Part3 (14 years old)
* * * * * * *
19XX年8月22日(月) 8:07
多少涼しくなり始めたとはいえ、日が昇ると汗がじっとりと吹き出してくる。
蒸し暑さと全身をべたつかせる汗の気持ち悪さでオレは目を覚ました。
そして今朝も夢に見た、あの出来事を思い起こす。
あれから約一週間経った。あれは何だったんだろう。きっと悪夢に違いない。
けれども、あの妙な威圧感、刃物が刺さった感触、そして全身を包んだ恐怖は確かに現実のものに違いなかった。
先週の祭りの日、オレは通り魔に襲われた。
そいつは、ジャージにリュックを背負い、無精髭や頭髪を伸ばし放題にした原始人のような男だった。大体30代くらいで、身長は同じくらいだったろうか。包丁で切りつけようとしてきた瞬間、ジャージの袖をまくった腕が目に入って驚いた。
こんなにもひどく痩せ細り、こんなにもひどく青白い大人の腕は見たことがない。まさに骨と皮という表現がぴったり当てはまる貧弱な腕だった。
驚きざまに右足を切られてオレは倒れてしまった。出血して痛みもあったが、血さえ止まれば問題なく走ることもできそうだった。
去年の部活の合宿で、海辺の岩で足を切ったときのほうがよっぽど痛かったし血も出ていた。
通り魔の方は鳩尾にオレの膝が入ったらしく、地面に転がってうめき声を上げていた。包丁を持っているくせに、あちらのほうが大ダメージだったようだ。
とにかく、こんな変な通り魔から逃げたい。待ち合わせのサンクマートの辺りなら人もいるだろうから、そっちに向かって少しずつ動こうと、腕だけで移動をし始めた。
立ち上がった通り魔は、また包丁を持って走ってきたから、自由な方の左足をバタつかせたら脛に当たって痛がり始めた。そんな強く当たってもないのに、通り魔は過剰に痛がっていた。
だが、また立ち上がったと思ったら、なぜか今度は顔を足に近づけてきたので、顔面を思いっきり踏んづけてみた。すぐに鼻血を吹き出して、また過剰に痛がり始めた。結構いい年に見えるけど、やたら虚弱体質のようだった。
恐怖の中で、そのことがやけに目についたためか不思議と冷静になってきていた。右足はまだ充分に動かせなかったが、残りの左足や腕を使えば少しずつサンクマートに近づけていた。
通り魔が近づいて、左足で蹴って、そいつは痛がる。そんなことを何度も繰り返していると、オレはなんだか、こんな頭の悪い通り魔に付き合っているのがバカらしくなってきていた。
右足の血は完全に止まっていたし、少し痛みもあったが走ったり踏ん張ったりするには充分なくらいまで回復もできていたせいだろう。
隙を見て立ち上がって、包丁を奪って刺し返してやろう。先に襲ってきたのはあっちなんだし、きっと正当防衛になるはず。そう思いながら、ゆっくりと後ずさりを続けていた。
だんだん暗さが増していき、通り魔の姿もぼんやりとしてきた時、明らかにボケっと考え事をしている表情になったのがわかった。
ここだ! と思って立ち上がり、叫びながら包丁を奪いに行ったが、そいつの右腕を掴むのが精一杯だった。
その瞬間、大人としてはあまりの力の無さに驚いた。素早さも腕力も全く無かったので、そいつが強引に刺そうとしてきても簡単に止めることができる。反撃すれば、簡単に腕の骨くらい折れそうな貧弱さだった。
だが、オレは恐怖のために止めるのがやっとだった。襲われてから一連の出来事もそうだが、さっきからずっと、こいつの正体が何なのか気になって竦んでしまっていた。
きっとこいつは、栄養失調の原始人か、モヤシの食べ過ぎで死んだ人間のミイラだと思った。
それくらい痩せ衰えていたし、霊的なパワーで動いているに違いないと思った。
近くで顔を見ると、眼は落ち窪んでギョロギョロしていたし、髭を生やしっぱなしにした頬も痩け落ちていた。
原始人やミイラの恨みを買った覚えは無いが、下手に攻撃すると呪われるとも思った。
包丁を挟んだ力比べのような構図になってしまったが刺されるのも反撃して呪われるのも嫌だったので、あまりにも弱々しい原始人の腕力に合わせて膠着状態を演じていると、
「キャアアア!!」
と背後から女の叫び声がした。
その声に思わず、うっかり腕の力を抜いてしまうと、原始人が握り込んでいた包丁は空を切ってそいつの胸に突き刺さってしまった。
相手が力んでいたためだろう。下手に命拾いされて呪われないように、目を瞑りながら原始人の手を押し込んでみた。
肉に突き刺さったような感触だったので、たぶん普通の人間だろうと思い、その点はなぜか安堵した。
