Part2 (25 years old-2)
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Part1を全てご覧くださっただろうか。
恩田と過ごしていたあの8月16日の夜、それこそが俺の『人生最大の失敗』だ。
後年、振り返ってやっとわかった。あの日の装いも、仕草も、言動全てが俺のためだったのだろう。
祖母に見立ててもらった浴衣や装飾、そばかすを見せないためのメイク、口元から歯列矯正が覗かないような話し方も、全て。
あの時の俺は、そんな恩田の好意に応えようともせずに踏みにじって『否定』していた。
俺自身の否定はいい。だが恩田を否定したことは今更ながら後悔しているし、あの時の俺には反吐が出る。あの時の俺が最も許せない。
誰だって一度は過去の自分の過ちを思い出して、後悔に苛まれることがあるはずだ。過去の自分を殴ってやりたい、いや、それだけでは足りない、殺したい。そんな思いを抱いたことがあるはずだ。
今の俺には、それを実現する『能力』がある。実現する『意思』も『計画』もある。あとは実行するだけだ。
その『計画』は実にシンプル。あの夏祭りの日に『飛んで』、サンクマートで落ち合う直前の『俺』を殺す、ただそれだけ。
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過去に遡って中学2年の俺を殺すうえで真っ先に考えたことは、その現場を他者から絶対に見られてはいけない、ということだ。
傍目から見れば、それは25歳の青年以上オッサン未満の不審者が14歳の中学生に襲い掛かっている構図になる。
当然、警察を呼ばれてはお話にならないので、確実に一人で行動していて近くに他人がいない状況、時間帯を狙わなければいけない。
だが、中学時代の俺は、昼間は学校、放課後は部活、その他は自宅と、意外と他人が近くに存在していない状況が少なかった。
中学2年の祭りの際は、行き帰りも人気の無い夜道を一人で歩いていたし、なんならあの花火が打ちあがる前に小高い丘に誘導してもいいだろう。『失敗』した日のことは、俺自身忘れたくても忘れられないぐらい記憶に焼き付いてしまっているために、恩田といた時間も、一人きりで行動していた時間もよく覚えている。
他人から邪魔が入らなさそうな場所や時間も複数把握している。だからまず、実行するために『飛ぶ』のは祭りの日がいいと判断した。
次に殺す方法。銃で射殺で即死させられれば一番いいが、当然わが国で俺のような伝手もない人間は入手不可能。
ロープでの絞殺や刃物での刺殺が手っ取り早いが、当然相手も抵抗するはずなのでかなりの力が必要になってくるだろう。
中学当時の俺は既に現在の俺と同じくらいの身長があったはずだ。不意を襲うために、こちらが圧倒的有利とはいえ多少は手こずるかもしれない。念には念を入れた準備が必要だ。
絞殺と刺殺ではどちらが楽だろうか。当然、刺殺だ。
ロープ等で絞め殺すには、少なくとも数分間は力を込め続けなければならないだろう。しかも、適切に首に巻き付けて、格闘技でいうところの『極った』状態でなければ短時間での殺害は難しい。なにせ俺は殺人に関しては全くのド素人だ。
刺殺であれば、刃物をブスっと一発刺せば解決である。痛みで相手は動けないだろうし、すぐに刺した刃物を抜けば出血過多で勝手にお陀仏になってくれる。人体構造に関しても俺は全くのド素人なので、一発で心臓を貫いたり動脈を傷つけたりすることは難しいだろう。まぁ、それっぽい場所を何度か切りつけたり刺したりしていれば、そのうち出血過多でくたばってくれるはずだ。
以上のことを考えた結果、俺はよく切れそうな最新の刃渡り20㎝高級肉切り包丁をネット通販で購入しておいた。たかが包丁1本に1万円もかかったが、しっかり殺すためにはやむを得ない出費だ。
殺害方法と凶器は決定したが、過去の俺との立ち会いの場面を想像してみると、もう一つ問題が生じる。
刃物を持った未来の俺と対峙した過去の俺は、当然、逃げたり抵抗して暴れることが予想される。
動き回る相手に正確に、刃渡り20㎝の包丁でダメージを与えることは至難の業であるはずだ。
肉を切り分けることに特化した高級包丁を買ったはいいが、それはあくまで死んだ肉にしか特化していない。動き回る生きた肉を切り分けることはどんな料理人でも難しいだろう。
なのでまず、相手の動きを止める必要があるが、これもネット通販で簡単に解決した。
