4部
ランニング・マシンに汗の粒が飛ぶ。頬に張り付いた髪を手で乱暴に払う。ベルトを蹴りあげる音、低く唸るモーター音、呼吸と心音。そんな音が一緒くたになって耳に響き頭を揺さぶる。胸が苦しい。肺は酸素を求め拡張と収縮を激しく繰り返している。ディスプレイに目をやる。ノルマまであと少し。三秒、二秒、一秒。わたしは最後まで気を抜かない。ブザーが鳴り、ベルトの速度はゆっくりと減速していく。それに合わせてわたしも脚のストライドを狭めてペースを落とす。やがてベルトは完全に静止する。項垂れそうになったがぐっと堪えた。成長している証が欲しい。わたしは顔をタオルで拭う。聞こえるのは心臓の音だけ。わたしは深呼吸を何度もする。胸元から頭のてっぺんまで湯だったように熱い。タオルを顔から腕にすべらす。徐々に呼吸は回復していく。
マシンから降りてわたしは軽く屈伸をする。筋肉痛による張りはまだあるものの、どこにも違和感はない。左膝をさする。ここも大丈夫。高校のときにした怪我。十字靱帯断裂。痛みもさることながら、その怪我はわたしの希望を砕くのに十分なものだった。
ボールを持って後ろにターンをしようとした瞬間、不吉な鈍い音と痛みが身体中を走り、わたしはその場に崩れ落ちた。試合でもなければ既定の練習時間でもない、自主練の時間に負った怪我。
屈伸を終わらせ、時計を見る。この時間ならエアロビクスの教室はない。わたしはストレッチ・マットを手にフィットネス・スペースへ向かう。
全身の映る大きな鏡を前にじっと自分の姿を見つめる。筋肉のない細く貧相な身体だ。あの頃はウエイト・トレーニングをしっかりやっていたからもっとたくましかったっけ。それにしても自主練のときに選手生命が終わる怪我をするなんて。自分の運のなさに失望もしたし、医師の、もう怪我の前と同じように運動をすることは難しいかもしれない、という言葉を聞いて絶望もした。でも監督やチームメイト、なによりも両親の落胆を感じることが一番つらかった。みんな、わたしを励まそうと声をかけてくれたりリハビリを手伝ってくれたりしたけれど、時折垣間見える表情や言葉の端々に落ちる薄暗い影にわたしの心は苛まれた。三年の夏にはリハビリも完了し医師のお墨付きももらったが、なぜかもうわたしの心と身体は以前のようには動いてはくれなかった。過去のわたしを超えられない。常に理想に現実がついてきていない気がする。
そしてわたしはバスケットを辞めた。もともとWNBAのプレイヤーになりたいとか実業団でやりたいとかそんな大層な目標はなかった。ただ、父のやっていたスポーツをわたしもやれば喜んでくれるのではないか、わたしのことを見てくれるのではないか、と思っただけだ。その目論見は当たった。練習に付き合ってくれることもあったし、いくつか試合を見に来てもくれた。そのときだけは、母ではなくわたしを見ている。試合後に交わす会話やアドバイスをされるときはわたしだけの時間。そんな時間もあの怪我で駄目になってしまった。
しっかりと左脚を伸ばす。もう本当に何も問題はない。後遺症が残らなかったことは助かったし喜ばしいことだ。けれど、今大丈夫でもなんの意味もないのに。深く息を吐く。全身の筋肉をほぐすのにあと三十分。そのあとはプールに降りてクロールを一キロ泳ごう。今日はターンのカウントを忘れないように気をつけないと。
ベッドのサイドテーブルの水に手を伸ばす。まずアミノ酸のサプリメントを飲み、それからピルを飲む。明日には筋肉の痛みもマシになっているといいのだけれど。そしてわたしはベッドにもぐりこむ。しばらくすると電気が消える。闇が音もなく訪れ部屋を満たす。月曜日、午後に大きな新規の案件が一件。担当者が言うには、三社競合で現状だと価格面はほぼ横並びらしい。しかし、担当者と話していたときの印象だと価格だけの勝負にはならなそうだ。きちんと払った金額分、あるいはそれ以上の価値があると彼が踏めば成約するだろう。こういう案件はやりがいがある。わたしは明日の商談を頭に思い描く。どれだけシミユレーションをしても想定外のことは起こる。しかし、その想定外のケースを減らすために、いくつもの会話のパターンを用意しておくことは無意味ではない。あと大切なことはそこで落ち着いて対処する、あるいは踏ん張って態勢を崩さないことだ。動揺を気取られてはいけない。あくまで自然に振る舞うことが肝要だ。次第に気持ちが高揚してくる。明日、明日はどんな日になるのだろう。
緩やかなカーブを抜けてホームへさしかかる。相も変わらずの満員電車。香水の匂いがむっとする。電車が揺れ、バランスを崩した目の前のOLが寄りかかってくる。ヒールで足の甲を踏まれた。痛みとともに短く息が漏れる。吊革くらい掴んでいなさいよ、と言いたくなる。重量級だ。ブラウスの襟元の首がたるんでいる。ピンヒールでなかったのがせめてもの救いか。電車が安定するとそのOLは素知らぬ顔で立ち直り、タブレットを片手に電子の世界に戻っていった。天井の監視カメラを仰ぐ。こんなぎゅうぎゅう詰めでは腰から下なんて映りもしない。満員電車では用をなさない代物。でも、ないよりはましか。実際に兼用車両での痴漢の牽制には役立っているらしいし。そんなことを考えているうちに電車は停まりドアを開いた。人の波に飲まれ足を動かす。鈍い痛みが走り唇が歪む。順調とはとても言えない一日の滑り出しだ。
始業時間になりました! 皆様、ご起立下さい!
今週も長い戦いが始まる。椅子から立ち上がり、左足でフロアを何度か踏みしめる。視線を落とす。ほんのり紫色に腫れている。痛みはあるが大分マシになってきた。しかし、最低限の体操は上手くこなせるだろうか? 体操の二人組に変に目をつけられなければいいのだけれど。
肩を回したり腰を捻ったりする上半身の運動は問題ない。下半身を伸ばす運動も乗り越えた。不安なのはこのあと――
腿を上げる運動! 腰と水平になるように膝を上げて下さい! 腕も大きく振って! イチ、ニ、サン、シッ! 鈴木さん、いいですね! 田中さんもその調子です!
腿を上げる度に甲の筋が疼く。やれやれ、あのOLはなんてことをしてくれたのだろう。
では跳躍に移ります! 大きく跳んで両手と両足を開いて閉じて! 開いて閉じて! 高橋さん、跳躍が低いですよ! もっと膝のバネを意識して!
やっぱり捕まった。注意されるのは慣れているが、意に反して注意をされるのは好むところではない。うんざりしつつも跳躍を続ける。
課所の打ち合わせが終わり、提案書の確認作業を進める。額の生え際にはまだ汗がしっとり滲んでいる。スマイル・レッスンも唱和のときもインストラクターに目をつけられっぱなしだった。それと課長の嫌味……まったく週の初めから疲れる朝だ。黙らせるには数字をあげること。わかりやすくていい。能力のあるものは性別、年齢、容姿や学歴に関わらず上に行ける。この会社の最もいいところだ。
ひとつ息をつきコーヒーカップに手を伸ばす。生ぬるい苦みが火照った心と身体を鎮めていく。カップから口をはなしたところで電話が鳴った。サブ・ウインドウがポップ・アップし名前が表示される。庶務第一課保健部青木すみれ? 保健部の人間が一体何の用だろう?
