4-2
「アヴィー、俺はお前が女だとは聞いていないぞ」
俺の肩口ほどの身長のある彼女の首元付近にドン、と手を付け、彼女に詰め寄る。
至近距離で見ても彼女に胸はなく、ただただ平らな胴が広がっているだけ。襟元から見える首からは喉仏を確認できない。光源を俺に遮られた彼女の瞳はやや暗めの金。けれど暗みを帯びたその瞳はむしろ少量の光を映す度、いやに光る。うすく開かれた唇から覗く白い歯と赤みは、まるで俺を誘っているかのようだ。
「言っていませんから当然のことでしょう。いえ、そもそもジークさんはボクを男だと思われていたのですか」
至近距離で詰問されているにもかかわらず、あっけらかんと、それが当たり前のことのように答えたアヴィー。だが彼、否、彼女が着ている服はまぎれもなく男性物の燕尾服ではないか。
「女なら、どうしてそんな恰好をしているんだ!」
「これは旅行における荷物の軽減を鑑みての服装です。私服ならばジークさんも都市で見ていたではありませんか。それに、ジークさんは女だからという細やかな理由だけで、ボクを拒絶するのですか」
現状の服装を荷物の軽減と片付け、都市での服も引き合いにだし、さらには女だからと言う理由で拒絶するのかと訊きさえしてきたアヴィーは、俺の瞳をじっと見つめる。
その眼がまるで俺の器を測るように見え、ごくりと息を飲んだ。例えその眼差しがなんの意図もないものだったしても、後ろ暗いことを抱いていた身としてはあまり向けられて気持ちのよいものではない。そのうえアヴィーは視線を逸らすことなく、むしろその端正な顔を俺に近づけさえした。
「ねぇ、如何なのですかジークフリートさん」
するり、と壁に着けていた俺の腕を彼女の指先がなぞり、俺の背筋がぞわりと怖気立つ。
「そんなことは、ないが……」
「ならば良いではありませんか」
詰め寄るように俺に顔を寄せていたアヴィーはその言葉を放つと、壁に着けていた俺の腕の下を軽々と潜り抜け、何事もなかったかのように出かけるための支度をし始める。鏡の前で軽く身だしなみを整える彼女の仕草一つ一つが女性特有の優雅さに見え、くらり、と眩暈を感じる。
昨日の風呂上がりの姿が少年のように見えたのは俺の勘違いで、本来は成長過程のその姿自身に目を引かれたのではないのか。それならば昨日のアレは少女特有の色香だったというのか? ちがう、あの時感じたのは紛れもなく少年特有の色香で、少女のものとは少し違っていた―――はずだ。
昨日までとは全く違う視点でアヴィーを見なくてはならないことに戸惑ってしまうが、改めてアヴィーのことを考えると戸惑う必要などどこにもないことに気が付いた。何故ならアヴィーは別に女として此処に居るわけではないからだ。情婦や愛人、恋人、そのどれにも当てはまらない、助手として俺が雇った人間。ただそれだけ。
そこには性別など微塵も関係はなく、むしろ彼女が持っているらしい助手の性能のみがモノを言うのだ。そんな簡単な答えに行きついた俺は、質問をしていた自身がむしろ馬鹿のように見えはじめ「そうだよな、」と一人呟き、自らもまた出かけるための支度をし始めた。
墓標に供えるための花束やアヴィーが所望している間食などを買いに花屋とパン屋に顔を出した中で久しぶりに顔を見た花屋の夫人やパン屋の夫人に「おや、ジークフリートさんじゃないか。久しぶりね、元気だったかい?」と言われた後、俺の後ろに着いて来ていたアヴィーについてすぐさま尋ねられた。
ここらの田舎では人の出入りが少ないため、ほとんどが顔見知りだから新参者に対しての疑問は当然の事だろうし、接客業を行う彼らにも噂の一つや二つ必要だろう。
「こいつは俺の知り合いの子供のアヴィーだ。素っ気ないけど、面倒見のいい奴なんだ。しばらく俺と一緒に住んでいるから見かけたら声をかけてやってくれ」
アヴィーのことが彼らの口により町中に伝わるのならば、最初の説明ぐらい好感が持てるものにしておこうと、俺自身もできるだけの笑顔を作ってアヴィーの説明をしてやる。
