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「ご家族の名前は勿論、それらすべての生年月日は把握しています。そして、ジークさんの、身長体重の変動記録、黒子の位置、抜け毛の本数、住所、電話番号、各子機のメールアドレス及び過去のメールアドレス、好きな食べ物、嫌いな食べ物、今まで付き合った女性の人数と年齢と名前、好きな色、年代別の趣味、苦手なこと、起床時間から就寝時間及び生活サイクルの基本動作にかかる秒数、元会社の社員番号、学生時代のあだ名、女性の趣味、性癖、自慰の頻度、オカズの趣向、黒歴史、貯金残高、生まれて初めて発した言葉から亡き奥様へのプロポーズの言葉。その他もろもろの程度の事項ならば把握していますが、それがどうかしましたか」
彼女の答えを聞いた瞬間、背筋が寒くなるどころか酷い眩暈に襲われた。
生年月日や好きな食べ物辺りまでを知られているのはまだ人として理解できるし、今までアヴィーを見てきた俺からしてみれば俺の妻や娘の名前、メールアドレスを知っていてもおかしくはあるまい。
だが、今まで付き合った女性の数や女性の趣味、黒歴史、貯金残高、両親や妻はおろか誰も知らないはずの抜け毛の本数や自慰の頻度やオカズの趣向まで知られているとは思っていなかった。しかも、彼女が今挙げたそれらが彼女の中では“その程度”であり、必然的にその他諸々も知っているとなれば恐怖で身体が震えたりするのは当然だろう。アヴィーを敵に回すと厄介どころではなく、人生が破綻しかねない。
「わ、分からないことは何だ」
身体と共に震える声をなるべく抑えようとするが、見え透いた体裁なのは明白だ。今はただ目の前のアヴィーが恐ろしい。まるで、彼女が執念深いストーカーに見えてしまう。
「さあ、何でしょうね。ボクはこれでも無知な方ですから、自分が何を知らないのか分かりません。ですが、少なくともジークさんの経歴はもちろん、今何を考え、何を思っているのかの見当は付きます」
「そう、か」
もしかしたらアヴィーもランスのように俺を知ったようなフリをしているだけかもしれない。そんな疑心暗鬼の堂々巡りに陥り始めた俺は、震える声で「俺が大学生の時に付き合っていた女の名前は?」と尋ねてみた。
「お付き合いをした、と言えるような人物ならば……艶やかなワインレッドを肌身離さなかったローザ・エクスピアリス。セルリアンブルーの瞳が特徴的なシアン・メロネス。激情的な危険を伴う一夏の恋人ビー・キュニシア。毎日を喪服で過ごす若い未亡人メイル・クロムワール。その四名です。ちなみにローザとシアンの時は二又をかけておられましたね」
躊躇い一つ見せず飴色を纏ったアヴィーの唇がローザ、シアン、ビー、メイルの名前を紡ぐ。そして、その四人の名前は紛れもなく妻と付き合う前まで俺が付き合っていた女性たちの名前だった。弟や、亡くなった妻でさえおそらく知らないことだというのに、どうして彼女は知っているのだ。どうやってそんなことを知り得たのだ。
知ったかぶりをしているのではという疑念を晴らすと共に恐ろしさを減退させるはずが、改めて感じられたのは恐ろしさでしかない。一体彼女は、アヴィオール・S・グーラスウィードという人物は「何」なのだ。
ずるり、と足を引きずるようにして彼女から一歩後ずさる。
だが、そんな俺の心中を察したのか、後ずさった俺を追い立てようともせず、アヴィーは「故に」と漏らし、続けて「ボクの前で偽るような行動をしてもすべてが無意味です」ときっぱりと言いきった。
俺を見据える彼女の片の金眼は揺らぐことなく、真っ直ぐ俺を射止めて離さない。
「こんなボクを気持ちが悪いと思うのであれば遠慮なく『気持ち悪い』と言えば良いのです。実感として苦しければ思う存分苦しめば良いのです。泣きたければ涙と声が枯れ果てるまで泣けば良いのです。怒りたければ心の底から怒れば良いのです。何せボクは貴方の全てを、性癖さえも知り尽くしてしまっているのですから、今更貴方の心の内を知ったという些細なきっかけで、貴方の事を嫌いになるとお思いですか」
それに何よりボクと貴方は赤の他人ではありませんか。何の縁もない。契約で繋がれただけの存在。ですから、何の気兼ねもいらないのですよ。
そんな、笑みの無いアヴィーの宣告。ここで笑みの一つでもあれば冗談かもしれないという余裕ができるのに、彼女はそれをさせない。そう、しない。
