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Sの娘たち Act.A  作者: 威剣朔也
1 ジークフリート・クーベルタン
14/52

4-6



「ねぇ、ジークさん。貴方はいつまで此処に居てくれるのかしら?」


「いつまで?」


 いつまでなのだろうか。アヴィーが事件の真相を突き止めるまで? そしたら俺との契約も満了した彼女はあの都市へ帰ってしまうに違いない。ならば俺は、いつまでこの有象無象の思い出が残る街に居るのだろうか。それも、心のよりどころとなるアヴィーも離れてしまった状態で。


 するり、するり、とこそばゆさを押し付けてくるノーラの手つきに苛立った俺は、彼女の手を無造作に跳ね除け「そんなことを聞いてどうするんだ」と逆に訊ねてみた。


「今まで何もしてあげられなかったから、食事の支度とか、いろいろしてあげたいのよ」


 何もしてほしくない。厚かましい、押しつけの善意などいらない。俺はアヴィーと二人きりで過ごせればそれで良いのだ。だからわざわざソレを、邪魔しになど来ないでくれ。


「俺たちの世話は焼かないでくれ。自分達の事は自分達で出来る」


「でも……」


 そう言いながら彼女は、一度手を跳ね除けられたにも関わらず俺の両腕を掴み、ぐっと自身の身体を俺に摺り寄せてくる。どうやら彼女には俺の苛立ちは一つも伝わっていないらしい。弟も、彼女も。どうしてこうも俺の気持ちをわかろうとしないのか。自分たちが邪魔な存在であることが、そんなにも認められない事象なのだろうか。


 沸々と煮えはじめる自身の感情を抑えきれなくなった俺は「不要だと言っているのがわからないのか!」と声を荒げ、腕にしがみついている邪魔な腕を無造作に振り解く。そして、それでもなお縋りつこうとする彼女に向かって腕を振り上げんとした刹那、顔に小さな石ころのようなものがぶつけられた。


 何が顔に当たったのかと足元を見れば、墓地でアヴィーにもらったトルマリン鉱石に良く似た飴が転がっており、俺はすぐさま顔を上げる。嗚呼、アヴィーはもう風呂から上がっていたのか。


「いけませんよ、ジークさん。それにノーラさんも人妻なのですから、節度を守るべきではありませんか」


 リビングと廊下を隔てるドアの前で悠然とこちらを見ているアヴィー。衣服が入った荷物も届いたため、恰好は都市でもよく見ていたTシャツに短パンというかなりラフなものである。


 風呂上がりの湿気を帯びた髪に、上気し赤みを帯びた頬。Tシャツのゆるい襟元から見える首筋となだらかな鎖骨には、今にも噛み付きたくなるほどだ。けれどそんな彼女の胸部には、やはり女性特有の肉厚は見られない。


「……ママ?」


 アヴィーの背後で小さな影が動き、そっとこちらを見つめたのはマリアだった。


 少し怯えの色が入った瞳で自身の母を見つめるマリアだが、彼女が今着ている服はマリアに対しては非常に大きなサイズで、アヴィーの物であるのは明白だった。確かノーラはマリアの着替えも取って来るとのことで家へ一旦帰ったのではなかったか。それにも関わらず、何故マリアは自身の寝巻を着ていないのだ。


「ジークさん。お風呂が冷めない内に次、どうぞ。ノーラさんも。今日はボクたちが責任をもってマリアさんをお預かりしますから、ランスさんとゆっくり過ごしてください」


 何時から見ていたかは不明だが、飴を投げつけられたことを鑑みるに、ノーラに対して手を上げようとしていたところは間違いなく見られているだろう。それにも関わらずアヴィーは俺やノーラを問い詰めるでもなく、ただ淡々とそう言い放ったのだ。手を上げていたことも、マリアの衣服が無いことも、何一つ問い詰めはしませんから早くしてください。と言わんばかりの重みを込めて。


「そ、そう……。それじゃあジークさん、アヴィーちゃん。マリアの事よろしく頼むわね」


 無表情のまま威圧の目を向けるアヴィーに気をされたのか、あるいは自身の行いに節度がなかったことを自覚したのかは俺の知る由ではないが、ノーラは逃げるように背向け、リビングから出ていった。