その瞬間、麻痺していた恐怖心が強まって全身が震え出してきた。恩田が駆け寄ってくれたが、オレはうまく説明できなかった。
「原始人……包丁……ミイラ……祟り……」
などと片言でしか説明できず、オレと同様に恐怖していたはずの恩田はなぜか笑いだしていた。
原始人の通り魔は倒れる瞬間、なぜか穏やかな目つきになっており、それがなんだか親戚の叔父さんにそっくりだった。確か、その叔父さんは鉱山採掘で一発当てようとして数年前アフリカに渡ったはずだった。
もしかして、失敗してひっそりと帰ってきたところだったんだろうか、オレは叔父さんを殺してしまったのだろうか、との思いにも駆られてしまい、ますます錯乱するオレを恩田は交番に連れて行ってくれた。
様々な思いが入り乱れる中、夜道を並んで歩いていると、花火が次々に打ち上がっていたことに気づいた。その光を見ると、少しだけ落ち着いたような気がした。
交番で警官と何を話したかは覚えていない。オレはうまく話せなかったが、恩田が代わりに喋ってくれていた気がする。親も呼ばれて、いくつか質問を受け、何かの書類を書かされた後、夜遅くに開放された。
それ以降は何も変わったことは無く、普通に日常生活を送っていた。足のケガを理由に部活は休むことが認められていた。
だが、家でじっとしていると先週のことを思い出してしまうので、デパートで立ち読みをしたり図書館で少しずつ宿題に手をつけたりしながら過ごしていた。
足はもうなんともないし、そろそろ部活出てみるかな。
寝汗をシャワーで流し、着替えと朝食を済ませて学校に向かった。
「やぁ、おはよう」
「あっ……おはようございます」
途中で、自転車に跨った若い男性警官に声をかけられた。先週、交番で話をした警官だった。
「出かけるところだったのかな。足の具合はもういいの?」
「えぇ、まぁ」
「そうか、これからお家にお邪魔させてもらおうと思ってたんだけどね。ちょっと、お家の人とお話したくて」
警官がそう言った途端、背筋に寒気が走った。
原始人を殺したから、オレは逮捕されるんだろうか……。
いや、あれはやはり叔父さんだったのか……?
勇気を出して、問いかけてみた。
「あの……オレ……逮捕……?」
「はははは!そんなわけ無いじゃないか。あれは路上で自殺、その場にたまたま君が居合わせただけ、ってことで既に話は済んでるじゃない」
警官は笑いだした。
「まぁその場にいたから、ショックは相当なものだよね。
君には何の罪も無いから心配しなくていいよ。そもそも、そのことを親御さんと君に改めて説明するために伺おうと思ってたんだし。いろいろ調べてわかってきたこともあってね、まだ動揺してるみたいだし、本当は喋っちゃいけないこともあるけど特別に教えるとだね……」
19XX年8月22日(月) 8:52
警官から大体の事情を聞いて、少し気が楽になった。
あの通り魔の正体は全くわからないために、身元不明者として扱うことになったそうだ。市役所の方で火葬をして、しばらくの間は身内の人が遺骨を引き取りに来るのを待つのだそうだが、身内が現れる可能性はゼロに近いらしい。
身に着けていたものや財布の中も調べたそうだが、名前も住所もわからないんだとか。
衣服やリュック、包丁などについては、それぞれの製造メーカーに問い合わせたところ一様に奇妙な返事が返ってきたという。
「そんな製品は存在していない」
見た目の特徴や型番を伝えたところ、明らかに怪しんでいる口調で
「社内秘につきお答えいたしかねる、逆にお尋ねしたいが、どこでそのことを知ったのか」
と驚かれた会社もあったらしい。既に出回っている商品のことを尋ねたのに、なぜ社内秘なんだろうと警官も困っていた。
財布の中を調べると、偽の紙幣が入っていたという。一万円札は同じ肖像画だが細部のデザインが違っており、五千円札はまるっきり別の人物が描かれていたらしい。なぜ全く別の人物を印刷した偽札を作ったのか、その理由が警察でもさっぱりわからないそうだ。
おまけに、造幣局で印刷されたとしか思えないほどのクオリティで、透かしや隠し文字も欠けや滲みがなく印刷されていたという。
そのため、個人レベルではまず絶対に作成できないし、造幣局の印刷機レベルでないと再現は難しいのでは、という意見も出ているとか。
ちなみに、あの日の同じ時間帯に、コンビニで偽札を使って買い物をしようとした男がいると通報があったので、そいつと同一人物ではないかとみられているらしい。