それは偽る気など一つもないという彼女自身の意志の現れ。臆しない彼女の想い。その彼女の強さは、無慈悲にも聞こえる冷淡な言葉は、俺に「甘えてもいいんですよ」と囁き伝えているようにも聞こえる。分かっているから、俺の心の思う通りに存分苦しんで泣いて、怒れば良い。言いたいことがあれば気兼ねなく言えば良い。臆することも、怯えることも、譲歩することも、遠慮する必要もない。ありのままの俺を隠さず表せば良いのだと。
見透かされているのならば、隠す必要は一切ない。ありのままの自分をぶつければ良い。
「忘れられるわけがない」
ポロリと、流れない涙の代わりに誰にも言えなかった言葉が零れた。
「大切だったんだ、それを忘れられるわけがない! どうして、神は俺の手から妻と娘を奪った! 彼女たちが何をしたというんだ! 何も、していないじゃないか!」
オデットと妻を亡くした時でさえ零せなかった涙の代わりに、言葉が堰を切ったように止まらない。
「どうして娘はあんな無残な殺され方をしたんだ! どうして他の親は愛し子を失ったのにもかかわらず諦めが着いたんだ! どうして……どうして俺は彼女たちの手を離してしまったんだ!」
悔やんでも悔やみきれない、彼女たちの小さな掌を離してしまった己の罪。そしてそれらを考えれば考えるほど、罪は彼女たちの死をもって罰となったのだと、知らしめされる。
「嗚呼。こんなことならば彼らの言う通り、忘れてしまえばよかったのか!」
車の中でも思い出していた町の人間に言われた心無い言葉が、またも脳裏によみがえり、自暴自棄気味に叫べば「忘れてはいけません」とアヴィーが俺の眼を見てそう言った。
「何一つ忘れてはいけません。ジークさんにとって彼女たちとの思い出は大切なものだったのでしょう。ならば他人に何を言われようとも、貴方は忘れてはいけないのです」
奪われ、喰い散らかされてはいけないのです。
アヴィーのその言葉に俺の涙腺は決壊し、熱い涙が頬を伝った。
たった一言でよかったのだ。「忘れてはいけない」と、そう言ってもらえるだけで俺は救われたのだ。それにも関わらず今の今まで誰一人としてその言葉を俺に言ってくれる人間は居なかった。
今、俺の目の前に居る彼女を除いては。
大の大人。しかも男が涙を零し、嗚咽を漏らすのはみっともないのは分かっている。だが、あふれ出てきた涙と嗚咽は如何したって止められず、俺はただ泣いた。そんな情緒不安定な子供の如く涙を流す俺の眼元にアヴィーはそっとハンカチを当てて、とんとんと俺を落ち着かせるように背を叩く。
「さあ気を取り直して行きましょう、ジークさん」
一通り思いのたけをぶちまけ、泣きつくした俺を見て安心したのかアヴィーは自分のポケットにハンカチを仕舞うと、そこから大きな棒付き飴を取り出し自分自身の口に突っ込んだ。
嗚呼、彼女のポケットには一体どれだけの物が詰まっているのだろうか。そんな疑問に捕らわれた俺が
ぽん、と何の気なく彼女のポケットを叩けばハンカチ程度の物しか入ってないのが感触で伝わってきた。
「何かありましたか」
「いや、どれだけそこに菓子が入っているのか気になってな。でもハンカチぐらいしか入ってないみたいだ……な、」
彼女が自らポケットを探れば、そこから色とりどりのキャンディーや小袋のクッキー、果てはチョコレートの小箱まで出てくる。俺が触った限りチョコレートの小箱は愚かキャンディーの感触も得られなかったというのに。一体これはどういうことだろうか。
さも魔法のようにして現れたそれらを目にし、あっけにとられていると彼女は「手品ですよ」と言い、出した物を全てポケットに戻していく。その最中ふと掌に違和を感じ、そこを開けばそこには宝石のように美しい色合いの飴が一つ転がっていた。やはり、手品などではなくこれは魔法だろう。
透明な袋に入った食用のトルマリン鉱石を眺めながら「手品、か。むしろ魔法だな」とおもむろに零せば、アヴィーは振り返り「手品ですよ」と改めて言い切り、教会へと進み始める。
彼女の薄いながらもしっかりとした背中を見据え、手元の飴を口に放りこめば、子供のころに苦手としていた薄荷の味が咥内に広がった。けれどあの頃より十二分に成長している俺の味覚はその薄荷の味を拒絶しない。
少しの辛みと、鼻で息をすればツンと来るミントの香りを味わいながらアヴィーの後ろを追い歩いていると、ミサを終えたらしいこの教会の神父を偶然見つけた。