「……さぁマリアさん。絵本を読みましょうか」


「うん!」


 母親が出て行ったというのにマリアは寂しげな表情一つ浮かべてはいない。むしろ屈託のない、心根から安心しきった笑顔をアヴィーに見せさえしている。


 通常、親と離ればなれになれば眉根の一つでも動かして不安そうな顔を浮かべるものだろうに。不安の種が全て摘み取られたかのように子供らしい喜声さえ放ち、二人掛けのソファに座るアヴィーの前でのびのびとはしゃぐマリア。そんな彼女を昨日から一度でも俺は見たことがあっただろうか。否、無い。安心しきった表情を見てしまった今では、今までの笑顔が抑圧された、制限のされた、強いられた、わざとらしい笑顔に過ぎなかったのではないかと思い知らされてしまう。


 実質笑顔の差分など俺の記憶違いかもしれない。けれど小さな手足を使って元気よく喜び、笑う姿は紛れもなく“ほんとうのマリア”に違いない。どうしてマリアがわざとらしい笑顔を強いられていたのかは俺の知るところではない。ただ、幼い彼女を見ていると死んでしまった、否、殺されてしまった、愛娘。オデットの事が必然的に思い出されてしまい、どうにも気になってしまうのだ。


「ジークさん」


 幼い妹の世話を焼く、良くできた兄の如き出で立ちをしたアヴィーが俺の方に顔を向ける。


「着替えの服は脱衣所に置いてありますから、早くお風呂に入られては如何ですか」


 何をするでもなく佇んでいるだけだった俺に彼女はそれだけを伝えると、膝元に居るマリアに視線を戻してしまう。不意に向けられた視線ではあったが、それでも一瞬彼女の瞳と目が合ったことは俺にとってひどく喜ばしいことだった。例え四六時中共に居たとしても、だ。


 加えて、俺は思い出すのだ。彼女もまた、あの風呂場に居たのだということを。風呂場に居た、身体を洗った、ということはすなわち全裸だったのだ。遅ればせながらもその事実に気付いてしまった俺は「あ、嗚呼そうだな」と平静を装った返事をアヴィーにしつつ脱衣所へと駆け込む。そして彼女の言った通り替えの衣類があることを確認した後、服を脱ぎ、満を持して風呂場へと入った。


 むわり、とした湿気の中にアヴィーの残り香を感じ、俺は大きく息を吸い込む。残り香など気のせいだ、と言われてしまえばそれまでではあるが、幸いにもソレを否定する者はこの場には居ない。肯定する俺が一人―――正確には曇った鏡に映る俺も含めて二人、居るだけだ。


 アヴィーの残り香を肺に取り入れ、一身に浴びる俺の思いが変態性欲がらみのものであるのは自分自身でも重々承知である。


 だが、俺の心の支えとなるのは彼女だけしかいない。都市でアヴィーと初めて会った時から、ずっともう俺には彼女しか居ない。他の誰を差し置いても、俺にはアヴィオール・S・グーラスウィードという彼女が必要不可欠なのだ。むしろ今まで何を生きがいにして生きてきたのかさえ不明瞭になりつつある。無論、根幹としてオデットを殺した事件の真実を知りたいと願っていたことや、身の上の不幸を嘆いていたことは覚えている。だがあれは生きがいと言える代物ではない。むしろ、俺を縛り付け、留める重り。


 そこまで考え、俺は「嗚呼そうか」と一人納得の声を上げる。むしろ娘が死んで、アヴィーと出会うまでの間の俺に生きがいは無かったのだ。そう、何一つ無かったのだ。ただ、過去のしがらみに囚われ、囲われ、苛まされながらずるずると社会の歯車として機能し続けていただけ。


 正面にある曇った窓ガラスに手を滑らせれば必然的に映るのは一人の男。歳の割に腹は弛んではいないものの、筋肉が目に見えて付いているというわけでもない。他人から「だらしない身体」と揶揄されることはないだろうが、それでも見栄を張りたい人間に対して見せるべき肉体ではないことは確かだ。


 こんな何処にでも居そうな男が、愛娘に近いだろう年頃の少女に熱心になっているとは誰も思うまい。鏡に映る自分自身の肉体を見つめた俺は、きゅっきゅっ、と音の鳴るカランを回しシャワーを浴び始める。


