2部
――七時。バー・サイド・ウエイ。オープン後のほのかな緊張と静けさが微かに残っている時間帯。大理石調のカウンターにはひとつふたつと離れてビール・グラスやワイン・グラスが立っている。人はそれぞれ思い思いにグラスに手を伸ばし、何を語るわけでもなくアルコールを楽しんでいる。後ろの三つあるテーブル席はまだどれも空席。埋まり出すのは野球のナイト・ゲームが佳境を迎える頃。オン・ザ・ロックの竹鶴に口をつける。それから煙草を深く吸い、時間をかけて煙を吐く。竹鶴が体内を火照らせ煙が脳の皺まで滑り込む。身体中の繋ぎ目が緩んでいく気がする。心音が温かみを帯びてきた。そしてわたしの心はようやく落ち着きを取り戻す。ぼんやりと棚に並ぶボトルを眺める。ボトルは照明の青白い光を受けて魅惑的に輝いている。ほとんど空になったボトルでさえも美しい。あの後、結局中村はすぐにレポートを書いて帰って行った。律儀にもわたしにも送られてきたそのレポートは、用意してあった定型文のてにをはを変えたような文章ではなく、しっかりとしたものだった。中身がないと思っていたが訂正が必要になるかもしれない。今はただそういう時期なのだと。もっとも、それがわかるのはずっと先のことだけれど。
「だいぶお疲れのようですね」
カウンターに立つ佐々木さんはにこやかな声で言って、真鯛のカルパッチョをわたしの前に置いた。真鯛の上に飾られた玉葱とカイワレとラディッシュ。それとスライスしたブラック・オリーブ。絶妙なバランスで眼に愉しい。
「ちょっと慣れないことをしたもので」とわたしは言った。「でもここに来れてやっと落ち着けました。煙草も吸えますし」
「それは良かったです。酒と煙草は双子座のカストルとポルックスのように不可分な関係ですから」
一番奥のスツールに座った、中折れ帽の似合う中年の男性からギムレットのオーダーが入った。佐々木さんは男性に向かって肯き、シェイカーを用意した。ジンとライムのショート・カクテル。スクイーサーでライムを絞る。黒いシャツの袖を捲り上げたその腕は、太くはないが筋肉質で浮き出た血管が艶かしい。爽やかな香りが宙に舞い、鼻をくすぐる。やがて素早くシェイカーが振られ、氷の回る鋭く硬い音がリズミカルに響き渡る。しばらく耳を傾けていると、徐々にシェイクの音の間隔が開き、弱まり、そして完全に静止した。雪どけ水を思わせる白色の液体がショート・グラスにさっと注がれる。男性はグラスを口に運ぶと納得したように静かに微笑んだ。佐々木さんは男性と一言二言話すと、カウンター下の冷凍庫にジンを戻しに来た。
「この真鯛、身が締まっていてとても美味しいです。盛りつけもきれいで」
「キッチンに伝えておきます。実は昨日釣ってきたものなんです」
「そうなんですか」わたしは感心して言った。
「日曜日は釣りに出かけます。外れる日もありますが、昨日は当たりました。お客様には新鮮な物を食べて頂きたいですから」
わたしは肯き、竹鶴を口にした。グラスが空になり、氷が唇の先にそっと触れた。
「次は何を作りましょう?」
「同じもので。それとポルチーニ茸のリゾット。最後にグラスホッパーを」
「かしこまりました」、佐々木さんは竹鶴のボトルへ手を伸ばした。
リゾットを食べ終え、紙ナプキンで唇を押さえる。数種類のチーズが絡み、全体的に優しくしっとりとした舌触り。きのこは歯ごたえがあり、噛むと同時に濃厚な汁が溢れた。また注文したくなる一品だった。カウンターはほぼ満席。常連同士が顔を合わせ賑わいはじめている。しめのグラスホッパー。滑らかな口溶け、チョコのような甘み、ミントの清涼感。デザートにはうってつけだ。扉が開いた。男女の四人組がブース席へ流れていく。アルバイトの男の子が速やかにブース席へ向かった。
「いつもきびきびした対応でいいですね」
「こういうところからしっかりしないといけません」と佐々木さんは言った。「お客様にまたあの人に会いたいと思って頂けるような接客を目指しています。おもてなしの心、包丁を握る覚悟、シェイカーを振るプライド……目に見えない、数字にあらわせないものこそを僕は信じます」
佐々木さんの目鼻立ちの整った顔が柔らかな笑みに崩れる。しかしその表情の奥には確固たる自信と誇りが窺える。
「つい寄り道してしまう理由がわかりました」
「そう言って頂けて何よりです」
照明を落とした部屋。ベッドの上。膝を抱え心地良いアルコールの名残に浸る。そして壁に掛けたテレビにリモコンを向け、適当にチャンネルを変えていく。見たい番組があるわけでもないのにやめられない。嫌な癖だ。不意にモノクロの映像が映った。珍しい。青白い光がちかちかと瞬く。番組表を出してタイトルを見る。『アルファヴィル』。映画専門チャンネルのゴダール生誕110周年記念特集の再放送らしい。朝までゴダールの作品が放送される。ゴダール……名前を聞いたことはあるが作品を見たことはない。どこで聞いたのだろう? 頬に手を添え記憶を辿る。アルコールで加速した血液が頭に集まり、顔が熱くなる。たしかそのときもバーか何かでお酒を飲んでいた気がする。それで隣りには……そうだケイがいた。
あれは内定者懇親会の帰りだった。懇親会は虎ノ門のホテルのワンフロアを貸切り盛大に行われた。煌びやかなシャンデリア、季節の花で彩られたいくつものテーブル、毛足の長い鮮やかな赤の絨毯。バー・スペースには蝶ネクタイを付けたバーテンダー。ずらりと並んだ銀の料理プレートの奥には真っ白な調理着を着た料理人たちが控えている。そんな中ステージに登壇していく役員や先輩たち。役員の挨拶にトップ・セールスのスピーチやテーブルを囲む同期の話はどこか大げさで出来の悪い作り話のよう。興味が沸かず周囲にも馴染めない。わたしは会が終わるとすぐに会場をあとにした。歩きながらイヤホンを耳に突っ込む。ビートルズの『ラバー・ソウル』を再生する。
ビュッフェ・スタイルの料理もドリンクもそれなりに手をつけたはず。けれど、美味しかったかどうかなんて思い出せない。これが父のいた会社でなかったら志望も入社も決めなかっただろう。この先自分はこの会社でやっていけるのか? 不安や迷いといった負の感情が胸に渦巻く。項垂れてため息をついた。ふと視界の端に地面に置かれた看板がひっかかった。足が止まる。その黒板型の看板にはこう書かれていた。BAR Smoke . Welcome to Basement.わたしは何かに導かれるように階段を下り、ドアに手をかけた。
重い木製のドアを開いた。瞬間、音の洪水がわたしを襲った。ギターの歪んだ轟音、そっと寄り添い歌うキーボード、バンドを鼓舞するハードなドラミング。わたしはその場に立ちつくしてしまった。
「いらっしゃいませ。おひとり様かな?」
正面のカウンターに立つバーテンダーの声で我に返った。飄々とした雰囲気で人好きする笑みを浮かべている。バーテンダーなのに白いロングTシャツを着ていてラフな感じだ。それに若い。二十代後半から三十代前半といったところか。肯き、勧められるままにスツールに座る。分厚い木のカウンターは黒光りしている。メニューが差し出された。わたしはぱらぱらと目を通し、キリン・ラガーを注文した。壁は打ちっぱなしのコンクリート。そこにプロジェクターがロック・バンドのライブを映している。演奏をしているのは白髪や皺の目立つ老人たち。でもサウンドは力強く情熱的だ。運ばれてきたラガーを手に、わたしはライブ映像に見とれてしまった。
「レッド・ツェッペリンはご存知ですか?」
音楽に混ざり、声が聞こえた気がした。突然、隣りの影が動いた。横を向くと、同年代くらいの眼鏡をかけたスーツ姿の男の子がわたしを見つめていた。
「ごめんなさい。もう一度お願いします」
「レッド・ツェッペリン、知ってます?」
男の子は言葉をゆっくりはっきり区切って言った。
「バンド名は。でも小学生の頃、『天国への階段』が入っているアルバムを聴いたきりです。詳しくはありません」
「今流れている映像は2007年にやったツェッペリンのライブだよ」
わたしは視線をライブ映像に戻した。そういえばボーカルの歌声に聴き覚えがある気がする。アルバムの声はもっと高かったけれど、面影は感じられる。
「昔聴いたときにほとんど何も感じられなかったのが恥ずかしいです。年老いても本当にかっこいいバンドですね」
「ドラムは息子が代わりに叩いてるけど」、男の子は微笑んだ。「良かった。同期にこういうことを話せる子がいて」
「同期?」
「きみ、クロノス・ジャパンの内定者懇親会にいただろ?」
「ええ……」、驚きからか舌がもつれて小さな声になってしまった。
「僕も内定者。石川圭吾。きみは?」
高橋亜美、とわたしは言った。
「高橋亜美さん、よろしくね」
あの日、ケイは自然とわたしの世界に入ってきた。まるで音もなくレースのカーテンを揺らし、頬を撫でるそよ風のようにそっと。
「高橋さんはどうしてここに?」
「気づいたらお店の看板があって、思わず。お酒も飲みたかったし」
「不思議だ。僕もなんだよね。けど、会場では飲まなかったの?」
「あそこでは酔う気になれなくて」とわたしは言った。
「僕は飲み足りなくて」と言ってケイは細い鼻筋を掻いた。「でないと退屈でやってられなかった。最後に喋った長ったらしい肩書きの役員なんて我々と28回も言い、話した内容を三つの行動理念とやらに何かと結びつける。行動理念は少なくともあの人だけで10回は聞いたな。他の人も似たりよったり。語彙が本当に乏しい人たちだ」。ケイは疲れたように笑い、ショット・グラスに口をつけた。「『アルファヴィル』って1960年代の映画観たことある? ジャン・リュック・ゴダールの」
わたしは首を傾げた。「ないな。どんな映画なの?」
「SF。α60というコンピュータが世界を監視する高度監視社会。感情を発露することが罪となり、言葉を失い続ける人々が住む星を舞台にした映画。あの人たちを見ていたら、ふとその作品を思い出した」
白黒の世界。場面は次々に展開していく。プールの飛び込み台。涙を流した男が立たされている。ピストルが火を噴く。死刑が執行された。プールに落ちる。シンクロナイズド・スイミングのチームのような女たちが男に群がり、水中に沈めてとどめをさす。そして女たちは踊りだす。――古い辞書が新しいものに差し替えられる。そこで省かれた言葉は人々の記憶からも失われていく。
生きることに疲れ果てた人が遠い記憶を回顧する――そんな悲しげなギターの旋律が流れはじめた。
ケイは映像にちらりと視線をやった。「おっ、ダブルネック・ギターのお出ましだ」
「あんなギターあったんだ」とわたしは言った。
「僕も初めて見たときはびっくりしたよ。でもさっきのヴァイオリンの弓を使ってギターを弾いたのも驚いたでしょ」
わたしは肯いた。
「普段はどんな音楽を?」
「ビル・エヴァンス、ビートルズ、シュガー・ベイブ……古いものが多いかな」
「シュガー・ベイブ?」
「日本のバンド。山下達郎がいた」
「知らなかったな。今度聴いてみる。高橋さんはどうやってそのバンドを知ったんだい?」
「父の影響。昔休日の食事のときやドライブのときによくかかっていたから」
「素敵なお父さんだ。お父さんは今どんなアーティストを好んで聴いているの?」
わたしは首を振った。「父はもう……」
ケイはハッとした表情をした。「申し訳ない」
「気にしないで。多分あなたと同じ立場だったら同じ質問をしていたと思うから」
「ありがとう」
「でもそうね……Bのつくアーティストを好んで聴くんじゃないかな」
「ビーってアルファベットのB?」
「そう。ドイツ三大Bに始まり、Bのつくアーティストは素晴らしいってよく言ってたから」
「本当に素敵なお父さんだ」
バー・スモークには寮生活中、幾度となくお世話になった。しかし、ケイが仕事を辞めた年。帝国ホテルでの優秀セールスの表彰式が終わったあと、久しぶりに二人で足を運ぶと店はもうそこにはなかった。あるべきものがあるべき場所からなくなる。その現実に直面した瞬間、喪失感とともに思い出の存在は肥大化していく。そして身体と心の芯がさざ波に晒されるような不安に苛まれる。何度も経験してはいるが、未だに馴れない。
次第に瞼が重くなってきた。わたしは頭を軽く振る。それからサイドテーブルのピルケースに手を伸ばす。あくびが出た。目尻に涙が滲む。どうやら映画の結末は見届けられそうにない。主人公はα60を破壊し、開発者の博士とコンタクトをとるという目的を遂行出来るのだろうか?
