を割いたあげく、あろうことか片の目と人間らしくあるための心を奪ってしまったのです。


 その一部始終をボクは味わうと共に、ほんの少し離れた場所でも見ていました。――そう。まごうことなくボクは、ボク自身が割かれる所をしかとこの目で見ていたのです。


 けれどそんな彼女が一体何故此処に居るのでしょうか。むしろ、今さらこのボクに何の用があるのでしょう。


――久しぶりですね、リリス。


 ボクが発した言葉は明確な声にはなってはいないかもしれませんが、彼女はボクの呼びかけに「ええ、久しぶりね。アヴィーちゃん」と鈴の様にコロコロと笑んで答えます。


――それで、一体何の御用ですか?


 彼女が蛇のようにするりと動き、ボクの身体に纏わり付いたのを感じながら、ボクはそう冷たく言い放ちます。勿論その言葉の中には何の躊躇もありません。先ほどリリスという存在について思い出していましたが、現状までの彼女を鑑み、ボクは断言します。ボクは彼女が好きではない、と。


 いろいろと嫌なことはされていますが、憎んではいませんし嫌いとまでも言えません。ただボクが彼女と関わるとロクな事にならないという決定的事実を知ってしまっているがために、好きではないという結論に至ってしまうだけなのです。その事実さえ無ければ、その結論に至ってしまう決定的事実を知らなければ、彼女は性格や思考こそ掴めない変人ではありますが、隣人としてならば大いに愛せる存在なのですから。


 ただ、無知に戻ることのできないボクは「今回だって姿を現しただけではあるまい」と勘繰らずには居られません。そう、奇跡の置き土産にヘドロのような悪臭、もとい、悪趣味極まりない何かを彼女は置いていくに決まっているのです。


「ふふっ、ふふふっ。そのそっけない言葉、ゾクゾクしちゃうわぁ!」


 するり、とボクから離れた彼女は自身の細い両肩を抱きしめ、恍惚の表情を浮かべながら愛らしい桜色の唇をしなやかに咲かせます。


「なぁんてね。私はただアヴィーちゃんが困っているみたいだったから、ちょおっと様子を見に来ただけよ」


 それで、自分は一体何者か? という貴女の疑問は晴れたのかしら? にやぁ、と月のように笑う彼女はボクの頬をその細く白い滑らかな指でなぞります。嗚呼、そんなところにボクの顔は在ったのですか。


――ええ、勿論。七つの悪徳が一つ、暴食を冠するベルゼブブを彩られたアヴィオール・S・グーラスウィードであるということを、ちゃんと思い出すことができました。貴女のおかげですよ、リリス。


 でも専ら、煩わしい貴女の事ばかりを思い出してしまいましたけれどね。と皮肉交じりに言ってもみましたが、その皮肉はリリスの中で皮と肉に見事に削ぎ分けられ身の無い皮だけになってしまったようです。何しろ彼女は「お褒めに与り光栄だわ」とボクに言葉を返し、寒気をもよおす愛らしい笑みを浮かべたのですから。


 嗚呼、やはりよからぬ事を考えていますね。この奇跡は。


 愛らしい笑み。されど寒気すらもよおさせる、愛に類似しながらも次元の違うナニカを孕んだいやらしい笑み。


「でもね、アヴィーちゃん。貴女なりに『一体何者か』という疑問は解消されたかもしれないけれど、私からしてみたらぜぇんぜんダメよぅ? カタチが曖昧模糊。全体的に、そうねぇ、綿菓子みたいに身体がモヤモヤしている、と言えばいいのかしら? ふふっ、仕方がないからこの私が直々に貴女の肉としてのカタチを隅から隅まできちんと思い出させてあげるわねぇ」


 ボクの返答など待ちわびもせず彼女は勝手にそう言うと、頬をなぞっていた指をうなじの方へゆっくり移動させます。


「アヴィーちゃんの髪は真っ白な癖毛。今は肩に届くか届かないか辺りにまで短くしているみたいだけれど、私は長い髪の貴女も大好きよ。だって、より一層私に似るでしょう?」


