1部
遠い記憶に誘われてマスクを下げた瞬間、潮風が髪を舞い上げた。海の匂いが鼻を抜ける。懐かしい匂い。視界を遮る髪を指で流し、耳に掛けた。ほのかに湿り気を帯びている。遠くで船が汽笛を鳴らした。青黒く重々しい海面からは金属の柱とコンクリートの橋げたがいくつも伸び、橋や線路を支えている。少し離れて芝生を敷き詰め、等間隔に木々が生える輪郭線が整った人工の島がふたつみっつと浮かぶ。海岸にはずらりと並ぶキリンのようなクレーン。むかし見た空と海だけの景色はここにはもうない。
しかしその前には今と同じような風景が広がっていた。そう、地震がすべてを壊すまでは。それから多くの時間と労力と資金をかけて東京湾――都市は再生した。なにもほとんどそのまま作りなおさなくても――。わたしはベンチを立ちデニムについた砂粒を払った。振り返ると、鏡面ガラスをびっしりはめ込んだ無個性な高層ビルの群れ。灰色のヴェールを幾重にも重ねたような雲を映し、向こうから届くはずの太陽の微かな光を隠している。
アスファルトブロックで幾何学模様を描いた公園沿いの歩道を行き交う人影はまばら。指先が冷えている。桜も盛りを迎えたのにこの天気。春物のトレンチコートを着ているけど肌寒い。脚を動かそうとした瞬間、音もなく黒猫がやってきた。野良のわりには毛並みが良い、瞳にはどこか人懐っこい光。わたしはしゃがんで話しかけてみる。
「きみはどこへ行くのかな?」
猫は短くひとつ鳴いた。お互いに何を言っているかわからない。すれ違う言葉。
「クロがマスクをしている人に近づくのは珍しいのですがね」
落ち着いた深みのある声が聞こえ、わたしは顔を上げた。いつの間にか老人が猫の後ろに立っていた。歳は八十くらいだろう。丸い金属縁の眼鏡に羊毛の太筆を思わせる豊かに蓄えられた顎髭が眼をひく。頭には細かい格子模様のハンチング。ダークブラウンのベロアジャケットとベージュのチノパンツ、着こなしは力が入ってなく自然だ。
「マスク、どうされたのですか? よろしかったら予備がありますので……」、わたしはバッグに手をかけた。
老人は穏やかに首を振った。「いいのです。やはりお嬢さんは心優しい方だ」
「でも……」
「もう随分長く生きてきました。今さらウイルスや細菌に怯えて生きながらえるつもりはありません。だがお嬢さん、あなたには先がある。気持ちだけ頂きます。ありがとう」老人は微笑んだ。眼許に柔和な皺が寄った。
わたしは切り口を変えた。「それはあなただけの問題ではないのです。もし感染したら他人を巻き込む可能性も高くなります」
「マスクをしていても感染する人もいれば、していないのに生き延びる人間もいます。毎朝チェッカーで検査はしています。陽性が出たときの覚悟はもうできているのです」
わたしは一瞬言葉を失った。「ご家族は何も言われないのですか?」
老人は遠くを見やり、また視線を戻した。「妻も息子夫婦も震災でみんな先にいきました。ロンドンへ出張していた私だけが残りました。自然には勝てません。友人と呼べる存在もこのあたりにいる猫だけです。まあ、私が勝手にそう思っているだけですが」
黒猫は大切な用事を思い出したかのようにはっとすると、早足に白粉花の植込みの方へ駆けた。
「何か見つけたのでしょう。これだから猫と歩くのは面白い」老人は表情に柔らかな余韻を湛えたまま言った。「人間とは違い、彼らは生をそのまま受け入れているように思えます。考察も探求も理解もせず、あるがままに。一緒にいるとなぜか安らかな気持ちになれます。哀れな老人の無い物ねだりの感情が充たされるからでしょうか……」
そこで老人は考えに沈んだ。わたしは口をつぐみ微笑をつくり続きを待った。不意に公園の時計塔の鐘が高らかに鳴り響いた。
「歳をとるとついお喋りになってしまう。若い人には退屈でしょう」
「いいえ。そんなことはありません」
「引きとめて申し訳ない。そろそろ行きます」
老人の視線を追うと、クロは植込みのそばで尻尾を左右に振りながら、頭上をひらひら舞う紋白蝶を見つめていた。
「わたしたちにはあなたたちの世代との交流がもっと必要なのかもしれません。ですから受け取って下さい」わたしはバッグから予備のマスクを差し出した。
今度はすんなりと受け取った。「では、ありがたく。今日はお嬢さんと話せてよかった。お見かけしたことがありませんでしたが、ここは初めてでしたか?」
「二度目です」
老人はマスクをじっと見た。「おお、これは日の出フイルムの……いいものを」
「関連会社に勤めているのでタダで手に入ります。気になさらないでください」
「またお会いしましょう」
わたしたちは軽く会釈をして別れた。クロへ向かう老人の足取りはしっかりとしている。ジャケットと同じ色の皮靴の踵が綺麗に光を反射した。
喫茶店でホット・コーヒーを買い求め、駐車場に戻った。車の数も寂しい閑散とした駐車場。シルバーのメルセデスを視界に捉え、リモート・キーのボタンを押す。かたんという心地よい音。お出かけのサイン。小さい頃はロックの外れる音を聞くと胸がときめいた。今日はどこへ連れて行ってくれるのだろうと。手に馴染む重さのドアを開き、畳んだコートを助手席に置く。シートに座りエンジンをかける。心を励ますような振動を感じる。わたしはコーヒーを飲み、息をひとつついた。ステアリングはまだ握らない。カップで両手を温める。
ラジオのチャンネルをNHKに合わせる。ベルリン市内の病院で78歳の男性を含む8名が新型の細菌肺炎によって亡くなりました。一刻も早い抗生物質の開発が待たれます、とアナウンサーは深刻な口調でニュースを締めくくった。三年前のパリ型の時も同じことを言っていた。その前はウイーン、ニューヨーク……十年前の東京の時も。抗生物質の神話はとっくの昔に崩壊した。その危険性は90年代初頭から指摘されていたらしい。細菌を制圧し、清潔な世界で安閑としていた人類。しかし細菌は密かに多剤耐性の遺伝子を種を超えてやりとりし、反撃の機会を窺っていた。そして現在その侵攻は圧倒的な脅威となり人類を脅かしている。抗体を持った細菌が発生、新薬を開発。その新薬にも抗体を持った細菌が発生、新薬を――細菌と人間のいたちごっこ。わたしは首を振った。勝ち目のない戦争に思えてしまう。