体操と二分間唱和を終え、課所会議に入る。まだ耳は唱和のせいでキンキンしている。昨日の決定を順次報告していく。報告のあとの課長の総括。やはり、昨日の残業の件に触れられた。高橋係長、残業申請以降の決定はパソコン一件のみ。皆も残業をする以上は、残業代の対価以上の結果を出すように。
穏やかな調子で告げられた言葉。ディスプレイに浮かぶ課所の皆はそうあるべき、という表情でただ肯く。
事実を述べているだけだ。コンプライアンス監視委員会にはひっかからない。こういう嫌がらせをしてくる才能は認めないわけにはいかない。ため息をつき、メールの確認と返信を急ぐ。
藤沢興業の専務との電話を切るとまた電話がかかってきた。
「庶務第二課の田崎です。高橋亜美係長、ただ今お時間大丈夫でございましょうか?」
聞き飽きた声だ。自分は幸せで仕方ないといった中年女性特有の押し付けがましい響きの声。
「大丈夫です」
「今月25日に行われる談話食事会の出欠について確認したいことがございまして……」
月に一度、社内の未婚の男女が集まる食事会。平たく言えば会社公認の合コン、お見合いパーティー、そんなところだ。
「どのようなことでしょうか?」
「高橋さんからは欠席のメールを頂いているのですが、その後予定の変更やお心変わりなどございませんでしょうか?」
「わざわざありがとうございます。そのまま欠席でお願いします」
少子・晩婚化対策。CSRの取り組みの一環として力を入れている行事。欠席の連絡をしてもこうして電話がかかってくる。クロノス・ジャパン内での婚姻年齢の若年化、出生率が国の平均値を優に上回っているところを見ると、成果はあるのだろう。
「本当によろしいのですか? わたしは夫とこの食事会で知り合いまして、三人の子供にも恵まれました。下の子は先日中学を卒業して高校生になりました。何度経験しても子供の卒業式や入学式は感慨深いものがありますよ。ですから高橋さんも――」
毎度のことだが話が長くなりそうだ。「その日は外せない用事がありまして参加は出来ません。申し訳ございません」
「そうですか……、誠に残念です。高橋さんの次回の参加を心よりお待ちしております」
終話のフレームに指を滑らす。筋と脂身の多い肉の塊を無理やり突っ込まれたような異物感が胃のあたりにある。出鼻をくじかれた。幸先の悪いスタート。瞼を閉じ、ゆっくり呼吸をする。一回、二回……次第に心音が整ってくる。瞼を開く。そしてコーヒーに口をつけ、仕事に取りかかる。
化粧室、鏡を見据える。営業に出る前の最終点検。眼許のベース・メイクの崩れを整え、乱れた髪に櫛を通す。次は表情の確認。昨日のアリスやサイド・ウェイを思い出し、口角を緩やかに上げる。不意に足音が聞こえた。その音は次第に大きくなる。口角を戻す。誰かが化粧室に入ってくる。鏡越しに眼が合った。
「係長、先ほどはわたしのせいで……すみませんでした」と中村は言って頭を下げた。
「あなたは悪くないから気にしないで」
振り向いて微笑む。「今日は誰と同行するの?」
「大谷主任とです」
「うん。彼はオーソドックスな営業をするから、あなたにとっていい勉強になると思う。頑張って」
中村は肯いた。「あの、係長何かいいことありました?」
「どうして?」
「その、雰囲気が柔らかいというか……」
再び昨日の出来事に想いを巡らす。「そうね。あったかもしれない」
「藤沢興業さんですか?」
「それもあるかな」
「さっき庶務第二課から電話があったんですけど、係長は食事会に参加されるんですか?」
「パス」
「そんな、もったいないですよ。係長みたいに仕事が出来て素敵な人が出席しないなんて」
「大げさよ。そういう科白はあなたのかっこいい彼氏の為にとっておきなさい」
中村の顔がみるみる赤くなっていく。
「じゃあ、今日も頑張りなさいね」
化粧台のポーチを小脇に抱え、中村に手を振り会話を切り上げる。
公園のベンチ。浅く腰掛け背筋を伸ばす。イチョウの木。細かく枝分かれした梢の先の若い緑。小さな命が芽吹きはじめている。秋にはきれいに黄葉するだろう。その向こうの青空。今日は雲ひとつなく眩しい。風が吹いた。身体中を染めるように落ちた影と光が揺れてきらめく。シーソーやジャングルジムで遊ぶ子供たちの瞳はこの空に勝るとも劣らず澄んでいる。そこかしこから笑い声が聞こえてくる。
タブレットに視線を戻す。商談の音声データを会社のパソコンに送る。テレアポ、訪問にポスティング。何度もアプローチをしたが、反応のなかった会社。そんなことをしても、担当者と繋がりを持てるのは稀だということはわかっている。でも、関係筋からの紹介や口利きひとつで態度がここまで変わるとは……よくあることだが上手くは消化出来ない。
イヤホンを耳にさす。もう一度音声データを確認。瞼を閉じる。声の調子、間の取り方、相槌……それから表情や仕草を思い浮かべ、相手が本当は何を求めているかを想像する。時間とともに記憶は色褪せる。褪せた色はかえらず、次第に記憶は意識的に、あるいは無意識的に改変されてゆく。早く要点を掴み取らなければ。こういうときリアル・タイム・ヴィジョンが役に立つのに。しかしそれは望みすぎだ。無音。会話の隙間。ここは確かお互いコーヒーに手をつけた時間。サンド・ノイズを越えてヴァイヴレーションが聞こえる。珍しい。慌ててイヤホンを外し、バッグに入れた私用のタブレットに手を伸ばす。ディスプレイには久しぶりに見る名前。驚きと同時に笑みが零れる。
「ご無沙汰しております。どうされましたか? 北島課長」
明るい笑い声がする。「もう課長じゃないよ。高橋係長。きみと同じ係長だ。まさか高橋君と同じ役職だなんて、時が経つのは早いねえ」
「つい昔の癖が出てしまいました。あの頃は本当にお世話になりました。それと……申し訳ございません」
最初に配属になった営業課所の課長。新設したたばかりのその課に北島課長は三十五歳という若さで課長職に抜擢された。しかし、赤字を出し続けることになったその営業課所は五年後――わたしが三年目の年に解散した。そして課長は降格し、銀座本社のカスタマー・サービス・センターへ異動になった。しかし、そこは籍だけがあるだけの部署だった。電話をかけても課長はそこにはいない。席をはずしています、ご用件があればお伝えしますが、さあ、戻りは何時かわかりません、といつも事務の女性に言われた。やがてわたしはいつしか課長にコンタクトを取ることを諦めた。
クロノス・ジャパンでは業績の振るわない人間は、解雇されるか再教育プログラムを受けさせられる。プログラムの内容やそれがどこで行われているかは、わたしにはわからない。プログラムから帰ってきて他部署に異動となる人間もいるが、そのまま退社する人間もいるらしい。帰ってきた人間も裏で、本人の耳に届かないところで――〈キャトル〉と呼ばれる存在となる。帰還者はその所属先で好奇の眼にさらされる。眼は口ほどにものを言う。彼らは脱落者と見なされる。プライドが損なわれ喪失感や羞恥に心を苛まれての退社。また出世の見込みや営業手当など様々なメリットを失うことから、営業職を解かれた時点で離職する者もいる。もちろんそのまま仕事は続けられるが、大半の〈キャトル〉は遅かれ早かれ退職を促されるようだ。――実際に見たわけではないけれど、そういう話はどこからか嫌でも耳に入ってくる。調子外れの音のように、あるいは悪い報せのように。
「気にしないでいいともう何回も言っているはずだよ。上司は部下の責任を取るのが仕事なのだから。それを差し引いても高橋君が気に病むことではない。僕のマネジメント力がなかっただけだ」
「わたしたちの力が足りなかったせいです。課長は悪くありません」
「すまない」
重い響きのある声だ。どこかで鳥がひとつ鋭く啼いた。
「ところで課長、何か用件があったんじゃないですか?」
「そうだそうだ。高橋君昨日ウチの課の中村と同行したでしょ?」
「あの子課長と同じ課所だったんですか?」わたしは驚いて声を上げた。
「そうだよ」
「では営業職に復帰されていたんですね」タブレットを握るこぶしが固くなる。
「もう随分前になるけどね。なんとか戻れたよ。それで、彼女と一緒にまわってみてどういう印象を受けた?」
「最近の若い子。という感じですかね」
沈黙がしばし降りた。「というと?」
「自分の知っている、または経験していることに対してはとても強い。反面、未知の領域に足を踏み入れると途端に脆くなる。もちろん誰にでもそういう傾向は多少なりあります。しかし若い子……彼女はその振り幅が大きいように感じられました。けど素直な子です。そこが吉と出るか凶と出るか、現時点では判断しかねます」
「なるほど」
「これから何色にも染まる素材です。課長が育ててあげたらいいじゃないですか」
「僕にそんな権限はないよ。それは課長の決めることだ」
「わかってます。でもどうしてわざわざ電話までくれたんですか?」
「高橋君の声を聞きたかったから」
「冗談言わないでくださいよ。もう」
「いや半分は本音だよ」。課長はそこで言葉を区切った。鉄棒では半ズボンの男の子たちが逆上がりや前回りをしている。「うーん老婆心……と言うのかな。高橋君が指摘してくれたようなことは僕も感じていてね。でも直接指導は出来ない。そんなことをしたら越権行為になる。上司の指導や能力に疑問を持っているのか? またはパワハラやセクハラではないか? といろいろ疑われる。それで酷い目にもあった。今のウチの上司は嫉妬深くてね。あと何でも会社の型にはめたがる。彼女の可能性が潰えてしまはないか心配なんだ。でも、こんなことを言っても、傍観者であることには変わりない。家族――守るべきものがある、と言えば響きはいいが、それを理由に逃げているだけなのかもしれない」
「可能性……」
「そう。彼女はきみと同じくらい売れる営業になれる可能性を秘めている。そして昨日のレポートを読んだ限りではそうなりたいと強く望んでいる」
「どうして課長がレポートの内容を?」
「彼女は研修のレポートは課のメンバーに一斉送信しているよ」
わたしが同じ立場だったらどうするだろう? どちらを選んでも間違いではない。組織と個人、会社と家庭、信念と妥協、勇気と小心――様々な状況や感情が縺れあって絡まる。力なく首を振る。「課長、昔のサッカー選手、ディエゴ・マラドーナはご存知ですか?」
「もちろん。マラドーナがどうかしたか?」
「彼はスパイクやボールも買って貰えない貧しい家庭に生まれながら、スーパースターになりました。多分サッカーというスポーツが存在する限り永遠に語られるほどのスーパースターに。本当に力のあるものなら、どこでどう育っても台頭していくのではないでしょうか?」
うーむ、と課長は唸った。「しかしマラドーナだってひとりではその頂きまで辿り着けなかったはずだ。そしていったいどれだけの人間がマラドーナになれずに消えっていっただろう。では、高橋君はリオネル・メッシについてはどう考える? メッシは幼い頃バルセロナの援助がなくてもサッカー選手になれただろうか?」
わたしは考えに沈んだ。遠くで母親たちが大きな声で子供を呼んでいる。