 一身に浴びたアヴィーの残り香を流してしまうのはひどく口惜しいが、それでも毎夜彼女の残り香を浴びられるというのであれば、不足はあるまい。ちらり、と横目で見た鏡はシャワーの湯気により曇り始めていたものの、口角を上げて満足そうに笑みの表情を浮かべている一人の男の姿は、明瞭に見て取れた。


 シャワーを浴び終え、リビングに戻ってきた俺が見たものはうとうとと船をこぎ始めたマリアを膝に乗せるアヴィーの姿だった。


 今にも夢の国に落ちんとしているマリアの背をその呼気に合わせてポン、ポンと優しく撫でているアヴィーは妹思いの兄の姿にしか見えない。程よく伸びたTシャツの襟もとから、彼女の胸部が見えてしまうのではないかとハラハラしながらも、俺はやはり平静を保ちながら「アヴィー。お前、子守が上手いな」アヴィーに話しかけた。


「……いろいろあって、慣れていますから」


 俺としては褒めたつもりなのだが、アヴィーの顔に喜びが浮かぶことはない。ただ作り物のような無表情が時々ぱちりぱちりと白い睫を瞬かせ、こちらをちらりと見ただけ。


 そのささやかな動作は俺とアヴィーが初めて会った時に居た人形の如き少女、ベルフェリカを髣髴とさせる。アヴィーと彼女は姉妹らしいから当然のことかと思いながら、アヴィーに抱かれたままついに眠ってしまったらしいマリアに目をやる。


 アヴィーがノーラに「責任を持ってマリアを預かる」と言っていたが親族とはいえ他人の子供なのだし、家に帰すべきなのではないのだろうか。そう考いあぐねはじめた俺に、アヴィーが「教会と家の往復で疲れているでしょうから、彼女を起こすのは忍びないです」とマリアをこのまま寝かせ続けることを勧めてきた。


 たしかに行きはともかくとして、帰りはおそらく歩きだろう。幼い少女にソレを強いるノーラの感性が少々気にかかるが、今の論点はそこではない。


「しかし、何処に寝かせる気なんだ? この家にはマリアを寝かせられるようなベッドはないぞ」


 妻と俺は同じベッドで眠っていたし、精神が病み始めてからの妻は娘の部屋にこもりがちになっていたため、この家にはベッドが二つしかないのだ。


「ボクが使っているベッドにマリアさんを寝かせます。一緒に寝ると先ほど彼女とも約束しましたし」


 マリアの背中を撫でるアヴィーは平然とそう言ってのけたが、対する俺の心中は羨ましさと妬ましさで瞬時に一杯になった。


 都市で二週間アヴィーと同棲していたにも関わらず一度も同衾できなかった俺を差し置いて、昨日アヴィーと出会ったばかりの子供が彼女と一緒に寝る? それを羨ましい、妬ましい、と思わずしてどう思えというのだろうか。ただでさえアヴィーに抱かれているというマリアの現状を、気に掛けないようにしているのに。


「ジークさん。その目、止めた方が良いですよ」


「は……?」


 アヴィーに唐突にそう釘を刺された俺は戸惑う。その目、とはどんな目だ。


「緑の瞳は、嫉妬の獣。ナニに対してその感情を抱いたのかまでは勘繰りませんが、少なくともノーラさんたちの前では控えてくださいね」


 嫉妬の獣。そう指摘されて俺はすぐさま視線をアヴィーから外した。勘繰らない、と彼女は言ったがおそらく俺が何に対して嫉妬を抱いたかなど分かっているだろう。


 浅ましいまでの俺の心を知られた恥ずかしさとやるせなさが募る中、醜いとも呼べるであろう嫉妬に関して、アヴィーが不快を表していないことに俺は気が付いた。そう、彼女は人前で嫉妬の表情を浮かべるのは控えた方が良い方が良いと言っただけであり、嫉妬するのを止めろとは言っていないのだ。それに彼女は今日、墓地で俺に「今更貴方の心の内を知ったという些細なきっかけで貴方の事を嫌いになると思いますか?」とも言ったのだ。そんな彼女が俺の小さな嫉妬ごときで幻滅するわけがあるまい。荒々しくなっていた呼吸を落ち着けるため深呼吸を繰り返し、椅子から立ち上がる。