首都圏の天気予報に耳を傾けると明日の雨の心配はなさそうだった。その代わり花粉がよく飛び、黄砂は視程5キロから10キロと多めの予報になっていた。PM2,5は予想最高値で65マイクロ・グラム・立法メートル。ジングルが流れ道路交通情報に切り替わった。昇りは、事故の影響で芝浦ジャンクション付近で1キロの渋滞、箱先から錦糸町方面に向けて断続的な混雑が起きていた。急ぐ帰路ではない。わたしはそこまで聞いてラジオを消した。
音楽プレイヤーのケーブルをオーディオに繋ぐ。画面をスクロール。車内で父がよく流したアルバムのひとつ。シュガー・ベイブの『ソングス』。わたしはレバーをドライブに入れ、アクセルを踏んだ。
フロント・ガラスが切り取る景色。ビルの谷間、ヴェールが一枚めくれた部分が淡い茜色に染まっている。まだ僅かに日の名残りが感じられるなか、わたしは車を走らせた。あの老人は今何をしているのだろうか。クロと散歩の続きを楽しんでいるのか、それとも一人暮らしの家で――なぜか小さな手入れの行き届いたマンションの部屋が浮かんだ――音楽でもかけながら夕飯の支度に取りかかっているのか。あの老人だったらCD……いや、レコード・プレイヤーを持っているかもしれない。それでショパンやドビュッシーといった繊細なピアノの作品をかけていそうだ。埃を払ったターン・テーブル、曇りのないトーン・アーム。レコードが回り、針をそっと落とす。スクラッチ・ノイズが安らかな時の訪れを約束する。食事は冷凍食品やインスタント、デリバリーでは済ませない。食材は自分で選び、手間を惜しまず調理する。靴の磨き方を見れば、それくらいのことはしていてもおかしくない。父がそうだったように。それだけに、覚悟はできているのです、と言った言葉が堪えた。死を生の到達点として受け入れ、死に場所を求めている。そんな響きと重さを持つ言葉だった。
色々な死に方がある。人によってもたらされる死、世界と自分の可能性に希望を見出せずに選ぶ死、病や飢餓や乾きに蝕まれていく死、前触れも仄めかしもなく、ヒューズが飛ぶように訪れる死。老人が選んだのはそれらとは違う、自己の肯定的な意思による前向きな死に方。マスクを渡したのはただのおせっかいでしかない。そんなことはわかっている……父は生と死についてどう考えていたのか……唇を噛んだ。もう随分時間が経つのに、わたしは父の死を消化できないでいる。
思ったよりスムーズに江戸橋を抜け呉服橋に差しかかった。隣りの車線を走る赤いトヨタのコンパクト・カー。リアウインドウにはディズニーのぬいぐるみがいくつも仲良く並んでいる。久しぶりに見た。
震災後、リニューアルオープンしたディズニーランドに行ったのは小学生の頃だった。あれは4月のまだ寒さの残る夜、わたしたちは父の帰りを待ち車で家を出た。助手席には母、後部座席にはわたし。ミッキーのぬいぐるみを抱え、窓の外を過ぎる風景を眺めた。街は煌々と光を放ち、星の瞬きを霞ませる。川のように流れるヘッド・ライト。眼を閉じて夢見ることを忘れてしまった人たちを照らしだす。普段ならベッドの中。起きていること、ましてや外に出ることなんて許されない時間帯。わたしの知らない夜の世界。その世界を垣間見られる夜のドライブは楽しみだった。しかし、車が静岡インターから東名に乗ると、いつも富士市の手前で記憶が途切れた。両親の穏やかな声、路面段差の揺れ、タイヤの摩擦音とシュガー・ベイブやビートルズといった音楽が混ざり合う空間。何か温かい柔らかく大きなものに包まれている気がして、わたしはすとんと眠りに落ちた。そして母に揺すられて眼をさますのは海老名のサービスエリア。両親は厚木あたりで起きた血栓症のような致命的な渋滞をぼやくけれど、眠っていたわたしは会話についていけない。そう、あの時はそんな渋滞がまだあった。道路が整備され交通量も減った今では珍しいものだ。
寝ぼけ眼には刺激の強い蛍光灯の白い光。広くゆったりとしたフードコート。食券を買ったりトレイを運ぶ人の動きはどこか緩慢。テーブルは埋まっているけどなぜか静かで居心地の良い雰囲気。きっとあれは夜と人々の旅の疲れが生むもの。
食事を終え、車のドアにもたれ空を見上げた。一面に星が煌めいている。わたしは手に持ったココアを飲むのも忘れて見とれた。やがて肩に大きな手が乗った。父に促され、わたしは後部座席に再びおさまる。思えば、あの日見た星が一番綺麗だったかもしれない。この頃はもう……少なくとも東京では見ることができない美しい星空。
神田橋ジャンクションに近づく。車をやや左に寄せ、ウインカーを出す。不意に赤いトヨタのリアウインドウのミッキーがいなくなった。ミッキーがいた場所、ミニーとドナルドのあいだから、幼稚園くらいの女の子が顔を覗かせた。眼が合い、女の子が手を振る。わたしは微笑んで別れを告げ、ハンドルを切る。緩やかな曲線の下り坂。吸いこまれるように地上へ降りていく。
ドア・ノブを握り、小窓を覗きこむ。指紋と瞳孔が認証され、ドアが開く。それと同時に玄関の電気がつく。エントランス・クリーナーが起動し、衣類の埃や花粉を吸い込む。吸引が終わり、パンプスを脱ぎクロスで軽く磨く。皮が黒い輝きをとり戻す。洗面所で手をアルコールで消毒し、マウス・ウォッシャーで念入りにうがいをした。廊下、リビング、わたしの移動に合わせて明かりが灯る。モバイルをリモコンに切り替えオーディオに向ける。わたしが立てる音以外は何も聞こえない。ただいまを言う必要のない生活も慣れた。物憂げなピアノ・の旋律が流れる。『M*A*S*Hのテーマ』、ビル・エヴァンス。テーブルの竹鶴のボトル、大分嵩が減っている。昨日は飲みすぎた。最近はバーでほろ酔いになり家で泥酔することが多い。今のわたしを父が見たらどう思うだろう? 眉間に皺を寄せて怒るだろうか? 困ったように首を傾げるだろうか? 上手く想像がつかない。
