7-1
事件の始まりとも呼べる四月十日から一か月半が経った五月十六日。その日にもまた木乃伊化した遺体が見つかった。
否、今日だけではない。妊婦が木乃伊として発見された日以降にも少女や妊婦が行方不明になり、後日木乃伊の姿で捨てられていることが立て続けに起き、今なおそれは続いているのだ。
その上、行方不明になったまま発見されずにいる人たちの生存は「絶望的」だと警察は考えている始末。一体何故だ。何故、犯人は捕まらない? そして、警察も犯人を捕まえるどころか、犯人像の特定さえしていない? 俺と共に十五年前の事件と、今起きている事件を調べてくれているアヴィーのおかげで警察署に出入りしている俺だが、署から出される資料のどこにも犯人を特定するようなプロファイリングの資料が無かった。そのことを、アヴィーを通して署長に訊ねてみても首を横に振るばかり。
一体、何故なんだ。警察はこの事件の犯人を特定することを諦めているのか? それとも警察が捜査することを躊躇うような管轄で事件が起きているのか? 例えるならば漫画や小説世界なんかでは良くある展開。闇の組織が裏世界を牛耳っていて、表を牛耳る警察はソレに対して深く切り込めない。もし互いに干渉するような事件があっても相応に折り合いをつけて、世間には未解決ですますという。そんな妄想甚だしい展開。そんな、俺の妄想にすぎないようなことが、本当にあってたまるか。そんなことが本当にあれば、俺たち民間人は警察を信じられなくなる。いや、もう十五年前のことも相まって信じる気さえ失せ始めている。そんな無能に近い警察のせいで、今回の木乃伊化殺人事件の被害者も日に日に増えているのだ。
今日までに起きた事件の被害件数を換算すれば、一日に一人の子供か妊婦が誘拐され、その半数が木乃伊化した遺体となって島の何処かに捨てられている。
そんな事態が続けば当然、子供を外に出さない親が増え、妊娠中の者も外へ出なくなった。例え出て行かねばならない用事があったとしても、必ず誰かが付き添う状態だ。
見えない犯人がいるという恐怖と、何時止むともしれぬ事件の連続で心身ともに苦しむ民間人に追い打ちをかけるように、このイーエッグの島に大量の人間が押し寄せ始めて来ていた。
筆頭は蠅ならぬ、テレビや雑誌などで事件を放映したり書き記したりする取材陣。加えて、再び起きたこの超常現象とも呼ばれる忌々しい事件を面白半分で見るためにやって来る愚者共や、聞いたこともないような新興宗教の類。一応、その中には探偵だと名乗る者も居たようだが、警察署に情報提供を求めていた彼等は全て門前払いを受けていた。すごすごと署を後にする事象探偵の姿は記憶に新しく、本当に彼等が探偵なのか怪しいところでもある。
ただ俺は、その愚かな蠅にも、愚者にも、宗教にも、探偵にも、親近感を抱いてしまうのだ。
そう、あの頃と全く同じ、十五年前に起きた事件と同じことの再来であるが故に―――その後の顛末もまた俺には分かり、その予想はものの見事に的中する。
あの時と同じように取材陣や観光客、宗教団体、探偵の中に居た妊婦や連れ子が行方不明になり、後日木乃伊化した遺体と成って島の何処かで発見されれば、彼等は尻尾を巻いて逃げ出す。十五年前のあの頃となんら変わらない愚かな彼等の愚かな顛末。分かりきった回答と結末。
そんなことが起きている中で、事件の解き手であるはずのアヴィーは事件捜査に意気込む俺の付添いをする以外、自ら進んで何の行動も起こしはしなかった。ただ今起きている現状を把握したり、過去の事件を調べたり。時には遠出をして写真を撮りにったりするばかり。
此処にやってきた探偵たちよりも多くを彼女は知っているはずなのに、真相を知るために彼女は此処に来ているはずなのに、彼女は何時も調べているだけで特定を急ごうという気が全く感じられない。
そもそも十五年前に起きた『イーエッグ木乃伊化殺人事件』の真相を俺に教えることが彼女の仕事なのだから、今の事件を追うのはその範疇ではないのだろう。だが、俺の視点から見て、彼女の行いがまるで“事件が自然に収束するのを待っている”ように感じられてしまうのだ。
何故、彼女はこの事件を捜査しようと躍起にならないのだろうか。
何故、彼女はこの事件から過去の真相を導き出そうとしないのだろうか。
何故、彼女は俺のような人間が増える前に、一刻も早くこの不幸な事件を終わらせようと思わないのだろうか。
彼女が頻繁に顔を合わせているマリアだって、何時攫われるか分かったものではないというのに。