「すまん。それは僕の考えることだな」。どこか自嘲気味な声に思索の糸は切られた。「長い話に付き合ってくれてありがとう。こういう話は今の職場や家庭では出来ないからさ……年々そういう話題が増えて困る。また彼女と組んだら色々と教えてやってくれないか」
「そのときはしっかりやりますよ。でも昨日残業して連れ回したから望みはかなり薄そうですけど」とわたしは苦笑した。
「レポートで読んだよ。しかし中村は高橋君の営業に惚れたみたいだな。この文章は」
「課長仕込みの営業ですから」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。ではお互い頑張っていこう」
「はい」
終話のコール音が耳にこだます。タブレットを耳から離し、息をひとつつく。課長は戻ってきた。まさか初めて接する帰還者が課長だなんて。鼓動が加速し、高鳴る。もしかしたら、父の死の真相に近づく手がかりになるかもしれない。
不意に軽いものが脚に当たった。青いゴムボールだ。ボールはつま先のそばに止まった。やがて小さな女の子がおずおずと近づいてきた。わたしは微笑みそのボールを差し出した。女の子は受け取ると大きく笑い、母親の元へ駆けていった。腕時計に眼を落とす。そろそろ約束の時間だ。わたしは慌てて荷物をバッグにしまい、ベンチをあとにする。
前半最後の商談は予想以上に長引いた。決裁権を持つ専務が担当者の横からいちいち口を挟まなければもっと早く済んだものを。おかげで昼食はとれそうにない。しかし手ごたえはあった。悪くない結果だ。次の訪問先へ急ぐ。歩道のタイルを鳴らすヒールはアレグロのテンポ。前を行く人を次々追い越し、お客様との会話を頭の中で想定する。
午後三時。先方の都合でぽっかり一時間予定が空いた。これが二時頃だったら『アリス』でランチがとれたのだけれど、仕方がない。ピーク・タイムを過ぎたファミリー・レストラン。若い主婦のグループや時間を潰すサラリーマンが眼につく。店内には邦楽のポップスが流れている。久しぶりに聴く。しばらく耳を傾けていたが、ため息が出た。メロディとリズムは借りてきたものや使い古されたもの。継ぎはぎだらけでサイズの合わない服を思わせる。詩には情緒も風情もない。薬にも毒にもならない。殺菌消毒された大量生産品のような音楽。いつからこんな音楽が流行るようになったのか。
給仕ロボットが滑らかなタイヤ音とともにやってきた。「お待たせしました。ご注文のいろいろ野菜のグラタンでございます。こちらでよろしければ配膳台のリーダーにマネー・カード類をかざしてください」
配膳台の上の透明なボウルを確認。間違いない。カードをかざす。
「ありがとうございます。ごゆっくりお食事をお楽しみ下さい」
グラタンのトマトと茄子は薄く切られ過ぎて歯ごたえがなく酸味も気になった。反面じゃがいもと玉ねぎは及第点。ワンコインで提供するのにはここら辺が限界だろう。しかしファミリー・レストランに質を求めるのは誤った考えではないか? 低価格でそれなりの味。価格と品質とのバランスの葛藤とせめぎ合い。進化も退化もしない。ファミリー・レストランの料理。それはこの先ずっと変わることはないかもしれない。
コーヒーに口をつけ、カード・ケースから名刺を取り出す。文字は擦れて滲み、端はくたびれてところどころ切れている。もう何度こうして見つめたかわからない。
クロノス・ジャパン
施設部資材課係長
高橋一
エヴァンスを特集した雑誌に挟まれていた父の名刺。施設部……父は営業だったはずだ。小さい頃トップ・セールスになったときのメダルや盾を見せてもらったこともある。そもそも本社への転勤で静岡から東京に越したのだ。しかしいつからか父は仕事の話をしなくなった。きっとその時期に異動したのだろう。わたしが大学に入った頃あるいはその前……。この世界で十年もやっていれば仕事が出来るか出来ないかなんて、立ち居振る舞いを見ていれば大体わかる。父は間違いなく出来る方の人間だった。そしてあんなに一生懸命仕事に取り組んでいた父が、〈キャトル〉になっていたなんて。わたしには信じられない。けれど事実は事実だ。それを認めなければどこへも行けない。
今まで施設部や人事、庶務に父に関する情報を問い合わせたが答えはいつも同じだった。
「退社された方の個人情報、または開示された以上の個人情報につきましては当社のコンプライアンス上、いかなる理由においてもお答え出来ません。誠に申し訳ございません」
護られているうちは頼もしく感じられる壁も、立場が変われば堅固な障害物でしかない。特に施設部は鉄壁だった。ほとんど当時の人間が残っていないなか、やっとのことで元同僚に連絡をつけても、知らぬ存ぜぬの一点張り。次第にこの件では電話も取りついでもらえなくなった。おまけに職務怠慢という理由で監査委員会から一カ月の減給と注意勧告の処分も受けた。そもそも母が葬式に会社関係者を呼ばないと言わなければ、関係者に接触するのはここまで難しくなかった……いや、それはわたしも納得したことだ。この名刺に気づくのが遅すぎた。まさか手がかりがずっと手元にあったとは。自分の馬鹿さ加減に呆れる。三回忌のあと、何枚かのCDと一緒に持ち帰った何冊かの本。そのうちの一冊。もっと早く読んでいれば――。
過ぎ去ったいくつもの“もしも”という可能性が打ち寄せる波のように心をかき乱す。瞼を閉じる。こめかみを押さえる左手に力を入れ、その波に静かに耐える。徐々に心は凪いだ海のように落ち着きをとり戻す。瞼を開く。それからわたしは課長に送るメールの文面を考えはじめる。
仕事帰り、わたしは久しぶりにスポーツ・ジムへ寄る。
ランニング・マシンの稼働音、弾む息、滴る汗。キロ六分のペースで三十分走り込む。若い頃、膝を壊す前はもっと早く走れたのに、情けない。心臓は速く激しく血液を循環させている。筋肉にこびり付いた錆が落とされていく。靄が晴れるように頭は澄み、思考のスピードが上がる。座って考えを巡らせているときよりも調子がいいくらい。筋肉は張り、全身が熱くなる。ラスト一キロ。歯を食いしばり、わたしは脚を強く前に運び続ける。
時間が来てブザーが鳴った。ベルトは緩やかに速度を落とす。しかし鼓動の速度は落ちる気配はない。耳に心臓があるのかと思うくらいに荒々しい音を立てている。やがてマシンは動きを止めた。わたしは項垂れて両手を膝に置き、口を大きく開き貪欲に酸素を求める。何も考えられない。頭の中は真っ白だ。純粋に苦しい。しかしこの瞬間が不思議と心地良い。しばらくぐったりしていると、少しずつ呼吸が楽になってくる。頭を上げ、マシンのディスプレイに飛び散った汗をタオルで拭う。そしてわたしはランニング・マシンから降りる。サボっていたツケがまわってきた。ツケは必ず払わなければいけない。この次はスイムだ。
クロールとブレストで迷ったが今日はクロールで泳ぐことにした。火照った身体が静められていく。聞こえるのは呼吸と水の音だけ。肩甲骨を意識して腕をまわす。キックの足首は柔らかく。ゆっくり焦らず身体を動かす。三回のプルで一回の呼吸。顔を上げると、プール内にこだまする音が耳に大きく響く。地上と水中の境目にわたしはいる。心と身体の歯車が上手く噛みあいだしてくるのがわかる。
課長にメールは送った。これで帰ってこられる人とこられない人の選別方法や研修施設や異動先でどのようなことが行われ、どのように扱われていたのか、ということがわかるかもしれない。あるいは、過去には触れないで欲しいと言われるかもしれない。年上の男性――しかも元上司が部下であった女に昔の傷口を抉られる。ある人は激昂するだろう。またある人はそんなことは出来ることなら避けたい、昔の話はしたくないと無視をするだろう。そう思うのは自然な感情だ。傍目から見るとわたしは実に嫌な女だ。でも……言い訳にすぎないけれど、この問題が絡んでなければ、そんな無粋な真似はしない。ここは引けない。やっと掴んだ糸口、離しはしない。現在わたしが持てるすべてを使って書いた文章。これで反応がなかったら、また注意勧告を覚悟で所属課所に電話をするか直接会いに行くか……。いずれにせよわたしはボールを投げた。今のところこの件に関してわたしが出来ることは何もない。課長がスイングをするか見送るか。じっと待つしかない。
五メートルのラインを超える。壁に近づいてくる。わたしは身体を回転させ、しっかりと壁を蹴る。手の指先からつま先まで一直線に伸ばし、水圧の変化を全身で感じる。
母は今頃何をしているのだろう。先月墓参りをしたとき、墓はきれいだった。多分母が掃除をしたのだろう。もうどれくらいまともに会話をしていないか――
父の葬式のあとからぎくしゃくしだした母との関係は、クロノス・ジャパンへの入社を決めたとき破綻を迎えた。わたしがOA業界や通信業界に的を絞って就職活動を進めていることを知ると、母はやめておきなさい、と静かに言った。それまでは部活のために高校は寮暮らしをしたい、と言ったときも志望校を県外の大学にし、一人暮らしをしたいと言ったときも母に進路の志望を否定されたことのなかったわたしは驚いたものだ。けれどわたしは自分の意思を曲げなかった。父のことを知りたい。狂うほど嫌いで好きだった人間が、その生涯をどのような仕事に捧げてきたかを知りたい。その一点だけでわたしは就職活動をしていた。そして一本の電話によって隠していたクロノス・ジャパンへの入社が露見した際に、穏やかで優しい母……という二十年以上かけてつくられたわたしのなかの母親像が崩れた。まったく大学の就職指導課は余計なことをしてくれる。母はヒステリックに取り乱した。汚く悪い言葉たちが散弾銃のようにわたしに放たれた。しかし、わたしもやられっぱなしではない。思考回路のヒューズが飛び、頭のなかに白い光が閃き瞬いた。考えるより先に言葉が口をついて出る。思えば……口にしてはいけない言葉で応酬してしまった気がする。
あの日からわたしと母は親子でありながら、見知らぬ他人より遠い関係になった。でも譲れないものは誰であっても譲れない。口論のさなか、母の言った、知らない方がいいこともある、という言葉。あれは一般論を言ったのだろうか。それとも父のことについて言ったものだったのだろうか――。
前を泳ぐ男性の脚が立てる水泡。生まれては消え、消えては生まれる。思い出やある種の想いはこんなに簡単に消えはしない。その事実は辛くもあり喜ばしくもある。再び壁が近づいてくる。しまった。何回目のターンか忘れてしまった。わたしは水中で力なく息を吐いた。あぶくで視界が遮られる。リセット。また40からカウントダウンを始める。
暗闇のなか、わたしはベッドに横たわり瞼を閉じている。筋肉が軋み痛む。身体は疲弊しきっている。なのに頭は覚醒している。眠れない。明日も早いのだけれど……寝返りをうつ。返信があって本当に助かった。課長のメールは良い反応だった。少なくともそう感じられる文面だ。質問をする項目をもう一度精査しないと。土曜日の夜に新宿。新宿……寮生活中はケイとたびたび訪れた街だ。せっかく東京に戻ってきたのにまだ数えるほどしか行っていない。そういえば、勤めてから初めての冬に入った、あのおでん屋はまだあるのだろうか?