しかし当の本人は「よろしくお願いします」と頭を一度垂れただけで、笑みの一つも浮かべない。ただ、俺が第一印象として受けた彼女の美少年らしさや、優美さは十二分に伝わっているらしく、パン屋の夫人も花屋の夫人も年甲斐もなく頬を染め、目を輝かせていた。
嗚呼、そう言えばアヴィーには女たらしの要素もあったのだったか。俺はこの二人がどのように彼女を他者に説明するのか、心配になりさえしてしまう。
購入した花束とパンを持ち、一見町に紛れていそうに見えるアヴィー。燕尾服の堅苦しさを色濃く表す上着は家に置いてきているものの、やはり辺鄙な町であるここでは彼女の特異な容姿は他の者の視線を集めずにはいられない。おそらく女性からの物が多いだろう。町のいたるところから向けられる好奇の視線を感じて仕方のない俺は、その視線の的であるアヴィーに声をかけた。
「なあ、アヴィー。お前もう少し笑ったりしたらどうだ?」
「……必要とあれば、そうします」
俺に視線を向けることなく冷たくそう言い放ったアヴィーは、周りの視線にも目はくれない。ただひたすら自らが行かんとする前を向き、歩き続ける。そんな彼女と打って変わって、俺は彼女の言った「必要とあれば」と言う言葉に思い悩んでしまう。必要とあれば、必要とあれば、必要とあれば―――ならば、俺と出会った時は必要なかったとでも言うのか。いや、そもそも俺は彼の表情が明確に、変わった瞬間を見たことがあっただろうか? 無い。嗚呼、もしかしたら彼女は精神的なストレスや、何かの事故で表情金を失ってしまっているのかもしれないではないか。ならば今の俺の発言は配慮に欠ける言葉ではないのか。
アヴィーに嫌われたくない、アヴィーに拒絶されたくない、アヴィーに離れてほしくない。衰えることのない彼女への執着心が湧きあがった俺は「まぁ、俺も無理にとは言わないし、出来ないならば表情じゃなくて態度で示せば皆わかってくれるから、な?」と自身の配慮の無さを隠す。それに後出しであろうとも、これまた俺の本心に代わりはないのだから。
少なくとも初めの頃は町の皆も警戒するだろうが、アヴィーが人への配慮も子供の世話もしっかりとできる人間だというのはすぐに分かるだろう。俺もアヴィーと知り合ってから二週間ほどしか経っていないが、それでも彼女を信頼している。信頼へ至った過程もその確証も何処にもなく、彼女たちが一体何者なのかという不信感だってそれなりに抱いてはいるが、俺はアヴィーを信じている。いや、信じていたいのだ。
教会に赴く際に入り用な諸々の荷物を購入し、一時帰宅したはいいものの、妻や娘、両親が眠る教会までは結構な距離があるためこの大荷物を歩いて持っていくのは難しいだろう。
車やバイクがあると便利なのだが、生憎俺が使えるような物は此処にはないし、乗り馴れていない物に乗って事故を起こすならばいっそのこと人力で行くべきだろうか。嗚呼、確か倉庫に自転車があったはずだ。
使えるだろうか、と倉庫へ向かう際、「ジークさん、アレを使ってはいけないのですか」とアヴィーが指さしたのは、俺たちも昨日乗ったランスの車だった。持ち主であるランスは二日酔いで到底車を運転できるような状況ではないのはノーラも言っていたし、その家族であるノーラとマリアは歩いて教会へ行くと言っていたから使う人間も居ないだろう。
「ジークさんの頼みとあれば、彼も快く使わせてくれるのではありませんか」
「しかしな、俺は都市にいた間、車の運転をしていないから不安が……」
「ソレに関しては問題ありません。ボクが運転します」
ポケットから免許証を出し、すぐに懐に戻したアヴィー。
「そ、そうか。なら少しランスと話をしてこよう」
「快い返事がもらえると良いですね」と他人行儀な言葉をアヴィーから貰いつつ、ランスに車を使っても良いかと尋ねれば、快く車のカギを貸してくれた。ただ、渡すときに俺の手を握りこむようにして渡したのは、どうにもいただけないと思いながらも、ソレに関しては今の所何も訊ねないことにした。今は、アヴィーを待たせる方が心苦しくて仕方がないから。
