3部
リビングのソファに腰掛けグラスに水を注ぐ。それからクルクミン酸とオルニチンのサプリメントを袋から出し、水と一緒に体内に流し込む。二日酔い対策。昔はこんなもの必要なかったのに。最後に忘れずにピルも。目を閉じ、ため息をつく。ひとりきりの静かな部屋にピアノの音が響く。ジャケットを手にとり、ぼんやりと眺める。『ノウ・ワット・アイ・ミーン?』。藤沢興業に寄った日の夜に発注したものがコンビニに届いていた。やがてカルテットが美しく絡みはじめる。いい演奏だ。父もそう思いながら耳を傾けていたのだろうか? ソファ・テーブルにノートを広げる。今日の課長との会話……この会社の深部は想像していたよりも深く暗いようだ。情報操作、ロック・アウト解雇、再教育システム。単語にして並べてしまえばとり立てて変わったものはない。しかし、ひとつひとつ内情を探っていくとどれも度が過ぎている。特に再教育システム……いったい何の為に大がかりなシステムを組み上げて再教育をするのだろう。他の企業で行われているような短期の研修で十分ではないのか。それでも改善が見られないのなら、解雇をすればいい。その方が手間もコストもかからない。何より、課長に探偵を付けてまで気にしている内部情報の漏えいのリスクもない。事実、ロック・アウト解雇は行われているのだ。解雇になる者の基準は明確だ。入社三年以上の社員で、年度の予算未達成の月が八か月以上の者。けれど再教育を受ける者、戻ってくる者と戻って来られない者の基準線がわからない。課長もわからないと言っていた。なぜその基準は曖昧なのだろうか。あんなに情報をもらったのに、いや、もらったからこそか。わからないことが多すぎる。上に行けば、帰還者と接触できたら、父に関する色々なことがわかると思っていたのに。横になりソファの肘掛けに頭を乗せる。まぶたが重い。
父は……父はこんなわけのわからないシステムの闇に飲み込まれていったのか。しかし、いつキャトルに落ちたのか。――少なくともわたしが小学校の高学年の頃までは営業だったはず。表彰された、と言って何度かメダルや盾を見せてもらった記憶がおぼろげながらもある。中学、高校、それ以降はどうだろう? 憶えていない、ということはもうその頃から成績は下降していたのか。それともただ、成長したわたしには見せても喜ばないものと思い見せなかっただけなのか。そもそも高校から家を出たわたしはその時期、家族との会話の密度が希薄だった。帰っても年末年始とお盆くらい。そしてわたしが大学二年生の春、とつぜん父は死んだ。多くの謎と想いを抱え込んだまま。そしてわたしにとって父の死は終わりではなく、はじまりだった。そのときは想像出来なかった。まさかここまで父に執着することになるなんて。気が付けば父に引き寄せられるようにわたしは生きている。――わたしは父のことがただ知りたいだけなのに……どうしてこんなにも遠く届かないのだろうか。
身体を起こし、頭をふる。それから再びノートを見る。課長から得た情報を整理してはみたが、今のわたしではキャトルには近づけない。どこまで昇りつめたらキャトルの個人情報や父をキャトルに落とした人間が掴めるのか。それともいっそキャトルに落ちてしまえば……。駄目だ。キャトルになる基準がわからないのにそれはあまりにも無謀だ。アルコールのせいか頭がとろんとしてはっきりしない。きっと脳はだし汁を吸いすぎた高野豆腐みたいにふやけているだろう。壁にかけた時計を見上げると一時をまわっていた。眠気も相まっているのか、そろそろ難しいことを考えるのは限界に近い。ノートを閉じ、テーブルに置く。そしてふらつく足取りで寝室へ向かう。これからのことは明日、明日考えよう。
――――ここはどこだろう? わたしはぼんやりと懐かしい気持ちに包まれている。そうだ、昔住んでいた静岡の実家だ。学習机のあるわたしの部屋。教科書やランドセルが目に留まる。突然の脈絡のない出来事だけど不安や戸惑いはない。ああ、きっとこれは夢だ。不意にわたしは部屋を出る。ここにいるわたしはわたしなのだけれどわたしではない。どこか上空から地上を俯瞰しているような、ドラマや映画のなかの登場人物を見ているような感覚だ。そしてリビングに繋がるドアを開けた。そこには穏やかな表情をした父がテーブルについていた。母は天ぷらを盛った器や薬味の小鉢を手に、せかせかと台所とテーブルを行き来している。両親の姿は若く、テーブルやテレビ、家具やなんかも昔使っていたものそっくりそのままだ。多分わたしが小学生の頃の世界だ。わたしだけが成長し、今の記憶を持っている。しかし違和感はない。両親も自然とこの状況を受けいれているみたいだ。父の斜向かいの椅子。そこがわたしの席だった。テーブルには大根おろしとのり、それからえびの天ぷらの乗った日本そばが置かれている。そういえば、よく呉服町の戸隠そばを食べに行ったり、通販でお取り寄せをしていたっけ。わたしが座ると父は手元のグラスに瓶のキリン・ラガービールを注ぎはじめた。黄金色の液体に勢いよく立ち昇る白い泡。ふと、思い出す。小さい頃はひと口せがんでは苦い、とこぼして父を苦笑させていたことを。今なら一緒に飲めるのに……。
じんわり胸が温かくなってくる。やがて母も席につき、皆思い思いに箸を動かしだした。やっぱり戸隠のそばはおいしい。いまだにこれを超えるそばとわたしは巡り合えてはいない。思わず微笑んでしまう。箸を止め、そばから顔を上げると両親もそろって微笑んでいた。心が幸せな気持ちで満たされていくのがわかる。もうどれくらいこんな気持ちになっていなかっただろう。目の奥が熱くなってくる。そんなわたしを両親はただただ慈愛に満ちた瞳で見つめている。わたしは……わたしはこんなに大きな幸せを失ったのか。今更ながらその事実に打ちのめされそうになる。――そうだ、二人に聞きたいことが山ほどあるんだった。でも何から聞いたらいいのだろう。言葉を口にしようとするのだけれど、脳に靄がかかったように何も考えられない。感情はうまく言葉にならず胸につっかえて紡ぐことができない。次第にわたしは焦り始める。必死にもがくがやはり感情は言葉になってくれない。お願い。聞きたいことがあるの。いや、違う。まず伝えたいことがわたしにはある。とにもかくにもそれを伝えなくては。ねえ、お父さん、お母さん――――