「はい、銀座第一営業所の高橋です」
「高橋さんですね。わたくし銀座本社庶務第一課保健部の青木と申します。高橋係長、いまお電話大丈夫でしょうか?」
柔らかく高い声にゆっくりとした話し方。ディスプレイには丸顔で張りのよさそうな肌をした子が映っている。チークが少し濃い。すみれというよりはさくら餅のよう。髪は黒く光り額に斜めになでつけられ、後ろできつく結んでいる。そういえば中村も同じような髪型をしていたっけ。もしかしたら同期かしら。
「ええ、少しなら。どのようなご用件でしょうか?」
「ありがとうございます」とさくらは言って大きく笑った。形ばかり。研修通りの笑い方だ。「クロノス体操のインストラクターの藤崎さんから連絡がありまして。今日はいつにも増して元気がなかったと」
いつにも増して……言ってくれる。「そうですか。申し訳ございません」
「いえ、それで体調が悪いかどこか怪我をなされているのではないかと藤崎さんが心配しておりました」とさくらは自分も心配している、というふうな調子で言った。それにしてもよく見ている。素直に感心する。
「そうですね。通勤途中で足を踏まれまして少々具合は芳しくないですね。でも段々良くなってきているので心配には及びません。藤崎さんにもそうお伝えください」
さくらはまた大きく笑った。「それは何よりです。しかし、もしものことがあります。高橋係長は3階の保健フロアをご利用されたことはおありでしょうか?」
「ありません」
「でしたらこの機会に一度ご利用になってはいかがでしょうか。たしかに施設はスペースが限られていて少々手狭ですが、急な体調不良や怪我に対する設備や応対は三つ葉記念病院にひけをとりませんから」
「ありがとうございます。考えておきます」
「ご自愛ください。受け付け時間は始業から終業の時間までとなっております。では、いつでもお待ちしております」
受話器を下ろすとサブ・ウインドウが消えた。メイン・ウインドウに視線を切り替え、社内のデータ・ベースにアクセスして検索をかける。やはりさくらは中村の同期だった。ひょっとするとこの代の女の子たちはみんな同じ髪型とメイクをしているのでは……同期をグループ検索しようと思ったが、少し考えてやめることにした。朝から怖いものは見たくはない。
保健フロア……あることは知っていたが、行ったことはなかった。健康診断は記念病院で受けるし朝は自分で――忘れたらデスクで簡易のメディカル・チェックはできる。食事と運動に気を付けているおかげか、入社以来カゼひとつひいたことはない。縁のない場所だ。用もないのにわざわざ違う階のフロアに足を運ぶ必要はない。本社に異動してきてすぐに父のことを聞いてまわった時期を除けば、この13階でしか行動していない気がする。15階建てのビルで千人以上の人間が働いているのに大体の要件は電話やメール、あるいはリアル・タイム・ヴィジョンで済む。直接人と会う機会はほとんどない。改めて考えてみるとなんだか変な話だ。
ウインドウに本社の見取り図を展開し、三階をクリックする。ライブ・イメージが浮かぶ。エレベーターを出てすぐに受け付けの机があり白衣を着た女性が姿勢よく座っている。壁はくもりひとつないクリーム色。床には毛並みの揃ったグレーのカーペットが敷かれている。どれも新品そのもの。清潔感が漂っている。
左足に力を入れて床を踏みしめる。まだ若干痛む。いい機会だ。スプレー・タイプの湿布でもしてもらうか。この提案書の確認が終わったら行ってみよう。
エレベーターを降りると受付の女性と眼が合った。鋭い匂いがほのかに鼻腔を刺激する。どことなく消毒液の匂いのするところだ。清潔に殺菌、消毒されたそんな空間。
「おはようございます。保健フロアのご利用でしょうか?」と女性は穏やかに言った。
女性にしてはやや低い声だ。しかし自然と耳に馴染む。
「ええ、左足を痛めまして……」
「原因はわかりますでしょうか?」
「今朝、電車内でヒールで踏まれてそれから痛みます」
「お気の毒さまです。では社員証の提示をお願いします」と女性はいかにも同情をよせた表情と口調で言った。
胸に提げたカード・ケースから社員証を抜き、女性に手渡す。女性は社員証を机に置くとキーボードを何回か叩いた。すぐに社員データがウインドウとして宙に浮かび上がる。
「高橋亜美係長ですね。確認が取れました。医務室に連絡をいたしますので少々お待ち下さい」
女性は受話器を取り電話先の相手に短く用件を伝えた。
「お待たせしました。では奥に進んでいただいて一番手前の医務室へお入り下さい」
「一番手前……ということはいくつか医務室があるんですか?」
「ええ、医務室はすべてで三室ございます。第一医務室が怪我の応対、第二医務室が風邪や体調不良の応対、第三医務室がそれ以外の応対をしております」
「それ以外?」
「主に心のケアをいたしております」
「なるほど」
「ではお大事に」と女性は言って頭を下げた。
受付の脇のドアを抜け、細長い廊下を進む。壁際にはいくつかソファが並んでいる。上に視線を向けると第一医務室というプレートが目に入った。そこで足を止めてドアをノックする。少しして男性のどうぞ、という声とともにドアが開いた。
正面に横向きに置いた机が見え、物静かな笑みを浮かべた若い男性がゆったりと椅子に腰かけている。三十になったばかりかあるいは二十代か。メタル・フレームの眼鏡の奥には切れ長の一重の瞼。涼しげな目もとだ。
「どうぞお座りください」と男性は言い手前の椅子をすすめた。
「ありがとうございます」
「足を痛められたとのことですが」
「ええ、左足の甲なんですけど……」
男性は机のタブレットにペンを走らせた。「では見せていただけますか? ご必要でしたらそこのベッドのカーテンを引いて使ってくださっても構いませんので」
「いえ、使用しなくても大丈夫です」
ヒールとカバーソックスを脱いで左足を男性に向ける。
「ふむ」と男性は言って白い手袋を嵌めて足をとった。「ちょっと腫れてますね」そして甲を何カ所か両手で丹念に揉んでいく。「痛みますか」
痣の近くを触られた瞬間、頬と唇が引きつった。「痛っ――」
「すみません」。どこか予想していたような声だ。「では、骨に異常がないか確認をとります」と男性は言ってカメラみたいな機械を足に向かって構えた。それから角度を変えてボタンを数回押した。「結構です。これから結果を調べます」
男性は機械をPCに繋ぎ、写真をウインドウに映した。それからじっと写真を睨んだ。なんだか思っていたよりも本格的な診察だ。目尻に険しい皺が幾筋か浮かぶ。やがて納得したように二三度肯いた。
「骨に異常はありません。打ち身でしょう。処置ですが奥にあるフットケア・バスで足を温めてそのあと電気治療をいたします」
不安がさっと胸を掠めた。「時間はどれくらいかかりますか?」
「多く見ても全部で五十分はかからないでしょう」と男性はこともなげに言った。
「朝からそんなに時間を割くことはできないんです。あとはスプレーの湿布でもしていただければ充分です」
「そう言われましても困ります。患者さまに対して適切な処置をする。それが私の仕事における信念のひとつです」
「午前中に一件、重要なお客さまとの約束があるんです。まさかここまで丁寧で本格的な診察になるとは思いませんでした。どうかお願いします」