沸々と沸き起こる怒りと焦りが徐々に俺の中で猛々しくなっていき、その日、俺は嫌われたくないと思っていたアヴィーに対してその怒りと焦りをぶつけてしまう。そう、あろうことか「アヴィー、どうしてお前はこの事件を止めようとしないんだ!」と、大声まで上げて。
春物の衣服の繕いをしていた最中、唐突に俺から怒りをぶつけられた彼女は驚きもせず、ただ一度瞼を降ろし、小さく息を吐く。
「ジークさん。貴方が望んだのは十五年前の事件の真相を知ることであって、この事件を解決しその被害を減らすことではありません。―――故にボクには、この事件を阻止することではなく成就させることで貴方の望みを叶えようと考えているのです」
開かれ見えるは、揺らぐことないアヴィーの瞳。白い睫もまた揺れず、金色の瞳が俺を見据える。嗚呼、彼女は本当にそう考えているのだ。俺が思っていた通り、彼女はこの事件が自然に収束することを待っているのだ。気味が悪い。と直感でそう思った。そして同時に彼女は少し、欠落している。とも。
俺の考えを知っていながら、どうして彼女は分かってくれていないのだ。俺がこれ以上被害者を増やしたくないことを、俺と同じ人間を増やしたくないことを知っているのであれば多少なりともソレを助けようと考えるのが当然の事なのではないのか。
それなのにもかかわらず、俺の全てを認知しているはずの彼女は事件の自然消滅を、それも手をこまねいて待っている。俺を知っているはずなのに、俺を分かっているはずなのに、どうしてその意図を汲んでくれないのだ。
堂々巡りの思考の中、俺は最早衝動的としか言いようがない程唐突に目の前の彼女の胸倉を掴み上げた。本来の、頭の冷えた俺であれば決して行わない愚行。神に仇なす不届きな行い。それを衝動的にしてしまった俺は持ち上げている彼女を怒鳴ることも殴ることもできない。度胸がない。ただ、力の入りすぎた手はガタガタと震え、口からは荒い息が漏れるばかり。
「……っ。マリアも、狙われるかもしれないんだぞ……」
やっとの思いで吐き出された言葉は「それが如何したのですか」という、アヴィーの冷淡な言葉で即座に凍りつく。
「なっ、」
「ボクにとっては他人の命よりも貴方の望みを叶えることが先決です」
思いもよらないアヴィーの言葉に手から力が抜け、持ち上げられていたアヴィーがトンと床に降りる。
どうして、どうして彼女はこうも易々と他人の命を見捨てられるんだ? それも親しくしているはずのマリアを他人という括りに当てはめてまで。無表情のまま始まり、無表情のまま終わったアヴィーとの短い問答。されど、俺の錯覚だろうが、その無表情さが逆に“何故そんなことを尋ねるのか測りかねる”とさえ言っているように見えてしまう。終には、俺の内なる絶望を知らないのか、それとも知っていながら知らない振りをしているのか定かではないアヴィーが、中断していた衣服の繕いを再開させる始末。
俺の意図を微塵も汲もうともせず、見せかけの平穏を続けようとする彼女の態度に耐えられなくなった俺は「……っ、この人でなしが!」と捨て台詞を吐き、外に飛び出す。その間際「夕食の時間までには帰ってくるようにしてくださいね」と聞こえた気もしたが、それに返事をする気力も精神も今の俺にはない。ただひたすら、春の麗らかな陽気蔓延る町の中を一人ひた走るしか、俺にはできない。
息を荒げ走っている最中に耳を突くのは、毎年この時期になると開かれている祭りの音楽と雑踏。春の陽気に合わせた軽快なリズムに背を向けて、俺は人通りのない路地で身体を休めることにした。
嗚呼、嗚呼。静かに響いた彼女の言葉が脳裏を離れない。
「ボクにとっては他人の命よりも貴方の望みを叶えることが先決です」、それはすなわち人の命よりも十五年前に起きた過去の事件の真相を俺に教えることの方を、彼女は優先しているのだ。かけがえのない人の命ではなく、俺のエゴを、彼女は優先してしまっているのだ。
なんと恐ろしい考えだろう。たかが願い一つ叶えるために人の死さえも厭わないとは。否、既に幾つもの命を見捨てているのだ、彼女は。本来彼女はそんなことをするような人間ではなかったはずだ。
俺が知る彼女は、悲しみをぶちまけられなかった俺の言葉を受け止めるどころか支え、子供にも優しく、気配りもできる。そんな優しさのある人間だったはずだ。それなのに、どうしてアヴィーはあんな、人間の命を軽んじることを言ったのか。きっと何か理由があるはずだ。ただ、ソレが彼女にとっての常識でない限り。
否、そもそも彼女の優しさは本当に優しさだったのだろうか?