アヴィーによる安全運転のもと、教会までの道のりを走っている俺たち。だが、舗装されていた道は町を出たところで途切れ、最終的には砂利道を低速でひたすら走っているという現状だった。がたがたと過剰なまでに車が揺られると同時に、尻も小刻みに揺られ、大した時間揺られていないにも関わらず、尻の皮膚がひりひりと痛んでいる。嗚呼、これだから田舎は嫌なんだ。
「つかぬ質問をよろしいですか?」
砂利道を走っているため外野の音がうるさく、彼女の言葉が聊か聞き取りにくい中で、俺は律儀に彼女の方へ耳を寄せ「なんだ?」と答えた。
「どうしてジークさんはあの町を離れたのですか」
「それは……」
「言いにくいことならば言わずとも結構です。ただ、―――島へ来る道中で語られた貴方の視点からなる故郷の印象等や現状を鑑みるに、貴方があまりにもあの町を好いているように見えましたから。そんなにも好いているのなら、どうして離れてしまったのかと考えていまして」
好きなモノから離れる理由が無いのなら、離れないのが普通ですよね。
そう言い放った彼女からは相変わらず感情などは見受けられない。だがそれでも一区切り分の躊躇いをみせた彼女にはきちんと何かを思いやる気持ちが備わっているのだと、初めて実感できた気がした。それこそ今朝、彼女がマリアと接している時などは顕著に分かっていたが、その矛先が俺であるかそうではないかは実感として大きな違いがあるのだ。そんな彼女の疑問に答えようと俺は口を開くが、寸前のところで言葉が出ない。
「っ……」
娘であるオデットの悲惨な死。その事件直後ならば、犯人究明のために俺が尽力しても誰も文句意を言わず応援してくれた。だが、時が経つにつれその応援は批難へ変わった。
俺がアヴィーに語った町の人間たちの印象は紛れもなく、俺の中では確立されていたし、今もその印象は変わらない。そう、誰もが優しく、おおらか。多少卑屈な言い方をしても前向きすぎ。決して悪い人たちではなく、むしろ善意が過ぎているだけ。だからこそ彼等の心無い言葉は俺には信じがたかったのだ。
「まだ引きずっているのか―――また子供を産んでもらえばいいじゃないか」
「いい加減にあきらめたらどうだ―――お前には次があるだろう?」
「もう、終わったことだろう―――だからそんなに落ち込むなよ」
「他の人はもう立ち直っているのに―――仕方ないな、俺と一緒に、頑張ろうぜ」
町の住人達はそう声をかけてきたが、俺はそう易々と大切なオデットの死を受け入れ乗り越えることも、諦めることもできなかった。できるわけがなかった。
俺は間違いなく彼女を愛していたし、その喪失感を誰も埋めることが出来ないのも知っていた。それに何より俺は弱く、そんな俺に周りの人間は、何も知らない善人が過ぎる他人たちは、無情な言葉を突き刺していくのだ。「オデットの事は忘れろ」「事件の事は忘れろ」「俺たちが居るじゃないか」と。
被害者の家族としては絶対に忘れたくない思い出を、何も知らない他人に踏みにじられ、あまつさえ忘れろとまで言われ、町の住人達が娘の代わりであるというような発言までされた。俺は忘れたくなかった。それに代わりが欲しいわけでもなかった。何故なら世界でたった一人しかいない俺の愛娘であるオデットを忘れたくはなかったし、そのオデットの代わりになるような人間もこの世には存在しないし、そもそも存在してはいけないのだから。
そんな俺には、いや、人の死を乗り越えることも忘れることもできない俺達にとって、そんな心無い人たちが居るあの町は悲惨と苦痛が付き纏う唯の地獄だった。
今まで俺が住み、心優しいと思っていた町の住人はこんなヒトたちだったのか、と幻滅したくはなかったのだ。俺の中で彼等は善人でいてくれれば良いのだ。俺の思い出を壊すようなことをしないでほしいのだ。
加えてあの町には娘と妻との陽だまりのような思い出が詰まりすぎていて、右を見ても左を見てもそんな思い出しか感じられなくなっていた俺にはただの拷問だった。
傍に彼女たちが居ないのに、俺の記憶には消えない傷跡のように残っているのだ。いっそのこと妻のように壊れてしまえればよかった。周りの人間が言うように忘れてしまえればよかった。けれどやはり俺にはそれができなかった。壊れることも、忘れることも、乗り越えることもできなかった。だから様々な思い出と苦痛と言葉がある此処から逃げ出すしかなかった。全てをやり直すしか、当時の俺には方法が考えられなかったのだ。
