学ぶ喜びを知る者たち
清宗は縁側で古文書を読んでいた。清宗は振り返って青晶を見ると驚いた顔をする。そして胸を撫で下ろした。
「そうか、髪が紫になったのだった。頭で分っていてもやはり、見慣れないと驚くな。」
「あ……そう見えるのね。私も青いままにしか見えないから、紫と言われるのに慣れないといけないのだわ。」
呼び止められたりした時に、紫の髪は珍しいから色で呼称されることもあるだろう。
清宗の姿は傷も全て癒され、以前と変わりない様子だった。顔色も元に戻っている。
「昨日はありがとう。大丈夫?血を失っていたから、顔色がとても悪かったのよ。」
清宗は破顔した。
「大丈夫。先生が血のかわりになる石をくれたから、体はすっかりいい。」
青晶は両手を胸元で重ねた。
「あ、そうだわ。そういえばそういう石があったのを忘れた。」
昔導諭が薬の代わりになる石をたくさん見せてくれたのを思い出す。昨日は動揺して何も思いつかなかった。落ち着くために外に出て、更に混乱する破目になったのだ。
清宗は苦笑する。
「昨日はお互い大変だった。混乱して当然だ。しばらくこちらに厄介になることになったから、よろしく。」
「はい、よろしくお願いします。」
青晶は頭を下げた。
「では、二人とも準備をしなさい。」
「え?」
二人そろって振り返る。導諭が卓に重そうな箱を置いた。古びた木箱だ。導諭の胸を隠して余りある大きさの木箱の中に、石が文字通り山ほど入っている。
「今日は神学がお休みじゃ。特別授業といこう。」
神学は五日に一日休みだ。国の方針で決まっているため、誰も文句は言えない。休みの日は皆家で勉強するか、家の仕事を手伝ったりした。
清宗は心底嬉しそうに手を打つ。
「そうこなくっちゃ!」
清宗は毎日導諭の元で勉学に打ち込めて嬉しそうだ。きっと清宗のほかにも神学に通っている青年たちはそれを願っているのだろう。だがそれぞれに家庭があり、農業の手伝いや仕事をしなければならない。
青晶は何も言わなかった。
導諭も当たり前のように清宗と青晶に教える。
「これから休みの日は特別授業じゃ。心してかかりなさい。」
清宗の喜んだ顔が嬉しかったのか、導諭も嬉しそうに言った。
「はい!」
二人の声が揃うと、二人は視線を合わせて笑う。お互いに勉強できることが嬉しかった。
青晶は他にも嬉しいことに気づく。家にもう一人清宗がいると、家族が増えたようで新鮮な気持ちになった。清宗は年長者らしく考え方や振る舞いがきちんとしている。
夜も導諭と共に同じ机で勉強していた。
青晶は寝不足を感じながら、机に向かう。気候はもう夏のそれになりつつある。開け放った窓から入る風が唯一の涼だ。
術師学校の試験は夏の盛りに行われる。何もそんな集中できない時期を選んでしなくてもいいのではないかというと、導諭はそれも試験なのだと言った。最も集中できないときにどれだけの結果を作り出せるか、それすら試験課題の一つになっている。
窓を振り返り、青晶は落ち着きなく座りなおした。
あれからもう一月近く会っていなかった。約束をしていたわけではないが、彼が迷惑を考えずに現れないのが奇妙だ。
試験前だから気を使っているのかもしれないなと清宗は納得している。青晶は額を軽く叩いた。
「今はそんなこと考えている時じゃないわ。」
あの話が本当なのかどうか。彼の雰囲気は常に妖しすぎて全てが本当に聞こえるし、全てが嘘のようにも聞こえる。
青晶は首を振った。考えないほうがいい。思い込んで没頭する。
夏も盛りになった頃─蝉の声が集中の邪魔をし、人の血を吸う虫が飛ぶ。暑さで勝手に汗が流れ出し、筆を持つ手のひらもじっとりと濡れている。着物は汗で肌に張り付き不快感を倍増した。
「暑い!」
清宗は本日何度目かの雄叫びを上げた。青晶はうんざりと無視する。導諭は内輪を片手に縁側で涼を取っていた。
昼間は居間で一緒に勉強しているのだが、清宗は暑さに弱いらしい。それとも耳元で時折高音の羽音を立てる虫が嫌いなのか。
「うるさい!この虫めっ」
虫を追い払い、床に両手を着く。
「……もう駄目だ。集中できない。」
