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Sの娘たち Act.A  作者: 威剣朔也
1 ジークフリート・クーベルタン
21/52

7-2



「ラ、ランス?」


 「いきなり引き込むだなんて危ないじゃないか」そう言いかけた俺に、彼は顔を近づけ詰め寄る。


「走ってる兄さんも、考え込んでる兄さんも可愛かったけど、オレのせいで慌てる兄さんもかわいいなぁ」


 とろん、と目を緩ませ頬に紅を添え、獲物を捕まえた獣のように舌なめずりをする弟。そんな彼の片の手は何時の間にか俺の顎を持ち上げ、彼の目と俺の目が交差しあう角度にしようとさえしている。


「兄さんについてきたあの煩わしい蛆虫を、やっと、やっと見放してくれたんだろう?」


 煩わしい蛆虫とはアヴィーのことか。ソレに関してはもう俺の中で答えは出たが、何故彼がアヴィーと俺との間に出来たいさかいを知っている。つい先刻の事で、俺は誰にも言っていない事柄だ。


「知ってるさ。何時だって俺たちは兄さんを見守っているんだから、知らないはずがないじゃないか」


 本当は独り占めしたいけど、そんなことしたらあの女狐みたいになっちゃうから、我慢してるんだ。


 あの女狐とは誰の事だ。そう疑問を抱きはしたものの嫌にぎらついたランスの目が近づき、俺は思わず彼を突き飛ばしてしまう。


 思わず? 否、必然的に、だ。


 何しろそこに居るのは弟などと言う可愛げのある名刺の存在ではなく、もっとおぞましく、汚らわしい、別のナニカだから。俺に突き飛ばされ「なんで、なんでだ兄さん!」と叫んだナニカを見捨て、俺は家を目指して走りだす。あんなものよりもまずはアヴィーを、アヴィーに謝罪の言葉を述べなければ。


 アヴィーが居るはずの家を目指し、改めて走り始めた俺だったが、それからが壮絶だった。何しろ花屋の娘、パン屋の婦人、大工の旦那、肉屋の青年。昔馴染みの人間が現れるや否や俺の手を取り、得体の知れないことを囁き、わめき、俺はそれを振り解く。が繰り返し行われたからだ。


 一体町で何が起きているんだ?


 やっとのことで彼等の手から脱せた俺は呼吸を整えるために足を止める。慣れない運動を強いられたがために荒くなっている呼吸音と共に聞こえてくるのは祭りの軽快な音楽と、雑踏。加えて外だというのにも関わらず妙に立ち込める酒の匂い。否、酒―――と言うよりかは蜜、と言った方が正確かもしれない。花のように甘く、柑橘類のように酸っぱく、青葉のように若々しく、酔いを持たせるアルコールのような豊潤さ。嫌いではないがどこか胡散臭さのあるその匂いと軽快な音楽に、徐々に眩暈さえ感じてしまう。


 ぐらぐらと揺れる世界。蜜の匂いが頭を痺れさせ、思考を緩慢にする。嗚呼、俺はこんなことをしている場合ではないのに! 俺は一刻も早くアヴィーの居る家に帰り、彼女に謝らなければならないのだ。彼女との連絡手段である電子端末は電池切れを起こしており、黒い画面を表示させているだけで時間の把握でさえままならない状態になっている。嗚呼、何とタイミングの悪いことか!