男性は困ったように微笑みひとつ息をついた。「電気治療の二十分。それだけは譲れません」
頭の中でスケジュールと時間配分を計算する。「ありがとうございます」
「では、ベッドに仰向けになってください」
横になると、男性はベッドの脇に設置された目盛りやつまみのたくさんついた機械から伸びるパッドをふたつ手にした。そして少し何かを確認してから患部に張りつけた。
「時間になりましたらブザーがなります。それまで安静にしていてください」
「無理を言って本当に申し訳ありません」
電気が流れはじめ肌がちくちくする。それにあわせて筋肉も収縮を繰り返す。
男性は穏やかに首を振った。「自分の意思を貫きつつ患者さまの意思を出来る限り尊重すること。これも私の信念のひとつです」
「素敵な考えですね。でも……とても難しそうです」
「ええ。難しいです。私ができたと思っていても、患者さまがそう思わなければその仕事を達成したとは言えませんから。しかしやりがい、やってみる価値はあります」と男性は活力に満ちた声で言った。
「お若いのに立派です」
「いや」と男性は苦笑まじりに言った。「そう考えるようになったのはここでシュウさんと会ってからです。それまでは自分の考えが一番正しいと思っていた生意気な子供でした」
「そうでしたか。それでも充分立派ですよ。いい人と巡り合えたんですね」
「はい。シュウさんと話していると心のわだかまりが自然とほぐれていくんですよね。あと自分でも気づいていなかった問題が不意に口をついて出たり……。あっという間に時間が過ぎていくんです。そういう人って滅多にいませんから」と男性は言った。「ここで働いている人間はシュウさんが当番のときはちょくちょく第三医務室に出入りしてるんですよ。同じ医師なのにおかしいですよね」
ふとフジイさんの姿が頭に浮かんだ。「おかしくはないと思います。医師のまえにひとりの人間であるわけですから」
沈黙が降りた。しかし失言をしたときのような胸のざわつきや居心地の悪さはない。男性はペンをもてあそび何かを考えている。沈黙のなか時計の針が義務的に動いている。
「プライベートな時間を過ごしているとき、たまにですが、いまの自分の言動が私人としての立場から生まれたものなのか、医師としての立場から生まれたものなのかわからなくなるときがあるんです。高橋係長はそういうことってありますか?」
仕事が私的な時間を浸食し、知らず知らずのうちに心を支配する……。「あまり考えたことはありませんでしたけれど、人それぞれ大なり小なりそういう傾向はあるのではないでしょうか? 仕事とそれ以外のときで頭と身体を分けて生きているわけではありませんし」
男性はペンを口許に持っていき、トントンと顎を突いた。「そうですね。私が考えすぎなんでしょう、きっと。もっと意識して仕事は仕事として割り切っていかないといけませんね」
男性の胸に目をやる。ネーム・プレートは光を反射していて字が読めない。「失礼ですがお名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「沢井です」と男性は言ってネーム・プレートに視線を落とし、向きを直した。
「プライベートのときは医師としての沢井さんではなく、沢井さん自身を見てほしい、そう思われることもあるのですか?」
沢井さんは驚いたのか表情が一瞬強張った。「確かにあります。よくわかりましたね」
「なんとなくです。人は好きですからブランドやステータスが」
「これは手厳しい」と沢井さんは言った。「係長もその手の人物を今まで多く目にされてきたのではないですか?」
天井に視線を移し、記憶を辿る。どうだっただろう?
「思い出してみると結構いますね。でもそういう人には興味がないので、自分とは関係のない別の世界の人間だと思っていました」
沢井さんは笑った。「いいですね。その考え」
わたしも笑った。高い電子音が断続的に鳴り、左足に流れていた電気が止まった。
「二十分。ではもう一度足を見せてください」
わたしは起き上がりベッドに腰掛け、足を沢井さんに差しだした。
「一週間もすればよくなるでしょう。できれば毎日通って頂きたいのですが、判断はお任せします。湿布を一週間分お出ししますのでこちらは忘れずにご使用ください」
「ありがとうございます」
「最後にスプレーしますね」と沢井さんは言ってスプレー缶をよく振って患部に噴射した。
冷たくて気持ちいい。匂いもほとんどしない。学生の頃使っていたやつはもっと湿布の匂いがしたのに。ありがたいような寂しいような複雑な気分だ。カバーソックスとヒールを履いてタイルを踏みしめ足を慣らす。うん、大分楽になった。
沢井さんは席を立ち、デスクの隣りの棚から湿布を取り出した。そしてそれを丁寧にビニールの袋に入れた。「これで一週間分です。症状が改善されなかった場合は速やかに再診察を受けにきてください」
「かしこまりました。これで今日の仕事はなんとかこなせそうです。本当にありがとうございました。なんだかあっという間に時間が過ぎた気がします」
「それはなによりです。ではお大事に」
退室しようと椅子を立ったときハッとした。
「今日の診察中の会話は、シュウさん仕込みのものですか?」
沢井さんは照れたように笑った。「まだまだですけどね」
「少なくともわたしは心地よく診察を受けることができましたよ」
「恐縮です」
わたしは頭を下げた。「では、失礼します」
銀座通りを電動自転車で駆ける。ほのかに湿った風が髪を浚い目許をくすぐる。曇り空の下の街。どこか色あせて見える歩く人とビルや道路脇の植え込み。風景はどんどん後ろへ流れてゆく。ハンドルに付けた、サイクリング・レコーダーモードのタブレットに視線を落とす。時間は? まだ約束の時間には余裕がある。念のため自転車を借りて良かった。痛みがマシになったとはいえ、歩いているうちに悪化するとも限らない。ジムでバイクはこぐけれども自転車は久しぶりだ。最後に乗ったのはいつのことか。それにしても自転車にもレコーダーの取り付けが義務化されるなんて。わたしが子どもの頃には考えられなかったことだ。中央通りを横断したらすぐに訪問先のビルが見えてくる。
少し離れた脇道の駐輪スペースに自転車をとめる。ここなら表通りの街灯に設置されたあの監視カメラの範囲内。鍵をかけてタブレットを外す。商談の流れを想定し、会社へ向かう。
外壁がガラス張りのありきたりな高層ビル。白く濁った空を映している。この辺りは、ところてん突きで押し出されたような見分けのつかないビルが立ち並ぶ。異動してきた頃は、うっかり訪問する会社のビルを間違えそうになったこともあった。そんななか迷わずビルへ入っていくサラリーマンやOLを見て感心したものだ。しかし今はもうそんなことはない。習慣の力。慣れとは恐ろしくもあり頼もしくもある。自動ドアを抜けたところでマスクを外しバッグにしまう。それからタブレットで化粧の乱れをチェックする。よし、問題はない。
エントランスを行き交う人々の表情は硬く険しい。革靴やヒールの足音が無機質に響き渡る。どこに行っても同じような光景だ。その人の流れに沿ってエントランス中央の受付に歩みを運ぶ。