だからあの頃の記憶を求めて東京湾に足が向いたのかもしれない。おぼろげにしか思い出せないが、復興支援で父の会社の同僚たちと東京湾に行ったことは確かだ。父たちは沿岸の瓦礫の撤去作業、母たちは炊き出しの手伝い。暇を持て余したわたしは母の眼を盗んで崩れた防波堤の突端に座り、飽きることなく海と空を眺めていた。柔らかな風、波の音、鴎の啼き声。自然とぴったりひとつになるような感覚……すべてが懐かしい。
仕事の忙しい父と平日に顔を合わせることはあまりなかった。休日も食事以外はほとんど自室にこもり英会話、資格試験の対策といった勉強をしている時間が長い。それだけに家族そろって囲む食卓やたまの旅行が嬉しかった。特に父がウイスキーを飲む休日の夕食。父は笑顔が増え饒舌になる。そんな父を見るとわたしも笑みが零れた。音楽、小説、絵画、映画にアルコール――ニューロンがシナプスによって結合するように繋がる話題。
夕食はチーズ・オムレツとレタスとトマトのサンドイッチを作り、竹鶴をオン・ザ・ロックで飲んだ。パンに挟んだ野菜は瑞々しさを失いはじめていた。二、三日食べるのが遅かった。わたしはため息をついてバス・ルームへ向かう。
シャワーを浴び、髪を乾かし鏡を見た。眼尻に細い影が幾筋か伸び、涙袋の下にはそばかすが細かく散らばっている。さっきのレタスよりも潤いが感じられない。若さ、時間、もう取り戻せないもの。化粧水、美溶液、乳液にクリームでささやかな抵抗をする。笑顔をつくってみる。面白くもないのに笑うのはやはり不自然。今日のわたしはうまく笑えただろうか。タオルを洗濯機に放りこみ、パネルに触れる。ドラムが回り、わたしは洗面所をあとにする。
洗濯ものを畳み、ベッドに腰かけた。サイドテーブルに置いたミネラル・ウォーターの瓶は汗をかいている。その横にはピルケース。わたしはケースを開け、ピルを口に含み、水で押し流した。エヴァンスの『マイ・フーリッシュ・ハート』を聴き終え布団に潜り込む。照明が落ち、わたしは意識を手放す。
丸ノ内線を押しだされるように降りて地上に出る。昨日アイロンをかけたブラウスに見事に皺がついた。人口は減っているはずなのに朝のラッシュはひどいもの。そして人身事故。頻度は少なくなったが今朝も中央線が止まった。遅延は一時間弱。自殺だろう。ホーム・ドアがあるにもかかわらず防げない。ある生物が光に引き寄せられるように、ある人は列車に引き寄せられる。
月曜日、通勤する人々の肩には力がない。顔の半分はマスクで覆われ瞳は睡魔に苛まれどこか虚ろ。空にはスモッグのような雲が広がっている。その中を太陽の光が拡散し、逃げ場を求め彷徨っている。月曜日、ラッシュ、人身事故、曇天、これだけ条件が揃えば元気な方がおかしいのかもしれない。ヒールが互い違いにはめられた白と黒のアスファルト・タイルを鳴らす。10メートル毎に植えられた桜。大きく開いた花びらは仄かにくすんで見える。晴れた日は仰ぐ人もいるのに、目も向けられない。時期が過ぎれば、この人たちはここに植えられた木々が桜であることさえも忘れていそう。出口から数えて12本目を左に曲がる。アスファルトから人工大理石のタイルへ。ヒールの音が鋭く変わる。目の前には本社ビルがそびえ立つ。マスクを外すのは、この水銀みたいに輝く自動ドアを後ろにしてから。吹き抜けのエントランスには人々の足音だけがこだましている。インフォメーション・カウンターには写真を貼り付けたような頬笑みを湛える受付嬢。いつもと変わらない姿勢で座っている。ロビイの隅にある喫茶店。カップを片手にニュースを読み耽る無表情な顔が並ぶ。レジへ進みブラック・コーヒーを注文。スムーズな受け渡し。先週入ったバイトの女の子。仕事に慣れてきたみたいだ。ガラス張りのスツール席の前を過ぎ、廊下を右に折れる。エレベーター・ホールは混み始めている。手のひらをスライドさせると宙にディスプレイが浮かぶ。13という数字に触れ、静かに扉が開かれるのを待つ。
椅子に座り手をかざし、デスク上にウインドウを展開する。保健機関からのメールが届いている。先月の健康診断の結果。赤文字で禁煙、禁酒の勧告がトップに表示される――余計なお世話だ。肝臓の数値が多少悪いが身体に問題はない。今朝もチェッカーは陰性だった。頬杖をつく。……あの老人は大丈夫だろうか?
ウインドウを指で弾いてスクロール。未読のメールをチェックする。予算の進捗状況のグラフ、PCの構成確認依頼、キャンペーン商品の案内……急ぎの用件は特になし。コーヒーを口にする。舌にしっかり残るコクと苦み。やはりこれくらいが丁度いい。社内の自動販売機に社員IDを読ませれば、タダで飲めるけど、いかんせん薄い。机のパーテーションの向こうに人が座る気配がした。始業まであと10分。そろそろ営業が出揃う頃。わたしは活動予定の調整に取りかかる。
就業時刻になりました! 皆様、ご起立下さい!
天井スピーカーから女性の溌溂とした声がフロアに響き渡る。同時に皆、一斉に立ちあがる。そしてフロア前方の部長席の脇に、男女二人組の立体映像が投影される。運動着姿で満面の笑顔を湛えた二人。眩しくて眼をそむけてしまいそう。部長も負けず劣らずの表情。黒い肌が油で光っている。
体操を始めます! まずは背伸びの運動から! イチ、ニ、サン、シツ! 高橋さん、もっと腕を上げて! 笑顔も足りませんよ! 吉田さん、いいですね! その調子です!