 はやる気持ちはあるものの、それとは裏腹に肉体の方は辛く、息切れは収まりつつあるが動悸の方は未だ激しいまま。それに今更ではあるが喉の奥が摺り切れたのか、口の中に血の味が混じってもいる。そんな時に不意に肩を叩かれ、そちらの方を向けば、うっとりとした表情を浮かべたノーラが視界に映る。


「の、ノーラ……マリアは、どうしたんだ?」


 彼女もまた町の住人達と同じ、“得体の知れないナニカ”になっていることは一目瞭然だったが、せめて、繕う術だけでもこちらから開示する。そうでもしなければ彼女もまた今までのナニカ同様自分本位の事を並べ立てるだろうから。


 だがそんな俺の誘導を彼女は微塵も聞き入れていないのか何も言わず、うっとりとした表情を浮かべたまま、女性特有の柔らかで芳醇な肉で俺を包もうとしてくる。


 そんな彼女から逃げようとする俺だが疲れている身体では難しかったのか、ないしは妙に立ち込める三つの匂いのせいかは不明だが、足がもつれて転ぶ始末。顔には焦りと恐怖の色を浮かべ、地べたに腰を着け後ずさる俺は不格好だろう。にも拘わらずノーラはうれしそうな顔を浮かべている。否、うれしそうな、ではなく如実にわかる“うれしい顔”を浮かべている。


「やっと、私の物になるのね」


「何のことだ!」


 どいつもこいつも意味不明なことばかりを俺に吐露する。だが俺にはその意味は分からない。もとより分かってやる気もなければ分かりたくもないが。


「ジークさん。貴方は何も知らなくていいの。これは私の、私たちの自己満足だもの。貴方はただ、私に身をゆだねて気持ち良くなって、そして私を愛してくれればそれでいいの。嗚呼、嗚呼。やっと貴方が手に入る。いくら画面越しに見て、イヤホン越しに聞いていても、やっぱり実物には変えられないわ。嗚呼、うれしい。嬉しいわ!」


 気味が悪い。得体が知れない。彼女は、彼女たちは一体どういう了見で俺に迫ってきているのだ。俺の腕を掴み、その指先を自身の胸部へ当てた彼女を俺は突き飛ばす。逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ!


 ふらつく足を奮い立たせ、その場から逃げることはできたが、次から次に現れるのは顔なじみである近隣住人達の手、目、口。だが走ることに慣れていない疲れた体ではそれら全てから逃げおおせることは不可能で、俺はすぐにその手に、目に、口に、掴まってしまう。


 顔を無遠慮に撫でる掌。異様にぎらついた目と荒い鼻息を携え、自分本位の惜しみない感情をただひたすら並べ立て吐露する口。時折そこからのぞく舌の赤が俺の抱く嫌悪感を倍増させる。


 ぎゅうぎゅうと四方八方から人肉の壁に押され、まさぐられ、蹂躙され、何時しか服にまで手が欠けられ脱がされようとしている。


 このままでは肉体的にも精神的にも、将来的にも良くないことになるのは分かっている。されどこうも大勢の人間に取り囲まれてしまっていては、俺一人では如何することもできない。


 嗚呼、このままアヴィーに謝ることすらできずに俺は汚され、本当に蹂躙されるのか。半ば絶望を抱き、先行きの暗い俺の未来と視界に目を閉ざそうとした刹那、激しい爆音と共に白煙が急に立ち込め、同じくして上がる甲高い悲鳴。


 一体何が、と思う暇もなく腕を掴まれ、強い力で引っ張られる。もうどうにでもなれ、と半ば投げやりな気持ちを抱きつつある俺の傍で囁かれたのは、「走ってください」の言葉。しかもその声は、俺を安心させるたった一つの声色、アヴィオールの物だった。


 返事をするまもなく再度腕を引かれた俺は足をもつれさせながらも彼女が引く方へ走り始める。一寸先も見えぬほど立ち込める白煙と人肉の壁を抜ければ彼女の明瞭な姿が現れ、やっと得体の知れぬナニカから逃げだせられたのだと心の底から安堵する。だが安心するのはまだ早いらしく、現場から姿を消した俺の事を探す声が後方から聞こえてくる。


「ジークは何処だ!」


「あっちに逃げたわ!」


「早く捕まえろ、絶対逃がすな!」


 善良な一般市民とは思えぬ物騒な発言をするナニカ達の喧噪を背に受けながら、俺と共に入り組んだ路地を右へ左へと走り抜けているアヴィー。行き先は決まっているのだろうが、人を避けながら走っているせいで何処へ行きたいのか分からない。