「今日はつき合ってくれてありがとう」
「こちらこそ御馳走をしてくれてありがとう」
わたしとケイは熱燗を入れたお猪口を片手に乾杯した。日本酒が内蔵という内蔵を温めていく。天井にぶらさがった裸電球がオレンジ色の優しい光を落としている。店内はカウンターも三席あるテーブルも、中年以上の男性客で占められ賑わっていた。
「いや、いいんだ。ボーナスも出たことだし」
「それはわたしも一緒じゃない」
「それはそうだけど」
わたしたちはお互いに笑った。ケイはカウンターに置いた徳利を手に、おかわりをわたしのお猪口に注いだ。
「助かったよ。母親が身につけるものを買おうと思ったことなんて今までなかったからさ」
「去年まではケーキと花のプレゼントだっけ。それでも立派じゃない」
ケイはどうかな? という風に首を傾げ唇を曲げた。スキンヘッドで口髭の似合う主人の威勢のいい声とともに、おでんがそれぞれの前に置かれた。出汁のいい匂いのこもった湯気が柔らかく立ち上った。ケイの眼鏡が曇った。ケイは眼鏡を外し、テイッシュでレンズを拭いた。
「最初はね。悪くなかった。けど、何回も続けていると相手も自分も慣れてくる。驚きも喜びも以前のような輝きを放たない。だから変化が必要だと感じたんだ」
わたしは箸で大根を四つに切った。ひとつ口に運ぶと、舌の上にさっぱりと上品なつゆがじんわり滲んだ。思わず笑みがこぼれた。
「よかった。気に入ったみたいで」とケイは満足そうに言った。
「いつも同じ花ばかりなので、花よりほかの何かをお送りすることができたら、と思います。しかし、それは愛についてと同じことで、愛もまた単調なものです」
「誰の言葉?」
「ゲーテ」
「よく知ってるね」。ケイはお猪口に口をつけ、何度か肯いた。「そういう考えもあるのか。でもいい買い物が出来たよ。アミに頼んで正解だった」
誰が歌っているかは知らないけれど、スピーカーから演歌が聞こえてくる。演歌、日本酒、おでん。普段はあまり触れないものばかり。しかし不思議にじんわり心に沁みる。
「写真とケイの話から似合いそうだと思って。自分が付けてみたいという気持ちもあったけれど」
カシミアのマフラーとレザーグローブ。今年の冬は冷える。少しでも寒さを和らげてほしい。
「たしかに亜美にも似合いそうだ。亜美は今年どうするの?」
わたしは首を振った。
「そうか。難しいよな。でも好きなんだろ?」
わたしは唇をすぼめ、はんぺんにからしをつけた。「うん……」。ケイは煙草をくわえ何かに考えを巡らせている。
「お父さんがこういう業界、ましてや同じ会社で心を病んだのなら親としては避けて欲しいと思うのは当然の感情なんじゃないかな?」
「わたしはもう大人なのに」
ケイは煙草の煙を天井に向けて吐いた。「そうだね。でも親にとって、子はいつまでも子ってよく言うし」
わたしは頬に手を添えて考えた。「そんなものなのかな? きっと自分が同じ立場にならないとわからない感覚なんだろうな」それから煙草に火をつけた。「いいね。ケイの家は仲が良さそうで」
ケイは煙から視線を外し、こちらに向き直った。口許にはどこか疲れたような笑みが浮かんでいた。「悪くはないけどね……」
声はわたしたちの間に不安定な響きを残して消えていった。
「けど?」
「ときどきうちは家族という制度を見せかけだけなぞっているような気がするんだ。遠くからはきれいに見える。でもそこには実態……というか手ごたえがない」、ケイは左手を握ったり開いたりした。
「どうしてそう感じるの?」
「おれはこの歳になっても両親の喧嘩や意見の食い違いすら見たことがないんだ。母は父を立て、父は母を気づかい、ふたりともおれに優しくしてくれる。昔は普通だと思っていたけれど、成長するにつれて、他の家庭や恋人とのやりとりのなかで自分の環境がつくられたもの、あらかじめ用意されたものみたいに感じるようになった。痛みや苦しみのない環境。でもそこには流れる血の温かみも本当の喜びもない」
ケイはそこで言葉を切った。わたしはケイを見つめ、話の続きを静かに待った。
「それはおれが養子で両親が見合い結婚だった、というのが関係あるのかもしれないな。お互いに理想の伴侶であろうと親であろうと気を使っている。そのほころびがときどき見える。おれは少し悲しくなる」
「養子?」
驚きのあまり考えるより先に言葉が漏れた。
「そう。養子」ケイは何てことないようにあっさりと言った。「しかし見合いも養子も最近じゃ珍しくなくなってきたな。制度としてはいいんだろうけど、自分の知らないところで色々動かされるのはあまり好きになれないな」
「いつ知ったの?」
「ありがちだよ。二十歳の誕生日に両親から知らされた。それと本当の親を知りたいかを訊ねられた。あっ灰落ちたよ」
長くなった煙草の灰がカウンターに落ちていた。わたしは親指で拭い。再びケイを見つめた。
「訊かなかったけどね」
「どうして?」
「両親が言いづらいだろうと思ったからさ。それに、そこまで知ってしまえば調べる方法はいくらでもある」
「ごめんなさい。無神経なことを言ってしまって」
「いいんだ。気にしないで。……たまに普通の家庭に生まれ育ったらどういう人生だったんだろうと想像することがあるんだ。両親には悪いと思ってるんだけどさ。でもきっとないものねだりなんだよな。となりの芝は青く見えるって言うしね。おれは今手にしている人生しか生きられない。それでやっていくしかない」
「強いのね」
「おれはアミの方が強いと思うよ」
「そんなことない」
「アミは両親がどうやって出会ったかとか、そういったこと親に訊いたことある?」
わたしは煙草を吸い、記憶を辿った。いつの間にまわりの話し声は一層大きくなっている。「たしか食事会……合コンで出会ってありきたりな恋愛結婚だったと思う。なんとなくは知ってる。けど積極的に訊いたことはないな。両親は両親でわたしはわたしで……そういう役割、関係が当たり前だと思っていたから。ううん。違う。考えたことすらなかったかも。なんで失ってから気になるようになったんだろう――でも両親の会話のピースをあてはめていくとそういうことみたい」
「なるほど」ケイはお猪口を呷った。頬にほんのりと桃色が差している。いつもよりペースが速い。「ところでどうしてこんな話になったんだっけ?」
わたしは短く笑った。「ケイが水を向けたんじゃない」
「そうだったかな? いい感じに酔ってきた。今日は飲もう」
唇に穏やかな雰囲気が漂い、調子のいい声が紡がれた。わたしたちはしきり直しの乾杯をした。陶器の触れあう澄んだ音が火照った耳に涼しく響いた。
あれから何を話したんだっけ? 重い身体で寝返りをうち、顎のあたりまで布団を引き寄せた。わからない。ただ楽しく酔っ払って、門限ぎりぎりで帰ったことしか思い出せない。ケイと飲むときは実りのある会話も少なくないけど、大抵はこんな感じだった。笑顔が絶えない楽しい時間。炭酸のように泡となり弾けてもう戻らない時間。
ケイは何をしているのだろう? シェイカーを振っているかグラスを磨いているか、それともお客さんと談笑しているのか……しかしなぜよりにもよって静岡、わたしの地元に店を開いたのだろう? 別れ際、その場所のことでまた一悶着あったのだけれど。どうしてわたしはこうも上手くさよならが出来ないのか。後悔、未練、悩み、そして希望。様々な感情が頭のなかでうねり、縺れる。やがて脳はメリーゴーランドがその回転を止めるように、思考の速度をゆっくり落としてゆく。
金曜日――。翌日の朝を気にすることなく飲める日。自然と気持ちにも張りが出る。しかしそんな人間はこのフロアでは他に見当たらない。いつも通りの体操、いつも通りの二分間唱和、いつも通りの朝礼、いつも通りの……。繋ぎ目のない日々を過ごす人々。常にカレンダーと時計を確認しなければ、今日が何月の何曜日の何時かも忘れてしまいそうな人々。
化粧室でメイクの確認をしていると中村が入ってきた。同行した翌日から狙いすましたように一緒のタイミングで化粧を直しに来る。
「おはようございます」
明るい元気な声。
「おはよう」
鏡越しに挨拶を返す。中村は隣りの洗面台の脇にポーチを置いた。
「一週間ありがとうございました。所属課所に戻りましたら、教えて頂いたことを生かして営業に取り組んでいきたいと思います。でも、係長と初日しか組めなかったのが残念です」
「結局目をつけられちゃったからね。ごめんなさい」
中村はとんでもない、という風に首を振った。「いいえ。気にしていません。それに係長との同行が一番学ぶところが多く刺激的でした」
「そう。ありがとう。けどわたしの真似はしない方がいいと思う。それだけは忘れないで」
「どうしてですか?」中村は眉を寄せて首を少し傾げた。
「北島課長と話した感じだと今の上司には良く思われないと思ったから。まあ大体の管理職には気に入られないのだけれど」
「北島課長?」
わたしは間違いに気づく。クセはなかなか抜けない。「北島係長。あなたの同僚。そしてわたしの元上司」
「そうだったんですか」と中村は驚いて言った。
わたしは軽く肯く。「課所では北島係長はどんな人?」
「あまり話したことはないのでよくはわからないです。でもそうですね。――予算はほぼ毎月達成しています。係長から気さくに挨拶をしてくれたりそれとなくわたしのフォローをしてくれたりと、仕事が出来て優しい方、という印象はあります。初めはキャトルになった人と関わり合いたくないと思っていたのですが……不思議な方です」中村は戸惑ったような笑みを口許にうっすら浮かべた。
「間違いなく出来る人よ。課所に戻っても頑張ってね」
わたしはポーチにファンデーションをしまった。中村は何か言いたげにこちらを見つめている。
「どうしたの?」
「あの……戻っても、係長に聞きたいことが出来たとき、連絡してもいいですか?」
わたしは微笑む。「わかった。今プライベートのタブレットは持ってる?」
中村は一瞬ぽかんとした表情を見せたが、はっとして、ポケットからタブレットを取り出した。わたしは自分に繋がる12桁の番号を教える。中村はその番号を丁寧に復唱すると礼を言って、再びタブレットをポケットに収めた。
「会社のものはあまりプライベートに使わない方がいい」
「はい」
「じゃあ、トップ・セールスの表彰式で会えることを楽しみにしてるからね、中村さん」
「ありがとうございます」
手を振りわたしは化粧室をあとにする。課長が言っていた可能性という言葉。若い彼女にはこれからいくつもの素晴らしい瞬間が訪れる可能性がある。わたしにはもう……彼女ほどそういう機会はない。嫉妬と寂しさ……しかし今、なぜか微笑ましい気持ちが心を温めていた。
「こんな場所にこんなお店があったんですね」わたしは感心して言った。
課長と待ち合わせたのは新宿三丁目にある小さな焼き鳥屋だった。カウンターの細長い炭火の焼き台。ずらりと焼きの串が並び、濛々と立ち昇る煙を換気扇が忙しく吸い込んでいる。
「あったよ。昔からずっと」課長はネギ間を片手に思い出を懐かしむように言った。目尻に深い皺が広がった。久しぶりに会う課長。頬は若干こけ、頭には白いものが目立つ。額はやや広くなったかもしれない。変わっている。――当然だ。最後に顔を合わせてから十年以上たつのだから。
裸電球、年季の入った木製のテーブル、店内を賑わすサラリーマン。流れている音楽はクラシック・ロック。なぜかケイと行ったおでん屋が不意に胸に蘇った。
