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カフェの真向かい、目と鼻の先にある警察署へ戻った俺たちは玄関先で待機していた署長に先導され、応接室へと案内された。
部屋の中にある木目調のがっしりとしたローテーブルの上には「イーエッグ木乃伊化殺人事件」と名付けられたファイルと、資料。そして署に保管されていたらしい遺留品が数点並べられている。ただそのどれもが長い間碌な管理もされずに放置されていたのか、僅かに埃っぽさを残していた。
「アヴィオール様。これがこの署に保管されていたイーエッグ木乃伊化殺人事件の資料などです。私は飲み物を取ってまいりますので、どうぞご自由にお読みください」
粗相の無いようにと気を使っているらしい署長に対し、アヴィーは「おかまいなく」と一言返すだけ。その素っ気なさに署長の彼ではなく俺の方が委縮してしまいそうだ。
足早に応接室から出て行った署長を尻目に、アヴィーは早速客人用のソファに腰掛け、机の上にある資料を手に取る。そんな彼女につられて俺もまた椅子に座り、机の上にあった書類をパラパラとめくりはじめた。が、その内容量の少なさに愕然とさせられた。
三カ月も続いた事件だというのにファイリングされた資料、書類の内容は全て同じことの引用ばかり。現場地点、現場と遺体の写真、聞き込み調査の内容、推測、結果。それらを反芻し、ただ堅苦しい言葉づかいで改めているだけ。稚拙さを俺に感じさせた出来の悪い、時間と手間だけが無駄に費やされた資料を、苦虫を噛む思いで読んでいれば先ほど出て行った署長の彼がティーセットを一揃えして部屋へと戻ってきた。
トレーの上にあるティーセットを邪魔にならない場所に並べる署長。そんな彼に対し、「資料の量が明らかに少ないのですが」と俺と同じこと思っていたらしいアヴィーが声を掛ければ、彼は僅かに視線を資料の方に動かして、躊躇いがちに口を開いた。
「……当時は島内の地主のしがらみや地区同士のいさかいもありまして、イーエッグ島全体で起きていた事件であっても資料は各々の地区で保管することになっているんです。ですから此処にあるのはこの町でおきたも物の資料だけでして……。も、勿論必要であるならば、用意できるよう尽力する所存です」
「ならば、出来るだけ早くにそれらの資料を集めてください」
「りょ、了解いたしました。では私はその手配に取り掛かりますので、退室させていただきます。お帰りになられる際は受付の者にお声掛けをお願いします」
アヴィーの指示に律儀に従う彼に「わかりました」とだけ返した彼女は、手元の資料に視線を戻す。ちらり、と俺は署長の方を改めて見やるが、彼は既に部屋の外に行ってしまったらしく扉が空しく「ぱたん」と鳴る様を見せつけられただけだった。
いや……どう考えてもおかしいだろう。俺たちが今手にしているのは保護されるべき個人情報ではないか。それにも拘わらず、署長であるはずの彼は見張りの一人も着けず不在になる始末。もしも俺たちがこの情報を流出させ、そのことが公になった場合、矢面に立たされ責任を取らされるのは彼だというのに。そうなるリスクさえも容易く引き受けられてしまうほどの権力。ないしは、逆に、公になってもソレをもみ消せるほどの権力を彼女が有しているのかもしれないが、警察署に信頼を寄せている一般市民の俺からしてみればこれは職務怠慢である。
「この場では権力と金がモノを言うのです。世間一般における条理など、欠片もありませんよ」
俺の思考を見透かすアヴィーは冷たくそう言うが、それでも俺は納得することができない。
「しかし、素性も大して知れないような俺たちにこの資料を任せるのはあまりにも、軽率すぎるじゃないか!」
「ならば、ジークさんはボクがこの情報を故意にばら撒くとお考えに?」
手袋越しの手でぱん、と小気味よく資料を叩いたアヴィーに「いや、思わないが」と即答する。彼女はそんなことはしないだろう。きっと。いやむしろ、する必要が俺には見つけられない。
「署長の彼も、ジークさん同様の事を思ったからこそ、ここに監視を置かなかったのです。そしてそのボクの同伴者であるジークさんもまた、そんなことはしないと。ね」
故に、この現状には何一つおかしなことなんてないんですよ。そうきっぱりと言い切った彼女は改めて視線を資料へ戻し、ページをめくる。一般市民として納得できない所はやはりあるが、アヴィーに啖呵を切ったところで何の解決にもなるまい。むしろ、彼女との間に亀裂が生じてしまうかもしれない。そう判断した俺は口を噤み、自身の手元にもある事件の資料に目を通した。