「この家で保管していた事件の資料を取ってくる。お前は、マリアを部屋に寝かせてくるといい」


「いえ。ここで待っています」


 眠りについてしまえば何処でも同じ、とまでは言わないが似たようなニュアンスを漂わせたアヴィーに、短く「そうか」とだけ返し俺は自室へと一旦戻る。


 帰宅してから一度も戻っていない部屋には、アヴィーが運び入れただろう荷物が置かれていた。だがそれは明日以降にでも追々片づけよう。まずはこの家に残したままにしていた事件の資料を出さなければ。確かベッドの傍にある本棚にそれらを仕舞っていたはずだ。


 昨日触っていたアルバムを一旦ベッドに乗せ、その付近に在った事件がらみの新聞記事や週刊誌の記事をスクラップにしたファイルや、遺体発見現場に印をつけたイーエッグ島全体の地図を取り出す。それほど厚みはないものの、当時の俺がまとめていた貴重な資料だ。


 それらについていた埃を軽く叩き落としリビング戻れば、そこにアヴィーの姿はなかった。


 先程まで彼女が座っていた二人掛けのソファにはマリアが寝かせられており、彼女の上にはアヴィーの配慮だろうタオルケットがかけられている。ほんとうに、至れり尽くせりで羨ましく、妬ましい。


 胸の内に隠れる緑の瞳をした獣が外へ飛び出さんとし始めた中、アヴィーに嫉妬の目は止めた方が良いと進言されたばかりの俺は、その獣が出ないようにすぐさま視線をマリアから逸らした。


「戻ってくるのが早かったですね」


 その言葉と共にかちゃん、と食器特有の音を立ててキッチンから姿を現したのはアヴィーだった。手にはティーカップが二つとティーポットが握られている。


「あ、嗚呼。そもそも部屋に物はあまり残していなかったからな。すぐ見つかったんだ」


「そうでしたか」


 持っていたティーセットをリビングの机に置いた彼女に合わせ、俺もまた持って居た資料を机に置く。


「これが十五年前に俺がまとめていた事件の資料だ」


「ありがとうございます。それでは早速見せてもらいますね」


「……これで何か分かることがあれば良いんだがな」


 遺体発見現場に印をつけたり、事件の記事をまとめたり、自分ができる範囲内で事件の事を調べたりはしていたものの、俺もまた警察同様事件の手掛かりは掴めなかった。そんな俺の作った資料がほんの少しでもアヴィーの役に立てば良いのだが。


 ティーカップに紅茶を注ぎ淹れその内の一つを俺の方に置いた後に、ぱらぱらと資料に目を通し始めたアヴィー。時々メモを取ったり、逆に彼女自身がメモしていたものと資料を見比べたり、彼女なりに事件の概要をまとめている様子を眺めつつ、俺はアヴィーの淹れてくれた紅茶を口に含む。


 スクラップ記事に目を走らせているアヴィーが白い睫を瞬かせる回数は一分間におよそ十回。成人男性ならば一分間に二十回、女性では十五回程度だと聞いたことがあるから、十回となるとよほど集中していることの表れだろう。真剣に記事を読んでいる彼女に話しかけるような野暮なことはせず、俺は引き続きアヴィーの姿を見つめ続けた。


 それから一時間程過ぎ紅茶も冷めきってしまった頃、最後の事件の被害者項目を読み終えたらしいアヴィーは改めて地図を眺めたり他の資料が無いか探したりしていた。だが、残っているのは後日談、というには聊か悪趣味が過ぎるような馬鹿馬鹿しい愚鈍の意見。まったくもって見当違いな超常現象を並べ立てる専門家たちの記事ぐらいしかしない。


「何か分かったか?」


「警察署で見た資料と合わせてもこれといった進展はありません。念のため明日も警察署に行き、その後近い位置にある遺体発見現場に足を運ぶ必要はありそうです」


「そうか、わかった。あと他に俺に何か訊きたいことはあるか?」


「……いえ、特には。ですが調べていくうちに訊ねたいことが出てくるかもしれませんから、その際はよろしくお願いしますね」


 アヴィーはそう言いながら広げていた資料を片付け、俺に返す。そして使っていたティーセットをキッチンで洗うと、ソファで寝かせていたマリアを抱き上げ「おやすみなさい、ジークさん」と言葉を残してリビングを後にしてしまった。


 立つ鳥跡を濁さず。という文句はおそらくこういうことを指し示すのだろう。階段を上るアヴィーの足音を聞いた後、リビングの灯りを消し、俺もまた眠りに着くために自室へと戻った。




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