口許が弛む。わたしは眼を細めビール・グラスを左右に傾けた。
「そういう表情も板についたものだな。ただ、僕が隣りにいるのに他の男のことを考えてほしくはないな」と課長は冗談めかして言った。
「そんなんじゃないです。相変わらずですね、そういうところは」わたしはため息まじりに言いグラスに口をつけた。「奥さんも娘さんもこんなお父さんじゃ大変ですね」
「まいったな」課長は笑って頬を掻いた。
「まったく」わたしは椎茸に手を伸ばした。皿に溶けたバターがしたたり落ちた。
厳しいがユーモアがあり面倒見のいい人。売れないときには遅くまで残ってつきっきりで指導をしてくれた。そして初めてノルマを達成したときには本気で喜んでくれた……。わたしが営業に残っていられたのは、課長がいてくれたからこそだ。
「娘さんは今おいくつでしたっけ?」
「今年で21だよ。大きくなったもんだ」
「心配になりませんか?」
「うーん。ずっと独身でいて欲しくないとは思うけれど、男がどんな生きものか知っているから難しいところだね。でも心に決めた人がいるのなら反対はしないさ」
「そちらもですけど、就活の歳じゃないですか?」
「ああそっちか。……まあAランクに入っている大学に通っているから、大学名で脚切りされることはほとんどないだろう。問題は本人が何をしたいか? ということが見えていないところかな。でもいいことだよ。迷うってことは。成長しようとしている証拠だ」
「相談にはよくのられているんですか?」
「いや、ほとんどないな。言ってこないからね」
「でもさっき――」
「傍から見て、その印象。それくらいは気づくさ」
「じゃあなおさらどうして?」
課長は食べ終えた串を串入れに落とした。「大事なことは自分で決めて欲しいんだよ。じゃないと上手くいかなくなったときに脆くなる。人や環境のせいにしたりしてね。もし何がしたいのか、自分にとって大切なものが見つかったのなら、そのときは労を惜しまず協力するよ」
そう言った課長の声の響きには、優しく穏やかでありながら芯の強さが滲んでいた。
「前言撤回します。やっぱりいいお父さんですね」
課長は笑ってグラスを呷った。わたしは手を挙げ瓶ビールを追加で注文した。
「奥様はお元気ですか?」
「ああ、そのことは言ってなかったね。実は別れたんだ」
串をつまもうとした指が止まった。「申し訳ございません」
課長は静かに首を振った。「いいんだ。気にすることはない。ほら、冷めないうちに食べないと」
「でも……」
課長は黙って顎を突き出し、食べるように促した。わたしは躊躇いながらも串をつまんだ。天井のスピーカーからビートルズの『オブラディ・オブラダ』が流れている。
「異動になって一年を過ぎたくらいだったかな。妻の様子がおかしいと思ったのは。最初は異動後、精神的に参っていて、妻を――家族を気遣えなかったから機嫌が悪く……ちがうな、素っ気ないとでも言ったほうが正しいかもしれない。だからそういう態度になったのかと思っていた。向こうにしたら理不尽に当たられている、と取っても仕方のない場面もあった。あの頃は自分のことしか考えられなかった。家庭を……自分が帰ることの出来る場所、安心出来る場所だと顧みも疑いもしなかった。しかしそれはある日突然……僕にとってはだけどね、崩れ去ってしまった」
気がつくと部長は空になったグラスにビールを注いでいた。白金色の泡がグラスを勢いよく充たしていく。泡がグラスの縁まで迫る。しかし課長は瓶を上げる素振りを見せない。
「課長」思わず大きな声が出た。
泡はグラスをつたいテーブルに溢れ広がっていく。
「おっと」、課長はおしぼりに手を伸ばした。「考え事をしているといけないな」口許に苦みを帯びた皺が寄った。伏せられた瞳に力ない光が揺れている。「そうそう、電話でも言ったけど、僕はもう課長じゃないよ」
「すみません。昔からのクセでつい」
「それに、こういう場だ。仕事からは離れよう」課長はテーブルを拭き終えおしぼりを畳んで隅に置いた。
「でもなんてお呼びしたらいいか……」
「なんでもいいよ。北島さんでもまーちゃんでも」と課長はおどけて言った。
わたしは少し唇を尖らせる。「では北島さん……そうお呼びしてもいいですか?」
「もちろん」
わたしはビールに口をつけた。酔いで頬と耳が熱くなってきた。「娘さんはお父さんを選ばれたんですね」
「うん。あの子には救われたよ。駄目な夫であったけれど、駄目な父ではなかったということを教えてくれたのだから」、課長はしみじみと言った。「しかし、母親を失わせてしまったことはたしかに僕の責任だ。謝っても謝りきれるものじゃない。その責めは死ぬまで負うものだ」
「そこまで北島さんが考えなくても――」
「いや、僕があの子の日常も壊してしまったんだ。考え過ぎるということはないさ」
「それを言ったら奥様にも責任があるのではないでしょうか?」
「より魅力的な雄に惹かれる。それは雌の本能として当たり前なことなんだよ。彼女は妻であるよりも母であるよりも女……雌であることを選んだ。そのことを知ったとき……打ち明けられたとき、彼女のなかですでに僕や子供の居場所がなくなっていたように、僕のなかからも彼女への想いが消えてしまったんだ。不思議なくらい自然に」課長はすぼめた五本の指先をぱっと開いた。「お互いに責任はあるだろう。でも別れるきっかけを作ったのも、決定的な引金を引いたのも僕なんだよ」
わたしはうつむき、首を振った。何を言えばいいのか、何を伝えたらいいのか――わたしの手持ちの言葉ではどれも課長には届かないだろう。わたしは黙ってふたつのグラスにビールを注いだ。課長も黙ってビールに手をつけた。知らないうちに店内の賑わいは二段階くらい上がっていた。そんななかボブ・ディランの歌が微かに聞こえる。フォーク・ロック。バンドを従えエレキギターを奏でるディラン。初めて見た当時の人々はさぞかし衝撃を受けただろう。これは一体なんという音楽なんだと。今では音楽は生まれたそばから名前が与えられる。あなたはポップスです。あなたはロックです。あなたはジャズです。あなたは……高度に類型化、細分化された現在のシーンでそんな衝撃は期待出来ない。
「北島さんより優れた男性をつかまえるってかなり難しいと思うんですけど」
唇から言葉が零れた。なんでそんな言葉が生まれたのか自分でもわからない。課長は視線をマッチで火をつけようとした煙草の先からわたしに戻した。その眼には驚きの色が差していた。やがていつも通りの眼差しになり、煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐いた。
「嬉しいことを言ってくれるね。でも率直に言って高橋君は若いから男のことをよくわかっていない。僕よりいい男なんて石ころみたいにそこらじゅうに転がってるよ」
なんだか昔の自分を思い出して顔が熱くなる。きっと真っ赤に染まっているだろう。「もう三十も半ばです。若くないですよ」
「若いさ。しかし高橋君ももう三十代か。わかってはいるけど、つい新人のときみたいに接してしまうな」
口許の緊張が緩やかにほどける。「北島さんもわたしのこと言えないじゃないですか」
課長はそうだな、と言って楽しそうに笑った。
「でもわたしは北島さんのこと、とても尊敬しています」
「たびたび嬉しいことを言ってくれるじゃないか。……まあこの件に関しては相手が悪かった、という面はあるかな。向こうが格上だった。同じ野球選手でもメジャー・リーガーと高校球児ほどにレベルが違った」
課長は肩の力を抜き、ぼんやりと煙の行方を眺めている。
同じ競技、レベルが違う……わたしははっとする。「まさか、奥様はうちの社の人と――」
「おしい。でもまあ上の方の人間ってところだよ」課長はカウンターに肘をつき、身体をわたしの方へ寄せて囁いた。「グループの本部のお偉いさん」
わたしはその言葉に混乱する。「そんな……その人はクビになったんですよね? コンプライアンス上……というより法律の制裁も免れられないじゃないですか」
課長は手を振った。その手は飛ぶことに疲れた蝶のように見えた。煙草の煙が不安定に揺らめく。「ねえ高橋君、三葉グループの本体は旧三葉財閥の本流であることは知っているね」
「ええ」
頼りない声が空気を震わせた。
「上層部は政界、財界、法曹界と密に繋がっている人間も少なくない。その男がどの程度の権力を持っているかは知らないが、不倫をもみ消して更に一般人を路頭に迷わすことの出来る力はあった」
わたしは冷えた指先で髪を耳にかけた。「そんなことがあるなんて……」
「実際にやったわけではなく、その男の代理人がこっそり耳打ちするように仄めかしただけだけどね。法廷に持ち込んでも勝ち目はないこと、それどころか会社や社会から居場所がなくなる。僕だけではなく娘も一緒に、と」
乾いた唇の端が歪んで変な笑いが漏れた。「途方もない話ですね。本当にそんなことが可能なのかわたしには想像出来ません」
課長は煙草を灰皿の隅にこすり火を消した。燻ぶる火種の煙が鼻腔を刺激する。目尻に涙がうっすら滲む。
「任された営業所、その閉鎖、キャトルに落ちたのも……」課長の眉間に深い皺が刻まれた。「すべてとは言えないが、この問題が絡んでいたんだよ。あと転職活動の妨害とかね。高橋君、本当に申し訳ない」
心臓に冷たい影が差した。思考のヒューズが飛びそうだ。隣りにいる課長は深く頭を下げている。一体何が起こっている――ちがう、過去に何が起こっていたのだろう。息をゆっくり静かに吐く。眼を見開き、真っ直ぐ課長を見つめる。わたしはそれを知り、冷静に受け止めなければならない。
「北島さん、頭を下げないでください。もう過ぎたことです。北島さんに鍛えられたからこそ、わたしは今でもこの会社で営業を続けられているんですから。きっと他のメンバーも感謝こそすれ、恨む人はいないと思います」。わたしは笑顔をつくる。「どうしたんですか北島さん。らしくないですよ」
課長は微笑んだ。その微笑は少し風が吹けば飛んで行ってしまいそうなほどに弱々しかった。胸が痛い。こんな表情をさせたいわけじゃないのに。
「ありがとう。あの頃はタフだった……違うな、タフだと思っていた。――思い返してみれば、自分が肉体的にも精神的にもピークだったのは結婚する前だったな。今はその時の財産でなんとかやっている。
大切なものが出来ると強くなれる反面弱くもなる。右があれば左がある、前があれば後ろがある、上があれば下がある。この世の中はどうしようもなく繋がっているんだな。生きていくにつれて困難は増していく。それなのに自分は弱っていく。上手くはいかないものだね。僕より辛い境遇の人間はたくさんいるだろう。それこそ星の数ほどに。でもね、高橋君。僕にはあれで充分だったよ。充分に打ちのめされた」課長はひとつ短く息をついた。「あれから立ち直るのに随分時間もかかった。正直、あのとき壊れてしまったものはこれから先もと通りになることはないだろう。けど、僕は生きているんだ。そして娘も。僕は何が何でも生き続けたい」
冬の朝、緩慢に移動する雲の切れ間から太陽が姿をあらわし、徐々に世界を照らし出すように、課長の表情は明るくなった。声にも生気が充ちている。じんわりと瞼の裏が熱くなった。涙が出そうになる。わたしは奥歯を強く噛みしめた。