聖職者特有の脚下まである黒い衣とは対照的なまでの白い肌に薄い色の髪。遠目からでも分かる彼の整った顔立ちには相変わらず幸薄そうな色が帯びており、昼下がりの未亡人のような脆さと、色気を纏っている。少々俗な言い方になってしまうかもしれないが、美丈夫と言うのがきっと彼には相応しいだろう。
それら全てを認識してしまえば思い浮かぶのはたった一人。二十代半ばにしてこの教会の神父を務めている青年で、名は確かダニエル・ド・カルマン。声をかけようか如何しようか俺が迷っていると、あちらがこちらの存在に気が付いたらしい。ゆっくりとした歩調ではあったが明確な意思を持って、彼は俺たちの方へ歩み寄ってきた。
「お久しぶりですね、ジークフリートさん」
にっこりと人当りの良さそうな笑顔を浮かべたダニエル神父。彼の顔に浮かべられたその表情は笑みであるにも関わらず、そこはかとない慈愛や慈悲なども入り混じっているように見えてしまうのは、彼の整った顔の造形に幸薄げな色があるからだろうか。未だ若いにも関わらず、これほどまでの脆さや色気、幸薄さがにじみ出ているのは珍しいことではないだろうか。一体どのような経験を積めば、これほどまでに教会にふさわしい出で立ちになれるのだろう。
しかも彼が緩くはにかめば、色味のない彼の薄い唇から白い歯がのぞき、それが妙に彼を好青年たらしめてさえいる。さぞかし彼に夢中になってしまう奥方達や若い娘さんたちは多いだろう。そんな野暮な考えは間違っていなかったようで、教会から出てくる人たちの中には清楚に着飾った娘や淑女が多く見受けられた。
「こちらこそ、久しぶりですダニエル神父」
「ジークフリートさんは、ノーラさんとマリアさんと共に来られたのですか?」
「はい。彼女たちは今何処に?」
「教会の中で、他の奥様方と談笑しておられましたよ」
律儀に俺の質問に答えてくれた彼は少し上体を動かし「おや、後ろの子は?」と、俺の後に居る少女、いや、事情を知らないダニエル神父にしてみれば“少年”の存在に小首をかしげた。
「嗚呼、この子は俺の知り合いの子供でしてね。アヴィオール、彼はこの教会の神父をしておられるダニエル神父だ」
「初めまして、アヴィオールくん」
「初めまして、ダニエル神父」
す、と神父から差し出された掌にアヴィーは応じるのだろうかと心配になったが、彼女はその心配通り握手などしなかった。いや、もしかしたら彼女の視界には差し出されている手に気付いていないだけなのかもしれない。何しろ彼女はまじまじと神父の顔を見つめているのだから、その可能性は少なからずあり得るだろう。
けれど昨晩、送迎の為にわざわざ来てくれたランスとの握手にも応じなかったことを鑑みるに、もしかしてアヴィーは人に触れられることが嫌いなのだろうか。それとも本当に差し出された手を認識していないのだろうか。だが俺には、彼女が纏う燕尾服の袖から覗く白い手袋が、前者を示しているように見えて仕方がない。
俺が悶々と考え込んでいる一方で、握手に応じてもらえなかったダニエル神父は空いている手に関しての言及も、嫌な顔の一つもせず「此処には慣れましたか?」と笑顔でアヴィーに問いかけてくれる。
「いえ、昨晩来たばかりなので未だです」
「そうですか。ですが此処は都心部とは違い、良心的な方々ばかり居られますから、安心して生活なさってくださいね」
「はい」
ダニエル神父が発した優しさの籠る言葉でさえ彼女は冷淡に返すだけ。むしろ主従関係を結んでいる俺との会話以上に、堅苦しさがあるように思う。
「それでは私は彼らの懺悔を聞かねばなりませんので、失礼しますね」
ぺこりと一礼をし、俺たちの傍から離れていくダニエル神父の後ろ姿を眺めるアヴィーを肘で小突く。
「ダニエル神父もお前を男だと思っていたぞ」
「構いません。ボクは別に彼と何らかの縁を結ぶ気はありませんから」
そう言いながらも教会の別連棟へ向かうダニエル神父の後ろ姿を眺め続けているアヴィーの姿からは、甚だしい矛盾しか感じられない。
嗚呼、彼を見るよりも隣に居る俺を見てはくれまいか。その金色の瞳に、俺だけを映してはくれまいか。俺はお前に、心の内を吐露したのだからその見返りにお前は俺を見てくれても良いではないか。
俺の心が浅ましい独占欲と嫉妬で満ちそうになるのを堪えるため、俺は「なぁ、アヴィーは如何して握手に応じようとしないんだ」と、別段今訊ねるようなことではない質を彼女にしてしまった。けれどそんな、不躾とさえ思われて仕方のない質問にも「むしろ、得体の知れない物に貴方は触りたいと思いますか?」と答え、逆に俺へ訊ねさえしてくれた。
「得体の知れない?」