バッハの『主よ、人の望みの喜びよ』。アコースティック・ギターのカバー。旋律に合わせて身体を動かす。朝に弱い身にこの体操は辛い。注意されるのは新人のときから慣れっこだ。ノルマをこなせるようになるまでは、そのことで周りから色々言われた。しかしノルマを達成すれば、文句は言われない。
さあ皆様もっと元気よく! 次は肩を回しましょう!――
体操を終えると軽く息が弾む。下着に微かに汗が滲む。乱れた髪を手櫛で流す。
映像が切り替わった。今度は男性が現れた。ネクタイのディンプルの窪み、パンツのプレスのかかり具合、ベルトと靴の色合いなど着こなしには一分の隙もない。少しして映像はバスト・アップになる。
ワンポイント・スマイル・レッスン。今日はお客様先から退出する際のスマイル。まず私がやって見せますので、皆様は真似をして下さい。それではいきます。
濃くはっきりとした眉の下の瞳には温かな光が宿り、結ばれた唇の端は緩やかに上向く。押しつけがましくないささやかな笑み。幾分軽いきらいはあるが、多くの人にきっと爽やかな印象を与えるだろう。
渡辺さん、ちょっと唇に力を入れて、気持ち顎を引く感じで……はい、素晴らしい! 若いセールスの方はフレッシュさも大事ですからね! 忘れないように。
――それは、なくしたもの、捨てたもの、傷つけたもの、蔑ろにしたもの――
皆様、完璧です! このまま行動理念二分間唱和に移ります。わたしに続いてください。
お客様視点から価値の提供が出来る人間になります!
お客様視点から価値の提供が出来る人間になります!
お客様と社員の喜びを創造出来る人間になります!
お客様と社員の喜びを創造出来る人間になります!
仕事を通じて社会に貢献出来る人間になります!
仕事を通じて社会に貢献出来る人間になります!
三つの行動理念。胸に留めた社章に右手を添え、二分間。腹の底から声を集め、喉を震わせ、力の限り唱和する。一瞬でバッハのメロディは遠くへ押しやられる。声は壁や天井に反響し、耳を聾さんばかり。興奮して高ぶった感情が感染し合う。眼に入る顔はどれも画一的な大量生産品のよう。検品を終えてそのまま出荷できそうだ。
新人研修でまず学ぶのは状況による笑顔のつくり方とこの唱和。初めて研修で習ったとき、周りを見てなぜか吹き出してしまった。咄嗟に口許を押さえたが、遅かった。指導員に報告され、一週間の反省レポートの提出と寮の化粧室の清掃を命じられた。それから指導員たちの視線が厳しくなった。その件以来、罰を受けることはなかったが、過ごし辛い研修と寮生活だった。三年間で他に罰が下った人数は憶えている限りでは三十人程度。遅刻、試験での赤点、身だしなみの乱れ……
二分です! 見事な唱和でした! 本日も張り切っていきましょう!
声が途切れ映像が消えた。音楽もいつの間にか止まっている。瞬きが出来るか出来ないかという刹那。フロア内に音も動きもない空白が生まれる。やがて部長の業績進捗確認によってその間隙は埋められる。
朝礼が解散し、課所の打ち合わせが終わると皆自分の仕事に取りかかる。電話のコール音があちこちで鳴っている。部長の話はまとめると、全員が角度AとBの案件を決め切れば当月予算は達成出来る。しかし、各人、達成率120パーセントを目指して営業活動に取り組むように、というものだった。簡単に言ってくれる。そう、多くの主要顧客を抱え、日本で一番大きな市場を回れるこの部署で数字を落とすことは許されない。望むところだ。やっとここまで辿り着いたのだから。
提案書に眼を走らす。ヒアリングの内容は十分吸い上げられたはず。念のためレコーダーで要点をもう一度聞き直す。デスクに置いたイヤホンに指をかけたとき、提案書のメインディスプレイの右脇に小さなウインドウが開いた。課長からのアクセス。親しみを込めた笑みを浮かべている。
「今、手は空いてる?」
表情とは裏腹。状況を窺ってはいるが、それは言葉だけのこと。
「ええ、大丈夫です」手を戻し、澄まして答える。
「高橋係長の予定、午後はほとんど未取引の企業回りだよね?」
「そうです」
「じゃあ、訪問件数減らして、中村さんの面倒見てやってよ。研修で来た」、頬笑みの目盛りがひとつ上がり、声が柔らかくなる。「保有案件からして、今月もいけるでしょ? 他は忙しいからさ」
「わかりました」
異動後半年で学んだこと。細川課長からのこの手の話は拒否や保留をしない方がいい。
「よろしく頼むよ」
ウインドウが閉じた。監視モニタに気づかれない程度にため息を漏らす。スケジュール変更はあと。イヤホンを右耳に入れる。いきなり御鉢が回ってきた。ペースを乱される。二年目のセールスの同行研修があるこの時期は憂鬱。またウインドウが開いた。
ブラックバックに白抜きの文字。〈中村有希・会話許可依頼〉その下には社員証のぎこちない表情の写真。入社前に撮ったものだろう。
うんざりするが、ウインドウの許可の文字に触る。
「おはようございます。中村です。本日はよろしくお願いします」
元気良くハキハキと話す彼女。社員証と比べると別人のよう。
「こちらこそ。そろそろ社員証の更新、庶務に頼んでおきなさい」
「わかりました。係長、私クロノス・ジャパンの営業らしい顔になってきましたか?」
「スタート・ラインに立ったってところね。寮を出る頃にはもっと変わっていると思う」
「ありがとうございます」鳳仙花の実が弾けるように華やぐ瞳。「それで今日の同行の件なのですが……」
「あとで……そうね、10時には訪問するお客様を決めてリストを送るから、午前中はそのお客様について調べて、13時から動けるようにしておいて」
「わかりました。お待ちしています」
アクセスが切れ話は終ったはず。なのに、まだ高い声が耳に響いている。彼女もそうだ。悪い子ではないのはわかっているけど、違和感が拭えない。言葉が、気持ちが本当に伝わっているのかいまいち掴めない。手ごたえがない。人形に話しかけているみたいだ。会社を離れたら会話が生まれないタイプ。ここにはそんな人ばかり。