護身用スタンガンだ。
検索をかけて商品ページをざっと見回すと、最新鋭150万ボルトのスタンガンが2万円前後で買えるようなので、それをすぐに注文した。
届いたスタンガンの使い方、さらに威力を確かめておいた方がいいと思ったので、軽く充電をして自分の太腿に当ててみることにした。
持っている中で一番厚手のジーンズを履き、その上から当てる。
瞬間、バチバチッと体内に電流が走った気がした。
右足が引き裂かれるような激しい痛みが走り、思わず体を屈めてそのまま小一時間は動けなかった。
右足の感覚が無くなり、ちぎれてしまったかのように感じたが、ゆっくり起き上がると痺れながらも右足が少しずつ動いたので安堵した。
スタンガンの使い方もわかったし、威力も充分だったので、これでまず動きを止めてから包丁で血が通っていそうな箇所を刺しまくればいい、と大まかな実戦の想定ができた。
その後、動画投稿サイトを見ていたら、全く同じ商品を自分の体に当てて威力を確かめる動画が既にアップロードされていることに気づいた。その動画では、投稿主も先程の俺と同様に体を屈め、その場に崩折れた数分後にゆっくり立ち上がる様子が記録されていた。俺は自ら進んで人体実験する必要は全く無かったことを知り、激しく後悔した。
過去の俺を殺すために必要な道具はこれで揃った。スタンガンと肉切り包丁の2つ。
ここで新たな疑問が生じる。そもそも、それらの準備した道具も一緒に『飛べる』のか?ということだ。
もちろん、これについては検証済み。リュックサックを背負った状態であれば中に詰めた道具も一緒に過去へ持っていくことに成功している。検証に使ったリュックに、どちらも入りきる。
確認になるが、過去に『飛んだ』後に最優先すべきは過去の俺を確実に殺すこと。
もし犯行中に邪魔が入ったとしても、確実に絶命させることができれば、その犯人である『現在』の俺も即消滅するだろう。過去の俺が死ぬことで、それ以降の俺の人生も全て消滅、すなわち『否定』が完成する。それが『計画』の全てだ。
実は『現在』の俺には借金がある。明日食うものにも困り果てている俺が、ネット通販で包丁やスタンガンを買うには借金しかない。消費者金融で10万ほど借り入れしたが、当然返すアテは無い。過去の俺が死ねば、すぐに現在の俺の存在も消滅するだろうし、その後のことはどうでもいい。
俺は動きやすいジャージに着替え、リュックにスタンガンと包丁が入っていることを確認したうえでそれを背負った。床に座り、手近な紙とペンで、あの祭りの時の年月日を記入していく。
もうすぐだ。
この否定ばかりの人生を、いや、自分自身を『否定』する。
必要事項を記入し終えた瞬間、例の頭痛が始まって目の前が暗転していった。
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『19XX年8月16日(火)19:00~21:00 サンクマート花田川店』
11年前のサンクマートで目が覚めた俺は、ハッと息を飲んだ。
目に入ったのは鮮やかな水色の浴衣。懐かしさと自責の念が同時にこみ上げて来た。
待ち合わせの30分も前から、恩田はここで待っていたのか。
彼女は店内を歩き回りながら、飲み物の冷蔵ケースなどを眺めている。時間を持て余しているような様子だ。
だが、お目当ての男は今夜ここには現れない。この場所に向かって歩いてくる途中で、『未来の』この俺に殺されるからだ。君は今夜無駄に待ちぼうけを食らい、花火が打ち上がる中を途方に暮れたまま帰路に着くのだろう。どう転んでも君の想いは無駄になってしまった。本当に申し訳ない。
そして、さよなら。
恩田に心の中で別れを告げながら、俺は店を後にする。
『過去』の俺がやって来る道を、当時とは反対方向、自宅の方向に俺は進む。すぐに『俺』と対峙することになるだろう、そう思いながらリュックからスタンガンを取り出して、スイッチを入れる。電源が入ったことを示す赤ランプが点いて……。
――点かない。
あれ?
カチカチ、と電源スイッチを入れ直してみる。
――点かない。
おかしい、なぜだ。カチカチカチカチと何度も入れ直してみる。
――点かない。
数分程、その場に突っ立ったままスタンガンを検めた後にようやく俺は悟った。
――充電が切れている。
そういえば、開封後に少しだけ充電をしてから自分で試してみた。威力を確かめた俺は、その状態のままのスタンガンをリュックに入れ、この時代に来てしまった。
――つまり、充電をしていない!!