ぱっと光が閃くようにわたしは覚醒する。心臓は激しく時を刻んでいる。やっぱり夢か。どうしていい夢はいつも肝心なところで途切れるのだろう。……夢の中だけれど、伝えたかった言葉は行き場を無くして喉の奥を彷徨っている。胸に喪失感と幸福感が入り混じりうごめいている。なんだか妙な感覚だ。頭は重く身体はだるいが午前中を台無しにするほどの二日酔いではない。しかし昔より弱くなったものだ。目を開けようとするが開けづらい。目尻はひりひりと痛くもありかゆくもある。そうか、わたし、泣いたんだ。最後に泣いたのはいつのことか。父の葬式? 母と喧嘩した日? 多分ケイとサヨナラをした日かもしれない。瞼をこすり瞬きをする。真っ暗な部屋。見えるものは瞼を閉じているときとさほど変わらない。いや、瞼を閉じていたほうが多くのものが見えるかもしれない。……舌がじりじりと焼けるようだ。いつの間にか喉の渇きは耐え難いものになっていた。わたしは両手をマットレスに広げ、ベッドを押しのけるようにして重い身体を起こした。瞬間、鈍い痛みがわたしを襲った。筋肉痛だ。わたしはしばらくじっとしたあと、身体を動かして全身を点検した。上腕、腹筋、背筋、ふくらはぎに平目筋。ほぼ全身が痛い。当然か、いきなりあんなに激しく身体を動かしたのだから。それにしても二日後に襲われるなんて。歳をとったものだ。
わたしは時間をかけてなんとかベッドから抜けだした。視界を邪魔する髪をかきあげ、ふらふらと冷蔵庫に向かう。ドアを開き、水の入ったペットボトルを掴み取る。食器棚からグラスを用意し、乱暴に水を注ぐ。喉を鳴らしその水を飲みほすと二回、三回と立て続けに注ぎなおす。500ミリのペットボトルはあっという間に空になった。それからテーブルの椅子に腰かけようやくひと心地ついた。リモコンを手になんとなくテレビをつけてみる。老人ホームのCMだ。スクリーンにうかぶ老人も多分、息子だか娘夫婦もみんな幸せそうな笑顔を浮かべている。しかし果たして彼らは本当に幸せなのだろうか? わたしはうなだれ頭をふる。ただのCMだ。そんなことわかるはずはない。そうしているうちに今度は老人用のおむつのCMに切り替わった。いったいいつからこんなCMばかりになったのだろう? 人口の三分の一以上が六十五歳以上の高齢者なのだから、その層をターゲットにした商品を展開し、広告をうつのは当然といえば当然か。そういえば母は今年いくつになったんだっけ? たしか六十三だった気がする。元気だろうか? いや、元気だろう。もともと健康な人だ。
夢の中ではほぐれて素直になっていた心は、また頑なに強張ってしまっている。どうしてあんなに素直な気持ちになれたのか。思い出そうとするが、夢は断片的に思い出せるだけでつながらない。わたしはため息をつく。脳はまだ温かな泥にまどろんでいる。これから頭の準備体操。思考の焦点をゆっくり合わせていく。マスクのCMが終わり、ニュースが始まった。新型肺炎のニュース。ベルリン市内で新たに死者が出た。八十六歳の女性を含めた24名。ポツダム、フランクフルトでも死者が確認されたらしい。いずれも七十代以上の老人。感染者数はドイツ国内で三千を超えたようだ。このぶんでは死者数はまだ増えそうだ。
ソファーに移り、昨晩書き留めたノートに視線を走らせる。文字は線が揺れたり斜めになったりしている。その事実がだいぶ酔っていたことを教えている。目を細め、読み通してみたが、いいアイデアは出てこない。打開案が浮かばないのは酔っていても酔っていなくても変わらないらしい。わたしはなんて無力なのだろう。自立し、仕事も順調。同世代のなかではいい暮らしをしているという自負はある。もしかしたら人はわたしを羨むかもしれない。けれど、肝心なことはなにもわからない。まるで成長していない部分がわたしにはある。――幼い頃、寝る前に死について考えてしまい、どうしようもないほど怖くなり泣いていたときのわたしのままだ。そんな夜には母の布団に潜り込み、じっと母にしがみついていたっけ。母のぬくもり、柔らかで温かなものに守られているという安心感。今はそのすべてを失ってしまった。自分一人でどうにか道を切り拓くしかない。
課長が言っていた、年々話せない話題が多くなってくる、という科白。それはわたしにもなんとなくわかることだ。ある話題はお互いの利害関係に絡み、妬みや嫉妬の種になる。またある話題は後々自分の足を引っ張る弱みとなる。その場限りで話したつもりでも、後日なぜか第三者に話が漏れていることもよくあることだ。そして個人的な悩みや弱音や愚痴を、常識や一般論で片づけられたときに味わう空虚な気持ち。そんな経験から人はいつしか諦め口を固く噤むようになっていくのだろう。
そういったことを気にしなくてもいい相手というのは、生きていくなかで得難いもののひとつだ。わたしにとってケイがそうだった。わたしは最初から最後までケイを信頼しきっていた。しかし、わたしには当時その出会いがどれだけ貴重なものかわかっていなかった。そして気づいたのはケイと別れたあとだった。
なぜだかはわからないけれど、出会ったときからわたしはケイを受けいれていた。わたしのなかで石川圭吾が信頼できる人間だということは、太陽は東から昇り西へ沈むとか、月曜日の次には火曜日が来る、というくらいに疑いようのない事実だった。内定者懇談会のあの日、レッド・ツェッペリンのライブを見て、どんな会話をしたか――
ライブの映像が盛り上がり、グラスを重ねるにつれ、わたしとケイの仲も打ち解けたものになってきた。
「高橋さんの地元は?」
「今は大宮。石川君は? あ、それと呼び捨てで……アミでいいよ。友だちにはそう呼ばれてるから」とわたしは言った。
「おれは池袋」とケイは言った。「じゃあおれのこともケイで」
わたしは肯いた。「ずっと池袋なの?」
ケイは静かに首をふった。「小学校の一年までは静岡にいたんだよ。父の仕事の都合でこっちに出てきた。でも、もう池袋のほうが長いね」
「わたしも高校で寮に入るまでは静岡にいたの。静岡のどこ?」
「静岡市」
グラスに伸ばした手が止まった。「一緒だ。わたしも静岡市。もしかしたら小学校もおなじだったりね」わたしは冗談交じりに言ってみた。
「大砂土西だったかな? 多分」ケイは不確かな記憶を辿るような口調で言った。
「嘘。おなじだ」とわたしはまた驚いて言った。
ケイも驚いたように目を見開いた。「そうだったんだ。でも、もうあの頃のことは全然憶えてないからなあ」
わたしは共通の友人がいないか何人かの名前を出したが、ケイは残念そうに首をふるだけだった。
「うん。駄目だ。わからない。でも、おれが憶えていたとしても、向こうはおれのことを覚えていないと思うよ。十月までしかいなかったから。しかしびっくりしたな。まさか小学校の同級生とこうして巡り合うなんて」
「ほんとびっくり。家はどのへんにあったの?」
ケイはビールを飲みほし、うーん、と唸った。グラスをカウンターに置いて少しするとバーテンダーがやってきて、なにか作りましょうか? と声をかけた。
「ギムレットを」
バーテンダーは微笑むとシェイカーに手をかけた。
「住所は確か中野新田だったかな。川と海が近くにあって夏はよく遊びに行ったよ」
ケイは視線をバーテンダーにちらりとやった。話をしながらも、ケイはバーテンダーを気にしているみたいだ。なにが気にかかるのだろう?