社員名簿のデータ・ベースにログイン。中村有希を検索にかける。予算達成率65パーセント。二年目のこの時期にしては良い方。昨年度の成績から売上先を見る。放っておいても数字が上がりそうなところで占められている。あの頃はこんないいお客様は持たせてもらえなかった。いや、担当エリアにあったかすらも疑問だ。未達成の連続で営業をはずされそうになった過去を思い出す。よく生き残っているものだ。プロフィールに載ったSNSのURLへ飛ぶ。話題のレストランの料理やデートスポットの写真が貼られ、申し訳程度の文章が添えられた日記。写真の彼女や友人たちは楽しそう。付いたコメントも好意的なものが多い。だけどみんな薄っぺらく感じられてしまう。あなたたちは本当は何を求めているの? 舌先が乾き胸の奥が焼けつく。この感情は嫉妬? そうかもしれない――でもそれだけではない。情けない。まだまだだ。不意に昔の飲み友達が頭に浮かんだ――苦い笑いが零れる。友人。もう何年そう呼べる人と出会っていないだろう。椅子に背を持たせかけ、力ない息を吐く。
クロノス・ジャパンはアメリカのクロノス社と日本フイルムの合弁会社として誕生した。当初はコピー機を主要商品として展開。その実績を基に全国に取引ルートと信頼を確立し、時代とともに扱う商品を増やし成長してきた。古い世代からはいまだにコピー屋と認識されているが、若い世代からは総合商社のような捉え方をされているのが現状。カメラ、3Dプリンタにタブレット端末とさかんにCMを打っているのがその要因か。今は同じ三ッ葉グループの電気通信事業会社の東京電信と共同開発した立体映像転送装置の導入と運用セミナーの運営で忙しい。これがあれば商談が映像としてそのまま残るので、商談内容について言った、言わない、の不毛な水掛け論も起こらない。それからPCやタブレットなどの端末と連動させ、声だけのデータを切り取り、そのまま文書データとして起こすことも出来る。そして取引先間での訪問回数を減らすことも可能になる。どこで未知の細菌やウイルスに感染するかわからない昨今、外出を控えるのは賢明な判断。
提案書の推敲を済ませ、席を離れる。
老夫婦が切り盛りする小さな古びたレストランで昼食を取る。琥珀色のオーク材のカウンターにテーブルと椅子。木材を基調とした店内はどこか懐かしい雰囲気が漂っている。壁には昔の映画のポスターが何枚も貼られていて、打ちつけられた棚には日焼けした本がずらりと並んでいる。天井から吊るされたチューリップを思わせるデザインの小ぶりなランプが柔らかな光を落としている。和やかに話しながら食事を楽しむ人の年齢は高め。夫婦や友人、はたまた趣味の仲間か。ゆっくり、急ぐ素振りもなくナイフやフォークを動かしている。ここだけ時の流れが鈍ったような錯覚にとらわれそう。音楽はアルト・サックスをメインにしたクインテット。耳を刺激しない控え目なボリュームでかかっている。ナポリタンの最後のひと口を味わう。蜂蜜が入れてあるのか、ほんのり甘みが残った。紙ナプキンで唇を抑える。空腹は満ち足りた。静かで穏やかな時間。
まだあまり慣れていない道。裏通りのわかりにくい場所にあるがいいレストランだ。目印といったら、地下へ下る階段の脇に置かれたスタンド式の看板だけ。『レストラン・アリス』。顧客開拓の為に気の向くまま路地に入ったが思わぬ収穫があった。課長とあの子に感謝しないと。
ネットに繋げば流行りの店の情報は洪水のように溢れる。しかしこういったところは埋もれてなかなか出てこない。こんな巡り合わせや足を使って探した方が早かったりする。空腹は充たされた。商談も納得のいく結果。ここで煙草が吸えたら文句のない前半戦。けれどそこまでは望みすぎ。18時までの全面禁煙。ついにここまできた。清潔で健康的な社会を目指した結果……いや、その過程か。それが自分たちの首を絞めている現状。きれいはきたないきたないはきれい。綺麗ごとだけではやっていけない。四百年以上前にシェイクスピアが看破していたことなのに。
「お水のおかわりはいかが?」
声の方へ眼を移す。綿あめを思わせる白い髪をした夫人がガラス製の水差しを持って立っていた。顔に広がる皺さえも幸せそうに見える。しかし青い血管の浮き出た薄い手の甲と微かに白くひび割れた指先が、これまでの人生を物語っている。
「お願いします」
テーブルにグラスを差しだす。
「若い方が来るのは久しぶりで、お口にあいましたか?」
注意深く水が注がれる。氷が踊り、涼しい音を立てる。
「とても美味しかったです。それと……若くはありませんよ。もう三十も半ばですから」
「あら、十分若いわよ。ここにいる枯葉のようなわたしたちとくらべたら、まだつぼみをつけたばかりの花みたいなものよ」
奥のテーブルに陣取った常連と思しきグループから笑い声が起こった。カウンターの主人も笑っている。つられて笑ってしまった。こんなことは久しぶり。耳が熱くなる。
「お手洗いはどちらですか?」
「まっすぐ行ってつきあたりを右よ」
椅子に置いたバッグを掴み、席を立つ。年季の入った木製のフロア。歩くたびにコツコツと温かく心地よいリズムが鳴る。常連さんたちに軽く挨拶をして通り過ぎ、化粧室のドア・ノブに手をかける。
――化粧を直し、鏡を見つめる。年の功。お世辞が上手い。つぼみ。そんな時期はとうに終わったと思っていたのに。若いなんてもうどれくらい言われていなかったことか。言われたところで事実も変わらず慰めにもならないが、悪くはない。タブレットが震えた。メールを受信。待ち合わせ場所に着いたという連絡。マニュアル通りの五分前行動。つぼみより若いこの子はなんと呼ばれる存在なのだろう。そっとため息をつき、化粧室を出る。
「お会計をお願いします」わたしはタブレットを用意して言った。
「ごめんなさい。うちのレジは電子マネーには対応してないの」と夫人は申し訳なさそうに言った。
バッグの内ポケットからカード・ケースを出し、中から一万円札を抜き取った。マッド・マネー。いつか父に注意をされたことがあった。財布とは別に、緊急用のお金を持つようにと。
「ありがとう。時代にあわせなくちゃいけないのはわかっているんだけどね。どうもふたりとも苦手で……」夫人は唇をちょっと歪めて首を傾げた。「だから若い子たちには入りづらいのかしら。でもそういうのをやりだすと、店が変わってしまいそうな感じがしてね」
「わたしはこのお店、好きですよ」
「またいつでもいらしてね」
老夫婦は丁寧なお辞儀をしてわたしを送りだしてくれた。もっとここに留まっていたかったが時間だ。わたしは思考と声帯を仕事用に切り替える。
