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Sの娘たち Act.A  作者: 威剣朔也
1 ジークフリート・クーベルタン
2/52

1-1


 俺の礎となっている記憶の中に忘れたいと願いながらも忘れてはいけないものがある。大切と言えば大切で、疎ましいと言えば疎ましく、忘れてしまえた方がいっそ楽な代物。けれど俺は例えそれがセピア色を纏い擦り切れたとしても忘れるということはしないだろう。


 嗚呼、あれは懐かしい、平和や平穏といった生ぬるい言葉がよく似合う茜色の時間。家の外から夕食の買い出しをする人々の声が聞こえ始める週末の夕暮れ時に、俺と妻と娘の三人は手を取り合ってその声に紛れるように夕食の材料を買いに家を出る。


 それは俺が妻と共に暮らし始めた頃からの日常で、娘が生まれてからも続いていた不変。そして、娘が大きくなり結婚するまでずっと続く、何物にも侵されることのない平穏と安息。半永久的な幸福の結晶。そのはずだった。


 少なからず、半永久、と言える程度の認識ではあったが、それは娘に恋人が出来たりするという苦くも喜ばしい終わりだったり、それなりに理解し得る終わりだったりするものだと信じて疑わなかった。だって、そうだろう? 俺たちは今までずっと平穏と安息が蔓延する日常の中に生きていたのだから。


 島の外で大きな戦争が行われ、一日に何千、何万の人が苦しんでいたり、干ばつや戦争の余波で食べ物を口にできない人たちがいくら死んでいたりしようとも、その不幸は一度たりとて俺たちが住まう日常に介入したためしはなかったのだ。


 けれど十五年前のあの日。買い出しに赴いた際の雑踏に揉まれ行方不明となった娘。彼女が翌朝に干からびた変死体、言うなれば木乃伊として発見されたその日を境に、続くはずだった俺の平穏と安息は幻想の如く霧散し、日常はいともたやすく唐突に崩れ去ったのである。


 健康だった娘の幼い身体は目も当てられないほど萎び、彼女の顔をいなくなる直前まで見ていた父親の俺でさえも、ソレが娘であることは分からなかった。否、最たる理由として、俺は分かりたくなかったのだ。理解してしまいたくなかったのだ。愛する彼女(幸福の結晶)の成れの果てがこんな粗末な物だなんて、認めることができなかったのだ。


 傍らに居た妻も、ソレが愛する我が子のなれの果てだと認めたくなかったのだろう。木乃伊となった彼女を目にしてから、彼女は気がふれたようにただ現実を否定する言葉を繰り返すようになってしまった。


 そんな凄惨な最期を迎えてしまった、俺たちの平穏の象徴でもあった愛しい娘の歳は六つ。同年代の子供に比べて体格はいくばくか小さかったものの、聞き分けがよく、利発な子で、何より笑顔が愛らしかった。そんな彼女がたった一晩で無残な姿での死を迎えてしまったのだ。妻の気が触れてしまうのも致し方のないことかもしれない。


 しかも子供を標的にしたその木乃伊化の事件は、俺たちが住んでいたイーエッグの島に多々点在する町や村などの様々な場所で起きていたようで、すぐさまそれは「イーエッグ木乃伊化殺人事件」としてメディアに取り上げられ、数多の人間の目に晒されることになった。


 そしてその数多の数に比例するように、自ずとその奇妙な殺人事件を調べようと国内は愚か国外から探偵やジャーナリスト、見えぬ影に怯える人間を鴨としか考えていない悪質な宗教団体が、イーエッグの街や村に訪れはじめ、島は様々な詮索を入れてくる人間達で溢れた。何しろ警察が捜査したところで、犯人に繋がる手がかり一つ見つけられないのだ。人の不安を煽り、付け入る、そういった名も知らない探偵やカルト商法じみた者達が、金欲しさに引き寄せられ集うのは仕方のないことなのだろう。