 いやらしい笑みを浮かべながら、彼女の指はボクのうなじを下り首筋、肩、胸へと徐々に降りていきます。


「喉仏は女の子ですもの、あるべきではないわねぇ。肩幅はちょっとだけ広くて、胸はかわいそうなぐらいぺったんこ。ふふっ、アヴィーちゃん。まるで、男の子みたぁい」


 ふふっ、ふふふっ。と嗤う彼女は、ボクの腹の上に乗せている指でくるりくるりと円を描きます。


「整った顔立ちに、男の子と見紛う上半身の体格。それに合わせるかのように、貴女の心はどこか騎士ないしは紳士的。だからこそ弱き者を見捨てられない貴女は、自身の身体を程よく鍛えているの」


 腹の上を回っていた指が、まるで腹を割くかのように縦縦、横横、と滑らされていく。まるで板チョコの谷間に指を走らせているかのような。そんな的確さを持って。


「そして次は下半身ねぇ……って、あらぁ? 結構思い出してきたのかしら。勝手に造形されていくわね。つまんないわぁ。貴女の内側に指を入れて杯を作るのを楽しみにしていたのに」


 嬉々としていた声を少しだけ下げ、唇を尖らせるリリス。彼女の指は既に僕から離れ、彼女自身の尖った唇の先端をふにふにと突いています。


「貴女にボクの下半身事情まで指摘されたくはありませんからね。プライバシーの保護と言うやつですよ」


 明確になったボク自身の唇で、彼女に苦言を入れれば「あら。私とアヴィーちゃんの仲じゃない。それとも私が相手じゃご不満なの?」と彼女はふてくされた声を発します。


「ご不満です」


「即答なんてひどぅい……」


 さめざめ、と言わんばかりの悲しみを訴えんとするリリスの口調。ですがその顔には悲しみなどは微塵も張り付いておらず、空っぽの笑みだけがべったりと張り付いています。


 ケタケタ、ケラケラとした笑いを零しかねない彼女を前に、下半身の再構築を完全に済ませたボクは、アヴィオール・S・グーラスウィードとして強く認識している衣装である燕尾服を纏い、容として相成ります。


「そんなに指を入れたいのでしたら、ご自身の口にでも入れたらいかがですか」


「ふふっ、そういうことを言うのね、アヴィーちゃんは」


 リリスはそう言うと、自身の唇を突いていた指をその柔らかく熟れた唇の中へつぷり、と入れてしまいます。けれどその指は彼女の咥内を隅々まで弄ることなく、すぐさま出され、ボクの右の眼前へと突きつけられました。そう、失ってしまっている右の眼へ真っ直ぐに。


 突きつけられた指はゆっくりと右目の眼帯に触れ、下にぬるりと滑り入り、押し上げ、隠していたその部分をさらけ出させます。


「痛々しいわねぇ」


「誰のせいですか。誰の」


「私のせいじゃないわよぅ」


 アレは彼等が勝手にやっただけ。私の責任じゃあないわ。


 空の眼に指を入れながら、ぷりぷりと恋をする乙女が拗ねるように唇を尖らせてみせるリリス。ですが彼女は仮に乙女であったとしても恋なんていうちゃちな代物に現を抜かしたりはしないでしょう。


「あ。今、失礼なこと考えたでしょう?」


「いいえ、そんなことはありません」


「ふぅん……まあ良いわぁ。例え失礼なことを考えていたとしても、アヴィーちゃんだから許してあげる」


 私は心が広いからねぇ。そうでしょう?


