逢瀬
外に出ると暑さが増す。陽の日差しを直接浴びるから、あっという間に着物そのものが熱をもってしまった。
井戸の周辺には虫が集まりやすい。導諭がいつの間にか綺麗に草を抜いてくれていた。いつも青晶がしているが、今年は忘れてしまっていた。
「うっかりしていたわ。」
青晶は独り言を言うと、井戸から水をあげ顔を洗う。入学試験というものがこれほど恐ろしいものだとは思わなかった。どれだけ勉強しても十分だと思えない。試験は何が出るかも予想できない特異な形式だ。
桶の中の水が揺れている。その水に映る自分は相変わらず青い髪と青い瞳だ。もう見慣れてしまった。
「……夏は神学もお休みになってよかった。」
暑い時期、神学は閉鎖となる。暑すぎて誰も来ないか、来ても暑さで倒れるからだ。
「……しんどいなあ。」
水を掬い上げた。水に映っている顔は不安そうだ。他人のように見えてしまう。
「がんばれ。」
一言呟いて水を被る。何度も何度もそうする内に手のひらも冷たく冷えた。青晶は布を顔に押し当てる。布を押し当てたまま空を仰いだ。明るい日差しを感じた。
「……どうしよう。ぜんぜん清宗に追いついている気がしない。」
不安が固まりになって胸を締め付ける。勉強していてもそれは消えなかった。夏になるとその不安が大きくなる一方だ。
声も震えている。
「どうしたらいいの。」
「大丈夫だよ。」
声は思いがけず上空から聞こえた。清宗や導諭の声とは似ても似つかない。もう来ないかもしれないと思っていた声だ。
青晶はゆっくりと布を下げていく。開けた視界に明るい日差しと見覚えのある姿が入った。
彼は最後に会った日と変わらず妖艶に笑んでいる。白い着物は真夏の日差しの中でさえ涼やかだ。
その姿を見た途端、青晶の中の何かが途切れた。
「……どうして、来るのよ……。」
声は信じられないほど震えている。彼は眉を上げた。
「青晶。」
青晶は首を振る。理由が分らない。胸に凝っていた不安の栓を抜かれたのだ。
見上げていられない。青晶は首を振りながら俯いた。涙が溢れ出して止まらなかった。口元を手で覆っても、嗚咽が漏れる。
「青晶……どうしたんだい?」
尋は柄に無く動揺した声だった。青晶の目の前に舞い降りて、顔を覗き込む。
不適に笑ってばかりだった彼の動揺した顔をみると、胸が熱くなった。余計に涙が溢れる。
「やめて……見ないで。」
「青晶……。」
胸がおかしくなる。尋が髪を撫でると、心臓の音が早くなった。水で濡れた髪の毛を耳にかけてくれる。
青晶の顔は赤面し、身動きが取れなかった。男の人に触れられた経験が無い少女は、髪を触られるだけで動揺する。
涙は止まらないが、青晶は顔を上げた。困った顔をしているはずなのに、尋は笑んで更に触れてくる。指先でゆっくりと耳から首筋を撫でた。一方の手が腰に回る。
青晶は緊張しすぎて声が出なくなった。尋は優しい顔で青晶の耳元に頬を寄せた。青晶は驚いて目を閉じる。
「不安だった?」
何がとは聞かない。彼が現れなかったことが不安だったのか、これから受ける試験が不安だったのか自分でもわけが分らなくなった。
青晶は口を覆っていた両手を下ろし、密着している尋の体から逃れようともがく。しかし尋の体はびくともしないどころか、反対に背中に両手を回されてしまった。
「や……や、あの。もう……。」
大丈夫なので離して欲しいと言いたかったが、尋は青晶の言葉を無視する。
「怖い?」
まただ。何が怖いのか聞かない。意地悪だ。尋は青晶が困っているのを見て楽しんでいた。首を傾げて間近で繰り返す。
「怖いかい?」
「……怖い。」
言葉は意に反して無様に震え、唇さえ小刻みに震えていた。尋は口の端を上げる。獲物を見つけた獣のような目に見えてしまった。
「俺が怖い?」
息が絡む距離で尋ねてくる。青晶は赤面したまま、眉を落とした。よく知りもしない男に抱きしめられているなんて、怖い以外の何だというのか。こんな姿を導諭に見られたら、ふしだらだと思われる。
青晶は尋の顔色を窺った。正直にそういうとまた空に連れて行かれるかもしれない。青晶は迷い、迷った挙句にぽつりとこぼした。
「……意地悪ね。」
尋は嬉しそうに目を細める。
「ごめんね。可愛かったからつい、いじめたくなってしまった。」
「か……。」
更に頬が紅潮してしまった。かわいいなんて言われたのは初めてだ。導諭以外、皆後ろ指を指して揶揄するばかりで、好意を持って接してきた人なんて一人もいない。
尋はその様子を眺めると、背中に回していた手のひらに力を込めて青晶を抱きしめた。
青晶はもうどうしていいかわからない。心臓の音が尋に聞こえないかとまた心臓の音を早くした。
尋が耳元でささやく。
「大丈夫だよ、青晶。君は努力しているだろう?努力は報われるものだって、先生なら言っているところだ。」
「……先生って、先生のこと?」
顔を少しずらして見ると、尋が間近で目だけこちらへ向けた。黒い目は間近で見ても濡れた色をしていてとても綺麗だ。魅入られたように視線を外せなくなる。
「そう。君の先生。……大丈夫だよ。守ると言っただろう?」
青晶はぼんやりとその目がこちらを向くのを見ていた。いつの間にか横顔が正面を向いている。黒い瞳が焦点の合わせられない距離に近づき、青晶はその額に手を置いた。
「あれ?」
青晶は唇が重なる寸前で尋の額と顎に手をかける。
「どさくさに紛れて……おかしな真似をしないで下さい……。」
「ちぇっ、雰囲気に呑まれていると思ったけどなあ。」
尋は唇尖らせて顔を定位置に戻した。
「もう!」
青晶はこれ幸いと体も離す。尋は残念そうに両手を離した。
「いいじゃないか、少しくらい。」
「少しじゃありません。」
青晶は眉を吊り上げる。尋は怒った顔をしても気を悪くしない。機嫌よく青晶の頬を撫でて唇を頬に押し付けた。
「!」
「またね。」
そっと唇を離した顔はとてつもなく甘い表情をしている。そのまま姿は掻き消えた。
青晶は頬を撫でる。気づくと涙は止まっていた。胸もすとんと穏やかになっている。
尋のおかげだろうか。
「そこまで考えて……?」
まさか。青晶は自分で自分の考えを否定した。顔を洗いなおす。導諭や清宗には泣き顔を見せられなかった。
──でも、尋の前でならいいの?
青晶は答えを出すことを先延ばしにした。