少なくとも殺伐としたあの都市では仕事の忙しさに追われ、思い出に浸る時間など作れなかったからその逃げは成功だったのだろう。それに忘れさせるまでには至らなかったが、それでも時間は俺の心の傷を癒してくれた。けれど都市に居てもやはり頭の傍らには妻子の顔と事件があって、きっかけさえあれば容易く思い出されてしまうのだ。
好きが嫌いになることから逃げるだけ逃げて、清算をせず、俺は悲惨の奴隷で在り続けていたのだ。まるで幸運の食い逃げをしたかのように。
言葉にするには長すぎ、町の住人に対する疑心暗鬼も抱えていたあの頃の心中をアヴィーに言うことは出来ず、俺は結局「すまない。今は答えられないんだ」と口を閉ざした。何時か。何時か、彼女に心の内を言えるような日が来たら、誰にも言えないでいたこの鬱屈した気持ちを教えたいと思う。ただそれまでは口を噤み続けることを、どうか、許してほしい。
砂利道を走る車に尻を揺られながら、俺はぼんやりと横の窓に走る風景を見つめる。刹那、「パパァッ、」と軽くクラクションの音が響き、前方の風景に眼をやれば、見たことのある後姿が二つ見受けられた。「パパァッ」と再度鳴らされた音に対して、疎ましげにこちらを向いたのは女と、少女。そう、ノーラとマリアだった。
アヴィーは速度を落とすと、彼女たちの横でぴたりと車を止める。
「あらジークフリートさんとアヴィーちゃん、今朝方振りね」
「アヴィーさん……」
車はランスの物なのに運転しているのはアヴィーで、助手席には俺。という少々ちぐはぐな組み合わせにも関わらず大した驚きも見せず、ノーラは笑った。
「今から、その……会いに行かれるの?」
「嗚呼。ついでだからノーラとマリアも乗っていかないか?」
コレはランスの車だし、俺たちだけ悠々と行くのは気が進まないからな。
そう俺が言えば「あら……じゃあ、せっかくだし乗せてもらうわね」とノーラが後部座席の扉を開け、その後に続いて「アヴィーさん、ジークさん、お願いします」とマリアが丁寧な言葉ときれいなお辞儀を見せてからノーラの隣へと座った。
車にノーラとマリアを乗せて再び車を発進させるアヴィー。徒歩では町から教会までそれなりの距離があるが、車を使用した俺たちは三十分程度で教会へ着いた。
本来の距離であればそれこそ十五分もあれば着くような距離なのだろうが、基本的に道が舗装されていない砂利道であるのと、一方通行を強いるような細い道しかないせいで思うように車の速度が出せないのだ。
整備されていない教会の駐車スペースに車を止め、ノーラとマリアの二人と別れた俺たちは教会の裏にある墓地へとやってきていた。雲を揺蕩わせる空色とぞろぞろと並ぶ糸杉を背景に、俺は沢山の白い十字の内に並ぶ二つの墓前に四つ花束を置く。花束の二つは父と母の眠る方へ。もう二つは妻と娘が眠る方へ。
「ただいま」
死人と会話などできやしないのに、俺は彼女たちに帰宅の声を掛ける。二人の元にやってくるのも、ランスが結婚式を挙げた時だから四年ぶりだろうか。
俺の付添いとして此処へやって来ているアヴィーは、きょろきょろと俺の様子や教会の方を見たりしてはいたが、傍らからは決して離れない。ここならば見晴らしも良いし、いざというときは電子端末の電波だって十分に届くから、そこで連絡を取っても良いにも拘わらず、彼女はずっと俺の傍にいた。
そんな彼女は、否、彼女と彼女の上司兼父親らしきあのS氏という男は一体どこまで俺の事を知っているのだろうか。十五年前の事件。俺の望み。普通の人間ならばそう易々と知り得ないことを彼女たちは知っていた。それは何処で知り、そして何処まで知っているのだろうか。
「なあ、アヴィー。お前はどこまで俺の事を知っているんだ?」
さわりと風が鳴き、彼女の癖のある白い髪を緩く靡かせる。
唐突な俺の質問に一度ぱちくりと目を瞬かせた彼女の瞳を、俺は真っ直ぐ見つめる。見つめられた彼女はそれを逸らすでもなく真っ向から受け止めて、すぅ、と息を吸った。