少ないと思っていた事件資料だったが、半日程度でそれら全てを読み切ることは難しく、外も茜色になり始めた頃合いで俺たちは受付の署員に挨拶をすると共に明日もまた来る旨も伝え、署を出ることにした。
街灯の灯りがちらほら付きはじめた道に車を走らせる俺たちの行き先は、宅配業者の集荷場だった。アヴィー曰く、俺たちが都市から送った荷物が集荷場に届いているとのことらしい。都市からそれなりの距離があるとはいえ俺たちより早く出た荷物が遅れて届くというのは、どういうことだろうか。
集荷場で荷物を受けとり、それらをトランクと後部座席に押し込んだ俺たちの次の行き先は大型のスーパーだった。勿論家の傍には野菜や果物を豊富に取りそろえた市場もありはするのだが、その雑踏に足を踏み入れる勇気が今の俺にはなかったのだ。何しろあの時、あの茜色の雑踏で、俺がオデットの手を離しさえしなければ娘は悲惨な死を迎えずにすんだのだから。
「ところでジークさん。今日の晩は何が食べたいですか?」
「あまり腹は減ってないが……そうだな……グラタンが食べたい、かな」
「グラタンですか」
「娘が好きだったんだ」
焼き色の着いたチーズと生クリームを絡めたマカロニにフォークを突き刺し、満足げにそれを頬張るオデットの愛らしい姿を俺は容易に思い出すことができる。まるで今もなお生きているのではないかと錯覚してしまうほど、ありありと。
「ブロッコリーと玉ねぎはどうにも苦手でしたけれど」
ぼそりと、何気なく呟かれたと思しき彼女の言葉に「アヴィー、今」と、運転中の彼女へ顔を向ける。
「何か」
ソレはアヴィー自身の苦手な食べ物なのかもしれない。だが確かに俺の娘はグラタンに入っていたブロッコリーと玉ねぎが苦手で、妻が一生懸命食べさせようと四苦八苦していたのを俺は覚えている。
そういえばアヴィーは俺についてのことをほとんど知っているのだったか。ならば娘が苦手だった食べ物について知っていてもおかしくはあるまい。そう自分に言い聞かせ「いや、すまない。何でもない」と俺は訂正の言葉を述べた。
教会、警察署、集荷場、スーパーを経た外出から帰宅した俺を待っていたのは、エプロン姿のノーラだった。
「おかえりなさい、ジークフリートさん。夕食は何が良いかしら?」
集荷場で受け取った荷物を運び入れるアヴィーの邪魔にならないように、廊下の隅に寄りながら、そう嬉しそうに問いかけてくるノーラ。だが、既に今晩の献立を決めていた俺は「すまないノーラ。今日は自分たちで作るから気兼ねしなくて構わない。それに自分たちの事は自分たちでやろうと思うんだ」と彼女の申し出を断った。
「あら、そう……」
「一応、ノーラさんたちの分もジークさんと一緒に作る予定なのですが、食べて行かれますか」
嬉しそうな顔から一変し、残念そうな表情を浮かべていたノーラに向かってそう言ったのは荷物を抱えたアヴィーだった。
「献立はマカロニグラタンと、トマトとセロリのスープ、合鴨のソテーとサラダになります。あとジークさん。早めに持っている食材を冷蔵庫に入れてください」
「あ、嗚呼すまない。今すぐ入れる」
アヴィーの指摘によって自身が今食材という荷物を持っていたことを思い出した俺はノーラと共にキッチンへと向かう。その短い道すがらノーラから「今晩はぜひ一緒に食べたい」と伝えられ、俺は快くソレを了承した。
少々手惑いながらも食品を冷蔵庫に入れ終えれば、搬入作業を終えたらしいアヴィーがキッチンへとやって来た。ちなみにノーラはランスとマリアを呼びに一旦家へ戻っている。
「それでは、作っていきましょうか」
運び込んだ荷物の中に入れていたのだろう、都市で暮らしていた時にも幾度か目にしていたエプロンを身に着け手早く調理に取り掛かるアヴィー。勿論、燕尾服の上着と手袋を取り払った状態で、だ。
合鴨ソテーは既に加工してあるものを購入してあるため、それの切り分けとサラダの制作を俺は一任された。しかし俺が合鴨肉を切り分ける間に彼女はグラタンの材料を切り終えると共にトマトとセロリのスープを煮詰めており、その手早さにあっけにとられずにはいられなかった。
都市に居た時はアヴィーに料理をまかせっきりにしていたため、彼女の手際の良さを知りもしなかったのだが、これほどまでとは。