「わたしは中原。近所も近所だ。わたしもよく安倍川や大浜海岸に行ってた。もしかしたら、どこかですれ違っていたかもね」
「そうかもしれないね」とケイは笑って言った。
なんてことのない他愛もない会話。今となってはひとつひとつの会話の記憶が愛しい。そういえば、戸隠そばの話もした。ケイもお気に入りで、通販ができると教えたときは喜んでいたっけ。ふと夢の切れ端が目の前をかすめる。ケイの家族もああやって食卓を囲んでいたのだろうか。楽しい会話と美味しい料理。温かな食卓……。ノートを腿に伏せ、ソファーの背もたれに身体を預け天井を仰ぐ。真っ白な天井は何も語りかけてはくれない。
若い頃は全然問題はないと思っていた一人暮らし。けれど三十を過ぎたあたりから、会話のない生活にやるせない気持ちを抱くことが多くなった。口に出せない言葉は、風船に送り込まれる空気のように身体に溜まっていく。いつかは破裂する運命。ささやかな会話が自分を助けてくれていたことに気づいた瞬間、はっとするとともに罪悪感に苛まれた。わたしはその大切なものをないがしろにしてきたのだ。取り返しのつかないことをしてきたのだ、と。それからわたしは言葉を大事にしてきた。しかし同時に人と会話をするのに臆病になってしまった。わたしと相手の間には透明な薄い膜がおりている。その膜は……諍いや不和を避けるという面から考えれば便利なものだった。けれどその反面、いつしか人と心を上手くかよわせることができなくなっていた。もう今は、両親やケイと話していたときの、ぴったりとした心のやすらぎや共鳴のようなものを感じることはない。
人と接することはとても難しい。わたしが適切な距離をとっていると思っていても、人によっては遠すぎたり近すぎたりする。すれ違いや意味の取り違えもしょっちゅう起こる。わたしだけではなくそれは周囲の人間を見ていてもそうだ。そしてわたしは――彼らは落胆したり腹を立てたりする。しかしわたしとは違って、彼らは進んでこのやっかいごとに首を突っ込んでいるように思える。その証拠に今もTVでは視聴者のコメントが飛び交っている。どうして視聴者参加型のテレビやSNSのサイトがこんなにも流行る……というより定着したのだろう。TⅤ画面には常に視聴者の声が流れ、ネットではそれこそ星の数ほどの声や文章が散らばっている。声ひとつ指先ひとつで繋がる世界。そんな簡単なことすら……簡単だからこそ、わたしには怖く感じる。深く呼吸をして力を抜く。背中がソファかーらがずるずると落ちていく。ぼんやりスクリーンを眺めていると番組は天気予報のコーナーに移った。気温は最高で14℃、最低は7℃。一日曇りで夜はところによりにわか雨の心配があるらしい。いいとは言えない天気だ。花粉やPMが少な目なのはありがたいのだけれど。
この前の週末より寒い。いったいいつになったら春めいた気候になるのか。こんな日は……雨が降ったら、あの老人と猫はどういう風に時間を過ごすのだろうか。気にせず散歩をするのだろうか? それとも家やどこかで雨を避けてじっとしているのだろうか? なぜだろう。一回だけ、しかも話をしたのは短い時間だけだったのに気になる。いや、短かったからこそか。不思議な魅力を持った老人だ。どうせ予定のない休日だ。家にいてない頭を捻っているより、出掛けた方がなにかアイデアが浮かぶかもしれない。
乾いた笑みが漏れた。ひとりだけの時間。人に気を遣う必要もなく、なにをするのにも自由な時間。中村にはこんな使い道のないドーナツの穴みたいな休日は想像もつかないだろう。デートで忙しく予定の詰まった休日。それは若く綺麗な女の宿命だ。寂しく、情けなくもあるが、わたしにはこういった休日の方が合っている。分相応。小さな可愛らしい靴を履いても足を痛めるだけだ。ソファから立ち上がる。身体はまだ若干重い。さて、何から始めよう? やることは多いはずなのになにも頭に浮かばない。わたしは両手を上げて背筋を伸ばし、とりあえずキッチンへ向かう。まずは……まずは、朝食をとることから始めるとしよう。
トーストの最後の一口を時間をかけて咀嚼し飲み込む。チーズのとけ具合、ウインナー・ソーセージの焼き具合も目玉焼きの黄身の固まり具合も合格点だ。誰かに食べてもらうわけではないけれど、仕上がりは気にしてしまう。食後のホット・コーヒー。身体が中から温まる。彩りに欠けた朝食なのは仕方がないか。野菜は先日ダメにしたばかりなのだから。もっときちんと野菜を摂取しなければ、と思うのだが毎度ダメにして最後には捨ててしまう。仕事は上手くいくのにこういうことは上手くいかない。生まれる性別を間違えたのではないか、とうんざりしてしまう。意味のない妄想。ときどきそんな思いに駆られる。……唇を甘く噛む。さあ次は歯を磨いてシャワーを浴びて――
コートを羽織り、テーブルに置いた車の鍵を手に取る。キー・ホルダーに指を通してくるくると回す。……念のためストールをバッグに入れておこう。それからもうひとつ、スポーツ・バッグの確認。水着にゴーグル。Tシャツにランニング・パンツとスニーカー。それとタオル。準備は万端だ。右腕の時計に目をやる。時間は十時十二分。まだそんなに道は混まない時間帯だ。
車の後部座席にスポーツ・バッグを放り込み、助手席にケリー・バッグを置き、その上にコートを畳んでのせた。それから運転席におさまり、シート・ベルトを締め、バックミラーに手をかけた。ミラーに映る自分と視線がぶつかる。険しい目つきだ。たぶんサンプルと似ても似つかない料理をサーブされたときと同じ目つき。眉を上げて頬を動かして表情をほぐすと幾分ましになった。及第点といったところか。鍵を回しエンジンをかける。車は小刻みに震え、やがて深くため息をつくように落ち着いた。エアコンをつけ、それから携帯プレイヤーをジャックに繋ぐ。今日はなにを聴こう。画面を見つめ考える。迷った結果、朝らしくはないが『ノウ・ワット・アイ・ミーン?』に決めた。エヴァンスの繊細なタッチ。音の雫がきらめき弾ける。サイド・ブレーキを解除。わたしはブレーキ・ペダルからゆっくり足を離す。
車間距離は十分。スピード・メーターの針は50キロの位置で止まっている。車の流れは順調。この先、渋滞が起こらなければ十二時前には着くだろう。歩道の生け垣の躑躅に白木蓮の木は淡く色褪せている。後ろに過ぎ行く街の風景はどれも濁って澱んだ空の色に染まっている。歩く人々の姿もどこか気が抜けているように見える。あくびがひとつ出た。二日酔いだけではないみたいだ。わたしもなんとなくだるい。全部この天気のせいだろうか? どうだろう? わからない。しかしなぜこうも天気は人の心に影響を与えるのか。
先行する車のブレーキ・ランプが光った。信号が赤に変わる。わたしは眠気を払うためにステレオの音量を上げることにした。ちょっとうるさいくらいでボリュームをつまむ指を止める。サックスは軽やかにステップを踏むように高音を鳴らし、ベースの低音は身体の芯までとどくようだ。