晴海通りに面した銀行の前で彼女は待っていた。胸を張り、黒い革のトート・バッグを両手で持ち、身体の前に提げている。上着はテーラードにシンプルな白のシャツ。スカートは膝丈のセミフレア。何回目かは知らないが今年の流行。無難な選択だ。社内でも似た格好をした子たちが眼につく。街を行く人の波の切れ間、視線が合った。
「お疲れ様です。本日はスケジュールを調整して頂きありがとうございます」
「気にしないで。さあ、行きましょう」
晴海通りを築地四丁目方面へ。いつもと変わらぬ歩調で進む。だけど、すれ違う人も車も吹く風もいつもと同じではない。法律事務所の看板の下、ツバメが巣を作っている。街は少しずつ表情を変えていく。
「係長……いつもこのペースで歩いてるんですか?」
息を切らした声が後ろから聞こえる。はっとして振り返る。
「ごめんなさい。早かった?」
「いえ、大丈夫です」と彼女は言いながら小走りで駆けてくる。「そのピンヒールでよく綺麗に歩けますね」
背筋がすらりと伸び、つま先まで意識が届いた素敵な脚はこび。そんな母の姿が胸をかすめた。最初から上手く歩けたわけではない。母に近づきたいと思って思考錯誤をしてきただけ。「慣れよ。一件目は日電さん。ちゃんと調べた?」
「はい――」
彼女はそう答えてバッグからタブレットを取り出そうとした。
「ちょっと待って。お客様先でもウインドウを開いて確認するつもり?」
「そういう訳ではないですけど……」
「事業内容、規模、主な取引先、ウチから買って頂いたもの、その経過年数。これくらいは頭の中に入れておきなさい」
「わかりました」
「あと、お客様先では聞かれたこと以外余計なことは話さないで。何年か前にいきなり商談もどきのことをやり始めた子がいて大変な思いをしたことがあるから」
「はい」、彼女ははっきりと言い切り、強く肯いた。
白く巨大な円柱形のビルに入る。床のタイルも壁も眩しいほどの白。正面カウンターに受付嬢が二人並んでいる。どちらも眉は濃く緩やかなアーチを描き、淡いピンクのアイシャドウに控え目なマスカラ。どこの受付嬢も似たり寄ったりのメイク。違うのは制服くらい。ここは青と水色のマーブル模様のスカーフが眼を惹く制服。右の子はループノット、左の子はリボン結びにしている。
「十三時半から総務部の施設管理課、購買担当の杉本様との約束を頂いている。クロノス・ジャパンの高橋と中村です」
ループノットの方が立った。カード・ケースから個人番号証明カードを出し、受け渡す。
「いつもお世話になっております。ではこちらお預かりします。少々お待ち頂けますか」
カードがPCのスロットに挿入されウインドウが浮かぶ。
「高橋亜美様。確認が取れました。杉本にお繋ぎします」
ややあって画面が変わる。
「杉本です。お待ちしていました。25階までお願いします」
揉み上げに白いものが混じり始めているが、視線は自信に満ち、声の調子から余裕が窺える。いかにも働き盛りといった感じだ。
「かしこまりました。本日は中村の同行も許可して頂き、ありがとうございます」
「素敵なお二方にお会い出来て光栄です。また後ほど」
エレベーターを降りると杉本氏が待っていた。シャドー・ストライプのスーツ。今朝の映像の男性のように着こなしは完璧。鏡面仕上げの革靴は、ストレート・チップに映るものの輪郭まではっきり捉えられそう。
「こちらへ」
左右に別れた廊下を左へ。アイボリーの毛並みが揃ったカーペット。足音は生まれることなくどこかへ消えていく。四つ目のドアの前で三人は立ち止まった。応接室と書かれたボードの下、赤外線の認証システムに社員証がかざされ、鍵の外れる音が鳴った。
「どうぞお掛け下さい」
声に促され椅子を引く。心地よい反発のあるクッションの椅子だ。一息つくとノックがあり、若い女子社員が入ってきた。手には銀のトレイ。トレイにはカップとソーサー。コーヒーの豊かな香りが部屋に漂う。流れるような所作でコーヒーが置かれた。女子社員は一礼すると速やかに退室していった。そのあと中村を紹介し、名刺交換を済ませた。
「温くならないうちに」
そっと唇をつけ、ソーサーに戻す。隣りの彼女は砂糖とミルクをかき回している。やっと飲んだかと思うと一瞬眉を寄せた。それでも苦かったらしい。
「先日のリアル・タイム・ヴィジョンのフェアとデモは大変素晴らしかったです。おかげで導入後のイメージが固まりました。もっと早くから御社と取引をしていれば良かった」
「そう言って頂けて何よりです」
「しかしこれだけ技術が進歩しても契約にはこれが必要なんですね」
杉本氏は青い鉄製の小箱を開け、朱肉と印鑑を三つテーブルの上に並べた。
「お手数おかけします。こちらに印をお願いします」、クリアファイルから契約書と注文書を出し、杉本氏に渡す。杉本氏はゆっくり丁寧に印を押していく。その間、誰も言葉を口にしない。静かな時間が流れる。息づかいさえはっきり聞きとれそうだ。
「これで良いでしょうか?」
返された書類を一通り確認する。「ええ、問題ありません。搬入、設置はこの前打ち合わせをした日時でお変わりありませんか?」
杉本氏は深く肯いた。
「ではそのように手配致します」書類をファイルにしまい、バッグに収める。
「中村さんは二年目でしたっけ?」
「はい。そうです」
「売れていますか?」
中村は少し考えた。「同期の中では売れている方だと思います」
「いいお手本が近くにいるから、もっと売れる営業になれますよ」
頑張ります、と言った中村の声には力強い響きがあった。
「恐れ入ります」
「まだお話をしていたいのですが、他の仕事に戻らなくてはいけません」杉本氏は困ったような笑みを浮かべ、いかにも残念、という口調で言った。「帰りは酒井が案内します」
何度も顔を合わせているが、いまだに本質がつかめない。「ありがとうございます。何か不明な点がありましたらいつでもご連絡下さい」
「わかりました。今後ともよろしくお願いします」
応接室を出ると、さっきのコーヒーを持ってきた女性が立っていた。「ご案内させていただきます」
杉本氏に見送られ、エレベーター・ホールへ向かう。
エントランスで酒井氏と別れると、中村は口を開いた。
「係長は二年目の今頃、全然売れていませんでしたよね?」
「そうね。売れてなかった」
「でも三年の半期の締めあたりから数字を落とさなくなった……」中村は顎に指を添えて考えを巡らせている。
「なんとかね」
「どうして急に変わったんですか?」