アヴィーの手際の良さに目を奪われつつあったが当の彼女に失望されないために、俺は任された仕事を全うすべく切り分けた合鴨肉を皿に盛り付け、それを机があるリビングへと持って行く。そこでは既にジークが酒瓶を片手に突っ伏しており、マリアとノーラが済まなそうな表情をして俺の方を見た。嗚呼、昨日のみならず今日までもこいつは醜態を晒すのか。
「ごめんなさいジークフリートさん。ランスったら二日酔いだっていうのに気が収まらなかったみたいで……はぁ、本当に困ったものだわ」
「はぁ、」と再び大きな溜息を吐いたノーラ。その溜息はどうやらキッチンに居るアヴィーにも聞こえたようで、彼女がリビングの様子を窺いにやって来た。
「ジークさん。ノーラさんと共に一旦、隣の家にランスさんを連れて行ってください」
机の上で突っ伏すランスを見るや否や端的にそれだけを述べ、すぐさまキッチンへと戻ってしまうアヴィー。ちらりと見えた彼女の目に侮蔑の色が滲んでいるように見えたのだが、おそらくそれはアヴィーに醜態をさらした弟を、俺が疎ましいと思っているからなのだろう。親族の醜態はすなわち俺の醜態。そんな姿を二度も見られてしまった。
ぎり、と強く歯を噛みしめながらも俺は泥酔状態になっているランスに肩を貸し、ノーラの手助けを受けながら彼を彼自身のベッドに転がした。無論、昨晩よりも手荒にして。声一つ掛けることもせず、さっさと弟の部屋から出て家へ戻れば、既に料理が机の上に並べられていた。
「グラタンはまだ二皿分焼かなくてはいけませんが、熱いうちの方が美味しいのでジークさんとノーラさんは先に食べていてください」
焼かれたチーズの匂いとトマトの匂いが絶妙に入り混じる食卓を指さした後、調理器具の洗浄に取り掛かるアヴィー。彼女と共に家に残されることになったマリアは、グラタンを焼いているオーブンレンジとにらめっこをしていた。
「それじゃあお言葉に甘えていただきましょう、ジークフリートさん」
「嗚呼、そうだな」
アヴィーの作ってくれた食事を食べるのは三日ぶりか。ぱん、と手を鳴らすと共に「いただきます」と言った俺は、きれいな焼き色がついたグラタンにフォークを突き刺す。そしてチーズと共にフォークで貫かれた湯気立つマカロニを口に収めれば、クリームの滑らかさに交じる塩と胡椒の味が舌に程よく絡みついた。
三日ぶりにありつけたアヴィーの手料理を黙々と頬張る俺の真向かいに座るノーラといえば、俺が担当したサラダと合鴨のソテーに舌鼓を打っている。二人そろって無言のままでいると、グラタンが焼き上がったのだろう、湯気が上がるグラタン皿を持ったアヴィーがマリアと共にリビングへやってきた。
「それではいただきます」
「……いただきます」
皿を卓上に置いて手を合わせたアヴィーに倣い、マリアもまた手を合わせ嬉々とした表情でグラタンにフォークを突き刺した。父と母と歳の離れた兄と妹。ごくありふれた家庭のゆるやかな一幕。傍から見れば俺たちはそう見えるに違いない。だが、そんなほほえましい食卓を囲みながらも、俺はどうしても思ってしまうのだ。
嗚呼、早くアヴィオールと二人きりで食事をしたい、と。
食卓を囲むうえで相応しくない思いを抱きながらも無事食事を終えた俺は、あまり調理の方に貢献できていなかったという引け目から食器洗いの方を率先してこなしていた。アヴィーはマリアと共に風呂に入り、ノーラはマリアの着替えを取りに行くのに合わせてランスの様子も見てくるとのことで一度家へと帰っている。
俺が居るキッチンから浴室へは扉を何枚も隔て、距離もあり、浴室で鳴るシャワーの音もここには聞こえてこない。それにも関わらず俺の脳裏では平らな胸と、引き締まった身体でシャワーを浴びるアヴィーの姿が容易く浮かんでしまう。嗚呼きっとこれが「妄想」というやつなのだろう。洗い終えた食器たちを拭き、食器棚に仕舞えばマリアの服を持ってきたのだろう、ノーラがリビングに立って俺を見ていた。
「嗚呼ノーラ、戻っていたのか。マリアの服は浴室においてきたのか?」
マリアの服を持ってきたはずの彼女の手に何も持たれていないことを少々訝しみながらも、玄関からリビングの間にある浴室の方へ行っていてもおかしくはあるまい。と結論付けた俺はそう言う。だが俺の予想に反して彼女は俺の問いに答えることはなく、ゆったりとした足取りで俺に近づき、するり、と水で冷えていた俺の手をなぞった。