「十一時から庶務課の吉田様との約束を頂いている、クロノス・ジャパンの高橋です」
受付嬢は微笑んだ。アーモンドのような眼が輝き赤く艶めいた唇が自然と横に伸びる。この子とは初めて会う。しかしどの子も容姿のレベルが高い。まったく大したものだ。どこかのモデル会社から引っ張ってきているのかしら。頭を下げるとクリーム色の小ぶりな帽子のてっぺんが見えた。
「ようこそいらっしゃいました。高橋様ですね。お手数ですがご本人様確認のため個人番号証明カードの提示をよろしいでしょうか」
カード・ケースから抜き出し、受付嬢に手渡す。「お願いします」
受付嬢はカードをPCの端末スロットに差し込みウインドウを展開した。そして納得したように肯くとまた微笑んだ。「ありがとうございます。確認が取れました。では吉田にお繋しますので少々お待ちください」。受話器を取り、ボタンを押していく。
――五秒、十秒、なかなかウインドウは切り替わらない。受付嬢は耳に受話器をあて微笑んだままだ。やがて吉田氏に繋がったのか受付嬢は要件を伝え始めた。しかしウインドウに吉田氏の姿は浮かばない。簡単な受け答えのあと受話器は置かれた。
「申し訳ございません。吉田は会議に出ておりまして席を外しているそうです」
思わず眉が引きつりそうになった。腕時計に眼をやる。「早すぎましたかね?」時計の針は十時五十五分を指している。
「いえ、そのようなことはありません」
奥の壁際のラウンジ・スペース。ソファやスツールは程良く空いている。「会議が終わるまでお待ちしていてもよろしいでしょうか?」
「それがですね……」受付嬢は言い澱んだ。表情の明るさも何目盛りか暗くなった。「まだ終了時刻が見えないそうです」
なるほど、「では日を改めた方がよろしいですね」
「申し訳ございません。終わり次第、吉田に高橋様へ連絡をするように伝えさせて頂きます」
「お願いします。後日またお伺いします」
頭を下げてカウンターを後にする。失注か、それとも単純にアポイントメントを忘れられていたか、はたまた……。止そう。いま考えても仕方のないことだ。考えるのは吉田氏のメールが来てからでも遅くはない。しかし――細田課長への報告を想像するとため息が出てしまいそうだ。ほかのところで挽回しなければ。マスクをつけ、耳かけに絡んだ髪を整える。そして気を取り直し、自動ドアを抜ける。
公園に移動し、新商品のセミナーやフェアのチラシをネタに訪問許可の電話をかけたが手ごたえはいまひとつだった。三件でファイルを添付したメールを送ることが許されただけだ。こんな時代に古臭い営業かもしれないが、やはり直接会って話した方が案件に結びつく可能性はあがる。それは経験から学んだこと。どうやってこの三件を次のステップに繋げるか……頭の中で構想を練っていく。
日が陰るせまい裏道を自転車を押して歩く。アスファルトブロックの歪んだ継ぎ目に車輪がはずむ。電線の向こうの空はいつの間にか一段と暗くなり、軒を連ねる店の屋根に重くのしかかっている。湿気を帯びた土と草の匂いが懐かしい記憶を呼び覚まそうとわたしをつっつく。さて、そろそろこのあたりに小さなスタンド式の看板があったはず。視線を左右に走らせる。すると、斜め前の店の間から出てきたアリスの老夫人と眼が合った。夫人は両手で看板を重そうに持っている。
「あら、この前のお嬢さん」と夫人は言って店の前の道に看板を置いた。「こんなところでどうしたの?」
「アリスさんにご飯を食べに来ました」とわたしは言った。「オープンはまだでしょうか?」
夫人の顔に柔らかな笑みが広がり、声がはねた。「いらっしゃいませ。いまから開店よ。さあ、どうぞ」
わたしも微笑む。「その前に自転車を停めたいのですが、どちらへ停めたらいいでしょうか?」
「それなら向かいの路地に入って、突きあたりを右に曲がったところに駐輪場があるわよ」
「わかりました。すぐに置いてきますね」
「あせらなくてもお店は逃げないわよ。ゆっくりいらっしゃい」
今回はカウンターのスツールに腰をかけてみる。店内にほかのお客さんはまだいない。またソフトで絶妙な音加減で音楽が流れている。心を洗い慰撫するテナー・サックス。ジョン・コルトレーン、『トウー・ヤング・トウ・ゴー・ステディ』。ケイのお気に入りだった曲だ。そして、ケイに教えてもらってわたしも好きになった曲。思わず笑みが零れる。今日は朝から散々な日。せめてこれくらいの救いはあってもいいじゃない。
メニューを眺める。本日のおススメはナポリタン、アクア・パッツァ、ハンバーグ・ステーキ、ハヤシライス、蟹クリームコロッケと豚の生姜焼きの盛り合わせ。本当にどれも美味しそうだ。文字を追っているだけで舌が湿ってくる。ぜんぶ食べてみたい気持ちは山々。でも頼むものは決まっている。メニューを置くとカウンター越しから主人ののんびりとした声が聞こえた。
「決まりましたか?」
「ナポリタンをお願いします」
「はい。ナポリタンね。あなたこの前も頼んでいたけど好きなの?」と主人は笑いながら言った。
「特別に。母の得意な料理でしたから。蜂蜜、使われてますよね?」
「よくわかりましたね」と主人は感心したように言った。「酸味だけではなく甘味も大事ですからね。今日も同じレシピがいい? それともちょっと変わったレシピに挑戦してみますか?」
「変わったレシピですか?」
「大葉は苦手?」
「いえ、嫌いではありませんけど……」とわたしは言った。どこか心もとない声になってしまった。ナポリタンに大葉? いまいち想像がつかない。
「だまされたと思って頼んでみたら。味は保証するわよ」、夫人が嫌味を感じさせない自信に充ちた声で口をはさんだ。
音楽はコルトレーンからマッコイ・タイナーの煌めく音色のピアノ・ソロにバトンタッチ。グラスの氷が溶けて水の中で涼しげに踊る。心は決まった。
「大葉が入ったレシピでお願いします」
「はい。かしこまりました」
主人は満足気に笑い、カウンターの脇のキッチンに入って行った。
「楽しみに待っててね」と夫人は言ってグラスに水を注いだ。まったく素敵な人達だ。
おしぼりに手を伸ばそうとしたところで、金属製のドア・ベルが軽やかに鳴った。お客様の来店だ。わたしは入口の方へ視線をちらりとやった。ドアの近くに背の高い女性と低い男性のペア、その後ろに恰幅の良い男性の姿が見える。みんなわたしの両親と同じかちょっと上くらいの年恰好だ。夫人が温かく三人を迎えた。瞬間、親しげで打ち解けた声があがった。多分、三人とも常連なのだろう。しばらく会話を交わしたあとで全員カウンターに流れてきた。わたしは椅子をちょっとずらしてスペースを空けた。
「いいんだよ気にしなくて。俺たち年寄りには気をつかわないでくれ」
恰幅の良い男性がきっぱりと言った。そしてわたしの隣りのスツールを引くと深く腰をかけた。さり気なく爽やかな香りが舞った。夏の早朝、ラジオ体操に行く前のあの空気を思いだす。きっとブルガリだ。
「そんなこと言ってハギタさんちゃっかり若い子のそばに座っちゃって。お嬢さんいいのよ、迷惑だったら迷惑って言って。移動してもらうから」。夫人は困ったような、あきれたような笑みを浮かべた。
「いいんです。迷惑なんかじゃありません」とわたしは言った。