先週あの老人と会ったのは何時頃だったか……確か早めの昼を食べて公園をひとしきり歩いて、その後だった気がする……。そうだ、会話の途中で公園の鐘がひとつ鳴ったから一時前だ。老人は食後の散歩ついでに猫を観察しているのだろうか。到着予定時刻から計算すると、一時間ほど余裕がある。それまでは喫茶店で本を読んでいてもいいし気ままに園内や辺りをぶらついてもいいか。時間の潰し方には困らない。ひとり身の長さによって身につけた能力のひとつ。
――しかし老人にも猫にも会えず空振りに終わる可能性もある。その考えに至った瞬間、胸に冷ややかな触感が走った。ハンドルを握る手がこわばる。その可能性をまったく考えていなかった。やはりどうかしている。わたしは首を軽くふった。まあいい。あの公園に行くのはなにも老人と猫だけが目的ではない。あの場所にいれば……何かのきっかけで忘れていたことすら忘れている記憶が蘇るかもしれない。――こんな不確実で頼りない希望に縋るしかない状況が歯がゆい。
駐車場はこの前と変わらず空いていた。駐車線の中ではなくその辺に適当に止めても問題はなさそうだ。ドアを閉めて前を向くと、冷たく湿った風が首筋を浚い背後に抜けていった。ストールを持ってきたのは正解だったみたいだ。灰色の空にアスファルト。それと元気のない草花に鉛色の重くうねる海。淋しい景色だ。頭がまともに働いている人だったら、今日はここに行こうとは思わないだろう。予定を入れていたとしてもキャンセルだ。わたしはじっと遠くを眺めた。晴れた日なら、景観は開けているし季節毎の植物も鮮やかに映えるはずだ。いい天気であれば……そしてPMや細菌の脅威がなければ多くの人で賑わうだろう。それを見越して、このサッカー・グラウンドが入るような駐車場は設計されたはずだ。いや、実際賑わっていたのだ。わたしはテレビやネットで賑わっているこの公園を何度も見たことがある。家族や子供や恋人たちの幸せそうにほころぶいくつもの顔を。彼らはまた帰ってくるだろうか? うん、帰ってくるだろう。わたしも含めて良くも悪くも移ろいやすく忘れっぽいのだ。この国の人々は。
アスファルトブロックを敷き詰めて造られた歩道。脇を縁どるようにカモミールが咲いている。広場の芝生は綺麗に短く刈られ、ところどころにシロツメクサが生えている。わたしはそこここに視線を移しながら歩く。不意に足音と笑い声が聞こえたかと思うと、横を小さな子どもたちが駆けて行った。後ろを振り向くと遅れて両親がやってくる。思わず微笑んでしまう。マスクをしていようが天気が悪かろうが子どもたちには関係がないみたいだ。懐古心が胸にじんわりと広がる。
――わたしにもああいった頃があったのだ。怖いことや嫌なことよりも楽しいことや好きなことがいっぱいあり、明日には希望しかなかった頃が。思えば、わたしの欲しかったものは全部あの頃に揃っていたのかもしれない。今まで手にしたものよりも、失ったものの方がわたしには大切だった。少しでも向上しようと……マシな自分になろうと生きてきたのにこのあり様。唇がゆがむ。生きていくにつれて空っぽに近づいていく気がする。皮肉なものだ。父もわたしが感じているようなこの気持ちを味わったことがあるのだろうか? 知りたい。もっと話がしたかったのに、どうしてあんなに早く死を選んでしまったのか。わたしはその真相に触れるまで、立ち止まるわけにはいかない。
風景を眺めたり四つ葉を探したり写真を撮ったりするのに疲れると、わたしは喫茶店に入った。昼時とあってか立ち並ぶ飲食店はそれなりに賑わい、テラスの席も程よく混んでいる。公園を歩き回っていたときはそんなに人のいる印象はなかったのに、一体どこから集まってきたのか。不思議に思いつつもコーヒーに口をつける。温かい。ただそれだけでほっとする。味の方は優良可でいえば良の可よりといったところか。まあ観光地に入っているチェーン店に質を求めるのはお門違いか。……われながら嫌な性格をしている。カップを置いて顔を上げると、テーブル席に差し向かう若い男女が目に留まった。高校生くらいだろう。付き合い始めの恋人たちのような気がする。そこはかとない緊張と高揚。そして未知への好奇心。初々しい雰囲気だ。微笑ましい。今はどんなものを見ても口にしても新鮮な感動があるだろう。そう、このコーヒーでさえも。僻みや妬みや憐みでもなく純粋に羨ましくなった。
腕時計を見る。さあ、このあとはどこへ行こう? 人差し指でテーブルを軽く叩き考えを巡らせてみる。やはりこの前出会った時計塔のあたりをぶらつくのがよさそうだ。空振りしたときは……そのときは猫にでも慰めてもらおう。猫も現れなかったら……そのときはそのときか。
歩道はなだらかな曲線を描き、時計塔の広場へと繋がっている。コツコツとヒールの音でリズムを刻み、そのリズムが乱れないように私は足を運ぶ。白木蓮の梢が風にそよぐ。喫茶店からの道のりは心和むものだった。少ないながらも公園にいる人たちの表情はどれも楽しそうに見え、時折上がる子供たちの声には活気があった。そのおかげか、家を出るときまで感じていた閉塞感は薄れ、わたしの気持ちは軽くなった。これはいい兆候なのだろうか? そうだといいのだけれど。
やがて時計塔が大きく見えるにつれて猫を見かけるようになった。ぶち猫にトラ猫に三毛。おそらく近くに寝床を持つ子が多いのだろう。わたしはそのなかにクロの姿を求めたがクロはいなかった。クロはいつも老人と行動をともにしているのだろうか。しかし、どうやら老人と会えなくても猫に慰めてもらうことは出来そうだ。
時計塔を見据え、心臓の鼓動と足音に意識を集中してわたしは歩き続けた。アスファルトブロックの歩道を外れ芝生に足を踏み入れる。芝と土の柔らかな感触とともにヒールの音が消える。視界の端にベンチが入った。この前座っていたベンチだ。けれど今日は誰も座っていない。誰も座っていないベンチはどこかもの悲しく思える。いや……何かいる。背板と座の隙間に何かが見える。
わたしは時計塔から進路を右に変更し、そのベンチに小走りに駆け寄った。背板越しに見下ろすと黒猫が香箱座りをしていた。クロだろうか? わたしは試しにクロ、と呼んでみた。すると黒猫は耳をぴくりとさせてわたしを見上げた。思わず笑みがこぼれた。クロは少しの間わたしを見つめていたが、ふいと顔を海の方へ戻した。
「何を見ているの?」
わたしはクロに声をかけた。けれど当然クロはわたしの問いに答えない。でもそこには意志の疎通を失敗したときの不安や不快感はない。わたしはクロの視線を追って一緒に海を眺めた。大きな橋に線路を走る電車にキリン・クレーン。それと浮き島。その上をカモメが三羽大きく羽を広げ滑るように飛んでいる。先週と大して変わらない風景。クロの視線の高さだと植え込みや安全柵の柱が邪魔になって海はうまく見えないはずだ。クロの瞳には今何が映っているのだろう?