以上のことから警察の内部では、この通り魔はもしかして平行世界から紛れ込んだ人間か未来人なのでは、などと突拍子もない噂が流れているという。
残暑厳しいこの時期にはピッタリの怪談だ……。
このように教えてくれた警官はニヤニヤしながら続けた。
「そういえば、あの浴衣の子は彼女? 一緒に花火見に行くつもりだったんでしょ」
「い、いや、そんなわけないじゃないっすか!!」
急に不意打ちを食らってしまい、気恥ずかしさからつい、嘘が出た。
「まぁまぁ、照れなくていいじゃないか。君はあの時、すごくパニック状態で話もできないような様子だったんだけど、彼女が代わりに事情を聞かせてくれてね。
最初、現場を見た様子だと、君があの通り魔を刺して彼女が嘘の証言をした共犯関係なのかな、とも思えてね――悪く思わないでほしい、そういう仕事だからさ――。
それでも、彼女はハッキリ堂々と様子を語ってくれて、通り魔とも何の接点もないし殺害の動機もないことがわかったし、包丁の指紋や身体の傷を調べても自殺にしか見えないから、君も彼女もお咎めなし、ってことになったんだけど。
まぁ、何が言いたいかっていうと、ちゃんと彼女に感謝して、大切にしてあげなよ、ってとこかな。ただの水泳部員とマネージャーの関係ってわけでもなさそうだし」
警官の口元がさらにニヤつきを増す。
「いや、だから、そんな、彼女じゃない……」
「あぁ、お咎めはあるか。祭りの日だからって、まだ中学生なのに2人だけで夜に出歩いたら不純異性交遊ってことで学校から怒られちゃうでしょ?」
「えっ!? そうなんですか?」
思いもよらなかった問題が発生し、オレは目を剥いた。
そういえばそうだ。警察を巻き込んだ大事なのだから、学校が知らないはずはない。
うちの学校はやたらと校則、特に不純異性交遊や、カラオケとゲーセンへの出入りに厳しい。男女で遊んでいたことがバレると、教頭や学年主任から大説教を食らう。多くはこっそりと逢瀬と重ねているらしいのだが、長期休みが終わるたびに最低4~5組は『摘発』されるのが通例となっていた。
「まぁ、君の学校の事情は知らないけどさ。今思うとホンットくだらない取り締まりだよなぁ、不純異性交遊って。
大体、中学とか高校のうちに彼女作って遊んでた奴の方が女の扱いも心得てるから、幸せに結婚して、幸せに家庭築けることが多いし。彼女できたことないまま社会に出た同級生も結構いるけどさぁ、アニメやアイドルにハマったり出会い系でカモられたり、そんな奴ばっかなんだよなぁ。
なんつーか、異性との接し方が歪っていうかさ。何かしら、どこか変だし、それでますます女が離れてくし。もう悲惨だよね……って、立場上こんなこと言っちゃダメなんだけどさ」
「……はぁ、そうなんですか」
警官のくせに、やたらと軽い奴だ。けど、言ってることからは謎の説得力を感じた。
「さて、長々と話し込んじゃったね。そろそろお家の方にも話に行こうと思うし、それじゃこの辺で。彼女と仲良くね!」
「だから……!」
言い返そうとしたが、軽快にペダルを漕いで去ってしまった。警察ってあんなんで務まるのか、とオレはなんだか呆れた気持ちになる。
ただ……。
――そうだったのか、恩田が助けてくれたんだ。
申し訳ない気持ちが湧き上がってきた。祭りに無理やり誘われたのは少し鬱陶しかったけど。
そんなことを思いながら、学校に向かって歩き出す。
19XX年8月22日(月) 9:07
学校のプールに着いたが、誰もいなかった。
軽く泳いで帰ろうと思い、着替えてプールサイドに向かうと
「今日練習休みだよ。……それから、泳ぐんなら、ちゃんとシャワー浴びて体操しなきゃ足つるよ」
と声がかかる。
恩田だった。
顔を合わせるのは、あの夜以来だ。そういえば、あの夜はそばかすが無かった気がする。
「……足はもういいの?」
「ん、平気……」
そこで止まってしまった。何から言えばいいか、わからなかった。
恩田も思いつめているようで、言葉を慎重に選んでいた。こんな恩田を見るのは初めてだった。
「「あの……!」」
「あっ、先に言って」
「いや、お前から言えよ」
「……うん、あのさ、……こないだ、あんなことになっちゃって本当にごめん。あたしが無理に誘ったりしなかったらケガだってしなかったし……」
「……いや、お前のせいじゃないし。オレだってさっさと逃げてたら……」
「それにさ、あたしすっごい先生達にも怒られてさ……ほら、一応『男女で遊びに行くの禁止』ってことになってるじゃん?