 しかし、彼らの愚行を犯人側も迷惑に思っていたのか、それともただ手頃だったからなのかは知らないが、探偵や宗教団体の連れ子であった少年少女たちがその事件の標的になってしまえば、彼らはその被害にあわぬようにと負けた犬が尻尾を巻いて逃げるように、すぐさまこのイーエッグの島から出て行った。あんな愚か者たちにはお似合いの末路である。


 それでもなお、誰とも分からない者が子供を連れ去り、次々と木乃伊にしていく中でも、危機感のない親と子供というものは何処の世界にも必ず存在しているらしく、死にたがり、殺したがりとしか到底思えない彼等が次々とターゲットとなって事件は相も変わらず頻発していた。


 事件の当初こそはサイコキラーのような人為的殺人なのではないかと囁かれ、取り上げられていたのだが、被害者と行方不明者の数が増えれば増えるほど、その数量と遺体の状態の不可思議さに超常現象や悪魔、それこそ吸血鬼の仕業なのではないかという話も上がり始めていた。何せ一晩にして見事な木乃伊が出来上がるというのだから、超常現象や怪奇を謳う者が現れることも当たり前だろう。


 だが被害者の父親である俺はそんな馬鹿げた妄想を信じることが出来ないでいた。だって、そうだろう? 可愛い、可愛い我が家の、たった一人しかいない娘の死が、肉の無い超常現象や悪魔の仕業だと言われて納得できるわけがない。絶対に何者かが裏で手を引いているに決まっている。―――そう思わないとこの心の内で静かに息をひそめる敵意と、溢れ出してしまう疑心暗鬼の眼をどこに向ければ良いのか分からなくなってしまうのだ。


 だから、俺はこの「イーエッグ木乃伊化殺人事件」が人為的な事件だという確証を得ようと、地元の警察や近隣の住民に話を聞いてみたり、類似した事件が何処かで起きてないかを積極的に調べたりした。しかし、警察や多くの探偵が関わってさえも、犯人の手がかり一つ掴めない現状では、俺の行いのどれもが無駄足だった。


 嗚呼、本当に犯人が唯の超常現象であったならば、俺のこの敵意や疑心暗鬼の眼を何処に向ければ良いと言うのだ。


 人ならば罰することが可能だが、超常現象ならば罰することは不可能だ。何しろ相手は自然と言うこの世の大いなる摂理なのだから、罰することなどできやしない。ただただ悔やんで、後ろを振り返ることしか出来ない。だから、だからこそ犯人は存在する。否、存在していなければならないのだ。


 けれど、そんな俺の内なる決意を知らない町の住人たちは、娘を無くした俺たち夫婦に「災難だったわね」と言って止まなかった。


 まるで時と場所と環境が不幸を招きよせ、俺の傍らに悲惨を据え立てたとでもいうように、何も知らない彼らは涙の仮面を着けて、堂々と俺たちに不幸な「災難」を押し付けてきたのだ。


 前述したように、超常現象などで収められるほど分別の良い人間ではない俺は苦しみを抱え、娘の迎えた死と心無い町人たちの言葉に耐えられなかった妻は、日に日に窶れ壊れていった。


 かつて愛を紡ぎ苦楽を共にしようと神に誓った愛しき人が、壁に向かって我が子の名前を囁き、そこに娘が居るかのようにほほ笑むのを見てやっと、彼女を襲った不幸と悲しみの大きさが俺の何倍も在ったのだと思い知らされたのだ。


 どうしてこうなってしまう前に俺は彼女を救ってやれなかったのか。どうしてこうなってしまう前に町人達から彼女を守ってやれなかったのか。結局俺は、自分のことしか見ていなかったのではないか。幾度となくそう思うこともあったが、この状態まで来てしまった彼女を俺はどうすることもできなかった。したことと言えば、彼女を陰ながら支えてやることだけ。何もない空間、娘は愚か誰も居ない場所。そこに綺麗な笑みを向ける彼女は幸福で満ちたりていて、俺は勿論彼女を囲む人たちの誰一人として彼女のその神聖な行いを邪魔することは出来なかった。