「クソッ!」
俺は激しく後悔し、スタンガンを側溝に向かって叩きつけた。一瞬にして、コンクリートの蓋の上でバラバラになった。どんな人間でもお手軽に悶絶させられる、150万ボルトの威力があっても電気がなければ玩具にすぎない。
あと20分もすれば、奴はここに現れるだろう。肉切り包丁だけでは動きを止められないはずだ。何かいい手はないか……。
――そうだ。
さっきのコンビニで何か使えそうなものが売っているかもしれない。何らかの防犯グッズのようなものがあれば役に立つのではないか。そう閃いた俺は、元来た道を引き返してサンクマートに向かった。
窓際の雑誌コーナーで恩田はファッション誌を立ち読みしている。
さっきさよならしたけど、また会ってしまった。恩田の姿を再び認めた俺の中に、妙な気まずさが生まれた。
俺は急いで雑貨のコーナーを見る。携帯の充電器、ライター、白ブリーフ……どれもこれも中2男子にダメージを与えたり、動きを止めたりすることには向かなそうなものばかりだ。
だが、諦めかけた俺の視界に、あるものが飛び込んできた。
――熊撃退スプレー。
これだ!!
周囲を山々に囲まれた盆地にあるこの町では、夏場に熊がよく出没する。観光シーズンでもあるため、コンビニでも手軽に熊対策グッズが入手できるようになっていた。
俺はスプレーを一本握りしめ、手早く会計を済ませるためレジへ向かう。
「一点、3980円です」
「レジ袋いらないです!あと、お釣りいらないです!」
五千円札を1枚出しながら中年の男性店員にそう叫び、商品を持っていこうとしたその時だった。
「ちょっと、お客さん! これ……何?」
店員は五千円札を摘んで、ヒラヒラさせながら俺を睨みつけている。
「何って五千円……あっ!!」
俺は思わず声を上げてしまう。
「これ偽札だろ!? お札の偽造は犯罪だぞ! 警察呼ぶからな!!」
「あっ、ちょっ、違う!! 返す、返すから!!」
店員に向かってスプレーを投げ返したが、相手の怒りは収まらない。
「返してもダメだ! そこで待ってろ、逮捕してやる!!」
店員は電話をするためか、急いで奥に引っ込んだ。
「やべぇ!!」
俺は慌てて店から逃げ出した。とりあえず再び、奴と退治する予定の場所へ向かう。
さっきの五千円札を見て思い出した。
そうだ、紙幣の改訂があったんだ。
俺の記憶だと、確か7年くらい前にお札のデザインが変更された。俺の持っていた五千円札は髷を結った和服の女性が描かれているが、その前のデザインでは眼鏡の男性だったはずだ。
11年後の未来にいた俺から見て7年前の改訂だとすれば、この時代からだと4年後。
つまり、この時代にはまだ存在していない。店員からすれば偽札に決まっているのだ。
スタンガンに代わる武器は入手できなくなってしまった。あと5分もすれば奴は現れるだろう。おまけに警察が俺のことを探し回るかもしれない。絶対に失敗はできないし、短時間で確実に仕留めなければならない。事前の想定よりも、難易度がかなり高くなってしまった。
俺は、対峙予定の位置で包丁をリュックから取り出しながら息を整える。
――ふと、思いつく。一度未来に戻ってやり直せないだろうか?――
いや、と考え直した。確かに9時まで何処かに隠れていれば自動的に未来に戻れるだろう。
しかし、また戻ってきたときにどうなっているか、わからない。警察が俺のことを躍起になって探し回っているかもしれない。
――いや、そんなことじゃない。
ここで、決めなければいけないんだ。
仮にやり直しがきくとしても、やり直すたびに次がある、次がある、と先延ばしにしていたら永久に実現できないし、成功もない。
だから、『絶対に、今ここで』決める。絶対に『否定』を完遂する。
俺は改めて決意を固め、包丁を逆手に握りしめる。向こうからやってくるなら、一見すると、俺の右手に凶器など無いように見えるはずだ。
そして――奴が現れた。
浅黒く日焼けした容貌、やせ細った体型は間違いなく11年前の俺。サンクマートを目指して人気のない夕闇の道を歩いていく。
首周りがヨレヨレの黒い英字Tシャツ、
「the dark madness dragon」と書かれている。