「急にじゃない。あなた植物を育てたことはある?」
中村は不思議そうな顔で首を振った。この人は何を言いだしているのだろうと。「ありません」
「種や苗を植えて、いきなり花や実をつけるものなんてない。ずいぶん時間はかかったけど、いろんな人に支えられてその時期に芽吹いただけよ」
「そうですか……でも営業のスタイルを変えたりとか……」
「スキルの上達はあったと思うけれど、ビジネス書を参考にするとかセミナーに入って根本的なところを変えるとか、そういうことをしたことはない」
「やっぱりウチの会社の営業マニュアルがいいんですか?」
初訪問、接点確保、関係確立、商談、そして契約……各段階においてマニュアルは十五種類。それを新人のうちに身体と心に刻み込む。何も考えずとも行動に移せるようになるまで。
顔に近づく小さな虫を払うように手を振る。「それだけじゃない。お客様相手のことだからそれだけには頼っていられない状況もある」
「わたしはいまのところ、そういった場面になったことがないのですが」
「そのうちどこかで訪れるから気をつけなさい。夕立に打たれるように突然に」
中村は眉を下げ唇を薄く開き、不安げな表情になった。
「手本にはなれないし、手取り足取り教えられないけど、疑問に思ったことは言ってね」
黙って中村は肯いた。
それからなるべく業種が被らないよう中村を連れて回った。製造、建設、サーヴィス……規模も大企業に中小企業と偏らないように。中村は行く先々でメモを(許可をされた場合は録音を)し、訪問を終えると質問をしてきた。どんな意図を持って会話を投げかけたか、なぜ商品の紹介が出来そうなところでしなかったか、といった商談の技術的なことから、係長みたいなパンツスタイルでショート・ヘアの方がウケはいいのかといった個人的なところまで。その他もいろいろと……。なんでも質問をする姿勢は微笑ましい反面不安に思える。ただ変な癖がついていなかったことはよかった。最初に言った言いつけを最後まで守ってくれた。
外へ出るとあたりは薄暗く、地面には影が広がり、街灯が明かりを灯しだした。
「これでおしまい。さあ会社に戻りましょう。あなたもレポートをさっさとまとめて早く帰りなさい」
「本日は本当にありがとうございました」と中村は言って深くおじぎをした。「あの、もしかして今日訪問した会社って、わたしのエリアに多い業種を選んでくれていましたか?」
「たまたまよ」
駅へ向かう道。ひっきりなしに過ぎゆく車、エンジン音とタイヤがアスファルトを噛む音が混ざり、空気を騒がしく震わす。重い脚を運ぶサラリーマン。踵はそろそろ替えどきだ。緩やかに巻いた髪を胸元で弾ます着飾った女性。手を繋ぎ、夕食の相談をしている恋人たち。そわそわと落ち着かない雰囲気が伝わってくる。夜の世界が訪れる予兆。
「そうですか……。高橋係長の営業って――」
ヒップ・ポケットのタブレットが震える。「ちょっと待って、お客様から電話」
中村は慌てて言葉を飲み、立ち止まった。
「お電話ありがとうございます。クロノス・ジャパンの高橋です」
「高橋さんこれからちょっと時間あります? 先日いいのを見つけたんですよ」
よく通る低い声。この声は社長の息子さんだ。
「ええ、大丈夫です」
「よかった。今から第二事務所の方に来てもらえますか?」
「もちろんです」
「お待ちしています」
電話が切られ、コール音が耳にこだます。電源マークに指をすべらせる。
「あなたはそのまま帰社していいから。それともついてくる?」
中村の瞳が微かに揺れる。瞼に影がさっと差した。「どうしたらいいでしょうか?」
「それはあなたが決めるの。別に帰っても評価が落ちるわけじゃないから安心して。一緒に行くならあなたの残業も課長に連絡するから」
瞼の影が晴れた。「同行させてください」中村はきっぱりと言った。
「わかった」画面の電話帳をスクロール。細川順二の名前に親指を押しつける。ワンコール、ツーコール――
「お疲れ様。どうしたの? 早く帰ってきなよ」明るく調子のいい声。そろそろ帰り支度でもしようと思っていたところだろう。
「高橋と中村、六時半まで残業します」
「申請理由は?」声が幾分固く冷たくなった。
「数字を上げるため。その瞬間を中村に見せるためです」
電話口の向こうで太い息が漏れた。「わかった。あまり遅くならないように」
言い終えると同時に通話が切断された。
前髪をかき上げ、バッグを肩に掛け直す。「さあ、行きましょうか」
中央通りと晴海通りの交差点を過ぎ右に折れる。雑居ビルがひしめく細い路地。なかには震災前からの建物もぽつぽつと。居酒屋の提灯の明かり。蕎麦屋の風情を感じさせる色褪せた藍の暖簾。戸が引かれ、店から陽気な会話が聞こえてくる。
「賑やかですね」
「そうね」
「でも、お酒のなにがいいのでしょう? 高いわりにそんなに美味しいわけでもないし、身体に悪いし」
「好きじゃないのね」
「だって年俸の査定にも影響が出るじゃないですか。禁酒、禁煙でプラス10万円。係長はお好きなんですか?」
「ええ」
中村は首を傾けた。「どうしてですか?」
「理由はわからないけど、好きよ。それと、我慢して得られるもの以上のものを得ていると思うから、そのへんは気にしていないの」
自分が大切に想う人でしか慰めることの出来ない感情があるように、アルコールでしか……もっと言えば、その酒でしか癒せない傷がある。たとえば竹鶴。それはある人にとってはギムレットだったりキリン・ラガーだったりする。
少し小走り気味に中村がついてくる。「係長、本当に歩くの早いですよね。なにか運動やってらっしゃっていたんですか?」
「ごめんなさい。そうね、高校まではバスケット。最近はサボりがちだけど、ジムに行ってるわ」
「そうだったんですか。わたしもジム通ってみようかな」
藤沢興業と白いテープで社名の入ったガラス窓の向こう。息子の専務と眼があった。手招きをしている。
「ほら着いた。入りましょう」
「はい……」
中村はさっきの会話について考えているのか、気のない返事が戻ってきた。
事務所の端にあるパーテーションで区切られた応接スペース。黒い革張りの年代物のソファアにガラス製のテーブル。その上には重そうな陶器の灰皿。スピーカーからは聞こえるか聞こえないかの微妙なボリュームでピアノ・ソロが流れている。