不意に課長の顔が悪戯っぽく崩れた。「王様の耳はロバの耳」課長はぱん、と両手を合わせた。「打ち明け話。誰にも話すつもりはなかったんだけどね。つい話してしまった。さすがトップ・セールス。話を導き出すのが上手い」
「おだてないで下さい」
「あれっ? もう空だ」課長はビール瓶を左右に傾けた。
わたしは品書きを手にした。「北島さん、今日は飲みましょう。熱燗にうつりますか?」
「いいねえ」
品書きから顔を上げる。カウンターの店主と眼が合った。熱燗、お猪口ふたつお願いします、とわたしは声を上げた。
「ところで高橋君は高橋君のままでいいのかい?」
「大声で熱燗を注文する中年女なんてもらい手いませんよ」
「僕はとても魅力的だと思うよ。熱燗を大声で頼む女性。非常に興味深い。それと三十代じゃまだ折り返し地点にも達していない。もらい手なんていくらでも見つかるさ」
ふとケイの顔が思い浮かんだ。「北島さんくらいですよ。そういうこと言って下さるの」
課長はボックスから煙草を一本つまんだ。わたしはポーチからシガー・ケースを取り出した。
「やめたのかと思ったよ」
「やめられませんよ」とわたしは言って苦笑した。火を灯し煙を吸い込み、そして吐きだす。その間波紋が広がるような沈黙が降りた。
「それにしてもまわりにいる男が悪いな。眼球の代わりにガラス玉でも入ってるんじゃないか。それとも脳の代わりに藁が入っているのかもな。そいつらに比べたら……いや比べたら失礼だな。オズの魔法使いに出てくるかかしの方が数倍気がきく。なあお兄さん」
店員はもちろん、とにこやかに言って徳利とお猪口をテーブルに置いた。そして軽やかに他のテーブルへ注文を取りに行った。
熱燗を課長のお猪口に注ぐ。「もう恋はされないんですか?」
「わからない。ただ娘が結婚するまでは父親でいるよ。そうだ、食事会には行かないのか?」
「行きませんね。そういえば中村さんにも同じ質問をされましたよ。結局その後同行は出来ませんでしたけど、私用の番号を教えて何かあったらかけるように、とは言いました。さすがに北島さんところの上司もプライベートの会話まで踏み込んでこないでしょう」
「気を遣わせてしまってすまない。恩に着るよ」
「いいえ。わたしも彼女がこれからどうなっていくのか興味がありますし」
「まさか彼女が高橋君の所属課所に研修に行くとは。人の縁とは不思議だね。繋がりやすくもあり切れやすくもある。アレもまったくどこで繋がったのか……」課長は淡く微かな笑みを浮かべた。
わたしはかける言葉が見つからず、煙草の火を消した。
「いや、申し訳ない。僕ばっかり話してしまって。さて、今日は高橋君が僕に聞きたいことがあったんだろう?」
どう会話を切り出したらいいものか……。隣りに座る課長はどこか疲れて小さく感じられる。こんな課長は今まで見たことがない。胸に寂しさと悲しみの感情がもつれ合って渦巻く。――わたしはこれから課長を更に打ちのめそうとしている。頭ではわかっていた。けれど、実際にこんな課長を見てしまうと、ここから追い打ちをかけることなんてわたしには出来そうにない。今日は旧交を温められた。掴んだ糸は太くなったはず。上出来だ。今日という日を次に繋げて然るべき時を手繰り寄せる。聞くのは今日ではない。
「とくにこれが、ということはありません。ただお電話を頂いて久しぶりにお会いしたかっただけです。よろしければまたこういう風に飲みに連れてって下さい」
「もちろん」と課長は言った。
「ありがとうございます」わたしはほっとして新しい煙草を唇にはさんだ。
「言いにくいこと、聞きにくいことこそ口にするべきこと。高橋君、忘れていないよね?」
それは新人の時課長から教わった言葉。
「ええ、憶えています」
「じゃあなんでキャトルについて聞かないんだい?」と課長は事もなげに言った。
急に核心に迫られ、はっとして息を飲む。
「君にその話題に触れてはいけないと考えさせてしまうほど僕は弱って見えるのか」と課長は自嘲気味に笑った。
口が重く動かしづらい。顔の筋肉が硬直してしまったかのようだ。「そんなことはないです」わたしはなんとか口を動かし平静を装って言った。しかし声は思ったようには出ず、擦れて空気に消えていった。
「いいんだ、気にしないで。高橋君なら構わないさ。興味本位や噂話のネタ目的で僕にコンタクトをとったのではないことはわかるさ」課長はお猪口を呷った。そして息をひとつついた。
わたしは言葉なく肯いた。陽気に飛び交う声の向こう。歌が途切れ途切れ聞こえる……多分バディ・ホリー。『イッツ・ソー・イージー』。遠い昔に出来たことが今は出来ない。皮肉なものだ。
「さて、どんなことが聞きたい? 染みひとつない殺菌された清潔な寮について? 食堂の完璧に計算された味気ない食事について? 電波時計で一分刻みに管理された研修内容について? それとも見渡す限りの閑静な森林と新鮮な空気についてかい?」
わたしは肩をすくめた。「正直何をどこから質問をしたらいいのかわかりません。北島さんの話しやすいように話して頂ければ」
「わかった」課長は軽く咳払いをした。
わたしは煙草をケースに戻し、課長の話が始まるのを静かに待った。
「あそこだけなのかはわからないが、僕が過ごしたのは軽井沢の研修施設の別棟。高橋君も最初の研修は軽井沢だったんじゃないか?」
「ええ」
入社後三カ月間、関東圏に住む人間は軽井沢の研修施設で泊まり込みの研修を受ける。そこで社訓や経営理念に体操、商品知識からビジネスマナーから営業マニュアル……何から何まで徹底的に叩きこまれる。毎日のように到達度測定試験があった。その予習と復習に追われる日々、まともに眠れた記憶がない。しかし別棟なんてものがあったのか。
「駅でタクシーを拾って住所を告げて、ぼんやり外を眺めているといよいよ不安で鼓動が速くなってきたな。これからどうなるのか? 俺は元の生活に戻れるのかってね。心臓が冷たい血液を循環させているんじゃないかってくらい身体中が冷えてくる。しかし駅から離れて段々と緑が増えてくると、まあなるようにしかならないさ、と不思議に諦めとは似ているが違う穏やかな気持ち……諦観と言えばいいのかそんな気持ちが生まれてきた。なんだか久しぶりに自然を見た気がしたな。田んぼが続いてその向こうには延々と山々が連なっている。空も綺麗に広がっていたよ。ビルや電線が視界に入る東京の空とは別物に感じた。いいものだよ。高橋君も時間があいたら自然のあるところへ出かけるといい。
やがて車は懐かしい景色の中を進む。そこまで来てやっと新人の頃の研修を思い出した。あの頃は若かったな。不安よりも期待と希望の方が大きかった。この会社で自分はどこまで上にいけるのだろうと。そんなことを考えていたら次第に研修施設が大きく見えてきた。耐震工事と一緒にペンキの塗り替えでもしたのかいやに真新しく白い外壁になっていたよ。入口の門のところで守衛に社員証と個人IDを見せる。いかつくて変に表情のない守衛だった。今もいるのかな? 門の脇の赤外線センサーに通して電話で確認をとるとものものしい音を立てながらようやく門が開いた。新人研修のときはこんなにセキュリティは厳しくなかったんだけどな。高橋君のときはどうだった?」
「バスに乗って集団で行ったので一人ひとりが社員証を出して……ということはありませんでした。多分運転手が自分のIDを出して通ったのでしょう」とわたしは曖昧な記憶を辿りながら言った。
「なるほど」と課長は相槌を打った。「初めは昔と同じ棟で研修生活を送るのかと思ったけど……そうじゃなかった。タクシーが研修棟を素通りして二、三分くらいだったかな。こちらも同じように白い外壁、自動ドアの横の看板に『クロノス・ジャパン軽井沢特別研修棟』と書かれた建物の前に止まった。カウンターで寮の部屋の鍵を渡されたときに不安が戻ってきた。いくら場所を移って他のことを考えていても現実からは逃れられない。キー・ホルダーはずっしりと重く冷たかったよ。寮のなかはえらくしんとしていて自分以外の人がいる気配が感じられなかった。唾を飲み込む音が不自然なほど大きく聞こえた。今でも覚えているよ、あの不吉な音は。部屋までの細長く天井の高い廊下はくもりひとつないリノリウム。一歩足を運ぶたびに乾いて尖った音が耳を刺激する。それが妙な具合でね。次第に変な感覚に捉われ始めるんだ。そのときはそれがなんなのかはわからなかった。部屋に入ってドアの脇の姿見に映った自分と眼があった瞬間、自分が小さくなってしまったような気がした……」
課長は口を結んだ。頬の筋肉がこわばっているのがわかる。それから短く息をついた。眼を閉じ、少し長い瞬きをした。やがてためらいながらも口を開いた。
「さすがに身長が急に縮んだわけじゃない。きっと僕の存在感というか……魂みたいなものがあの場所で小さく色彩を欠いたものになってしまったのだろう。愕然としたね。しばらくその場から動けなかった。じっと自分を見つめていると多くのものが衰え失われていることに気づいた。思えばキャトルの宣告を受けてから自分の顔を長く見たのはあのときが初めてだったな。髪は後退し肌はかさついて皺も目立つ。眼は淀み力が感じられない。そりゃあいつも愛想をつかして出ていくさ。どれくらい鏡の前に立ちすくんでいたのか……ぼんやりと頬に手を持っていこうとしたとき、誰かが咳込んだ。その咳の音はあまりに大きく近く聞こえた。まるで同じ部屋にいる誰かが咳をしたときのように。思わず手を引っ込めてしまったよ。そこでまた記憶が蘇った。そういえば新人研修のときは相部屋だったっけ、と。参ったね。これから始まる共同生活にうんざりしながらベッド・ルームへ向かうとそこには誰もいなかった。ほっとした半面拍子抜けもしたな。それから不思議に思いあたりを見回すとまた咳が聞こえた。その方へ視線をやると和室なら欄間のある部分……、高橋君欄間ってわかる?」
「実際に見たことはありませんが知識としては」とわたしは言った。
「天井と壁の間が30センチくらいぽっかり空いてるんだよ。左右、両側面。咳でこれだけ響くのだからテレビや音楽や電話なんかぜんぶ筒抜けになってしまう。行き届いた空調管理と解放感の実現。なんて入寮式では言っていたけど、まったく設計した人間の頭ときたらばっちりいかれてるよ。自分が住まないから……いや人が住むという概念が欠落しているからあんな設計が出来るのだろう。常に隣人に気を遣いながらの生活。最初はこんな生活慣れるわけがないと思った。しかし半年を過ぎる頃には完全に、とは言わないまでも無意識のうちに音を消して生活していた。人はどんなことにでも慣れるもんだね」課長は水の入ったグラスに手を伸ばした。そしてほとんどひと息で喉を鳴らして飲み干した。私もグラスに手を伸ばし、口を湿らせた。
「しかしそれでも時折管理人から生活指導という名目のメールが届いた。うっかりした、と思いあたりのあるミスから両隣りが不在なのを確信してかけたはずの電話についての内容まで。どうしてそんなことまで管理人に把握されていたのか――」
「リアル・タイム・ヴィジョン」考えるよりも先に言葉が漏れた。「でもその時期にはまだ開発段階だったはずじゃ――」
「うん。多分そうなんだろう」課長はどこか遠くを見やりながら言った。「でないと説明がつかないことが多い。きっと試験的にあそこで……もしかしたら他の施設や支社にフロアでもひそかに稼働させてデータを取っていたのかもしれない」