ハギタさんは表情を崩し、少年のように瞳を輝かせた。「ありがとね、お嬢さん。ほらママさん、大丈夫だって。イデさんのご主人も奥さんと一緒じゃなければ三人で秘密の話ができるのに」
「えっ、どんな話ですか?」
奥さんが食いついた。しかしその声に猜疑や嫉妬の響きは微塵も感じられない。首を傾げると艶やかな白髪のショート・ボブの毛先が揺れた。ボブがよく似合う可愛らしい人だ。
「ハギタさんやめてくださいよ、あとが怖いんだから」
イデさんの主人は笑って軽くいなした。どうやらこの手のやりとりには慣れっこらしい。
「ささ、ご注文はどうしますか?」
ママさんはハギタさんから順におしぼりを配りはじめた。
「ハンバーグ、それとトッピングでコロッケをお願いします。サラダも大盛りで」
「あっそれよさそう。わたしもそれにしよう」と奥さんが言った。
いいんじゃない? 僕はハヤシライスにハンバーグを下さい、とご主人は奥さんの方も見ずにおしぼりで手を拭いている。何気ないやりとり。けれどポリフォニーのような親密な調和を思わせる。お互いに信頼し合っているのだ。羨ましいかぎりの関係。
注文を終えると三人はママさんを交えて再び話し出した。セキグチさんは最近来てる? とかヒラバヤシさんはこの前会ったとき元気がなかったけど大丈夫かな? とかそういった声が聞こえてくる。多分、他の常連さんのことだろう。楽しげな声に耳を傾けていると、温かく食欲をそそる匂いが鼻をくすぐった。
「はい、お待ちどうさま」
眼を上げると主人がナポリタンを盛った皿とサラダを手に立っていた。わたしは慌てて受け取り、手許に置いた。
「お、いい料理を頼んだね」とハギタさんが感心したような声で言った。
「わたしもナポリタンにすればよかったかも」
「毎回そんなことを言ってるじゃないか」旦那さんがまたか、といった口調で奥さんの肩に優しく手を乗せた。
「また今度頼みなさいよ。ハンバーグ、もう作ってるからゆっくり待ってなさい」と主人は穏やかな言葉を残してまたキッチンに戻った。
スパゲティをフォークに絡めて口に運ぶ。咀嚼すると大葉の酸味と新鮮な香りがベーコンや玉ネギやナスの甘味と混じり合って不思議な味を生み出す。今までに経験したことのない味。フォークを動かす手が止まらない。みるみるうちにナポリタンは減っていく。
わたしはママさんを見た。「本当に美味しいですね。試してみて正解でした。ただ、大盛りにしなかったのは失敗でしたね」
「気に入って貰えてなによりだわ」とママさんは笑って言った。
「そうだよ。若いんだからガンガン食べないと」
「そうよ」イデ夫人がすかさずハギタさんに同意した。
「ごめんね。さっきからこの人たちが。でもしっかり食べないと駄目だよ」と旦那さんがおどけた。
「ええ、気をつけます」
「はい。食べている人の邪魔をしないの。あなたたちの料理もそろそろ出来ますよ」。ママさんは手を叩いて三人の注意ひいた。
美味しい料理とにぎやかなやりとりに緊張の糸がほぐれる。ツイてない午前中のごたごたはどこかに吹き飛んでしまった。本当にいいお店を見つけたものだ。最後のひと口は特に時間をかけて咀嚼する。大切な思い出を噛みしめるように。
ママさんが水差しを片手にやって来た。
「お水はいかが?」
「ありがとうございます」
水を飲んでひと息ついているとママさんもカウンターに入っていった。奥に少しひっこんだかと思うとサラダを両手にキッチンから出てきた。そして主人が右手に二皿、左手に一皿と三人分の料理を持ってママさんに続く。料理がずらりと並びカウンターが一気に華やいだ。湯気の立つ作りたてのハンバーグ、コロッケ、ハヤシライス。どれも美味しそう。わたしもおまけでハンバーグを頼めばよかったかも。そう思った瞬間、頬が緩んだ。イデ夫人と同じようなことが頭に浮かんだ自分におかしくなった。
いただきます、と言うが早いかハギタさんは手際よくハンバーグをナイフで切り、軽快に頬張っていく。気持ちのいいくらいの食べっぷり。視線をイデ夫妻に移す。こちらもまた美味しそうに食べている。胸から湧きだす優しい感情が抑えられない。なんだか見ているだけで幸せのおすそわけを頂いてしまったみたい。
「今度はハンバーグを頼んでみようかな」
不意に言葉が零れた。わたしははっとして水を口に含む。
「頼んでみて。ここのハンバーグは絶品なんだから」
奥さんに独りごとを拾われてしまった。耳が熱くなる。
「来年の三月で閉める予定だからそれまでにはいらっしゃい」と主人はこともなげに言った。
来年の、三月で、お店を閉める?
「そういえばそうでしたね、パパさん。うん。お嬢さんぜひ来なくちゃ」
ハギタさんが食事中の手を止めて肯いた。
「そんな、どうして、こんなに素敵なお店なのに」
駄々をこねる子供に言い聞かせるときのようにママさんが微笑んだ。「ありがとう。ここもとうとう区画整理の対象になっちゃってね。ほらここらへんは古い建物が多いから。はじめは場所を移して続けようかとも考えたのだけれども、やっぱりこの場所でこの店構えだから続けられてきたというのもあるしね。それでわたしたちももう歳だから引退するのにいい機会だと思うことにしたのよ。ひいきにしてくれているお客様たちには悪いんだけれども……」
「われわれのことは気にしないでください。それにお店を閉めたらみんなでどこか旅行にでも行こうって約束したじゃないですか」と旦那さんが言った。「われわれはもうリタイアしてヒマなのでいつでもお声かけください」
「そうですよ。縁が切れるわけじゃないんですから。旅行楽しみにしてますね」
「そんなふうに言われると早く閉まって欲しいと思われているようでさびしいなあ」主人がいたずらっぽく笑った。
みんな笑い、わたしも微笑んだ。人の縁が分かちがたく繋がる場所。優しく穏やかで温かい空間に心が安らぐ。やがて笑い声がおさまると出しぬけに沈黙が一瞬降りた。心に冷たい影が差す。そう、これはわたしにはもうないもの。かつてはあった。でもどうしてなくしてしまったのだろう。過去に戻れるのならば、違う選択をして違った人生を送っているのではないか? それとも同じ選択をして変わらない人生を送っているのか……。わからない。わかるのは、わたしは一生懸命悩んで下した判断の積み重ねでひとりぼっちになってしまったということだけ。唇の内側を甘く噛む。寂しい人生。けれど、立ち止まれない。たとえひとりぼっちでも、生きている限りやらなくてはいけないことがわたしにはある。
水を飲み干しわたしは静かにスツールを立った。
自業自得、身から出た錆。時間はまだ十二時を過ぎたばかり。普通の会社は昼休みに入った頃だ。どこにも行けない。わたしは目的もなくぼんやりと自転車を走らす。すっかり『アリス』の常連さん達の空気に当てられてしまった。ハギタさんたちに悪気があったわけではない。そんなことは百も承知。ただ、これは過去のわたしが招いた痛み。誰も悪くない。悪いのはわたし自身。だから余計に参ってしまう。むしろわたしが参ってしまったことを知ったら、あの人たちは気に病んでしまうだろう。そういう感じがする。優しい人たちなのだ。
ヒップ・ポケットのタブレットが震えだす。自転車から降り、ディスプレイを確認する。田中文具店。どうしたのだろう?