「ささ、どうぞどうぞ」専務はがっしりとした身体を中腰にして、湯気の立った緑茶をテーブルに置いた。作業着の袖から覗く腕はチョコーレトのように隈なく日焼けしている。それからソファに深く座り湯呑みに手をつけた。喉仏が大きく二回動く。「すみません。現場から帰ってきてさっきまでバタバタしていたもので」
「いえ、お気になさらず」天井近くに設置されたスピーカーを眺めた。「専務これは……」
「よく気づきますね。エヴァンスです」専務は口角を満足気に上げた。「『自己との対話』。これまでビッグ・バンドばかり聴いていて、エヴァンスは好みではなかったのですが、高橋さんと話したあと聴き直したらハマっちゃいましてね。昔は鬱々と感じられて嫌いだった音が不思議と心地良く沁みわたるんですよ。まあ歳をとったから、と言えばそれまでの気もしますが。いや実にいい物をあらためて紹介してもらいました。そう、長いあいだお借りして申し訳ないです。こちらお返しします」
白い手提げ袋が目の前に差しだされた。貸したCDは四枚。それにしては袋は大ぶりで重そうだ。中にさっと眼を落とす。竹鶴の箱が見えた。
「そんな、悪いです――」
専務は手を振って話を遮りソファを立った。「いやいや、何も言わずに受け取って下さい。ところでそちらの研修中の、えーっと」
「中村です」
「失礼。中村さんはジャズにご興味は」
「興味はあるのですが、あまり詳しくは……」
心もとない声は宙に吸いこまれるように消えた。
「まあ、若い人……というより好んで聴く人は少ないですからね。退屈かもしれませんが一曲だけお付き合い願います」
中村は何か言おうと唇を動かしたが、言葉は紡がれなかった。専務はデスクの裏にあるステレオのボリュームをつまんだ。『ブルー・モンク』がゆっくりフェード・アウトしていく。やがて聴き慣れたピアノのイントロが始まった。『ワルツ・フォー・デヴィ』。しかしベース音がなくタッチもどこか違う。リリカルなメイン・テーマに耳を澄ます。エヴァンスが道を譲り、颯爽とアルト・サックスが前に出てきた。わたしは専務に視線を移した。
「『ノウ・ワット・アイ・ミーン?』キャノンボール・アダレイとのカルテットです。ご存知でしたか?」
わたしは首を振る。「驚きました。トリオと比べて大人っぽい印象のデヴィですね」
「以前ソロとトリオを中心に音源を集めていると仰っていたので、もしかしたらと思いました。良かった。気に入って頂けて」
専務は手にしたアルバムのジャケットをこちらに向けた。
「あっ」思わず声が漏れた。現実味を欠いた無機質な空間――サックスを持った黒人(多分アダレイ)の横に下半身が逆さまになった石像。遠い日、まだジャズもエヴァンスもわからなかった頃、父のレコードの棚から無造作に抜き取ってしまった気味の悪いジャケット。そのときはすぐに棚に戻してずっと忘れたままだった。
「どうされました?」
「子供の頃、父の部屋でジャケットを見たことがあるのを思い出しました」
「ジャズはお父様の影響で、と言っていましたね。ウチも……と言いたいところですが、親父はまったく興味がなくて、祖父が亡くなった際に私がコレクションを譲り受けました」専務の瞳にあたたかい記憶が放つ光が揺れた。
「そうだったのですか。今日、社長は?」とわたしは言った。
「今日は15時であがってもらいました。今の現場は大掛かりで工期も長いですし、それにもう70を過ぎていますから。健康の方も心配で……でも本人は出たがるので説得するのに骨が折れます」専務は困ったように笑い頬を指で掻いた。
「社長の年代では珍しいですね。進んで現場に出たがるなんて」
「ええ、祖父も東京型肺炎で亡くなったので気が気でないのですが、まあ本人がやりたい、と言うのなら止められません」
わたしは専務を見つめ、曖昧に肯いた。
「そうだ。現場に持っていくPCを増やしたいので一台お願いします。思い切り頑丈でバッテリーの持ちがいいやつ」
中村は何が起こったのかわからないといった表情でわたしを見た。「わかりました。少々お待ち下さい」バッグからタブレットを出し、候補を三つに絞った。「どれもスペックは同じで価格も変わりはありません。専務の好みで選んで下さい」とわたしは言って、タブレットから浮かび上がった三つの映像を専務に見せた。
「じゃあ真ん中のでお願いします」専務は迷わず言った。
「ありがとうございます。納期のご希望は?」
「なるべく早く」
「在庫があれば明後日中にはお届け出来ます。社に戻り、確認が取れ次第連絡致します」
「お待ちしています」
いつの間にかワルツは終り、果されなかった約束を思い出させる――そんな物悲しいメロディをアルト・サックスが口ずさんでいた。
「一曲だけのつもりが長居をさせてしまって申し訳ない」
「いえ、大変充実した時間でした。お土産も頂きましたし」とわたしは微笑んで言った。
「またいらして下さい。喫茶店代わりと思って下さってかまいませんから」
ありがとうございます、と言ってわたしと中村は立ちあがった。
玄関であらためてお辞儀をし、藤沢興業をあとにする。専務はわたしたちが前を向くまで手を振っていた。
「啖呵を切った割にはPC一台。課長に何か言われそうね。でもああやって物が売れることもあるの。こういう経験はあった?」
「電話やメールで商品の発注依頼をされることは多いですけど、雑談の流れからというのはちょっと……」
「まあ、あんな営業もあるってこと。ところで、専務から電話が来る前に何か言おうとしていたけれど」隣りを歩く中村を見やり、話を促す。
「その、係長の営業って会社のマニュアルに載っていないことも平気でやっていきますよね。雑談をしたり機器のちょっとした修理や設定もしたりして……特に藤沢興業さんでは音楽を聴いてお土産まで貰って」
「だからお手本にはなれないと言ったの。でもさっきも言ったようにこういう営業の仕方もある。参考にはしなくていいけど、一応頭の片隅に放り込んでおいてもいいかもね」
二人のあいだを風が吹き抜けていった。肌に冷ややかな余韻。街をゆく人々、仕事がひけて帰路へつく疲れた顔が目立つ。腕時計を確認する。
「急がないと。課長は研修のレポートなんてしっかり見ないから、適当に書いて時間までにメールしておきなさい。テンプレートの文章くらい用意してあるんでしょう?」
「いえ、そんな……」と中村は言い澱んだ。
「気にすることじゃない。さ、駅まで駆け足」