 右往左往しながら路地を掛け抜け、パッと開けた道にあったのは見、慣れない一台のノスタルジックカー。


 一九四〇年頃に主流になったようなレトロな車体は夕暮れの茜に少々彩られてはいるものの、車本体の色である群青色は美しい。きっと晴天の下で見ればなおさらその深い青に惹かれることだろう。


 だが見慣れないのは色のせいだけではない。その車に記されているエンブレムが田舎と称されるこのイーエッグ島内の人間が乗るには似つかわしくないメーカーの物、いわゆるセレブ御用達の高級車だったからだ。一体誰の、と思わざる得ない高級車の後部座席を問答無用で開けたアヴィーは半ば強引に俺をそこに押し込むと、自らは運転席に乗り込んで車を発進させる。


「ボクが良いというまで顔は上げないでください。流石にヒトを引き殺したくは在りませんから」


 俺がこの車に乗っていることを知られ、行き先の道で待ち伏せ、ないしは飛出しをされては困るのだろう。それにアヴィーに人殺しをさせたくはない俺は「わかった」と答え、身を低くし外から極力顔が見えない体勢になる。


 シートは真新しく、流石高級車と言うべきか肌触りも良ければ座席の弾力も程良い。現時点でしっかりと背を着けて座れないことは惜しまれるが、おそらく長時間の乗車もこれであれば苦はないだろう。


 ところでアヴィーはこの車を「自分の車」と言っていたが、だとしたら何時の間に彼女はこんな高級車を入手したのだろうか。


 俺が家を飛び出す際には無かったはずだし、買ったとも、届いたとも聞かされていない。いくつかの疑問はあるにしろ、先んじて彼女に礼を言わねばならない俺は「アヴィー、助かった……」と呼吸を整えながら言う。おそらく白煙を出して現場を混乱に貶めてくれたのも彼女の仕業なのだろう。


「彼等は一体どうしたんだ……」


 何が彼等をああさせた。独り言のように自分の中にある漠然とした疑問を口にすると「……お祭りですから。きっと皆さんお酒を飲んで少々ハメを外しているだけですよ」と、運転中のアヴィーが答える。


 だが、そんなわけがあるまい。と思う一方で、現状、彼女が言った理由しか思い至らない俺は口を噤む。


 本当ならば家を飛び出した時のことを早く彼女に謝るべきなのだろうが、どう切り出すべきか分からない俺は何も言えない。とんだ腰抜け野郎である。互いに無言になり、僅かなエンジン音だけが響く車内を先に割いたのはアヴィーだった。


「ところでジークさん。家に戻りますか?」


「いや、……戻らない」


 今、戻ってはいけない気がする。というより戻るべきではないだろう。


 家で待ち伏せされていることも十分に考えられるし、もし俺たちが家に居るところを酔っぱらった彼等に襲われてもかなわない。俺の答えを聞いたアヴィーは「そうですか」と端的に答えると再び無言を貫く。おそらく俺の回答は彼女にも見破られていたのだろう、車の進行方向は変わらない。一応了承のためにと訊いたものなのだろうが、事後承諾という方法もこの場合やぶさかではないだろう。


 それにも関わらず彼女は何故、俺に了承の体を装ってまで質問をしたのか。それはおそらく俺の為を思ってだ。彼女に謝らなくてはいけないと思っているのに、切り出し方が分からないというたったそれだけの理由のために、踏ん切りが付けられていない俺の為に、彼女が手間を省いてくれたのだ。


 せっかくアヴィーが与えてくれたこの機会を逃すわけにはいかない俺は腹を決め、口を開く。


「っ、アヴィー。さっき、いや、家でのことはすまない。あんなことをするつもりも、言うつもりもなかったんだ。本当に、後悔している」


 彼女に自分勝手な憤りをぶつけ、胸ぐらを掴み、「人でなし」とまで言い放ってしまった。それは謝って済むことではないだろう。だが、言葉にして謝らねば、謝罪の意思は明確にならない。車外から顔を見られないよう身を低くしているのを更に低くし、頭を垂れる。