「おもしろいものでも見つかりましたか?」
落ち着いた深みのある老人の声――わたしは咄嗟に振り返った。丸い金属縁の眼鏡にハンチング帽。今日は特徴的な髭はマスクの下に隠れている。目許は穏やか。ゆっくりとした、しかし確かな歩調でこちらに近づいてくる。
微笑み首を傾げる。「さあ。この子くらいのものですね」わたしはクロに目をやった。
「先週は話し相手になってもらいどうもありがとうございました。やはり御嬢さんでしたか」と老人は朗らかに言った。「よかった。人違いをしたらどうしようかと思いましたよ」
「いいじゃないですか。あなたみたいな紳士的な男性でしたら、声をかけられた人も悪い気はしないでしょう」とわたしは言った。「マスク、今日はつけられているのですね」
「ええ。御嬢さんと会ってからやっぱり気をつけてみようと、考えをあらためました」と老人は言い、眼鏡のブリッジを指で上げた。「この歳になるとなかなか人から素直で率直な意見をもらう機会が少なくて――まあ家族でもいれば話は別だったりするのでしょうが」
家族……わたしには関係ない。遠い日に諦めたことだ。でも……わたしが老人くらいの歳になったとき、わたしはどんな人間になっていてどんな生活を送っているのだろうか。
「またお会いできて嬉しいです。高橋と申します。よろしければお名前を教えて頂けませんか?」
「藤井です。そういえば、まだ名乗っておりませんでしたな。失礼しました」
藤井さんはそう言って軽く頭を下げた。わたしもそれにならって頭を下げた。
「海がお好きなのですか?」
わたしはベンチの背もたれに両手を預けて海を見渡した。「どうですかね……考えたことがありませんでした」
「考えたことがない?」
「ええ。ときどき海に行った思い出をたどったり想いを馳せたりすることはありますけど、レジャーやマリン・スポーツが好きでよく出かけるというわけではありませんから。こうして一人で海に来るのも先週が久しぶりで……海というよりはこの場所が好きなのかもしれません」
隣りに目を向けると藤井さんも同じように海を眺めていた。張りの無い肌にやや落ちくぼんだ瞳。その脇には深い皺が寄っている。それから、こめかみの下にはおはじきくらいのシミもある。先日は意識していなかったが、やはり藤井さんも歳相応に時間を重ねているのだ。そのためか、あるいはこの天気のせいか、表情が暗く感じられる。どことなく……よくないことが記憶の海から顔を出したときのような表情にも見える。
「好きな場所や帰る場所があるというのはいいことです。わたしにとってそういう場所は少なくなりました。好きだった場所が嫌いになったり……」、藤井さんは首を微かに振った。「そうだ。立ち話もなんですから座りませんか?」
わたしは肯き、クロを藤井さんと挟むようにしてベンチに座った。藤井さんの言葉にあの表情……もしかしたらここで藤井さんのご家族が――いや、よそう。開きかけた唇をわたしはつぐんだ。ある種のことは口にしてはいけない。そう、近づいてはいけないところや知らなくていいことがあるのと同じように。
「高橋さんはここに何か良い思い出でもおありなのですか?」
「そういうわけでもないんです。ただ、小さい頃に家族で来たことがあって……懐かしさに誘われて、といったところでしょうか」とわたしは防波堤のあたりに目を留めて言った。「復興作業の手伝いでここに来た時、わたしは両親の目を盗んであそこの防波堤に座って、何をするわけでもなくずっとぼんやりとしていました。それで母に見つけられたあと凄く叱られて……」と言ってわたしは苦笑した。不意に、今はわたしのことを心配して叱ってくれる人がいないことに気づいた。苦笑は砂浜に描いた絵が波に浚われるように消える。
「どうかされましたか?」
「いえ、なんでもありません」わたしはまた苦笑をつくって言った。「藤井さんはいつもこのあたりを散歩されているのですか?」
「毎日とはいきませんが時間がとれるときは大抵。ひとりで家にいても寂しいだけですから」と藤井さんは言ってクロの背中を撫でた。
「そういったお気持ち、わかります」
「掃除も洗濯も炊事も技術の進歩とともに随分楽になりました。こんな老人でもひとりで不足なくやっていけます。生活の手間や贅肉を可能なかぎり落としていく。とても合理化された生活です。しかし、なかなか人間の心までは合理化できませんな」と言って藤井さんは力ない笑みを目許に浮かべた。
心までは合理化できない――。「その通りだと思います」
「失礼ですが、ご結婚は?」
わたしは首をちょっと傾けた。「残念ながら」
「きっと、結婚したいと思われたことがないのでしょう。でなければ説明がつきませんよ。こんな素敵な女性が今も独身だなんて」
わたしは、どうでしょうか? という風に微笑んだ。「褒めて頂きありがとうございます。でも、たしかに……昔から結婚願望は希薄だったかもしれません。小さな頃お嫁さんになりたいと言ったことも、適齢期に入ってから周りの結婚報告に焦ることも三十までには結婚したい、ということもありませんでした」
藤井さんは穏やかな表情でわたしの話を聞いている。意識していないと話そうと思っていないこともつい話してしまいそう。そんな柔らかな雰囲気だ。口を閉じ視線をちらりと外す。藤井さんの後ろに広がる海は魚の鱗のように小さな波を無数に立てている。
「――人は自らの失われた半身を求めて生きている。この考えはご存知ですか?」
ぱっと火花が散るように記憶が蘇った。「アリストパネス」、そうだ。いつかケイが言っていた。今の今まで思い出すこともなかったことだけれども。「太古人間は男男と女女と男女が存在していて、ゼウスの逆鱗に触れて人はその身をふたつに分けられたという……友人から聞いた話なので詳しくは知りませんが」
「高橋さんはその半身よりも大切なものを探している途中なのではないのでしょうか?」
わたしは少し考えてみた。父の死、母との断絶、それにケイとの別れ……いくつもの思い出が頭の中でうねってもつれる。「……そうだという気もしますし、そうではない気もします。よくわかりません。半身についていえば、二十代の前半にとても気の合う友人がいましたが彼にはすでに恋人がいました。彼が会社を辞めてからはもう長いこと会っていません。その友人と別れて以来、心から求めた異性はいません。もし、彼がわたしの半身だとしたらわたしはずっと半身のままで生きていかなければなりませんね」と言ってわたしは自嘲気味に笑った。それにしても、誰かにケイのことを話すのなんてどれくらいぶりだろうか。
「なに、まだわかりませんよ。生きているかぎりはどんなことでも起こりうるのですから」
「いい方に転ぶよう期待します」
突然吹いた強い風が髪をなぶる。ほのかに湿っぽい。乱れた髪を直そうとした瞬間、クロが身体を起こしぴょんとべンチから飛び降りた。
「わたしも高橋さんの人生がいい方に転がるよう祈っております」と藤井さんは言って腰を上げた。「さて、あの子はどこへ行くのでしょう? よかったらご一緒しませんか?」
是非、と言ってわたしも立ち上がった。振り返ると、クロは迷いのない確固とした足取りで真っ直ぐ歩みを進めている。
「どこか目的地でもあるのでしょうか?」わたしは隣りを歩く藤井さんに訊ねた。藤井さんはわたしより背が10センチばかり低いけれど歩調はわたしより早いくらいだ。まったく頭が下がる。
「この調子だとたぶんあそこでしょう」藤井さんは指をすっとさした。
藤井さんの指の示す方を見ると街灯があった。古い時代のガス灯を思わせる飾り気のないシンプルなデザイン。夜はどんな灯りをともすのだろう。
「街灯ですか?」
藤井さんはわたしを見上げた。「視線をもう少し下に。そろそろ来ますよ」
街灯の土台のあたりにしなやかな身体つきの白猫が近づいてくる。藤井さんが立ち止まったのでわたしも足を止めた。藤井さんはクロと白猫を見守るように目を細めている。
「デート、ですかね」とわたしは言った。
「ええ、最近できたガール・フレンドのようです」