「ごぶさたしております」
「ああ亜美ちゃん。よかった出てくれて。担当を外れたら出てくれないのかもしれないと思ったよ」
安心したような田中のおじさんの声が耳に響く。若い頃はいたらないところが多く、叱られもしたけれど、今となってはいい思い出。自転車を押して雑踏をさけ路地裏に入る。
「そんなことありませんよ。どうされましたか?」
わたしが何かをした記憶はないが、嫌な予感しかしない。つい身構えてしまう。
「いやね、亜美ちゃんが異動するとき新しい担当の子と引き継ぎに来たじゃない。若い女の子。あの子はどんな子なんだい?」
引き継ぎをして半年も経つのに名前も憶えられていないのか――
「すみません。それがあの年の春に配属されたばかりの人間でして、何しろ他部署の子でしたから売り上げの数字以外のことはちょっとわかりかねます。前にもお話したように顔見知りのもっとベテランの人間を担当に、と上に推したのですが実現できず申し訳ございません。それで、加藤がなにかしましたでしょうか?」
「そうか。ああ、加藤さんか。思いだした。いやさあ……」と言って田中のおじさんは咳払いをした。「その逆。何もしない。つまり来ないんだよ全然。初めのひと月ふた月はぽつぽつ来てたけど、その後はぱったり。どうもウチだけじゃなくて商店街の他の連中のところもそうらしい。亜美ちゃんのときにも言ったし加藤さんにもしっかり言ったよね。これだけはお願いしたいことって」
多分、電話の向こうの田中のおじさんは顔をしかめて人差し指でとんとんと机を叩いている。見えなくても姿が容易に想像できる。新人の頃はその静かな迫力に怯えていたっけ。
「ええ。月に一回は顔をだしなさい。何か頼むかもしれないから、とよく仰ってました」
「そうだよね。そもそもクロノスさんとお付き合いをしようと思ったのは亜美ちゃんがよく顔を出してくれていたからなんだよ。ちょっとしたことでも電話をしたらすぐ来てくれるし、仕事は一生懸命だし。本当はずっと担当してもらいたかったけど、本社に栄転じゃさ、いつまでも埼玉の商店街に縛りつけとくわけにはいかないもんな。そんな亜美ちゃんのいる会社だから後任も大丈夫だろうと思っていたんだけどねえ」
「本当に申し訳ございません」
「たしかにウチも商店街も以前のような元気はない。クロノスさんにはもうメリットはあまりないのかもしれない。だから、その分余計に寂しく思えてね」
自転車のグリップを握る左手に力が入る。湿った黴の匂いが鼻を抜けた。
「そこで最近、商店街にカンノンさんの営業の子がちょくちょく来てるんだよ。どこか昔の亜美ちゃんを思わせる子なんだ。元気で礼儀正しくてさ、いい子なんだよ。いまはまだどこも買い替えたばかりだから大丈夫だとは思うけど、このままだとこの先のことはなんとも言えないかな」
「お願いしますおじさん、そこをなんとか――」
「ウチはこれからもクロノスさんと、というより亜美ちゃんの会社と取引きさせてもらうつもりだよ。今日もこうして電話にでてくれたしね。ただ、他の店のことまでは保証はできない。そこまでは俺もいくらなんでもできないよ」
「ありがとうございます。ではちょっと加藤に連絡をとってみます」
「いや、いいんだよ。それは亜美ちゃんの仕事じゃない。ただ亜美ちゃんの声を聞きたかっただけだから」とおじさんは笑って言った。
「でも……」
「まあ、たまには、気が向いたら遊びにおいでよ。新しい職場で忙しいと思うけど落ちついたらさ。なんにもないけど、みんな亜美ちゃんのこと待ってるから」
よくお喋りをした喫茶キャロルのママ、いつも美味しいコロッケを揚げてくれる肉屋のマサさん、体調を崩すと親身になって心配してくれた薬屋の関根さん……。思い出が胸から溢れる。みんな、みんな笑顔だ。なぜだろう、笑顔しか思い出せないのは。
「ええ、落ちついたらかならず」
「じゃあ、またね。仕事頑張るのもいいけど体調には気をつけてな」
「ええ、おじさんこそ気をつけてくださいね」とわたしは言った。
通話が切れ、終話のコール音が耳にこだまする。コール音を聞くのに飽きるとタブレットにパスワードを入力し、カメラの部分に眼を見開く。電話帳のセキュリティが解除される。そして加藤百合のデータを呼び出し、発信のバーに指を滑らせる。大人しく聞き分けのいい子だと思っていたがとんだ食わせ者だった。――なかなか出ない。呼び出し音が鳴るたびに腹の底からいら立ちがつのってくる。
「はい加藤です。お久しぶりです、高橋係長。今日はどのようなご用件でしょうか?」
紋切型の仕事用の声のトーン。どんな表情で電話を取ったかが思い描ける。便利とも言えるが面白みがないとも言える。
「いま時間大丈夫かしら?」努めて、なんでもない調子で尋ねてみる。
「ええ、少しでしたら問題はありません」
少し? なかなか言ってくれる。「さっき七里商店街の田中文具店さんから電話をもらったのだけれども、あなたなにか心当たりはない?」
「あそこの商店街の……特にはありませんが。どうして係長に連絡がいったのでしょう」
予想外の返答に思考が一瞬止まってしまった。加藤の口調に乱れはない。嘘や隠し事をしているようには感じ取れない。
「あなた、引継ぎで同行したとき田中さんになんて言われたか憶えてる?」
「月に一回は商店街に来るように、とのことでした」
加藤は悪びれる様子もなく平然と答えた。こちらが間違ったことをしているのではないか、と錯覚してしまいそうになる。
「憶えているのならどうして約束を破るの? 田中さん怒ってたわよ。この先取り引きを続けられるかどうかわからないって」
「そのことでしたか。申し訳ございません。七里商店街の件につきましては上の判断で積極的な取り引きは見合わせる方針になりました」
積極的な取り引きを見合わせる?
「それは、会社にとって、もうメリットがないということなのね」
「現段階では僅かながら利益は出ていますが、中長期的に見ると成長も見込めずそこに時間を割くよりは、現在保有している大型案件に集中した方が社にとってメリットが大きいと判断が下されました。わたしはその指示に従っているだけです」
「……そう。わかった。急に電話をかけてごめんなさい。これからも頑張りなさいね」諦めに似た力ない言葉が口からこぼれた。
「それがですね、係長……」と加藤は初めて言い澱んだ。「わたし、今月いっぱいで退社することになりまして、いま引き継ぎの最中なんです」
「どうしたの? 仕事が嫌いになったの? それとも転職でいいところが見つかったの?」
「いえ、籍を入れたもので」と加藤は恥じらいを含んだ声で言った。
想像の斜め上を行くことの連続で思わず変な笑いが漏れてしまった。
「どうされました係長?」
「なんでもないわ。しっかり引き継ぎはするのよ。クレームに繋がりやすいから。それと、おめでとう。幸せになりなさいね」
「ありがとうございます。でも、ちょっと不安なんです。いい結婚相手を見つけたくてこの会社に就職して食事会でその相手と出会って――なんだかとんとん拍子で物事が進みすぎているような気がして、どこかに落とし穴があるんじゃないかって」と加藤は言って黙り込んだ。「すみません、仕事中にこんなことを言ってしまって」
空を見上げると頬に冷たいものが落ちてはじけた。「晴れの日があれば雨の日もある。それは自然なことよ。雨が降った日には晴れた日のことを思いだしなさい。きっと太陽があなたの心を温めてくれる。そしてよりよい日へと導いてくれるわ」
沈黙が降りた。ホワイト・ノイズだけが耳に届く。
「素敵なお言葉をありがとうございます。それはなにか映画や本からの引用ですか? でしたら是非手に取ってみたいです」
「さあ? いま考えついた言葉よ。でも似たような言葉はいっぱいあるから、どこかにはあるかもしれないわね」
「係長のお言葉、忘れません」
「いいの、残るものは残るし残らないものは残らない。自然に身を任せなさい」
「すみません係長、課長から電話が――」加藤は慌てて言った。
「わかった。はやく出なさい」
「では」