中学時代に好んでよく着ていたものだが、恥ずかしくて見るに堪えない。
お前は闇の狂ったドラゴンではない。
ゆっくりと歩いて距離を詰めていく。
奴とのすれ違いざまに、素早く振り向いて背中に包丁を突き刺す。これしかない。
あと10mほどですれ違う……。
奴の左側を通るように位置を合わせ、右手を隠しながら歩く。顔は見えないように、うつむきながら歩く。
あと3m……。
額から汗が一筋、俺の頬を伝う。緊張を隠しながら、平静を装って歩みを続ける。
奴の横を通り過ぎる。チラ、と振り向くと奴の首筋が目に入った。
――ここだ。
俺はその細長い首筋をめがけ、包丁を握りしめた右手を打ち下ろした、その瞬間。
「うわっ!?」
突然、奴が振り向いて声を上げると同時に、俺の腹部に激しい痛みが走る。右手には一瞬、硬いものに包丁が刺さった感触があった。
俺は思わず、呻きながら地面に背中から倒れる。右手に包丁は握りしめたままだ。
奴の方を見る。右半身を下にして倒れており、思い切り顔を歪めて苦しげな表情だ。
地面が少しずつ赤くなっているのがわかった。奴の右太腿から血が流れていた。俺の包丁が刺さったと同時に、奴の膝が俺の腹に当たったらしい。
これは、ひとまず第一段階クリアということでいいだろう。
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奴は苦しげに、俺から逃げようと尻を地面に擦り付けながら、両腕で後ずさりしている。
その顔は恐怖に満ちており、口はパクパクと動いていた。腰は抜けて、声が出ないようだ。
――チャンスだ。
腹から痛みが引いていき、代わりに闘争心が吹き上がってくるのがわかった。
追撃を加えて、確実に絶命させる。
奴に駆け寄りながら、上半身をめがけて包丁を突き刺すために振りかぶろうとした、瞬間。
「いでっ!?」
声を上げたのは俺の方だった。自由な左足で脛を思い切り蹴られた。
痛みのあまり、思わずしゃがみこんでしまう。奴は右足から血を吹き出しながら、それでも少しずつ俺から距離を取っていく。
脛から痛みが引くとすぐ、立ち上がって駆け寄る。
――今度は自由な左足を狙う。
しかし、俺の右手は空振り、今度は靴裏で顔を思い切り蹴られた。
「ぐえっ!?」
痛みから立ち止まると同時に、顔の奥から熱いものがこみ上げてくる。鼻血がボタボタと溢れてきたため、思わず包丁を落としてしまう。
鼻血を拭い、包丁を手に近づく。するとまた蹴られてしまった。
奴の表情は、恐怖で凍りついたまま、一方で尻での後ずさりをゆっくりと、だが順調に続けている。このペースで後ずさりを続けられると、そのうちサンクマートまでたどり着かれるかもしれない。
奴に近づき、蹴られ、俺は痛がり、また近づく。何分間繰り返していただろうか、何度も蹴られるうちに俺は気づく。
確か、この状況には名前があった。
格闘技には詳しくないが聞いたことがある。一方が立ち上がり、もう一方が地に伏せたまま向かい合う、この状況。
そう、これは――『猪木アリ状態』。
14歳の猪木は後ずさりを続け、25歳のアリは包丁を手に、にじり寄る。
この世紀の凡戦は、いや、この俺史上最低の凡戦は膠着状態のまま、夜は深まっていく。
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夕陽はすっかり沈みきって、外灯の光だけが俺と奴を照らす。
奴の太腿からは、既に血は流れていないようだ。右足に力を込め始め、少しずつ体を浮かせようとしている。回復しつつあるということだろう。
こちらからの奇襲は、もう成立しない。武器がある分俺が有利には違いないが、計画の成功率は下がっている。
まず、なんとしてもこの膠着を打破しなければならない。
これは試合ではない。ゴングが試合終了を告げ、引き分けが宣告され、互いに健闘を称え合う、とはいかない。
絶対にここで奴を殺し、俺の存在も消える。これは『死合』なのだ。
――どうやってこの状況を止められるか。
一瞬、奴から意識を切って思索に集中してしまい、隙ができた。
「うあああああ!!」
奴は突然起き上がり、叫びながら俺に飛びかかってきた!