「そんなことって……」考えがうまくまとまらない。紡げる言葉は単純なものだけ。思考の糸がほつれる。
「いまじゃ自社は言うまでもなく親会社に子会社、関連会社にもリアル・タイム・ヴィジョンは完備されている。社員の管理、コンプライアンス遵守の徹底という名の元に。その頃サンプルの対象を社員にしていてもおかしくはない。手洗いにはつけてはないとは言っているが、実際のところそれも怪しいものだ。秩序、規律、統制、ある程度は我慢できる。むしろなくては困る。が、あれは行き過ぎだ。昔はもっとゆるかった」
昔は、と言った課長の声は力無く、喧騒の中ひとりごとのように宙へ漂った。
「服装もそこでは班ごとに統一されていた。つなぎと帽子で仕事をする。色は黒、白、灰、それに水色。全部で四班。一班の人数は三十人前後。男女比は9対1くらいだった。三ヶ月ごとの交代制で四つの仕事を回す。と、仕事に取りかかる前に商品知識やIT関連の講座があったな。それと試験。結果は全員分の順位がパソコン上で閲覧出来るから必死だったよ。それとたっぷりと体操やら唱和やらをやらされる。新入社員並みに。もちろん終業時刻にも。
始業は朝九時、終業は十八時。午前中は講座、午後は仕事といった具合にスケジュールが組まれている。休日は日曜日のみ。就業時間外であれば、外出は許されていたし行動も自由に出来たが、場所が場所だからね、施設の外に出る人間はあまりいなかったように憶えている。売店がひとつあってそこにはアルコール類も置かれていたがたまに僕が買うくらいのものだったんじゃないかな。月に一回の健康診断もあるしね。さて、仕事のひとつはコール・センターの補助だ。それまでは各々専門知識を持って仕事をしていたわけだからね。電話の前に座って延々とそれぞれの専門の商品についての苦情やクレームの対応をしていく。しかし電話でのクレームの対応は最初手こずったな。もっともTV電話と録音のおかげで昔ほどはひどくないらしい。そう古株っぽいおばちゃんが言っていたのを聞いたときは参ったよ。次にやったのはカタログや仕様書、商品提案書のひな型の作成及び校正。営業時代に使っていた資料があそこで作られていたなんてな。そしてやってみるまで自分が作る側の立場になるなんて考えられなかった。でも現実だ。そうそう、34年度に出たМPCXの3000から6000シリーズのひな型提案書は使ったことある?」
「ええ。何度も」とわたしは言った。
「嬉しいね。あれは僕が作ったんだよ」
「そうだったのですか。いくつも商談の想定パターンがあって会社名と金額を変えるだけでほとんどのケースに対応できたので重宝しました」
「うん。あれはわれながらよく出来たと思う。今出回っているひな型も表面上は変わったが骨格はあのとき……いやもっと前から変わっていない。時代も商品も変わったが、お客様が困っている……求めていることに対する提案のポイントというのは変わらないのかもしれないね」
課長は指先に挟んだままの煙草に視線をやった。いつ煙草を手にしたのだろう? という疑問が頭に浮かんだのか僅かに眉が寄った。それからぼんやりとした動きで唇に差し、マッチに火を灯した。火は手のひらのなかで一瞬激しく燃え上がりやがて落ち着く。課長はゆっくりと煙草に火を近づけた。マッチの匂いが鼻を抜ける。不意に父の仏壇に飾った遺影が脳裏をかすめた。父もキャトルとして課長が今話しているような仕事をしていたのだろうか? 課長は深く煙を吐き出した。
「いい匂い。懐かしい気持ちになります」とわたしは言った。
「僕も久しぶりに使ったんだけど、いいものだね」
課長はもう一度ゆっくりと煙を吸い込んで吐いた。
「そして三つめと四つめは実質ワンセット……ふたつでひとつの仕事のように僕には思えた」
「ふたつでひとつ?」とわたしは言った。
「公開する社の情報の選別、およびされたものの削除。対メディア戦略だよ。各メディアのチェック。インターネット、テレビはもちろんラジオ、新聞、雑誌……うちの情報は徹底的に調べる。特にネットに力を入れていた。情報の削除とはいっても訂正依頼をしたり検索エンジンに引っかかる優先順位を下げたりするのが主な作業だったが」
「情報操作……」
「ひらたく言うとそうなる」課長は人差し指で煙草の灰を落とした。
「そんなあっさりと……」
「事実だ。そうして選び抜かれた情報が世界に公開されている。人はその情報を鵜呑みにする。そうして社のブランド……つまり信用は守られ高まる。そこで働く僕たちは仕事が取りやすくなる。就職する前、社に関する情報をかなり調べたがネガティブな情報をほとんど目にしなかったのはこの仕事が上手く機能していたからだろう。キャトルの実態は中に入ってからじゃないとわからなかったことだけど」
「良い面だけ見せて都合のわるいところは隠してって、まるで詐欺じゃないですか」
「高橋君」と課長は飲み込みの悪い子供に言い聞かせるように言った。「そんなことはどこの会社でもやっている。ウチだけ特別ってわけじゃない。視覚の限定。いや、視点をずらす。というのかな。見えている面があれば必ず見えない面が出来る。その視点を社にとって都合の良い角度で固定する。光の面だけが見えるようにと。いや恐れ入るよ。まったく。それにキャトルの話は仕事の出来る人間には無縁のものだ。もし就活の時点で知っていたとしても僕はそれほど気にしなかっただろう。そうなるのは駄目で使えない人間で俺には関係ないことだと。当時、リストラされる人間やワーキング・プア、フリーターにホームレスなんかは自分には関係のない世界の人間だと思っていた。上だけを見ていた。しかし気づいたら自分がその駄目で使えない人間になっていた。その驕りが招いた因果かもしれないな」課長は煙草を灰皿に押しつけて火を消した。吸殻は煤けて折れ曲がり、灰皿の隅に寂しくその身を横たえた。
「そんなこと言わないでください」思ったより鋭く攻撃的な声が出た。頭はアルコールと高ぶった感情で熱くなっている。「ご自分にも、今まで――そして今キャトルの役割を果たしている人達に失礼です」
課長ははっとした表情を見せた。「そうだな。滅多なことは言うものじゃない。しかし、僕以外の人を悪く言うつもりはなかったんだ。それは信じて欲しい」
わたしは息をひとつつき微笑んだ。「大丈夫です。というより変に噛みついてしまって申し訳ございません」
「いや正論だよ。高橋君は何ひとつ悪くない」課長はおしぼりで手を拭った。「さて、仕事の大体の流れはこんなところだ。自分だけ話していると思い出せないこともある。これまでの話で何か疑問に思ったことはないかい?」
わたしは瞼を閉じ、聞きたいことを整理する。「北島さんはどのくらいの期間そこで働いていたのですか?」
「三年。34年度から36年度まで」
「皆三年でそこを出て行くのでしょうか?」
「いや、早いのもいたよ。それと長くいる人も」
「それには何か法則性みたいなものは――」
課長は首を振った。「わからない。月初めや仕事の変わり目で出入りがあったり、ある日突然新しい人間がいたり……入ってくる人間と出ていく人間の数もバラバラだった。その辺の事情はわからずじまいだよ」
「そうですか……そこで仲の良くなった同僚はいましたか?」
今度は手を振って否定した。「あそこではほとんど会話はない。私語は厳禁なんだ。特にキャトル同士のものは。作業効率が落ちるという理由で。違反者には警告文がメールで送られてくる。クウォーターで四度違反するとペナルティがある。うん、ロック・アウト解雇につながるんだ。そんな中で交流を深められるはずはない。そう、お互いの名前さえ知らない。人は数字によって区別され管理されているんだ。1038番さんもう少し笑顔を柔らかくとか、1038番さんいい唱和です。そのままの調子で、といった具合にね」と課長は言った。
「そんな……人をモノみたいに扱って」
驚きと怒りで鼓動が早くなる。
「最初は僕もそう思ったし頭にもきた。でもあれはあれで良かったのかもしれない」
「どうしてでしょう?」
「本当は名前を呼ばれたくない。知られたくないからだよ。多分ほかの人たちもそうだったんじゃないかな。お互いに番号で呼び合うのにもそのうちなんとも思わなくなる。それがあそこでの日常だからね。しかしキャトルから解放されてみるとやっぱりあれは異常だな。世間に馴染むまで少し時間がかかった。そんな単純なことさえもわからなくなるほどに飼い馴らされていたんだな。……俺は俺。北島正春だ。それ以外の何物でもない。もう自分を見失ったりはしない」課長は微笑んだ。その微笑みは優しくもあり力強くもあった。昔、仕事が上手くいったときに褒めてくれた表情だ。懐かしい気持ちがこみ上げ、涙腺の結び目がほどけそうになる。わたしは課長を見つめ深く肯いた。
「ところで、割り当てられた番号というのは連番で揃っていたりするのでしょうか?」
「とびとびだったな。多分いなくなった人間の番号は欠番になっているのだろう。若い番号は古株風の人間が付けていた。僕は1038番。後から入ってくる人間はそれ以降の番号をつけていたよ」
父にも固有の番号があったのか――。それはいくつなのだろうか。
「データ・ベースのようなものはなかったのですか? 名前が載っていないにしても個人間で仕事の連絡を取り合うときに使うような……」
課長は顎をさすり、うつむき、記憶を巡らせている。「あそこにはそういう個人連絡用のデータ・ベースはなかった。前にも言ったけどキャトル間の交流は隔絶されていた。そんなものはあるほうがおかしい。でも――あるんじゃないかな。僕らには存在もわからずアクセスも出来ないが、監理者用のものが。管理者にはあった方が……なければ困るものだからね。そういうデータは」
「どこに行けばそのデータを見られるのだろう」ぽつりと言葉が零れた。
「おいおい、あると決まったわけじゃないぜ。ただ存在する可能性が限りなく高いと言っただけだよ。どうしたんだい?」
「いえ、気になさらないでください」
課長は肩をすくめた。「高橋君がただ単にキャトルに興味があるだけではないのはわかった。もしかしたら同期や同僚がキャトルになっているかもしれないのか?」
胸の奥から食道をつたい重い言葉がせり上がってくる。どうしよう? 言うべきか言うまいか。判断に迷う。わたしが逡巡していると、課長はおもむろに席を立った。
「すまない。詮索が過ぎた。お銚子とあと適当に何かつまみを頼んでおいて。僕はちょっと雉を撃ってくる」
わたしは笑った。「綺麗な花も摘んできてください」
「まかせなさい」と課長は言ってお手洗に向かった。
メニューを眺めぼんやりと考える。課長の口から語られたキャトルについての情報。当然ながらわたしが知らないことばかり。しかしその情報を裏付けるものは何も……そう思いかけてわたしははっとした。いや、課長への信頼だ。それだけで充分だ。何を疑うようなことを。――恥ずかしく情けない。唇が歪む。耳が熱い。安心、保障、ただわたしはすがるものが欲しかったのか。けれど、もし、真実といわれる情報を大勢の人から聞いたところでメディアから仕入れたところで、結局それが真実かどうかはわからない。自分が見て経験しなければ本当のことはわからないのだ。今は課長から得られる情報がすべてだ。そこに私見や疑問を挟まない。ありのままを受け入れることが大事だ。ふと店内を見渡す。音楽はどこへ? 音楽が聴こえなくなる程周りのお客は盛り上がっている。わたしは声を張り、店主に熱燗の他にお勧めの串を三本ずつと塩だれのキウリを頼んだ。グラスを手に取り水を飲む。氷は溶け、グラスはびっしょりと汗をかいている。手のひらをおしぼりで拭いていると課長が帰ってきた。