クロと白猫は身体をすり寄せながら時計塔の方へ向かって行く。
藤井さんは肩をすくめた。「名残り惜しいですがお邪魔虫は引き上げましょうか」
「可愛らしいカップルですね」
「実に。クロにも春が来ましたな」
「なんだか妬けます」とわたしは冗談を言って笑った。
「あせることはありません。ある種のものごとは時間をかけなければ成就されませんから」
わたしは肯いて同意した。不意にぽつりと冷たいものが瞼の下を打った。手のひらを空に見せると、またひとつふたつと冷たい雫が落ちて弾けた。やがて静かな細い雨が降り始めた。
「しまった。思ったよりも早く降ってきました。干した帽子が台無しになってしまう。天気予報も精度が上がったとはいえ、たまにこういうことがあるから困ります」と藤井さんは言った。「さて、残念ですがわたしはこのへんで失礼させていただきます。それにしてもやはり猫は野生の動物。勘が鋭い」
あたりを見まわすとそこかしこにいた猫の姿は一匹も見当たらない。カモメも空のどこにもいなかった。みんなどこかに避難して雨宿りをしているのだろう。人間だけが傘を開いたり慌てて雨がしのげる場所に駆け込んだりしている。
「傘はお持ちですか?」
「いえ」と言って藤井さんは小さく首を振った。
「どちらまで行かれるのですか? よろしかったらご一緒しましょう」わたしはバッグから折りたたみ傘を取り出した。
「いえ、すぐそこですからお気になさらずに」
「ならなおさら」とわたしは言った。
目尻が下がり目許の皺が柔和に浮かんだ。「やはり意志の強い優しいお方だ。ではお言葉に甘えましょう」
わたしは曖昧に微笑んだ。藤井さんは広げた傘にさっと入ってきた。
「あらためまして、どちらへ行きましょうか?」
「駐車場までお願いします」
「かしこまりました」
ハンドルを握り帰路につく。正面のディスプレイの時計に目をやる。時刻は五時十分。昼過ぎに静かに降りだした雨は今では本降りになっている。エンジンの唸る音、車が水しぶきを飛ばす音、雨粒が車体に弾ける音、ワイパーの規則的な音とエヴァンスのピアノが混じって車内に響く。雑多な音の取り合わせだが、不思議と落ち着く。
さて、夕飯はどうしよう? 真っ直ぐ帰りデリバリーをとるか、買い物をして料理をするか、それともどこかで食べて帰ろうか。水道橋駅のガードを抜けてハンドルを右にきる。上腕の筋肉が張る。ハンドルをきるたびにこの調子だ。もう少しじっくりクールダウンのストレッチをしておけばよかった。
藤井さんと別れたあとにジムに行きバイクを一時間漕ぎそれから五キロ走りクロールで一キロ泳いだ。ジムでのいつものメニュー。運動をする前に入念にストレッチをしたが、身体はオイルの固まった自転車のようにうまく動かなかった。ひどい筋肉痛のせいかそれとも歳のせいか、もしくはその両方……。歳のせいではなければいいのだけれど。アスリートは三日サボると勘を戻すだけで一週間はかかると聞いたことがある。約半年か……。幸か不幸かわたしはアスリートではない。短気を起こさずゆっくり身体をほぐしていこう。焦らないことが肝要だ。きっとこれも時間をかけなければいけないこと。藤井さんの言葉を頭の中で反芻する。
信号につかまりブレーキを踏む。ハンドルから右手を離し、開いて閉じた。それから目線を前の車のリアウインドウに戻す。アイデアを求めて公園まで行ったけれど収穫はほとんどなかった。老人とクロと会えたこと。老人の名前は藤井さんであること。それとちいさないくつかの思い出と、自分が失ってきたものを思い知らされただけだった。
しかし、とわたしは思いなおす。ささやかなものだけど、どれも出かけなければ体験できなかったものだ。どんなに偉大な作品でも細部は存在する。ひとつのコードにひとつの文章。細部へのこだわり。神は細部に宿る――。今日、わたしは公園に赴きその細部に手を入れたのだ。どの程度進んだかはわからないが動いてはいる。ゼロではない。誰にも励ましてもらえないのならば、自分で自分を励ます必要がある。ゼロではない、わたしは動いている。そうわたしは呟いた。前の車のブレーキ・ランプが消えた。わたしはしっかりとした足運びでアクセル・ペダルを踏みしめる。
買い物かごを片手にスーパー・マーケットの中を行ったり来たり。料理をしようと決めてみたはものの、たくさんの食材を前にするとあれこれ迷ってしまう。さっきは精肉のコーナーそして鮮魚売り場を通り過ぎ、今はアルコールの売り場。意識したわけではないけれど自然と足が向かっていた。苦笑が口許に浮かびそうになる。子どもの頃ならお菓子売り場に真っ先に行っていただろう。そしてお菓子をかごにそっと入れては母によく窘められたものだ。
わたしはビールがずらりと並んだ棚の前で冷蔵庫の中に記憶を巡らせる。……よし、キリン・ラガーのストックは十分にある。ビールの棚を通り過ぎようとしたとき、ハート・ランドの緑色の瓶が目にとまった。珍しい。トマトジュースがまだあったはず。久しぶりにレッド・アイもいいだろう。わたしはハート・ランドを二本かごに入れた。売り場をあとにしようと歩きはじめると、ワインが目に入った。
ワイン……そういえば、食卓にお酒がのぼってもあまり手をつけなかった母は、白ワインだけはすすんで手を伸ばしていた。魚介類にはとても合うと。辛口のシャルドネ。シャブリだ。わたしはシャブリを探し、白ワインの棚に視線を走らす。あった。三種類のシャブリが並んでいたが、どれも口にしたことはなかった。少し迷ってからわたしはエチケットのデザインで決めた。石像のような顔の絵のロゴが気に入った。さて夕飯はシャブリと魚介類だ。――また鮮魚売り場に戻るのか。わたしは短く苦笑を漏らした。
冷たいボトルをしっかりと掴み、ワイン・オープナーを引き上げる。心地よい抜栓の音とともに手のひらの緊張が解ける。お風呂に入る前にアイス・バケットに氷と一緒に入れておいたおかげでよく冷えている。コルクの匂いをさっと嗅ぐ。ブショネの心配はない。グラスに注ぐと瑞々しい葡萄が爽やかに香った。イエロー・ゴールドの綺麗な色が照明の灯りを受けて輝く。唇に近づけるとワインは更に濃く香った。グラスに口をつける。葡萄の果実の甘みが一瞬広がったかと思うと、さっと消えて舌に乾いたほのかな苦味が沁み込んだ。余韻も短すぎず長すぎず。よかった。わたし好みの味だ。しかし、とわたしは思う。このワインの味にわたしの料理は果たしてついていけるのだろうか? シーザース・サラダに真鯛のカルパッチョ。それとエビとマッシュルームのアヒージョ。見た目も匂いも悪くないが、どこか心許ない。まあいいか。どうせ酔っ払ってきたら何を飲んでも食べても美味しく感じるのだから。
帰ってきてからつけたテレビがいやにうるさく感じられる。なにをやっているのだろう。画面にはお笑い芸人やモデルが映っていてみんな力の限り手を叩いて笑っていた。わたしはため息をついて電源を消した。なんでこんなものをつけていたのだろう? わたしはリモコンをオーディオに向けた。するとビートルズが流れだした。『ノルウェイの森』。いい歌だ。確かジョンの曲。ここにグラスを合わせる相手はいないけれど、遠いところにいる人たちを想い、乾杯、とわたしは心の中でつぶやいた。
いつからわたしはケイに惹かれていたのだろう。思えば、初めて出会ったときからわたしは彼に惹かれていたのかもしれない。柔らかい物腰と穏やかな表情に低く心休まる響きの声。細く長い節だった手の指やゆるやかに隆起した喉仏も魅力的だった。けれど何よりも一番の魅力は、好きな音楽の話を煙草とお酒を楽しみながら出来る人だったということかもしれない。それまで同世代でこういった話が合う人に会ったこともなく、煙草もお酒も敬遠しがちな人しか周りにいなかったのであの夜の出来事は新鮮だった。お互いにお気に入りのバンドやアーティストについて、心行くまで会話を交わせたのが本当に嬉しかった。心の乾いた部分。自分でも知らなかったその部分に水が注がれて潤っていくのがひしひしとわかった。わたしはずっとそういう人との出会いを求めていたのかもしれない。
