可哀想な道化師
遥かかなたまで声が届けばいい。この声を聞いて誰かが気づくかもしれない。
青晶は目を細める。コウとラクは耳を塞ぎうずくまっていた。青晶の声が嫌だと頭を抱えている。
どこか別のところから、誰かが二人に呪術をかけているのだろうか。青晶は二人にその姿をさせているのが自分の声だとは思わなかった。
青晶は高い旋律でゆっくりと呪文を口にする。現在使おうとしている呪術は神学で学ぶ中でも最も危険とされている、銀糸の呪縛術だ。その名の通り銀色の糸が無数に発生し対象を縛り上げたり、その糸で肉体を切り裂いたり出来た。初めて口にする呪文だ。
呟く声が震えている。
──お願い。失敗しないで。
青晶は祈った。使った経験がない呪術を人体へ向けて放つことがどれほど危険を伴うか、導諭はしばしば学生皆に対し釘を刺している。初めての場合、術の加減が分らず大怪我をさせる可能性が高かった。
だから青晶はできれば呪術を放ちたくない。時間稼ぎでゆっくりと言葉をつむいでいるに過ぎなかった。だが、目の前のコウとラクの体力は見る見る消耗していく。誰かが何かしているのだろうか。青晶は背後を振り返る。清宗は意識を失い力なく横たわっている。
青晶の心臓が跳ねた。おびただしい血が清宗の腕から流れ、水溜りを作っている。
──あんなに血が流れたら、死んでしまう。
きつく縛り上げたはずだが、青晶の力では限界があった。傷口は縛り上げた布の下で閉じきらず血液が流れ出している。
青晶は覚悟を決めた。早く終わらせなければいけない。コウとラクは頭を抱えたまま身動きできなくなっている。誰かが別の術をかけていたら、爆発してしまう。しかし、かけられているかどうかは不確かだ。
爆発が起こったら自分の体で清宗の盾になる。青晶は眉を吊り上げ、天高く声を上げた。呪術の構成が目の前で渦巻き、形を変える。銀糸の陣は光を放って矢のようにコウとラクに放たれた。
「──。」
音が聞こえない。コウとラクをまとめて縛り上げたが、術はまだ動き続けている。二人の体を包み込みながら円を描くように回り始めた。銀糸が摩擦を起こし、二人の衣服を破る。
「──あっ」
青晶は顔色を変えた。コウとラクの体に銀糸が食い込もうとしている。細い糸が皮膚を破るまでいくらもかからなかった。血が溢れる。二人の悲鳴が聞こえる。
青晶は頭を抱えた。
「──どうしよう!死んでしまうわ!」
呪術を制御できない。見ている間に銀糸が腕に食い込んでいく。絶叫が辺りに木霊した。
もう一度呪術を構成したら、爆発して霧散するだろうか。焦って新しく呪術を構成しようとしても、集中力が欠けているからか上手く作れない。ますます焦って更に事態が悪化する。
「殺しちゃ駄目よ!人なのだから!」
自分に言い聞かせてどうしようというのか。青晶の目には涙が滲んでいた。
コウとラクの腕がそれぞれ半分ずつ裂かれている。糸は回転の摩擦でゆっくり肉を引きちぎっていくため、想像を絶する痛みが二人を襲っていた。
二人の絶叫が追い討ちをかけるように青晶の頭を混乱させる。
青晶は額に手を当てた。
「まって。冷静に考えるのよ。あれの解除方法があったはず。」
銀糸の術の頁の端に小さく書いている映像が頭に浮かぶ。
「あった。あれは……。」
青晶は声を出してその頁に書いている呪文を読み上げた。呪術を構成するつもりはなかったが、瞼をあげると目の前に術がうごめいている。──早い。
自分が作り上げたのではない。誰かが手助けをしてくれた。
自分が構成したものでなくても使えるのか半信半疑ながら、青晶は解除の術を放つ。術を開放した後事態がどうなるのか考えてはいなかった。二人の上から水のように白い霧が流れはじめ、銀糸が解けていく。
気を失っていなかったら、反撃される。青晶はそこでやっとその可能性に気づいた。背後の清宗にはもう時間がない。
「……お願い。気を失っていて。」
もう動いてこないで。
青晶の願いが聞こえたはずもないが、銀糸が消えうせると二人の体は物のように床に倒れた。ごとりと落ちる。
「死……んだ?」
二人の体は僅かな動きも見せなかった。青晶の頭から全身の血の気が失われていく。
「うそ……よね?」
唇が震えた。青晶はふらつく足で立ち上がり、恐る恐る二人の側へ近づく。伏した顔を見るために、体に触れた。まだ温かい。
青晶は重い体を渾身の力を込めて仰向けさせる。二人とも呼吸をしているが、ぴくりとも動かない。
「よかった……まだ生きている。」
二人の腕の一方ずつから血が溢れている。青晶は周囲を見渡し、何もないのを確認すると自分の着物の裾を引き裂いた。
「清潔じゃないけれど……無いよりはましだわ。」
二人の腕をきつく縛り上げる。ラクの後にコウの腕を縛り上げた時、コウが呻いた。青晶は一度動きを止めるが、もう二人に呪術を作る体力はないと判断し作業を続ける。
女の力できつく縛るのには限界がある。
「もっときつく縛らないと……。」
青晶の手は二人の鮮血で染まっていた。コウが薄く目を開ける。
「……馬鹿だねー……ぼくたち……助けても意味……ないよー。」
「どうしてよ。殺すわけにはいかないわ。そんなつもり無かったのだし。」
青晶は口を尖らせる。コウは喉元から奇妙な音を伴って呼吸していた。何かが絡んでいるような音だ。
「……ぼ……くたち、捕まったら……死ぬよー……。」
「……え?」
青晶は眉根を寄せて、我に返った。この二人は既に神学を襲っているのだ。官吏に捕まったらそこで死罪が確定する。
コウは隣のラクに重そうな手をかけて、ラクを起こす。
「ラク……。」
ラクは瞼を開けたが、また閉ざした。どうやらラクの失血量はコウよりも遥かに多いようだ。
「あなたたち、死んでしまうの?」
青晶は愚かな質問だとわかっていたが、聞かずにはおれない。自分を誘拐して売り払おうとしていた人たちだ。情けをかける必要は無いが、このまま放っておけないのも事実だった。
「逃ゲラれタら……。」
──死ナナイケドネ。
後半は音として成立していない。青晶は困惑した。困惑しながら清宗を見る。清宗の腕の血は先刻よりも広がっていた。
「清宗!」
青晶は慌てて清宗の傷口をもう一度縛る。汗がひどい。もう逃げなければ、助からない。
背後で音がした。
「──。」
青晶は口を引き結ぶ。コウが震えながら立ち上がっていた。ラクを肩に担いでいる。そんな体力が残っているようには見えなかった。
コウは青晶に笑いかける。
「じゃあ…ネ。……青水晶。」
「え?」
青晶の耳に何か音が聞こえる。風を切る音と布がはためくような音だ。上空を見上げると、そこに黒衣の人間が幾人も揃っていた。黒衣の刺繍は蒼藍国の神官にのみ許された龍だ。神官の数は十五。
目頭が熱くなった。