俺は彼女ほど他人の事を知っているわけではないから本当に彼女のその“優しさ”が「思いやり」や「慈しみ」からなる感情から発生したものなのか、俺は知らない。それに、人にはそれぞれの考え方があるから一概に彼女を優しい人だと、勝手に捉えることも間違いなのだろう。俺にできる事と言えば、俺が知りうる彼女を、客観的振り返り、判断する事ぐらいだ。
路地の壁に背を預けながら、できるだけ私情を挟まないように、客観的に、アヴィーの事を思い返していく。
金色の隻眼に白く緩やかな癖毛を持った少年の様で、青年の様な、少女。彼女の食事の量は膨大で、それと比例するように料理のスキルも高い。決め事は守り、他人にも同じぐらい守らせる。その中でも一応、子供相手には寛容で、小さなことであれば多少の我儘も聞いている。そんな普通の人間だ―――そう、ここまでならば。
加えて彼女には特筆しなければいけない事項がある。ソレは常軌を逸していると言って差し支えない程の個人情報把握量に加えて、常時行われているであろう思考の推察。それをアヴィーの口から教えられた時はタイミングが悪く、俺の涙と共に芽生えるべき疑心暗鬼は流れ落ち、誤魔化されてしまったが、改めて冷静に考えてみればみるほどその特異さに吐き気を催しそうになる。
両親の名前は勿論、妻の名前、娘の名前、それらすべての生年月日、身長体重の変動記録、黒子の位置、抜け毛の本数、住所、電話番号から始まり、果ては、性癖、自慰の頻度、オカズの趣向まで彼女は知っているのだ。どうやって知ったかは知らないが、結果として彼女は知っていたのだ。それも、知っていることがさも当然だとも言うような素振りさえ見せて。
それに二カ月以上彼女と共に生活しているはずなのに、俺は彼女の事をほとんど知らない。具体的に言うのであれば俺は彼女の年齢も知らなければ、家族構成も、好きな食べ物も。さらには彼女がされて嬉しいことも悲しいことも、怒ることも、俺は何一つとして知らないし、彼女がソレに類する感情の一遍さえも見せたこともなかった。時折目元に多少感情の起伏は見られたこともあったが、目元だけの変化では明らかな表情変化、感情の起伏とは言えないだろう。
嗚呼、思い起こせば起こすほど怖気が走る。何だ、あの気味の悪いイキモノは。人の皮を被ったロボットか? はたまた悪魔の類か何かなのか? もし、本当にそうだとするならば人間の命に疎いのも頷ける。
故に―――、否。されど俺は思うのだ。
そんな彼女だからこそ、惹かれずにはいられないのだ。と。度を越したほどまでの個人情報把握や愚か過去遍歴の熟知。現在の思考すべてを推察され、認知されているというのは恐ろしい。されどの恐怖を容易く乗り越えて、俺は安堵の念をアヴィーに対して抱いてしまっているのだ。
そうなってしまったのは、墓地で感じた彼女への信頼が拭い去らわれていないからか、それとも恐怖のあまりに恐怖そのものを感じることを拒否しているのか、はたまた全てを知られているが故に、許されているという絶対的な安心感のせいか。何にせよ、アヴィオール・S・グーラスウィードという少女がいくら気味悪くとも、いくら人知を超えた情報を掌握指定ようとも、いくら心無きこと体現しようとも、俺はそんな彼女を欲さずにはいられない。むしろ恐ろしいからこそ崇め、奉りたくなってしまうのだ。
ありありと脳裏で息づくのは、しなやかな豹のような、悪魔のような、人造生物のような、少年のような、青年のような、―――麻薬にも似た少女。
薬物は常習化するとその量を増やしたり効果の強い薬物を使用したりせねば効力が続かないと聞く。それは幸福も同じで、常習化された幸福もその量を増やしたり、より強い幸福感を味わったりしなければ幸福を幸福と思えなくなってしまう。だから俺は、幸福の常習化により幸福を幸福だと思えなくなってしまった愚かでどうしようもない俺は、ついにその幸福の根源であるアヴィーに粗雑な態度を取ってしまったのだ。
彼女が放った「ボクにとっては他人の命よりも貴方の望みを叶えることが先決です」の言葉も、要は他人よりも俺を優先し尊重すると言い切ってくれているのだと思えば、心は晴れやかになるではないか。そう、他人の命なんかよりも、彼女は俺の願いを優先してくれるのだ。俺にとっては神にも等しいあの存在が!
俺の考えが偏ったものであることは十二分に理解している。されど、もうこれ以上アヴィーを否定し、拒絶してはいけないのだ。
彼女が居るから俺が此処に居て、彼女が居なければ俺が此処に居る理由はなく、居座れる自信もない。彼女が俺のすべてで、彼女が居なければ俺は既にいないも同然なのだ。
嗚呼、嗚呼! 俺はなんてことをしでかしてしまったのだろう! 何故、「人でなし!」など叫んでしまったのか! 何故、彼女の胸倉を掴み上げてしまったのだ! 謝ればアヴィーは俺を許してくれるだろうか。それとも、もう俺とは関わり合いになりたくないと、俺との連絡手段を絶ち、都市へ帰る支度をしているだろうか。嗚呼、嗚呼。早く家に、家に帰って彼女に謝らなければ。ここで彼女と別れてしまったら、もう二度と彼女に会えなくなってしまう!
早急な事態解決のために、俺は今までいた路地裏を飛び出す。その瞬間、腕を強く掴まれ路地に引き戻された。一体誰だ、こんな時に。そう思って路地の闇にまぎれる相手の顔を見れば、それは弟のランスだった。