でもそれが、恋という感情だと気づいたのはずっとあとになってからだった。
レッド・ツェッペリンのライブが終わると、バーテンダーはオーディオを操作して『ヘルター・スケルター』のビデオを流し始めた。
「わたしは親の影響で古い音楽を聴くようになったけど、ケイはどうしてそんなに詳しいの?」
「おれも親の影響だね。ものごころついたときには家でビートルズかなんかがが流れていたからさ」とケイは言った。
「ケイとビートルズの話ができてよかった。あまりみんな古い音楽は聴かないのね。今までの友だちは誰ひとりとして興味すらもたない人たちばかりだった」
「そうだったんだ」とケイは意外そうに言った。「まあ確かに興味を持つ人間は少ないかもね。おれも女の子とこうした話をしたのは初めてかもしれない。でも特にビートルズは空気みたいなものだから」
わたしはケイの言葉の意図がわからなかった。「空気?」
「もうおれたちの生活にはあってあたりまえなんだよ。ビートルズは。意識しないでいてもどこからともなく聞こえてくる。テレビだったりラジオだったり、あるいは店の中だったり、もし、ある日、音楽の神様が気まぐれでビートルズをこの世界から取り上げてしまったとしたら、死んでしまう人間がいたとしてもおかしくない。」
「空気に熱狂的なファンはつかないわ」と言ってわたしは肩をすくめた。
ケイはそれもそうだという風に笑った。「たしかに」
「……でもケイの言いたいことは分かるかも。あって当たり前のものには誰も注意を払わないもの。ところでケイは今までこういった話は?」
「親の世代の人たちとはあるけど、同世代とはね、あんまり。アミが二人目だよ」
「一人目はどんな人だったの?」とわたしは好奇心から口にした。
ケイは少し眉間に皺を寄せたあと煙草を手にした。何かに考えを巡らせているようだ。それから火をつけて、ゆっくりと煙を吐き出した。「今の恋人」
「珍しいのね。女の子なのに」
ケイは首を振った。「女の子じゃないんだ」
一瞬頭が混乱した。しかし、動揺しては相手を傷つけてしまうかもしれない。「ケイは同性が好きな人なの?」
「正確にはそうじゃない。おれは両性愛者なんだ」
わたしは肯いてショット・グラスに口をつけた。それから「そうなんだ」と言った。ありきたりな言葉。でも一体なんと返せばいいのだろう。
「急にごめん。この話は誰にでもするわけじゃないんだ。でもなんとなく、今言っておいた方がよさそうだったから。気持ち悪いと思ったらこれから避けてもらって構わない」とケイはなかばあきらめたような口調で言った。
「そんな風には思わない。ただちょっと驚いただけ。はじめてそういう人と会ったから。それと誰にも言わないから心配しないで」
「ありがとう。でもその心配は最初からしてないよ」
わたしは小首を傾げた。「どうして」
「なんとなく。アミはそういうことする人じゃないと思ったから。それに、ビートルズが好きな人に悪い人はいない。少なくともおれが会った人はみんなそうだったから」とケイは微笑んで言った。「アリストパネスって知ってる?」
わたしは首を振った。
「古代ギリシアの詩人。アリストパネスが言うには古代、人間は男女と男男、女女と三種類の人間がいたらしい。しかし、神の怒りに触れ、ある日身体を真っ二つにされてしまった。それから人は自らの失われた半身を求めるためにこの世を生きるのだ、と。一体おれはどんな人間だったのだろうか」とケイは唇を皮肉っぽく曲げた。
「わたしもどんな人間だったのかな。恋をしたことってないから」
わたしがそう言うとケイは驚いたように口を薄く開いた。
「一度もないの?」
「ええ。誰かに尊敬や憧れといった感情は抱いたことはあるけど、ずっと一緒にいたいとか、身体を重ねたいとかそう思う人はいなかったな。変?」
「めずしいとは思うけど、変ではないよ。きっといい人と巡り合ってないだけさ。これから巡り合うんじゃないかな」
「だといいんだけど」とわたしはため息まじりに言った。
恋という自覚をもつ前に、想いを告げることなく終わったわたしの初恋。でもその想いはどこへ行くあてもなく、いまもわたしの身体の中を彷徨っている。
夕飯はまずまずの出来だった。失敗を繰り返していた頃を思うと、よくここまで成長したものだ。しかし、味に何かが足りなかった。調味料の種類によるものなのか素材の質によるものなのか。それとも調理の技術的な問題なのか、いまいちわからない。とても美味しいと美味しいの間。感動と納得の差。家庭料理としては合格点。けれどこれでお金はとれない。サイド・ウエイの佐々木さんにレシピも調理方法も教わったのに、お店の味には届かない。プロと素人は違うと言えばそれまでだけど、なんとか近づきたいものだ。
洗い物を終え、ワイン・グラスを最後に磨く。クロスで丁寧に水滴をふき取り、光に当てて色々な角度からくもりがないかを確認する。仕上げに全体を拭軽くいてわたしはグラスを食器棚にしまった。ワインはまだ半分ほど残っている。それとむき海老も少し。明日はエビのペペロンチーノでもつくるとしようか。
ソファにおさまり深いため息をつく。それからテーブルに置いたノートを開きペンを動かす。老人の名前は藤井さん。クロにはシロというガール・フレンドがいる。……些細なことでも書き出していく。それが何かに繋がるかもしれない。駐車場への道すがらにした藤井さんとの会話を思い出す。
「お住まいはお近くなのですか?」とわたしは藤井さんに訊ねた。
藤井さんは正面を指差した。「ええ。あそこです。車で二十分もかかりません」
藤井さんの指の先を追うと何棟ものタワーマンションが目に映った。豊洲の高級マンションが立ち並ぶ一画だ。「素敵なところですね」
藤井さんは静かに首を振った。「いいものと言えば眺めくらいです。世間では高級住宅地ともてはやされていますが、資産を持った若者たちよりも、あそこにはわたしと同じように行き場所を失った老人が多くいます。そして高層階の住人の中には、タワーマンション特有の目まいや頭痛や吐き気などの症状に悩んでいる方も少なくはありません。しかしそういった情報はマス・メディアではほとんど扱われません。扱われたとしても、映画やドラマ、コマーシャルなどのファッショナブルで洗練されたイメージで上書をされます。弱きものの小さな声は強きものの大きな声にかき消されてしまうのです。悲しいことに」。そう言うと藤井さんは寂しそうに微笑んだ。
雨の匂いが霧のように周囲にたちこめている。静かだ。傘に雨粒が跳ねる音とふたりの踵がこつこつと歩道に刻む音だけが耳に響く。
「藤井さんはどうして今もそこにいらっしゃるのですか?」
「あそこなら水平線の向こうまで見つめることができます。それと、やはりここは私には離れがたい場所なのです」
きっと藤井さんのご家族はあの海に命を浚われたのだろう。藤井さんはいくつもの思い出とともにあの場所に留まっているのだ。わたしにそんな場所はない。留まりたいと思える場所には戻れない。わたしは自ら橋を焼き落としてしまった。我ながら自分の馬鹿さ加減に呆れてしまう。わたしは膝を抱え、髪の毛を掻き上げた。それからテーブルの上にディスプレイを展開する。インターネットに接続し、ケイのお店のホームページを眺める。バーの名前は「CODA」。トップページのコメントは律義に毎日更新されている。今日のカクテルは夏みかんを使ったものらしい。ギャラリーの写真を眺める。もう何度こうして眺めたことだろうか。光を反射するカットグラス、数え切れないほどのボトル、厚い木板のカウンター。そういえばケイは……ケイは静岡にどんな思い出があったのだろう。
「会社を辞める」
帝国ホテルでの優秀セールスの表彰式のあと、バーで飲んでいるとケイはそう切り出した。声には思い悩んだような調子が滲んでいた。確か二軒目に入ったバーで言われたんだっけ。思い起こせばあの日、ケイはずっとわたしにその話を切り出そうとしていたのかもしれない。