だから、ケガ治ったのバレたら学校呼び出されて怒られるちゃうから……。
もし進路相談室に呼び出されたら、全部あたしのせいにして。『恩田に無理やり誘われた、恩田が悪い』って言っていいから」
「いや、お前は悪くないだろ。結局行くって決めたのはオレなんだし、説教くらいなんともねぇよ。
……それにいろいろ助けてくれたみたいだし。
……だから、……ありがと」
オレは恩田から目を背けて、水面を見つめながら、恐る恐る言葉を紡いだ。
穏やかに揺れながら陽光を反射しており、キラキラ輝いて見えた。
「……ふふっ」
恩田は口元を緩めて吹き出す。
「……なんだよ」
「だって、そんな風に言われると思わなかったし、つい。
今までありがとうなんて言ったことないんじゃない?」
「……うっせ」
自分の顔が火照ってくるのがわかった。
「……あのさ、せっかくなら……もっかい言ってくんない?ありがとう、って」
「は?……なんで?」
「だって、そっちの方に向かれてボソボソ言われても伝わんないじゃん。ちゃんと、あたしの目を見て」
「えー……いや、……うん、わかった」
気恥ずかしさからつい、口をついて出てしまった否定を、なぜかオレは押し殺していた。
こんな頼みを了承してしまうなんて、自分でも信じられなかった。そんな奇妙さを抱えながら、恩田の方へ向き直る。
「あの……ありがとう」
「……うん!」
恩田は微笑みながら頷く。口元から覗く歯列矯正を隠そうとはしていない。
その瞬間、なんだか不思議な感覚を覚えた。
――心地よかった。安らぎがあった。
恩田の言葉を受け入れて、肯定したことですごく楽になれた気がした。初めての感覚だった。
「……ねぇ、ケガは本当にもういいの?」
「大丈夫だって。それ、さっきも訊いたろ」
「もうひとっつお願いあってさ、……実は、月曜日から新人戦の種目の相談してたんだけど、また背泳ぎ出る人いなくって。悪いけど出てくんないかなぁーと……」
「わかった。いいよ」
「えっ!? マジで?」
オレが即答すると恩田は目を剥いた。
「なんで驚くんだよ」
「だってさ、絶対嫌がると思ってたし、しばらく押し問答が続いてから、あたしが押し切ってしぶしぶやらせることになるだろうなぁと……」
「そこまで考えてたのかよ」
確かに、いつもならそうなっていたはずだった。
何故か嫌がる気にならなかった。清々しさ、なんて言ってもいいかもしれない。
「背泳ぎ出るんならバサロも練習してくか」
「ありがとう。助かる」
恩田の表情も口調も、今まで見た中で一番和らいでいた。
オレはゴーグルを目に着けて水に飛び込んだ。
ウォームアップ代わりの軽いクロール。
右足は治ったばかりだし、しばらく水から離れていたから本調子とは程遠い。
だけど、それまで感じたことがないほど心も体も軽かった。
いつまでも泳いでいられる。そんな気がしていた。
(了)