 そんな見えない娘にすべてを委ねてしまった彼女を、支えてゆくことは愚か、見守ることにさえ苦痛を感じ始めた頃、忌々しきイーエッグ木乃伊化殺人事件は三十一人の行方不明者と二十四人の命を奪ったのを最後にパタリと途絶え、愛すべき妻もその後を追うように病を患って死を迎えた。


 それによって、俺を取り巻く不幸が一つ削られ、一つの安堵が祝福したが、隣人たちにより無理矢理据え立てられた、傍らの悲惨と「災難」は相も変わらず居座っており長い時をかけながらゆっくりと俺の心を蝕んでいた。


 それらの事実から目を背けるため、俺は島から離れ、俺を知る者のいない都市へと移り住んだ。オデットと彼女の思い出が色濃く残るあの場所に居ては、俺は、俺も妻と同じようになってしまうと、思ってしまったのだ。


 それから十五年後、今働いている会社での俺の待遇はあまり芳しくなく、直属の女上司からは当て付けのような憤りをぶつけられ、囁かれる若者たちの会話から「オジサン」や「窓際族」なる不名誉な称号を宛がわれているのを察していた。


 これでもまだ五十になってもいないのだが、若い人間からしてみれば自分より上の年代で位も高くない男は等しくそういうモノなのだろう。俺の代わりなど、いや、俺以上の代わりなどいくらでも居るこの世界では、誰も「俺」という一個人を求めていない。必要としていない。欲しいのは会社に富をもたらす優秀な人材と、融通の利く人間、そして金に繋がるコネだけだ。


 それをわかっていながらも、文句ひとつ言わず仕事をしている。


 そんな俺にも仕事帰りの息抜きというものは存在しており、明日も仕事があるにもかかわらず、オフィス街から少しばかり離れた場所にあるバーへと一人繰り出していた。まあ、手持ちの鞄の中には恒例の持ち帰り仕事があるから、酒は一杯程度にとどめておくべきだろうが。


 空は既に名が色を表しているミッドナイトブルーをベースに金銀砂子の様な星々で埋め尽くされており、周りにある白茶けたオイスターの様な色をした建物と、あまりにも生き生きとしすぎて目を毒しかねない蛍光色達とは対照的だ。


 仕事の関係で覚えた配色名で、視界を色として捉えながら行きつけの酒屋へ向かうため、様々な店が立ち並ぶ大通りを歩いていれば、ふと横に伸びる細い路地に目が奪われた。


 ミッドナイトブルーよりも暗く、漆黒にほど近いその路地の奥で、ぽつりと灯る青白い光。騒がしい色たちが集う喧騒の世界とは真逆の空間に目が、否、身体そのものが引き寄せられたらしい。行きつけの酒屋へ向かうはずだった俺の足は、もうすでにその路地に入ってしまっていた。


 暗い路地は雨上がりのような湿気とにおいを帯び、石畳はひどく冷えているのか、靴を履いているにも関わらず風が鳴る度足元がひやりと凍え、首筋にも悪寒がはしる。


 先ほどまで居た場所とは全く違うこの場の雰囲気に、僅かな異を感じながらも、路地を進む歩は止まらない。むしろ、止めてしまってはいけないのだと直感的に分かった。


 影の色を纏った苔が俺の足元を幾度か滑らせ、音もなく蠢く虫達の気配を感じながら辿りついた青白い外灯の元には、湿気を含み黒くなってしまっている木の扉。そして扉にかけられる「OPEN」と書かれた札。その札のおかげで辛うじて何かの店であることは分かるが、看板は愚か店内を確認するための窓が一つも無いため何の店なのかが分からない。


 バーの立ち並ぶ大通りから少し外れた場所にあるのだから、多分酒場やその類の店だとは思うが。……嗚呼、此処で悩むことは止めよう。俺にできることは目の前の扉を開けるか否かしかなく、後者の行いをするつもりは毛頭ないのだから。


 すでに決心の着いていた俺は眼前にぶら下がる札を今一度確認し、扉を押し開いた。




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