「どうしたの? 急に……」お酒に酔っていたのと虚を突かれたのとで、細く小さな声が頼りなく唇から零れた。「こんな順調にキャリアを重ねてきているのに」
ケイは疲れたように笑って首を横に振った。手に持ったテイスティング・グラスのウイスキーが音もなく揺れた。
「決めてたんだ。ずっと。貯金が目標額に達したら辞めるって。本当は去年の中頃には貯まっていたんだけどね。慰留やら引き継ぎやらで今年まで伸びてしまった。まだ何件か大口の契約もあるけどそれも年度末には終わる」
去年の中頃にもケイとわたしは会っていた。その時には何も言ってくれなかったのに。なぜ……寂しいという気持ちが裏切られたという気持ちに変わり、頭が熱くなる。
「なんで、去年の中頃といったら6月にも7月にも会ってたよね」わたしは首を振る。「もっとその前から決めてたんでしょ? どうして何も言ってくれなかったの?」とわたしはケイを睨んで言った。
すまない、という風にケイは眉を寄せて口角をほんの少し曲げた。「アミにはずっと伝えなくちゃ、と思っていたんだけど伝えられなかった。どのみち伝えなくてはいけないことなのにな。おれもまだ甘い。裏切り者とアミに、思われてしまうのが怖かったんだ。おれはアミや同期のやつらみたく、どうしてもこの会社で働きたいと思っていたわけでもない。ただ、自分の大学のレベルで入れる会社のなかで一番給料がよかったという理由で入社しただけだから。だから言えずにいた。ごめん」
わたしはストラス・アイラを飲み干し、バーテンダーにアードベッグの10年を頼んだ。「ちがう。わたしには相談しても無駄なことだと思ったんでしょ。わたしは今傷ついている。それはわたしがケイを大切な友人と思うようにケイもわたしのことをそう思っていてくれなかったことがわかったからなの」
「そうじゃない。本当にごめん」
「それで、辞めてどうするの? 転職先はもう決まってるの? それとも貯めたお金を手にタイやマレーシアあたりにでも行って隠遁生活でも送るつもり?」とわたしは挑発的に言った。
バーテンダーがアードベッグをカウンターに置くと、わたしはすぐに手を伸ばし、口に運んだ。スピーカーから『マイ・フーリッシュ・ハート』が流れだした。なんというタイミングだろう。
「昔からの夢があってさ。その資金」とケイは言いにくそうに言った。
「夢?」
ケイは肯いた。「バーテンダー」
わたしは目を見開いた。「バーテンダー? それも一言も聞いたことがなかった」
「恥ずかしかったからだよ。いい歳して夢を持っていることを誰かに言うのなんて。仕事から逃げたいだけだと思われるのも癪だし」とケイは照れくさそうに笑った。
そう言ったケイの表情を見た瞬間、さっきまで感じていた怒りの感情はどこかに退いていった。そして代わりに、また寂しさが波のように心に押し寄せてきた。
「いいじゃない。立派よ。この歳でもやりたいことがあるなんて。会社で首にならない程度に売りを上げて、こそこそ影で人を貶めるようなことをして、退職までの日数を指折り数えている連中とは比べものにならないくらい立派よ」とわたしは言って微笑んだ。「いつからの夢なの?」
「高校一年」
「ずいぶん早いのね」
「そのとき『ロング・グッドバイ』って小説を読んでさ。それで。小説でも映画でも絵画でもなんでも、優れた芸術作品には酒が出てくる」
「私立探偵には憧れなかったの?」
「憧れはしたけど、ブラックジャックで殴りつけられるのは御免だからね」とケイは言った。「それから高校、大学とバー・レストランでバイトして酒の種類にステア、シェイク、サーブの仕方なんかを学んだんだ。就職してからも長期休暇のときはそのバイしていた店のカウンターに立ったりしてさ。三年前からは行きつけの店で週末は勉強させてもらっている。もちろん家でもずっとカクテルは作ってる」
「ずっと努力していたのね」
「たいしたことじゃない。やりたくてやっているだけだから」。ケイは煙草に火をつけた。指のあいだから煙が綺麗にひと筋天井へ立ち昇っていく。
「お店はどこを考えているの?」
「母親のお兄さんが静岡の呉服町でバーをやっていてね。前々から誘われていたんだけど、そろそろ後進に譲りたいと去年から本格的な話になってきてさ。まずはそこでやってみるよ。こんなかたちでまた静岡に戻るとは思いもよらなかったけど」とケイは言って頬をかいた。
「そうね。懐かしい土地の名前だわ」、遠い……気軽には行けない距離だ。でも、「いい話じゃない」とわたしはできるだけ明るく言った。
「渡りに舟、とまではいかないけどね」
不意にケイの恋人のことが胸をかすめた。「恋人はどうするの?」
ケイは煙草の煙を深く吐いた。「ああ……実はまだ言っていないんだ。これから言う」
恋人より先に話をうちあけられたことに、わたしの自尊心は慰められた。単純な女だ。それからふと、恋人に申し訳ないと少し思った。罪悪感が心に影を落とす。でもいいじゃない。あなたにはケイがいる。わたしにはいない。これくらいは許してほしい。
「一緒に行くの? それとも遠距離?」
「それは向こうが決めることだよ。おれが決めることじゃない」
わたしはシガレット・ケースを開いた。「なんだか冷たいように思えるけど」
「冷たい?」
「相手を突き放した考えに思えるってこと。そこは、大事なことはふたりで話し合ってよく考えた方がいいんじゃない?」
ケイの煙草の煙が揺らめいた。「そうだね。その方がまともな考え方だ。でもね……おれの言葉で相手を縛りたくないんだ。大事なことほど自分で決めてほしい」
わたしは煙草をひと口吸い、その先に揺れる煙をじっと眺めた。「そう、ならもうわたしから言うことはないわ。ふたりにとっていい答えが出ることをささやかながら祈ってる」
「ありがとう」
わたしとケイはどちらからともなくグラスを手に取り、軽く合わせた。
「ところで、得意なカクテルはあるのかしら?」
ケイの眼鏡の奥の瞳に自信に充ちた光が差した気がした。「秘密。お客さんで来たときにサービスでだすよ」
わたしは微笑んだ。「そう。楽しみにしてるわ」
あの日を境にわたしたちの仲は疎遠なものになってしまった。連絡も以前のように頻繁にはとらず、飲みに行くこともなくなった。それは、ケイのことまではわからないけれど、わたしにとってのその理由は、憤りや失意といった感情からではなく、ただ恐怖心からだった。わたしはケイが会社からいなくなるという事実を直視したくなかったのだ。
今まで同じ会社で同じ仕事をしているという縁で繋がっていたケイとの関係が、このあと失われてしまう。いや、仕事が変わったくらいでわたしたちの関係が終わるようなことはないとも考えられる。しかし、心も身体も遠いところにいってしまう。目に見える、言葉にできる確かな心のよりどころが欲しい。あまりに弱いふたりの結び目にわたしは怯え不安になった。
そう思うとケイへと繋がる電話番号にもアドレスにも手を伸ばすことができなかった。次第にケイに対する感情が自分でも把握できなくなり、話しかける言葉も思いつかなくなってしまった。最後にケイからお店の名前と場所を知らせるメールがきたときもわたしは返事を返せなかった。そしてそれからずっと、わたしはふと思いだしてはこうやってケイのバーのホームページを飽きることもなくただ眺めている。今この瞬間、ホームページに表示されているバーの電話番号にかければケイの声が聞けるかもしれない。ほんのすこし指を滑らせて軽く力を入れたら電波が発信される。さっきパソコンを立ち上げたときと同じ要領だ。造作もないこと。でも、できない。難しいものだ。
右手をウインドウから離す。それから肘を曲げて左腕で押さえて軽くストレッチをする。筋肉痛はよくならないまま。そこではっと気づいた。ジムに行くのを忘れていた。わたしはため息をついて背もたれに身体を預けた。いろんなことを考えていて今の今まで気づきもしなかった。もうシャワーも浴びて化粧も落とした。それに酔っ払って身体が重い。バッグはそのままにして明日こそジムへ行こう。




