奪われたもの
「……しょう……、……晶…………。」
穏やかな声が聞こえる。聞き覚えがある声だ。とても安心する声だけど、心配そうに聞こえる。
黒く長い髪の毛が枕辺に広がっていた。
耳元で声が聞こえる。
「青晶……しょうしょう……?」
まぶたが重い。まだ目覚めたくない。体に力が入らない。
「……青晶。」
自分を呼んでいる。微かに震えている声。自分がそんな声を出させているのなら、起きなくてはいけない。泣かないでと、言わないと。
青晶は重いまぶたをゆっくりと開く。
常に寝起きしている部屋には、導諭がいた。横たえられている自分の傍らに、心配そうな表情で立っている。
まぶたを上げた時、世界がいつもよりも明るく見えた。鮮やかな色に見えた全ては、瞬きをすると元の色に戻る。
「青晶……!」
導諭が声を上げるなんて珍しい。視線を向ける。導諭は心配そうな顔をしているが、青晶を心配しているだけではないようだ。青晶は眉をあげ、枕辺にひじをついた。視界の端に髪の毛が映る。いつもと変わらぬ黒髪が、突然発光した。
「──っ?」
閃光が走る。青晶は瞳を押さえた。目の中にまだ光の影が残っている。混乱しながら、青晶は上半身を起こした。
「な……に……?」
「青晶!なんということだ!」
導諭が声を上げて、両肩をつかんだ。
「な、な……?」
なにがどうしたのか、口がうまく動かない。目を開けると、青晶の髪の毛は変色していた。黒く沈んだ色が、変色している。
髪の毛を手のひらに取り唖然としていると、導諭が両肩をつかんで体を揺らす。
「え?え?」
「青晶!」
仰向けた顔を導諭が凝視している。青晶は一抹の不安を覚えた。頬の形を両手で確認する。手触りではたいした変化はないようだった。
「なあに……?なにか、私おかしいの?」
導諭は青晶の顔を凝視して、窓を指差した。窓はぴたりと閉められている。
「見てごらん……。」
窓の外に何かがあるのかと目を向けると、その窓に自分の顔が反射して映っていた。いつもと変わらぬ輪郭の顔。それを覆っている髪の毛が、淡い青色になっている。
青晶は短く息を吸った。窓に近づいて、まじまじと自分の顔を見る。
なぜ、こんな──。
「なんてこと……。」
だんだん顔から血の気が引いていくのが良くわかる。それを確認している自分の目こそが、血の気もなく冴え冴えと青く澄んでいた。
青晶は窓に映る顔に触れてみる。冷たい窓の感触が返った。
「先生……私の目、青く見える?勘違い……かしら。」
導諭の手のひらが頭を撫でてくれた。
「……わしにも、青く見えるよ……青晶。」
「……。」
窓に映る顔が首を傾げた。白く映った頬を、透明な滴が流れていく。
きっと、あの時魔術師が何かしたのだ。目の奥が熱くてたまらなかった、あの時何か仕掛けられたのだわ。
沈んだ心が、じわじわと怒りに満ちるまで大した時間はかからなかった。
「青晶、一体なにがあったのだい?朝、起きてくる時間になっても来ない。様子を見に来て見たら、お前は寝床で着物をきちんと着て横たわっている……。そして目の色と髪の色が……貴族の好む色に変わってしまった。」
「魔術師……。」
髪の毛を両手で掴み、掻き毟った。何もかも、あの尋という魔術師が仕掛けたのは分っている。
分っているのに、自分では何もできない。神学の端で教師の話を聞きかじっているだけの半人前だ。魔術師がすることを理解するには、これから更に術師学校へ進み何年かかるかも分らない修行に出なければならない。それ以前に、こんな派手な姿でまともに生活できるかさえ保障されなくなった。
青晶は立ち上がる。足元がふらついて、導諭が支えてくれた。心臓の音が速い。額を撫でるとうっすらと汗が浮かんでいた。
冷静を欠いている娘を、導諭は居間へ導く。
「おいで……落ち着きなさい。話を聞こう。」
「落ち着く……?違うの、先生。私、朝起きたら……あの人がいて……。話していると突然空に連れ去られて……、それで、手をかざされて……覚えてない。」
青晶は椅子に腰掛けて、目の前で両手を握ってくれる導諭を見上げた。涙が滲んだ。
「どうしよう……ねえ、どうしたらいいの?こんな髪になったら……私、魔術師に殺されるの?目をえぐられて、髪を抜かれて、内臓を売り飛ばされて……、私死ぬのかなあ?」
自分の言葉で更に動揺する。涙が溢れ出し、ぽたぽたと導諭の手の上に落ちた。
「あの人どうして私にこんなことするの?」
「青晶……。」
導諭は眉を寄せる青晶の肩を軽く叩き、厨房へ向かった。お湯を沸かす準備をしている。いつもならすぐに手伝うと席を立つのだが、そんな気持ちになれなかった。
導諭は茶を青晶に与え、話を聞いたが答えを出さなかった。青晶に何が起こっても変わらず神学の授業は開かれなければならない。今日は授業に出なくてもいいと言い置いて、導諭は学び舎へ消えていった。
また魔術師が現れないようにと、神学の周囲に結界を張ってくれている。
導諭は神学の教師だが、神官だ。だから魔術師と同じ呪文を使う。けれど、その導諭にも青晶にかけられた悪い冗談のような術を解く方法がすぐには出てこなかった。
外はもう太陽が昇り、昼間の明るさになっている。
青晶は改めて鏡に自分を映した。透明に近い青い髪の毛。深い青色の瞳がやはり自分の顔についている。
顔の形は昔と変わらないが、目の色と髪の色が違うだけで別人だ。きっと今青晶を見ても、神学に通っている子供たちは気づかない。それどころか、貴族だと勘違いするだろう。
「青い髪と目は、貴族の色だもの。私なんかが持っていると知ったら、貴族がすぐに奪いに来るわ。」
自分の言葉で青晶は腰を上げた。─そうだ。ここにいたらすぐに貴族に見つかる。灰色の目に青味がかかっているという些細な情報ですら、どこかから魔術師へ流れてしまっていたのだ。
「大変……。」
全身から血の気が引いていく。
──けれど逃げる場所なんて……ない。