これも何度目か分らない絶望の台詞を呟いた。
暑さも虫も嫌いらしい。青晶は無言で書物の頁をめくる。清宗がこちらを向いた。
「青晶はよく平気で勉強できる。」
青晶は首を振る。
「集中はできない。清宗がうるさいから。」
「悪い……。」
また絶望的に床を見つめた。冷たかったかしらと、青晶は言葉をつけたす。
「それに、私は清宗に追いつかないといけないから。清宗と一緒に術師学校へ行くって決めたのだし。」
清宗は目の下に隈ができている。暑さで眠れないから夜も勉強をしているらしい。
清宗が月明かりで勉強をしようとすると、導諭はその手元に呪術で灯火を作ってあげていた。その時間だけ清宗はまた優秀になっていく。青晶は追いつくために真実必死になっていた。清宗と同等─もしくはそれ以上にならなければ。
青晶には弱点がある。紫幻華石で色を変えていると見抜かれると、本当の色を見せろといわれ青い色を理由に断られる可能性が高い。
それを補って余りあるほどに勉学で優秀な成績を残さなければならない。
「清宗、水を浴びておいで。すっきりするだろう。」
導諭が笑顔で井戸を示した。清宗はためらう。
「しかし、悠長にそんなことをしていては……。」
青晶は呆れて顔を上げた。導諭も笑い声を上げる。
「何を言っておる。今だって勉強していないじゃないか。そうやって呻いている暇があるなら、井戸で水浴びしたほうがずっと効率がよい。」
「私もそう思う。」
頷いてまた机にむかう。清宗は肩を落とし井戸へ向かった。すっかり疲れ果てた様子だ。導諭は青晶に目を向ける。
「青晶も、根を詰めすぎると後で滅入ってしまうよ。この時期の学生は清宗のようになるのが普通だ。」
青晶は顔を上げず口元に笑みを浮かべた。
「私も清宗のように混乱しているわ。とても焦っているし、とても恐ろしい。本当に合格できるかなんて誰も保障してくれないし。もう滅入っちゃっている。」
それでも机に向かっていなければ心が落ち着かないからそうしているだけだ。導諭は頷く。
「そうか……。」
それきり何も言わなかった。町を見下ろして微笑んでいる。
導諭が微笑んでいるのはいつものことだが、傍にただ座っていてくれるだけで心が落ち着いた。二人で顔を突き合わせて勉強している時、必ず縁側には背中を向けて導諭がくつろいでいる。いつでも質問ができるようにいてくれるのだと、青晶は知っていた。
「よし!」
清宗は頭から水を滴らせながら戻ってくる。目元はうつろだが、それでも彼の中ではすっきりしているようだ。
青晶は布を差し出した。
「きちんと拭かないと、風邪をひくわ。」
「……母のようなことを言う。」
「おうちでも頭はきちんと拭けてなかったのね。」
神妙な顔をして頭を拭っている。青晶は悪いことをしたと心中舌打ちした。随分長い間家に戻っていない清宗が、家を恋しく思わないはずがない。
青晶は清宗の顔を覗き込んだ。
「大丈夫?」
「何が?」
清宗は眉を上げる。寂しい顔をしているかと覚悟をしていたが、いつもと変わらない。青晶はほっと息をついた。
「ううん。何でもない。」
清宗は机の前に座り、息を吸い込む。
「若干家が恋しくなったが、これも家族のためだ!やるしかない。」
青晶は眉を上げ、俄然やる気を出している清宗に噴いてしまった。あんまり素直に自分の気持ちを話すものだから、笑ってしまう。清宗には男だから弱音を吐かないなどという、硬い考えはないようだ。
清宗が眉根を寄せる。
「なんだい?人がせっかく決意をしたというのに。」
青晶は笑いを抑えきれず、腹を抱えた。腹が痛くなる。
「ち、違うの。ごめんなさい。いいえ、気にしないで。あなたの決意を笑ったわけじゃないから。」
「そうか、ならいい。」
簡単に納得してしまい、清宗は没頭し始めた。青晶もそれにならおうとしたが、一度集中が途切れてしまうと続けられない。
青晶は立ち上がると布をもって井戸へ向かった。家屋の裏側にある井戸は縁側からも死角にある。導諭は井戸へ行く青晶に手を上げた。
「そうそう。休憩をとることも、重要だ。行っておいで。」
「はあい。」