「いいえ。言われて当然のことをボクはしていますし、言いましたから。ジークさんがそう思ってしまうのも仕方がありません。ですから、謝らないでください」


「だが……」


「許してほしいと、お思いなら、ジークさんもまたボクの発言を許してはくれませんか」


 ―――ボクにとっては他人の命よりも貴方の望みを叶えることが先決です。


 されどあの言葉は他の何よりも俺を優先してくれるという、頭の冷えた俺にとってはとても魅力的で甘美な宣言だったではないか。ソレを、許せと? そして「許す」と言うだけで彼女が俺の責を許すのならば、俺は許そう。彼女に許されたいがために、俺は許そう。


「許す……」


「ならば今日の事は全て水に流しましょう。これからもよろしくお願いしますね、ジークさん。あともう町を抜けましたから、顔を上げても大丈夫です」


 そうキッパリと言い切り、これ以上の会話は不要とみなしたのだろう再び無言を貫くアヴィー。それに伴い車内には車の僅かなエンジン音だけが響く。


 低くしていた身を起こし、窓の外を見れば夕暮れに穂先を染める小麦たちが広がっていた。金色の小麦に茜が混じり、風で靡く度にキラキラとまばゆい光を反射させている。


「なぁ、アヴィー。今俺たちは何処へ向かっているんだ? それにこの車は……」


「この車は、今日、妹から貰った物です。そして行き先は港町になります」


「妹から貰った……、それに港町?」


 妹、とはアヴィーと初めて出会った時に居たベルフェリカの事だろうか。見るからに病床であった彼女にそれだけの財力があったのだろうか、と俺は驚きの念を抱く。


「ええ。ジークさんが家を飛び出てすぐに、……会社の方からボクの妹のベルフェリカちゃんの容体が悪化し、もう先が長くない状態だと連絡が来ました」


 あの少女の先が、もうない状態? この車を送ったと思しきベルフェリカと言う少女が?


「なので、ジークさん。差し出がましい申し出だとはわかっているのですが、しばらくの間家に戻らないというのであれば、どうかボクと共にあの都市へ戻ってはくれませんか」


「構わない」


 アヴィーの言葉に対する俺の言葉は即答だった。


「本当に良いのですか」


 まさか躊躇いの一つも見せることなく返事をされるとは思っていなかったのか、アヴィーが鏡越しに俺の顔を見たのが分かる。


「嗚呼。しばらく、あの町へは戻りたくないんだ」


 弟のランスと彼の妻であるノーラや近隣住民の豹変。町中に満ちていた狂乱とも呼べる彼らの様子は酒の酔いだけでは済ませるべきではないし、済ませられない。


 特に名指しで俺を探していたことは、ひどく俺を悩ませる要因にもなっている。だからその悩ましい事案から少しでも距離を置き、冷静に事を判断、整理するためにも俺はあの町から、否、この島から出て考え直す必要があるのだ。


「嗚呼、でも荷物は」


 はっ、と思い出した自分自身に必要不可欠な物。具体的に言うなれば金銭の類や身分証明書、あとは端末の充電器。


「入用の荷物でしたら後ろのトランクに乗せてあります。もし足りなければ、後々買い足しましょう」


 流石気の利くアヴィー。俺の全てを見通して、先を読んでくれている彼女には本当に頭が上がらない。


 不安定な砂利道を走っているにも関わらず強い衝撃の一つも伝えてこないこの座席のクッションにしっかりと背を預け、横の窓から俺たちがついさっきまで居た町を眺めてみる。だが、そこには小麦たちのたわわな煌めきに混じる群像の町が一つあるだけ。嗚呼、あの中で今どれだけの人間が狂乱に乗じ、順じているのだろうか。




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