「そうですね。ボクなりの言葉で言わせてもらうとするならば、産地も生産者もわからないどころか原材料も、いいえ、そもそも食べ物であるかさえ分からないモノを貴方は口に入れたいのですか?」
口に入れたくはない。それこそ身体に害をなすものかもしれないモノをたやすく口に含むべきではないだろう。だがそれと握手することの何処が同じだというのか。―――嗚呼、違う。そうじゃない。
ただ、アヴィオール・S・グーラスウィードにとって得体の知れないヒトとの接触とは、そういうモノなのだろう。他人に触れるということは、今まで何をしていたか分からないその人の行いの一部が付着するということ。食事の前に一応手を洗ったり拭いたりはするが、不意に口元に手を添えることだってあるだろう。故に手に付着した得体の知れないものが、結局口に体内に入り込むことになってしまうのだ。
今更ながらに気付かれた接触行為の恐ろしさと、その在り様を事実とし、人との接触をできるだけ拒もうとするアヴィーの疑り深さに驚きを覚えた。
それでは俺がつい先ほど行ったポケットを確かめるような行為も嫌だったに違いない。いや、改めて考えてみれば彼女も少なからず女性なのだからセクハラまがいの行為は止した方が良かったのではないだろうか。一時の感情の高ぶりで、思考や感情が麻痺していたせいか今考えると訴えられてもおかしくないことを俺はしでかしてしまっていた。
そう考えているとアヴィーが「少なくとも、ジークさんに嫌悪感は抱いていませんのでご安心を。それに貴方の行いは余すことなく見ていましたし、何より貴方は得体の知れない物ものではありませんから」と、俺の心の内を見透かした言葉をかけ「それにしてもあの神父……」と言葉を零した。同時に彼女はダニエル神父が去って行った方向を改めて見るが、そこにはもう彼の姿はない。
まさか心奪われたと言い出すのではあるまい。チリチリと胸を焦がすような嫌悪感に、アヴィーは女の子で、ダニエル神父は美丈夫だから、そんな思いを抱くことはちっともおかしくはないだろう。むしろ健全な感情だろう? と自らに言い聞かせる。
あくまで俺とアヴィーの関係は主従。悪く言えば契約で繋がっているだけの関係であって、その程度の関係でしかないのだ。そんな俺が彼女の全てを独占してしまおうだなんて考え、彼女が女であることすら見抜けなかった俺にはおこがましいほどにも程があるだろう。
そんな誰に向けることもできない心配事を胸に、まじまじと彼女の顔を見つめれば不意な違和を感じた。そう彼女は一心にダニエル神父の行った先を見つめていたのだ。彼女の金色の瞳が、夕暮れ時の茜色に変色するかのような、まるで睨んでいるのではないかと俺に思わせるほどのすさまじい熱を持って。もし心奪われたというのならば睨むだなんてこと普通はしまい。
「どうか、したのか?」
少々躊躇われたがノーラとマリアを迎えに行く手前、ずっとここで立ち尽くすわけにもいかない俺が声をかければ、アヴィーは瞬時にその瞳の色を戻し「いいえ、今は何も」とノーラとマリアが居る教会の出入り口へ向かい始めた。その途中で一人の男がアヴィーの姿を見るや否や驚きの表情を見せてどこかへ駆けだしてしまったのだが、一体彼は彼女の何に驚いたのだろうか。一応アヴィーに走って行った男について訪ねてみたが、まったく面識のない人らしかった。
ぎぃ、と少々錆びついた教会の扉を開ければ、中は聖堂になっており、木の長椅子たちが礼儀正しく並列されている。そんな中で、他の奥様方と話をしていたノーラに、帰りは如何するのかと尋ねたところ今日は他の奥様方と一緒に帰ると返された俺とアヴィーは、足先に町へ戻ることにした。
それなりの買い物をしたとはいえ、割と朝早くに教会へ行ったせいか町に戻っても未だ陽は浅く、時刻も昼前と表すには早すぎるほどだった。
アヴィーが今朝方購入していた間食としての食糧はいつの間に食べたのか俺の知る由ではないが、既に無くなっている。しかも「昼食は何時ごろに食べますか」とさえ訊いて来さえするものだから、こちらとしてはたまったものではない。
俺の知らぬ間に彼女が勝手に買ってくる分に至っては最早請求されるまで目を背ける所存なのだが、四六時中と言っても差し支えない程度、共にいる昨日今日では基本的に俺が率先して払っていっていた。そのおかげで、現状我が家のエンゲル係数は今までにない数値を叩きだしている。もはや事件の真相を知ることが出来るのが先か、俺の預金残高が悲鳴を上げるのが先か。甚だ財布と胃の痛い話である。