 そう囁き、嗤う彼女はボクの眼に収めていた指を引き抜きます。それに合わせてボクはずらされた眼帯を元の位置に戻し、前髪で隠しました。


 他人にこの眼帯を見られるのが嫌なわけではありません。ただこの大事な身体を欠けさせてしまっているという事実を、お父様であるS氏に知らしめさせたくないだけです。何せこの欠けた右目はアヴィオール・S・グーラスウィードの失態の証なのですから。


 細やかな反省と後悔に思考を巡らせながら自身の髪を撫でつけて、滑らせていれば妙に手触りが違うことに気が付きます。


 ボクの髪は先ほどリリスが言った通り、肩に届くか届かないかの短さですから、流れ滑るように指は通るはずがないのです。流れ滑るほど、ボクの髪は長くはない。その事実を確かめるべく髪を梳いている指をそのまま眼前の視界へと入れれば、白銀のうねりをもった長い髪が指に、腕に纏わりついていました。


「なっ、」


 しかもその下、所謂ボクの身体が纏う衣服も燕尾服から、ボクたちの正装へと変貌しているではありませんか。


 この服にこの髪の長さ。これは忌々しい“あの時”の再来でもするつもりなのですか彼女は! “怒り”という感情がボクの中に残っていたのなら、彼女の胸倉を掴みあげ「こんな悪趣味なことはやめろ!」と定型句も放り出して怒号を飛ばしていたことでしょう。けれど、感情を露わにするボクはそんなことはせずその原因を作ったリリスを睨みつけるだけに留まります。否、留まるしかないのです。人間らしい心を奪われたボクには感情を露わにする資格が無いのですから。


 ですが悪趣味極まりない彼女に対して、うっかり「最低ですね、貴女」という本音を吐き捨ててしまっても仕方のないことではないでしょうか。そう、うっかりなのです。偶然なのです。悪意も感情も、一つまみだって入っていやしないのです。意味ありげな粘着質のある笑みを見せつける彼女に向かって、その「うっかり」を口から吐き捨ようとボクはしました。


 けれどその前に腹からゴロッとしたナニカが沸き上がり、胃液と共に喉を逆流します。得体の知れない異物の塊の感触は口腔を犯した後、ソレは舌を滑り外へ出ます。


 嗚呼、ボクはこの逆流する喉ごしを知っています。片の眼と共に彼女によって奪われてしまった、ボクが抱くべき人としての“感情”。ただし、その塊が体外に出たというのは感覚と胃液のみで、実は一つとして出ていません。それもそうでしょう、何せその実をボクは奪われているのですから、出るわけがないのです。そして続くようにして右目が疼き、ひどく傷み始めます。嗚呼、このままでは本当にあの時の再来になってしまう。


「やめてくださいリリス」


 やっとのことで声を上げることの出来たボクは妖艶に、それでいて白々しく笑みを浮かべるリリスに向かって手を伸ばします。けれどその手は彼女に届くことはなく宙を掴むだけ。


 無駄なあがきをしているうちに背骨に沿って皮膚が焼けるように熱くなり、裂ける痛みがボクを襲います。ですが、ボクにとっては自身の痛みよりも、二度もこの身体を裂いて内側を咲かせてしまうことになる事実の方が痛く、苦しくて仕方がありません。


 嗚呼。S氏に、お父様に、どう詫びればいいのでしょうか。


 すみません、ごめんなさい、お父様。愚かにもボクは貴方の大切な娘を二度も壊し、赤い花を咲かせてしまいます。幾度となく「すみません」「ごめんなさい」と謝りながらボクは目の前の憎々しくも愛おしいリリスを睨みつけ、獲物に牙を突き立てるように口を大きく開きます。


 そんなボクを見てもなお笑みをたたえ続ける彼女は、何の躊躇もなくふくらみのある自身の胸を抉り、その内から脈打つことを忘れてしまった赤い実を取り出しました。


「私を楽しませてくれるであろう、誉れ高きアヴィーちゃんへの贈り物よ」


 リリスはそう言うと、あろうことかその赤い実をボクの口に無理やりねじ込みます。


「ングゥッ」


 ぐぃ、と最後の一押しをするようにして今一度勢いをつけてねじ込まれる異物に嘔吐くボクを目にし、細く笑むリリス。そんな彼女ですが、やはり決して嫌いにはなれません。何故なら彼女はボク等の祖であり――


「一時の感情を、貴女に還してあげる」


 ボクたちでもあるのですから。



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