「雉を撃つのに手間取ってしまった。面目ない」
「もう。あまり無理はしないでくださいね」とわたしは微笑んで言った。「随分賑やかになってきましたね」
「これからもう少し盛り上がる。だからこの店を選んだという理由もある」
「どうしてですか?」
「万が一会話を盗聴されても、ノイズが激しくて内容まではわからないだろうからさ」
「盗聴……」
「なくはない」と課長は言った。「キャトルから解放されてからというもの人の影が気になってね」
「まさか――」
課長は無言で肯いた。
背筋に冷たい感触が走る。「何の為に……というより今日は大丈夫なんですか?」
「わからない。それはあとでわかる。今日は大将に事情をちょっと話して常連さんに声をかけてもらったんだ。大体は顔見知りの人たちだよ」
「そうだったんですか」とわたしは言い店内を見回した。わたしの隣りの席、予約札が置かれずっと空席だが、これも課長の根回しなのだろうか。
「それと今日はこっちも探偵をつけている」と課長は言った。
「……ずっとつけられているのですか?」
課長はうーん、と唸った。「四六時中ずっとではないと思うが、断続的にはつけられていると思う」
わたしは店主からキウリと熱燗を受け取った。課長のお猪口に注ぐ手が微かに震える。
「あそこから戻った人間には全員つけられているのでしょうか?」
「わからない」と課長は言ってお猪口を口に運んだ。「本当に他の人間のことはわからないんだ。力になれなくて申し訳ないのだけれど」
「いえ、そんな……」
「それと君が会社から疑われる可能性を作ってしまった。でも仕方がなかったんだ。電話やメールでこの話題は出したらまずい。足がついたら言い逃れが出来ない」
わたしはお猪口を左右に傾けながら考えをまとめた。「やはり、口外してはいけないことだったのですね」
課長は肯いた。「出るときに誓約書を書くんだ。でも何も君に恩を売ろうとしているわけではないんだ。ただ、考えもなしにこんなことをしたわけじゃない、ということを知って欲しかっただけだ」
わたしは首を振った。「いいんです。気になさらないでください。この話題はわたしが望んだことなのですから。むしろわたしが北島さんを危険なところに引きずり込んでしまって……」
「それこそ気にしないでいい。僕の方は大丈夫だ。何かあってもなんとかする。それくらいの覚悟は出来ている」と課長は力強くきっぱりと言った。その課長の姿はかつてと同じ……いや、以前よりも頼もしく感じられた。
「強いですね」
課長はどうだろう? というふうに口角をそっと上げた。瞳に優しい光が揺れる。「さて、話がそれてしまった。ほかに聞きたいことはあるかい?」課長はキウリに箸を伸ばした。キウリはポリポリと小気味よい音を立てる。「うん、おいしいな。これ」
「わたしはまだ北島さんがキャトルになった理由について、納得がいっているわけではないんです。確かに先ほど仰っていた要因はあると思います。でも、どう考えても北島さんより仕事の出来ない人間が支社……本社にもいます。北島さんのほか……あそこにはどんな人たちがいたのですか?」
「入棟した頃の僕と同じような人間が多かった。瞳に生気がなく全身から力が感じられないような。若いのもベテランも関係なくいた。それがキャトル前からの傾向なのか、キャトルになってからそうなったのかはわからないけどね。しかし実際はどちらの原因もあったのだろう。――棟での生活が長くなってくると次第に飼い慣らされていく人々が目にとまるようになる。あそこでは昇給は望めないが年俸は異動前と変わらない。簡単な仕事で経済的には以前とあまり変わらない生活が送れる。別にこのままでいいじゃないか、悪い話じゃない、と考えるやつが出てきてもおかしくはない。――あと、数は少ないがどうしてキャトルになったのだろう? と首を傾げたくなる人間もいた」
「と言いますと?」
「仕事が出来そうな人間だよ。テスト上位者の常連。歩き方や所作や表情。そういったところから滲み出る何かのある人間。そういえば……昔、コンテストの表彰式で見たような顔のやつがいたかもしれない。うろ覚えだが」
串を載せた小皿がふたつカウンターの上に置かれた。わたしはひとつを課長に手渡した。
「不思議ですね」
「いや、僕と同じようになにかヘタを掴んでしまったのかもしれないな。上に行けばいくほど、取り返しのつかなくなるようなことが増える。死角にある落とし穴。それは静かに僕たちを待っている」
落とし穴……わたしと課長は黙ってハツモトの串を口にした。咀嚼をしながらわたしは次の質問を考える。
「でも課長は帰ってこられた。何か明確な指標はあったのですか? ここまでのノルマを果たせたら帰ってこられる、というような」
課長は食べ終えた串を指先で回している。「ないよ。だから不安だったし、出られる。という内容の辞令のメールが来たときは本当に驚いたよ」
わたしは相槌を打った。「それからすぐ埼玉支社に?」
課長は首を振った。「何年か……」それから串を串入れに落とした。そして指を折り始めた。「クロノス・リース、物流、といった関連子会社に一年ずつ。それと三ッ葉グループの東京電信とテレビ局のNBCにも営業で一年。それで五年前に営業で埼玉支社に戻ってきた。子会社への出向はなんとなく覚悟はしていたが、まさかグループの会社にまで飛ばされるとは思わなかったな」
「グループの会社にまで」と言ったわたしの声は思ったより小さなものになった。
「なんでだろうな。渦中にいたときは随分としんどかったけれど、過ぎてしまえば大抵のことは甘く感じられる。もちろんそうは思えない出来事もあったが」課長は皮肉めいた笑みを浮かべ、お猪口に手をつけた。「さあ、ほかには何かあるかい?」
わたしはこめかみを押さえた。思考回路はアルコールとキャトルの事実の衝撃で崩壊しようとしている。上手く持ちこたえことが出来るだろうか。「恥ずかしながら、今日はこれ以上聞いても整理がつけられそうにありません。でも最後に……結局キャトルの真実はキャトルにならないとわからないということですね?」
「本当のところはね。経験しなければわからないさ」
わたしはグラスの水を飲みほした。氷が唇の先に当たりひんやりとする。「課長は娘さんがクロノス・ジャパンに就職をしたい、と言ったらどうされますか?」
課長は眉を上げ、驚いたような表情を見せた。「うちにか……」と言うと顎をさすり考えだした。「入りたいんだったら、止めはしない。でも僕が経験したことは言うよ。出来るだけ主観は捨てて。それから決めて欲しい」
わたしは肯いた。
「最後と言いつつふたつ質問……大丈夫かい? 酔っ払いすぎてはないか?」と課長は言った。
「いいえ、大丈夫です。仕切り直しです。課長、今日は飲みましょう」
課長は仕方がないな、というふうに微笑み、そうだな、と言った。
わたしたちは目を合わせるとお互いにお猪口を軽く上げ、一息に飲んだ。生ぬるい日本酒がゆっくり、じんわりと身体を温めていく。課長の言ったとおり、店内はさらに賑わいを増している。そう、夜はこれから――色々とこれからだ。わたしはまだスタート・ラインにすら立ってはいないのだ。
会計の間際に課長は大将や常連のひとたちと長い挨拶を交わしていた。なかにはわたしとの関係を勘ぐって課長を茶化す声もあったが、弱ったふりをして冗談で返す課長の姿はなんだか微笑ましかった。店の戸を引く。時間は二十三時を過ぎている。暖簾をくぐると冷たく乾いた風がさっと髪をなぶっていった。頬がくすぐったい。髪を直し、マスクをつける。横を見ると課長もマスクをつけていた。
「用心にこしたことはないからね」と課長は言った。
「娘さんのためにも」
課長は黙って肯いた。「さあ、行こう。僕はタクシーで帰るけど、高橋君は?」
「わたしもです」
「わかった」
わたしたちは明治通りでタクシーを捕まえることにした。路地を行き交う人々の顔はアルコールに上気し、楽しげな声がそこかしこで上がっている。軒を連ねる居酒屋にレストランにバー。看板の照明や店内から零れる明かりは煌々として眩しいくらい。いくら世界が変わっても、世間が健康志向の真っただ中でも、本当の酒飲みには関係のないことなのかもしれない。
「今日はありがとうございました。おごってまで頂いて」
「いいんだよ。気にしないで。久しぶりに高橋君と飲めて良かったよ」
路地を抜けて明治通りに出る。歩道を行く人の数は路地とはくらべものにならないほど。どこが先頭か――皆ぞろぞろと思い思いの場所へ足を運んでいる。タイルを規則正しく踏みしめる音、乱れた拍子を刻む音。色々な足音が混ざって耳にこだまする。通りを走るタクシーは平日に比べると多く目につく。さすがに週末の稼ぎ時は今も昔も変わらないのだろう。高層ビルの群れのライトは夜空の裾に淡く白く滲んでいる。課長は縁石に乗り目を凝らし左右を見渡した。それから手を挙げると、タクシーは緩やかに速度を落とし、課長の前に停まった。
「じゃあ高橋君、気をつけて帰るんだよ」
「そんな、課長が先に乗って下さい」とわたしは慌てて言った。
「レディ・ファースト」と課長は微笑んだ。
それでもわたしがためらっていると、ドアに右手をかけ左手をわたしに差し伸べた。「さあ、早く」
わたしは短く笑みを漏らし、課長の手をとった。「何から何までありがとうございます」
課長は何も言わずに首を振った。「気をつけて」
「御茶ノ水駅まで」わたしは車内に滑り込みながらドライバーに告げる。「課長も気をつけて下さい」とシートから見上げて言った。
「わかった。また連絡する」と課長は言い遠慮がちに手を振った。
ドアが閉じ、わたしも窓越しに手を振る。そしておもむろにタクシーは走りだす。リアウインドウの向こう、課長はどんどん遠くなっていく。わたしは白いシートに深く沈む。タクシーの匂いが鼻を抜ける。わたしはこの独特な匂いが好きだ。手で口許をおさえ小さくあくびをする。しかし飲み過ぎた。久しぶりにこんなに……いやどれくらいぶりだろう。顔が火照って身体も熱い。どこに出しても恥ずかしい立派な酔っぱらいだ。カー・ラジオはニュースを流している。プロ野球の結果は巨人が阪神を3対2で下していた。父の微笑む顔が目に浮かぶ。それから天気予報に変わった。明日は曇り。雨は夕方からのにわか雨に注意。花粉と黄砂は今日と変わらない予報。PMは最高値で53マイクロ・グラム・立法メートル――
「お客さん、良かったんですか一緒じゃなくて?」
不意にドライバーに声をかけられた。何もかも見通しています、とでもいうような詮索好きのする声。バックミラー越しに視線がぶつかった。皺が横に幾筋も伸びた狭い額の下の瞳は好奇心に揺れている。唇は薄く開き、二の句を継ごうと待ち構えている。
「ええ。それと、少し考え事をしたいので駅まで放っておいて頂けませんか?」とわたしは出来るだけ穏やかに言った。
ドライバーは一瞬眉をひそめたが、わかりました、とそれ以上は何も言わずハンドルを握り続けた。