さあ参った。こんなことになっていたなんて、思いもよらなかった。眼をつぶり思考を巡らせてみる。ぽつぽつと断続的に小さな雨粒が身体に落ちる。音のない静かな雨。そのうちにやむだろう。駄目だ、すぐにはうまい考えが浮かばない。それにしてもいろんな人間がいるものだ。結婚を目的に入社するなんて考えたこともなかった。まったく馬鹿げている。けれども、それが本人にとっての夢やどうしてもやりたいことであったのならケチはつけられない。彼女は目的を達成したのだ。それにわたしにしたところで、傍からは彼女とおなじ馬鹿げた志望動機に見えるだろう。おかしなものだ。歳も育ってきた環境も信念も違うのに似たようなことをしているなんて。ふと、古い歌のメロディが頭に流れた。わたしはその歌を口ずさみ、自転車に再びまたがった。
午後五時帰社。デスクにつきホット・コーヒーで身体を温める。メールの受信ボックスに吉田氏からの連絡はなし。他のメールに目を通すが、売り上げ速報や来月の食事会の案内といった社内のどうでもいいメールばかりだった。小さく首を振る。それから営業日報をPCに打ち込む。収穫は何もなし。久しぶりに空振りをした。明日以降は納品が続き予算達成は問題ないけれど、なぜか胸がざわつく。嫌な予感がする。足を怪我して約束をすっぽかされて売り上げもなし。今日を境に流れが間違った方向にいかなければいいが。
コーヒーに口をつけ気を取り直す。名刺をデスクに並べる。メールの許可をもらった会社に今月のPC特価商材のデータを添付したメールを送る。うまいことひっかかってくれたらもうけものくらいに考えておこう。そして受信ボックスの送受信を再びクリックするがやはり吉田氏からの連絡は来ない。髪をかきあげひと息つくと細田課長から内線が入った。まったく本当にいいタイミングで連絡をしてくる。表情をほぐし質問を予想しそれに対する回答を整理する。準備はできた。通話許可のウインドウに指をかざす。
「いま大丈夫かい?」細川課長はいつも通りのにこやかな表情と声で語りかけてくる。
「はい、ちょうど落ち着いたところです」
「午前中の松中電気さんとの商談の手ごたえはどう?」
「そちらですが、先方の都合で今日の商談は中止となりました。次回の予定は担当者から改めて連絡をするとのことです」
課長は少し眉間に皺を寄せた。
「理由は?」
「臨時の会議が入った、とのことです」
「で、いまなにか連絡は来てるの?」
「まだ何も。帰り際にでもこちらからメールを送ってみます」
「ふむ。案件の成熟度落としておく?」
「いえ、そのままで結構です」
課長は笑った。「さすが強気だね。頼んだよ。それと日報の他の活動についてだけれど……」
新人の頃から数えきれないほど経験しているけど、成果のない日の報告ほど嫌なものはない。それでも、慣れてしまえば終わりか、という気持ちだけで自分の至らなさと屈辱を耐え忍ぶ。
「成果なしか……珍しいね、高橋君。でも、長くやっていればこんな日もあるさ。わかっているとは思うけど、続けないように。君はこの部署のエースなんだから。示しのつかない活動だけはしないでくれよ」
「承知しています」
「さて、今日はほかにひとつ聞きたいことがあるんだけど、なにかわかるかな?」
もったいぶった言い回し。聞きたいことがあればはっきり聞けばいい。
「昼ごろに埼玉中央営業所の加藤にかけた電話の件ですか?」
課長は右の眉をちょっと吊り上げ意外そうな表情をした。「わかっていたのか。なぜあんな電話をかけた。あっちの課長に越権行為じゃないかって、ちくりとやられたよ。口を出すのなら持ってもらってもいいですよ、みたいなことも言っていたな。立場がこちらの方が上だからこの程度で済んだが、もし本社の同等の部署だったらもっと面倒なことになっていたぞ」
「申し訳ございません。お客様からクレームの電話を頂いたもので、直接担当営業に現状の話を確認したく電話をしました」
「困るんだよ。私を通してくれないとそういう話は」、課長はペンのお尻でこめかみをつついた。
「軽率な行動でした。今後二度とこのようなことがないよう努めて参ります」
「君はもう本社の人間なんだ。過去のお客様のことはいまの担当に任せなさい。それがたとえ初めて買ってもらったお客様であってもだ。帝国データバンクを見たところ、埼玉支社の判断は妥当だよ。ここに時間を割くよりは新都心の新興地区の大型案件に活動時間を割り振る方が理に適っている。そもそも現在の我々がターゲットにする層ではないんだよ、
個人商店規模のお客様は。君が入社した頃でも怪しかったはずだ。よく当時の上司は許可したよ」と課長は言ってため息をついた。「まあいい。過ぎたことだ。君は君の数字をあげることだけ考えてくれ」
確かに売ってきた金額は少ないが、あそこで様々な売り方を学んだ。それがいまどれだけ糧になっているか。
「課長、さきほどの話は本当ですか?」
「さっきの話?」
「うちに移管してもいい、と向こうが言ってきたという話です」
「おいまさか――」
「ええ、持たせてください。数字は落としませんから。たまにはあそこの人たちとの交流が必要なんです。気分転換になりますから」
課長は顎を手でさすり考えに沈んだ。「気は進まないが、それが君の営業活動のプラスになるのなら考えないでもない」
「ありがとうございます」
「まだ約束はできない。今日は早く帰りなさい。最近残業が目立つ。あと、来週の帝国ホテルのパーティーが終わるまで余計なことは慎むように」
「かしこまりました」
扉を開けると頭上で鈴が鳴った。カウンターに立つ佐々木さんは氷を砕くアイスピックから眼を外しわたしに視線を向けた。
「いらっしゃいませ。今日はお早いですね」と佐々木さんはにこやかに言った。
店内にまだお客さんはいない。静かでゆったりとした空気が流れている。
「早すぎましたか?」
「いえ、ちょうど開けたばかりです。どうぞお好きなところへ」
わたしは入口から一番手前のスツールをひいた。一杯目は何を頼もう? おしぼりを受け取り、ゆっくり手を拭く。そしてシガレット・ケースのたばこを取り出す。ぼんやりと指のあいだで軽くもてあそんだあとで火をつけた。煙を深く吸い込み、吐き出す。嫌な感情も疲れもこの煙のように消えてなくなればどんなに楽だろうか。
「何をおつくりましょうか?」
「生ビールをお願いします」
考えるより先に口をついて出た言葉に笑いそうになってしまう。
「実はさっき樽を変えたばかりなんです。高橋さんラッキーですね」
サーバーからグラスに黄金色の液体が注がれる。佐々木さんはあるポイントまで注ぐとグラスを立て、サーバーのコックを奥に倒し泡を入れ始めた。ホイップ・クリームのような泡がグラスを昇っていく。この泡のきめの細かさと絶妙な分量。家ではこうはいかない。
「どうぞ。あと、お通しのナッツです」
コースターに置かれたグラスを掴み、ひと口ふた口と勢いよく飲む。
自然と短い息が漏れた。「やっと人心地がつきました」
「お疲れ様です。ゆっくりしていってください」と佐々木さんは言って氷を削る作業に戻った。四角かった氷は佐々木さんの手のひらでみるみるうちに丸みを帯びていく。飛び散る氷のかけらが光を反射してきらめく。左手の指輪も水に濡れ輝いている。
「佐々木さんは結婚されてもうどれくらいですか?」
不意に聞こうとしてもいなかった言葉が零れた。
佐々木さんはアイスピックを止めた。「どうされたんですか急に?」
「いえ、ふと気になって。ご迷惑な質問でしたか?」
なぜこんな質問をしてしまったのだろう? 動揺を隠し努めて冷静に言葉を繋ぐ。
「いいえ、大丈夫ですよ」と佐々木さんは笑って言った。「そうですね、私が四十のときだからもう四年経ちますね」
佐々木さんは丸みを確かめるように氷を目線の高さに上げた。
「意外です。佐々木さんは早くに結婚されているイメージがありました」
「たまに言われます。でも、そのときまで不思議と縁がありませんでした。自分でも結婚には向かない人間なんだと感じていました。不思議ですね。三十代の自分におまえは将来結婚する、と言っても絶対に信じないと思います」
「きっかけ……はお聞きしてもいいですか?」
「僕は行かなかったんですけど、五六年前に中学の同窓会がありまして、そこで店の話題が出たみたいなんです。それから妻を含めた何人かが店に来てくれるようになって、という感じです」と佐々木さんは言った。「なんだか照れますね」
