勉強と恋
まぶたを閉じて動くということが、いかに困難なものかよく分った。目を閉じていると、まず自分の位置がわからない。廊下を歩くだけでも両手を開いて何かに触れていないと前へ進めない。そして教室の机は恐怖だった。密集して並べられた机。少し場所を間違えるだけで強かに体のどこかをぶつける羽目になる。その度に他人に見られるのだ。わずかな油断で青い髪や目が発覚する危険がある。できるだけ他人に注視されないようにならなくてはならない。
青晶は青年達に混ざって授業を受けるほうを選んだ。年齢として僅かばかり若すぎる感もあったが、導諭がついてこられるだろうと言ってくれた。
問題なく授業を受けるために、まず朝は誰よりも早く席に着くことだとわかった。それならば物にぶつかろうが誰も気づかない。そしてお昼は皆が出て行った後に席を立つ。これには清宗も付き合ってくれた。皆がいなくなるまで確認して一緒にお昼を取ってくれる。
清宗は人が良い。お昼ごはんを無料で食べられるのだから文句は無いと言ってくれる。
午後の授業も早めに席に着き、始まるまでの時間は隣で清宗が声を出して勉強してくれるので、それを聞く。授業が終われば後は帰るだけだ。
清宗は親身になってくれるし、勉強量も以前に増して多くなっている。授業の合間に手洗いに行きたくなった時だけが、問題だった。清宗に手洗いに行きたいと言うわけにもいかず、気を使って送ろうかと言われるがそれはどうしても受け入れられない。恥ずかしさが勝ってしまう。ふらつきながら何とかなっているといったところだ。
明らかに休み時間が減っている清宗は、返って勉強量が増えてありがたいとまで言ってくれる。友達だと言ってくれる他人は始めてだ。こんなにも親切な友人があるだろうかと感謝の気持ちで一杯になる。
そう言うと、清宗は慌てて両手と首を激しく振った。
「いやいやいや!そんな感謝しないでいい!むしろ感謝なんて言葉にしなくて良いから!」
その顔が妙に真剣で、首を傾げる。何かに脅えてでもいるような反応だ。そんなに変な話をしたかしらと眉根を寄せた。
「大丈夫!また分らないところあったら、聞いてくれ。じゃ、また明日。」
最近青晶を奥まで送り迎えするのが日課になっている清宗は、慌てて庭へ駆け出ていった。手を振って見送り、青晶は独り言を言う。
「どうしたのかしら……。変わった人。」
家の用事があったのかしら。
しかし概ね、清宗の奇妙な反応は変わった人であるという認識を受けるに過ぎなかった。
青晶は首を傾げながらも家の中へ姿を消した。
神学に通う学生よりも自分は恵まれている。質問ができればすぐ側に先生がいる。書物も溢れかえるほどある。もっと勉強して、清宗まで追いつかなくてはいけない。何年かかるかわからないけれど。
居間の机で書物を読んでいる導諭の後ろを通り過ぎ、部屋へ向かう。青晶は頭から布を取りながら振り返った。
導諭は書物の端から目だけこちらに向けて微笑んだ。
「おかえり。」
肩から髪の毛が落ちる。冴え冴えとした青い目が微笑んだ。
「清宗が送ってくれたの。とてもいい人ね、知らなかったわ。」
「好きになったかい?」
「え?」
言葉を聞き間違えたかと思ったが、導諭は笑っている。からかっているのだ。青晶は薄く微笑んだ。
「そうね。栗色の髪と栗色の目で、顔の作りも整っている。とても素敵な男性ね。村の娘さん達にとっても人気があるみたい。神学で優秀だというだけでも、娘さんたちの目の色は変わるらしいわ。話を聞いていたら、とても大変そう。」
村の娘に求婚されたり、近所の大人からうちの娘を嫁にもらってくれと言われたり、そんなことは神官になってから言ってくれと断っているらしい。恋をした娘の力は凄く、四六時中見つめられている気がすると顔を引きつらせていた。
青晶はうんざりと息を吐く。
「私……まだ恋は当分学びたくないわ。」
他人のことを四六時中考えて、思考を支配されるなんて真っ平だ。導諭は笑顔を浮かべた。
「そうかい。じゃあ、勉学を頑張りなさい。もうすぐ清宗は術師学校へ入るだろう。追いつけるといいね。」
「……?」
神学では何だかんだと清宗の助けを借りている。清宗がいなくなるとやはり勉強も多少は困難になるだろう。術師学校を目指すのなら、時の差をできるだけつけないように進みたいところだ。そういう理由はわかるが、いつまでも清宗に頼りきりというわけにもいかない。いずれ一人で修行しなければならなくなる。
清宗が術師学校へ進学することと、自分を結びつける理由が今一つ理解できなかった。
「どうして清宗が術師学校へ進むことと、私の勉学が関係あるの?」
導諭は笑顔で黙る。考えながら、首を傾げた。
「さて、何故だろうか。お前とせっかくの友人が離れてしまうことを、惜しいと思うのだろうね。」
「術師学校へ清宗が先に行ったとしても、私と友人であることには違いないじゃない?」
どうだろうねと、首を傾げる。
「術師学校と神学は根本が違う。考え方も変わる。環境が変わることは、人の思考に大きく影響を与えるのだよ。共に進めるに越したことはないだろう。」
「私……まだ十五だよ?」
清宗でさえ最年少かと言われているくらいだ。齢十五ばかりの青晶が術師学校へ行けるとは思えなかった。導諭が首を振った。
「年齢などと、下らぬことを言うな。」
「あ……ごめんなさい。頑張るわ。」
肩をすくめて、青晶は部屋へ入る。年齢なんて下らない概念にとらわれてはいけない。ほんの少し導諭が怒ったのを感じて、逃げてしまった。
それにしても術師学校へ入ると、考え方が変わるほどの影響を受けるのか。
突然窓から風が入った。
「──っ?」
青晶はびくりと振り向く。夏に向かおうというのに、とても冷たい。心臓が早鐘のように打ち付けた。
「なんだ……変な、こと……考えちゃった。」
窓を閉め忘れただけだ。胸に手を置く。呼吸が乱れていた。
──また、あの男が現れたのかと……。
青晶は笑いながら首を振る。
「そんなはずないわ。だって、ここは先生が結界を張っているもの。」
あの男が入れるはずはない。思い出そうとしなくても、容易くその容姿を思い出せる。目立ちすぎる造作の顔。男の癖に美しいという言葉が似合う。純白の着物が恐ろしく似合う男だ。そして存在そのものから恐れを感じさせる何かを秘めている。
思い出すだけで心臓がおかしくなった。息苦しい。
「もう……なんなの。」
もう会うことはないと、直接本人から聞いたではないか。だから神官になって探し出し、文句を言おうと決めたのだ。もう一度会えればそれで良い。
それが一般にどう言われる感情なのか青晶は知らない。
「勉強しよう。」
窓を閉じる前に空を見上げた。明日は満月になりそうだ。そして晴れるだろう。煌々と輝く月に微笑みかけた。
「おやすみなさい。」
誰に微笑んだのか、全く意識下にない台詞だった。