しまった、右足はもう充分に動かせていたのか!?
俺は、思わず振り上げた右腕を両手で掴まれてしまい、包丁を奪われまいとするのが精一杯になってしまう。残った左腕で、奴の右腕を掴んだが外すことはできない。力を込めたまま、強引に右腕を振り下ろそうとするが、抵抗されてしまう。
さらに力を込めて、頭部に包丁を刺そうとするが、押し切ることができない。1本の包丁を交えて、俺と奴は拮抗した力比べのような状態になってしまった。同じような体格の同じ人間同士では、同じ程度の腕力なので決着はつきにくい。
だが、自分に負けるわけにはいかない。
『自分との闘い』とはよく言われる言葉だが、比喩表現でなく実際に、物理的に闘う人間がかつていただろうか。俺はさらに、真の全力を両腕に込めて、押し切ろうとする。だが、それでも奴は一筋縄ではいかなかった。
実力が完全に拮抗し、再び膠着状態に陥ってしまうかと思われた、その瞬間だった。
「キャアアア!!」
叫び声は、過去の俺の後ろ側から聞こえてきた。
数十メートルほど先で、水色の浴衣の少女が目を剥いているのがわかった。
――恩田。
その姿を認めたと同時に、俺の胸元に鋭い激痛が走った。
痛みの根源を見ると、右手でしっかりと握り込んだ包丁が、自分の胸を貫いていた。
奴は両手をしっかりと俺の右手首に添えていたが、ギュッと目を瞑りながら顔を背けていた。
胸の激痛がさらに増していく中で、俺の下半身からスーッと力が抜けていき、身体が崩れ落ちていくのがわかった。
目の位置が下がっていく途中に捉えた光景は、恐れ、慄きの表情でこちらを見つめて全身を震わせている11年前の俺と、浴衣の裾を掴みながらこちらに走ってくる恩田の姿だった。
恩田の姿を認めた俺が、勢い余って自分の胸に包丁を突き刺したのか。俺の動揺を察知した過去の俺が、俺の力みを利用して突き刺したのか。
どちらでもいいが、俺は――負けた。
痛みで叫びを上げたかった。だが、声が出なかった。間違いなく、人生で受けた最も強い痛みだった。
激痛の中で、目に焼き付いたのは親しげに恩田と言葉を交わす11年前の俺。その様子は写真のように動きが止まって見えた。
――これが走馬灯ってやつなんだろうな。
臨死状態の脳は過去の記憶をスローモーションで再生する、とかいうけどさ。
中学2年の俺は恩田に、顔面蒼白で必死に何かを捲し立てている。今の出来事を説明しようとしているのだろう。
恩田はそれを聞きながら驚いたり、時折笑ったり。いつものように口を大きく開けて笑っていた。
俺の中の思い出と全く同じ浴衣を纏い、全く同じメイクでそばかすを消しているのだろう。
だが、俺の中の『今日』では見ることができなかった、心からの笑顔だった。
その2人の光景は、俺にとって初めて見る『過去』だった。
過去を映す走馬灯なのに初めて見るってのも変だが、まぁいいか。
不思議と胸の痛みは消えていた。いつの間にか、視界から2人の姿は消えて、代わりに真っ暗な夜空だけが広がっていた。仰向けに倒れ込んだようだが、身体の感覚が無かった。
突然、眼前に大輪の花が咲いた。すぐ消えたために、それは花火だとわかった。
――そうか、もうそんな時間だったか。
色とりどりの打ち上げ花火が咲いては散っていく。眺めていると、急に眠気に襲われ始めた。
――ここで全部終わるんだな。
俺は、最期であると感じ取ることができた。
なんか、くだらない理由で過去に来て、呆気なく返り討ちにあってしまったような気がしてきた。
――未来から来た俺だけが死んだ場合、過去の俺はどうなるんだろう。
俺と一緒に死ぬんだろうか。それとも、今死んでいく俺とは違った未来を歩んでくれるだろうか。
――いや、まぁ……いいか。
今、最も嫌いな25歳の俺は『否定』できた。それで良し、としとくか。
さらに眠気が強くなり、瞼を開けているのが辛くなってくる。
ぼんやりと見えるのは巨大な牡丹花火ばかりだ。
花火……最後……ナイアガラ……見たいなぁ……。
せっかく……祭りの、終わりと同時に……。
牡丹の、色、形、も徐々に歪んで……目の前が……暗く――。