わたしは微笑み、ビールに手を伸ばした。「そうですか。奥様とは学生時代に面識はあったんですか?」
佐々木さんは削り終わった氷を冷凍庫にしまった。わたしは煙草の火を消した。
「僕の片思いの人でした。もっとも三年間クラスも違いましたし告白もしなかったので当時、向こうは僕のことを気にも留めてなかったと思います。廊下ですれ違ったり、部活中の彼女を眼で追ったり、それだけで嬉しかったし楽しかったです」
胸が温かくなってきたのは、きっとアルコールのせいだけではないはず。「素敵な話です。それからずっと奥様のことを?」
「ええ、と言いたいところですけど、そうではありませんでした。人並みに恋をしてきましたよ。けれど巡りめぐって彼女と一緒になりました。因果なものですね」と言って佐々木さんは照れくさそうに笑った。「僕ばかり話すのも恥ずかしいので、よかったら高橋さんのお話も聞かせてもらえませんか?」
わたしは穏やかに首を振った。「お話しできることがあればいいのですが、もうずっと恋をしていないもので。この先もどうなることやら」
佐々木さんは目を少し見開いた。「驚きました。いや、失礼しました。でも、わかりませんよ。先のことは」
「そうですね」わたしはグラスを傾けた。ケイの顔がさっと頭を過った。「期待しておきます。ほどほどに」
「高橋さんなら大丈夫ですよ」と佐々木さんは力強く言った。「実はうちの常連さんで高橋さんと話してみたいと思っている人がいまして。それも複数名。この広いとは言えない空間でそれだけの人の心を動かすんですから、魅力的な女性であることは間違いないです」
お酒を飲んで気が緩んでいたところに予想していなかった肯定的な言葉。耳と頬が熱くなる。わたしはビールを飲み干した。そして空になったグラスを佐々木さんに返した。「ありがとうございます。でもそんないい女じゃないです。いい女だったらとっくに売れてますよ。次は……竹鶴をストレートで」オーダーをして二本目の煙草に火をつけた。
佐々木さんは肯くと振り返りバック・バーの竹鶴のボトルに手をかけた。「ゴッホの絵の話が示すように本物を見抜ける人間はそれほど多くはありませんからね。気にされることはないと思います」
琥珀色の液体が手際よくチューリップ・タンブラーに注がれる。わたしは差し出されたタンブラーの脚に指を添えてカウンターの上で軽く回す。中の竹鶴は滑らかな円を描きながら揺れる。
「お上手ですね。わたし自身も本物を見抜ける人間になりたいものです」
「同じく僕もそう思います」
ソファに沈みぼんやりとアダレイとエヴェンスの演奏に耳を傾ける。竹鶴のボトルを掴み左右にゆすってみる。このペースだとあと二日か三日はもつだろう。なくなっても専務からもらったボトルがある。口角が自然と緩む。スクリーンにはよくわからないテレビの映像と字幕が音もなく流れている。どうしてテレビをつけたんだっけ? 思いあたる節がない。本当に悪い癖だ。少し考えたあとでリモコンの電源ボタンを押して消す。それから溜息を深くつく。今日はサイド・ウエイでビールと竹鶴を二杯とギムレットとサイド・カーと……飲みすぎたな。そしていまも右手にはグラスが握られている。この子たちはどんなことがあってもいつもそばにいてくれる。いい子たちだ。左手を伸ばし何も飾られていない薬指を見つめる。佐々木さんの前でなぜあんなことをつぶやいてしまったのか。思い出しただけで恥ずかしくなってくる。
失われた半身――心の底に根を下ろした言葉。思っていたよりも深く根を張っていたようだ。ウインドウを目の前に展開しインターネットに繋ぐ。ホーム・カミング。しかしこの店名はもうちょっとどうにかならなかったものか。本日のフレッシュ・カクテルはデコポン。レシピと画像を見るとウォッカベースのロングカクテルに仕上げてある。デコポン……変わった選択をする。けれど試したくなるカクテルだ。
ケイは自分の半身を見つけたのだろうか。別れてから五年とちょっと。パートナーを見つけるのには充分な時間。それどころか、結婚して幼稚園に通う子供がいてもおかしくはない月日だ。額をグラスにつけて苦笑する。もしケイが半身を見つけていたとしたら――。そう考えると祝福したい気持ちと嫉妬と寂しさが頭の中でもつれ合ってうごめき胸がざわついた。ケイにとって喜ばしいことなのに素直におめでとうと言えない。わたしはあのときとなにも変わっていない……いや、ダメになっているかもしれない。しかし、もしそういう人と一緒にいることができたのなら、それはどんな気持ちなのだろう。想いを巡らせているとなぜか童話やお伽噺の王子様とお姫様のイメージが頭に浮かんだ。――いい歳して馬鹿みたい。肩が落ち身体の中心から滲む無力感に苛まれる。
父と母は自分の半身を見つけたもの同士だったのだろうか? そうだったらいい。でもそれはもう確かめようのないこと。グラスに口をつけて最後の一口を体内に流し込む。喉からお腹にかけてじんわりと熱くなる。ピアノとサックスの息の合ったインタープレイ。鼓動が高鳴る。そうこの調子。アルコールと音楽によってもたらされる高揚。これがわたしの喜び。しばらくはこの時間に酔っていたい。
アルコールで若干頭が重い。やはり昨日は飲みすぎた。そんな体調を気取られないよういつもより姿勢や言動に配慮する。ずり下がりそうになった肩にかけたバッグのストラップの位置を直す。フロアを行き来する物流のスタッフやSEの動きに澱みはない。作業は順調に進んでいる。時計に目を落とす。十二時ニ十分。PC三十台に複合機三台の入れ替え。このまま何事もなければ約束通り昼休み中に納品は終わる。十三時半の吉田氏との約束には問題はなさそうだ。
手にはサイン欄が空欄の納品書。昔は納品が終わる前にサインを貰えたのに。定年間際の世代が新人だった頃は契約書を勝手に書いて発注から納品を済ませた、という耳を疑うような話も実際にあったらしい。父の世代もそうだったのだろうか? 納品完了後の動作テストをパスしないと貰えないなんて。当たり前のことだが足止めもいいところ。けれど動作不良後に呼び戻されて書類の再発行をしたりサインを貰いなおしたりといったつまらないトラブルが減ったことも確かなこと。一長一短。便利さや快適さが生まれるとどこかが解れ綻ぶ。うまくはいかないものだ。
「順調ですか?」
背後から担当の澤田氏の声がした。
首をまわし軽く振り向く。「ええ、問題はありません」。澤田氏の丸くふくよかな顔はほのかに赤みを帯びて火照っている。「お昼はどちらへ伺われたのですか?」
「なに、そこの古い小さな中華屋ですよ」と澤田氏は言った。「長いこと行っていた店なのですが今月で閉めることが決まり、心残りがないようメニューを全部食べておこうと思いまして」
深く息が漏れる。澤田氏に同情の視線を送る。小さなものは淘汰されていく運命にあるのか。「それはとても残念ですね。今日は何を頼まれたのですか?」
「味噌ラーメンと天津飯にシュウマイです」
「そんなに食べられたのですか?」思わず声が大きくなってしまった。
「大した量ではありません。しっかり食べて英気を養わないと。まだ若い世代には負けられませんから」と澤田氏はお腹をさすって笑った。
頬笑みを返す。「そうですね」まだ中村や加藤たちの世代には負けられない。
そんなやりとりをしているとシステムのリーダーがこちらにやって来た。「これから動作のチェックに入ります。問題がなければ多めに見てニ十分もあれば終わります」
澤田氏は納得したように肯いた。「お願いします」
リーダーは小さく頭を下げて作業に戻って行った。
「ずっと立っていては疲れるでしょう。作業が完了するまであちらのソファでお茶でも飲んでいましょう」と澤田氏は言った。「今準備しますから掛けて待っていてください」
「いえ、お気を遣わず――」
不意にバッグの中の私物のタブレットが震えた。何だろう?
「さあこちらに」澤田氏は今の言葉に取り合わず、ソファに向かって歩き出した。
無表情な人々が行き交う昨日と同じようなエントランスの風景。もしかしたら本当に同じ人たちが歩いているのではないか? と馬鹿な考えが一瞬頭に浮かんだ。その流れを横目に受付へ歩みを進める。




